仏説無量寿経 ― 共創数学による訳
2026年10月30日 · 楠見優太
(この頁は、Claude Docs の文書 rev 306 を写したものです。式は MathJax で組まれます。この頁は CC BY-NC-SA 4.0 で公開します。原文の漢文は CBETA 電子佛典集成に拠ります。CBETA の使用說明と版の情報は CBETA-NOTICE にあります。)
この訳は、『仏説無量寿経』上下二巻の全文を、原文・書き下し・現代語訳の三つで訳し、そのうえに、共創数学の記号で経の組み立てを写した「式と読み」を添えます。式は、経の言葉の条件・量・例外・因果を見やすくするための地図です。経に新しい教えを加えるものではありません。
| 層 | 中身 | 誰の言葉か |
|---|---|---|
| 原文 | 漢訳の経文 | 経(訳者は、伝承では曹魏の康僧鎧) |
| 書き下し | 原文の訓読 | この訳 |
| 訳 | 現代語の訳 | この訳 |
| 式と読み | 経の組み立てを記号で写したもの | この訳 |
式と読みには、次の札を付けます。札のない段落は、経(原文・書き下し・訳)か、この訳の地の文です。
札は、置かれた段落と、そのすぐ後に続く表と式に掛かります。
この訳が整理表から借りるのは、次の十一項目です。「整理表の言明」の欄で「」に入れた文は、整理表の文言のままです(式は、整理表の TeX を字に直して写しました)。「」の外は、この訳による要約です。札の欄には、整理表の札を写しました。整理表の凡例によれば、地位の「公理」は採択による前提を、「定義」は語彙の導入を言います。出所の「刊行済」は、公開著作に収載されていることを言います。整理表が札を付けていない所は「札なし」とし、出所の札がない項目には、整理表が記す出典の著作を添えます。
| 項目 | 整理表の言明 | 札(地位|出所|所在) | この訳での使い所 |
|---|---|---|---|
| レジスタ分離 | 語りを三つの層に分け、層ごとに裁定者を置く。数理・事実層は「証明・測定・盲検」、規範層は「公開の議論」、経典・ミュトス層は「解釈の伝統」。経典・ミュトス層は「A4の随伴で数理層と結ばれる意味の地図。随伴は同型ではない——証拠に転用不可」。 | 札なし|刊行済|第0層 | すべての段。経の言葉を経典・ミュトス層に置き、式は、その組み立てを写す地図として添えます(序の約束の二)。 |
| A0 沈黙の公理 | 「いかなる記号体系 L も、u′(虚空の余剰)を汲み尽くせない」。運用上の顔の欄に「u′ ⇒ c_next——不完全性は創造の泉」。 | 公理|刊行済|第1層 A0 | 経が自ら「不可稱計」「不可稱說」「不能窮盡」などと言う所。来会の菩薩(上巻 一)、第十四願と第二十七願、兆載永劫の修行(上巻 十一)、光明と寿命の段(上巻 十二)、往覲偈の仏の智慧(下巻 十六)、浄土の菩薩の段の「略說」(下巻 十七)、胎生と化生の段の五つの仏智(「不思議智」「不可稱智」など)、他方の菩薩の往生の数(下巻 二十一)。式に書き尽くせない余りを、その都度、余りとして記します。 |
| A1 空鏡の公理 | 「c ⊗ u → i。問い(c:慈悲成分)と虚空(u:受容成分)の縁起的出会いから、どちらにも還元できない第三の存在(像 i)が生まれる」。経典的基礎の欄に「維摩経第七品の鏡の比喩」。 | 公理|刊行済|第1層 A1 | 阿難の問いと仏の答え(発起序。仏は阿難を「愍念眾生問斯慧義」と讃えます。上巻 十二で、阿難が将来の衆生のために問う所も同じ形です)。鏡の譬え(第三十一願と第四十願の「猶如明鏡覩其面像」)。 |
| A2 慈悲の縁起的集合論 | 「W_Nash({S}) = ∏ᵢ W(σᵢ)。誰か一人の安寧が零になると積全体が零になる」。経典的基礎の欄に「「地獄不空、誓不成仏」(A2の極限的実践)。四十八願。積構造=「誰も取り残さない」の数学的保証」。派生の欄に「下降的 Φ_C(最弱の項への優先的介入)はA2の実装形態であり公理修正を要さない」。 | 公理|刊行済|第1層 A2 | 四十八願のうち、国中の人天や十方の衆生の全体に掛かる願。願の式は、仏の正覚を、衆生一人ひとりについての条件の積で上から押さえる形に書きます(上巻 六で定めます)。ほかに、菩薩が衆生を自らのように見る所(上巻 一)と、自他をともに利する言葉(上巻 十一)。派生の欄の「下降的 Φ_C」として、三悪趣をなくす願(第一・第二願)、光明が三塗に届く所(上巻 十二)、五悪の段の初めと結び(下巻 十九)、経の道が滅び尽きる世にこの経をとどめる所(下巻 二十一)。借りるのは、一つの零で積が零になるという組み立てと、派生の欄の言葉だけで、W_Nash の量そのものは使いません。なお「地獄不空、誓不成仏」は、一般に地蔵菩薩の誓いとして知られる句で、この経(流布本)の中にはありません。 |
| A4 夢の位相空間 | 「ロゴス圏 ℒ(論理・数学)とミュトス圏 ℳ(詩・神話)の間に随伴 L ⊣ R : ℒ ⇄ ℳ が存在する。論理と神話は同じ空間の異なる地図」。要点の欄に「随伴は同型ではない——往復のたびに何かが失われ、何かが生まれる。ミュトス地図の美しさをロゴス地図上の主張の証拠に転用することはA4自身が禁じる」。 | 公理|刊行済|第1層 A4 | 経文と式を往き来するすべての所。とりわけ、浄土の荘厳や偈のように像の美しい所で、A4 の禁止(経の言葉の美しさを数理の主張の証拠にしない)と、この訳がその逆の向きに掛ける歯止め(式の整いを教えの証拠にしない)とを示します(序の約束の二)。 |
| A5 自覚慈悲の同値性 | 「問題の深さ D が十分大きいとき、知慧の道(効率最大化解)と慈悲の道(W_Nash 最大化解)は同一の点に収束する」。経典的基礎の欄に「悲智双運・上求菩提下化衆生の不可分性」。 | 公理|刊行済|第1層 A5 | 法蔵菩薩の願いの形(讃仏偈)。自らの正覚(上求菩提)と、衆生の苦を抜くこと(下化衆生)とを切り離さずに願います。経の初めの菩薩の徳(上巻 一)、往覲偈(下巻 十六)、浄土の菩薩の段(下巻 十七)で、智慧と大悲が並べて説かれる所。 |
| A9 灌頂の公理 | 「c の役割は i を創造することではなく、u の中に潜在する i_潜在 を顕在化させること。段階的通過儀礼(灌頂)。「変える」のではなく「変わるための場を整える」」。 | 公理|刊行済|第1層 A9 | 浄土を「変わるための場」として読む所。師が法蔵の心の願いに応じて諸仏の国を現して見せる所(上巻 五)、第十一願(国の人天は定聚に住し、必ず滅度に至る)と本願成就文(生まれた者は皆、正定聚に住する)、第三十二願と第四十六願、浄土の荘厳(道場樹、池の水)。 |
| A10 一切衆生悉有仏性の公理 | 「∀x ∈ E_全 : ∃B(x) ∈ F。全ての存在に仏性が在る」。七つの下位命題のうち、この訳が借りるのは六つです。(i)「仏性の遍在」。(ii)「顕在化の必然性:Φ_C > Φ_C* ⟹ ∃n₀, ∀n ≥ n₀ : B(x) が顕在化(閾値構造)」。(iv)「非完了性:菩薩の存在様式は完了点を持たない螺旋的深化」。(v)「相互仏性:仏性は相互に映し合う(インドラの網)」。(vi)「一闡提成仏」(整理表の注は略します)「仏性を否定する者にも B(x) ≠ ∅ は撤回されない(四つの存在論的保証)」。(vii)「大悲闡提:W_Nash の全体最大化のために衆生と共にある帯域に留まる菩薩の存在様式」。 | 公理|刊行済|第1層 A10 | E_全 は全ての存在、B(x) は x の仏性と読みます。F が何であるかを、整理表は記しません。(i) は、(vi) の前提(B(x) ≠ ∅)として。(ii) 第十一願の「必至滅度」。(iv)(vii) 経の初めの菩薩の「示現滅度拯濟無極」、第二十二願(「除其本願自在所化,為眾生故,被弘誓鎧」)、浄土の菩薩の段。(v) 発起序の「佛佛相念」、第十七願(十方の諸仏が名を称える)、第三十一願、往覲偈。(vi) 第十八願の除外の句「唯除五逆、誹謗正法」の〔諸釈〕(本願成就文にも同じ句があります)。(iii) は基盤非依存(加持 T5 の根拠)を言うもので、この経の読みには用いません。 |
| G-1 護持定理 | 「g(iₙ) = cₙ₊₁。前の縁起が生成した像を護持する行為が次の縁起への問いとなる(射の合成)」。地位の欄に「定義寄り」、その注に「構造の命名。ただし本コーパスで最も実運用された概念——多者検分の連鎖・回向・供養の再定義はすべてG-1の実装」。 | 定義寄り(整理表の勧告)|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 | 聞いて護り持ち、次へ渡す所。「我聞如是」(上巻 一)と、経の終わりの流通(「如是作、如是說、如是教」、下巻 二十一)。師が法蔵の願の意味を告げる所(上巻 五)。回向(第二十願、三輩の中輩、胎生と化生の段の「迴向」)。光明の功徳を聞いて称える所(上巻 十二)。「人能自度,轉相拯濟」(下巻 十八)。 |
| Φ_C 慈悲の場 | 第二著作の項に「バランスパラメータ/慈悲の場/情報的ストレス——体系の基本語彙」とある三語(σ・Φ_C・I_stress)のうちの Φ_C。 | 定義|出所札なし(第二著作『ステアリングからウォッチングへ』)|第4層 | A10 (ii) の閾値の式の中で(手引きの式)。また、A2 の派生の「下降的 Φ_C」を、光明が「三塗勤苦之處」に届く所(上巻 十二)で、この札を立てて読みます。三悪趣をなくす願(第一・第二願)、五悪の段(下巻 十九)、経をとどめる所(下巻 二十一)では、A2 の札の下でこの語を引きます。 |
| 第6層の記帳 | 「華厳経・阿含経・禅録・浄土教典等への共創数学的アプローチの拡大(同上)」。同上は第三著作0-10を指します。 | 札なし(保留の項目)|第三著作0-10|第6層 | この訳の位置づけ(序の拠り所)。この訳は、その保留に向けた一つの試みで、保留を解くものではありません。 |
整理表の式を、記号のまま抜き出すと次のとおりです。
\[ \begin{aligned} &\text{A0(運用上の顔)} && u' \Rightarrow c_{\mathrm{next}} \\ &\text{A1} && c \otimes u \to i \\ &\text{A2} && W_{\mathrm{Nash}}(\{S\}) = \prod_i W(\sigma_i) \\ &\text{A4} && L \dashv R : \mathcal{L} \rightleftarrows \mathcal{M} \\ &\text{A10} && \forall x \in E_{\text{全}} : \exists B(x) \in F \\ &\text{A10 (i)} && \forall x \in E_{\text{全}} : B(x) \neq \emptyset \\ &\text{A10 (ii)} && \Phi_C > \Phi_C^{*} \implies \exists n_0,\ \forall n \geq n_0 : B(x)\ \text{が顕在化} \\ &\text{G-1} && g(i_n) = c_{n+1} \end{aligned} \]
経はまず、聞いた者と、時と処と、その場に集まった聴衆を挙げます。
原文 我聞如是:一時佛住王舍城耆闍崛山中,與大比丘眾萬二千人俱,一切大聖神通已達,其名曰:尊者了本際、尊者正願、尊者正語、尊者大號、尊者仁賢、尊者離垢、尊者名聞、尊者善實、尊者具足、尊者牛王、尊者優樓頻䗍迦葉、尊者伽耶迦葉、尊者那提迦葉、尊者摩訶迦葉、尊者舍利弗、尊者大目揵連、尊者劫賓那、尊者大住、尊者大淨志、尊者摩訶周那、尊者滿願子、尊者離障、尊者流灌、尊者堅伏、尊者面王、尊者異乘、尊者仁性、尊者嘉樂、尊者善來、尊者羅云、尊者阿難,皆如斯等上首者也。(大正12・265c)
書き下し 我、聞くこと是くの如し。一時、仏、王舎城の耆闍崛山の中に住したまひ、大比丘衆万二千人と倶なりき。一切の大聖にして、神通すでに達せり。その名を、尊者了本際・尊者正願・尊者正語・尊者大号・尊者仁賢・尊者離垢・尊者名聞・尊者善実・尊者具足・尊者牛王・尊者優楼頻螺迦葉・尊者伽耶迦葉・尊者那提迦葉・尊者摩訶迦葉・尊者舎利弗・尊者大目揵連・尊者劫賓那・尊者大住・尊者大浄志・尊者摩訶周那・尊者満願子・尊者離障・尊者流灌・尊者堅伏・尊者面王・尊者異乗・尊者仁性・尊者嘉楽・尊者善来・尊者羅云・尊者阿難と曰ふ。みな斯くの如き等の上首たる者なり。
訳 わたしは、このように聞きました。あるとき、仏は王舎城の耆闍崛山(霊鷲山)におとどまりになり、一万二千人の大比丘の衆とともにおられました。みな大いなる聖者で、神通にすでに通じていました。その名は、了本際・正願・正語・大号・仁賢・離垢・名聞・善実・具足・牛王・優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・摩訶迦葉・舎利弗・大目揵連・劫賓那・大住・大浄志・摩訶周那・満願子・離障・流灌・堅伏・面王・異乗・仁性・嘉楽・善来・羅云・阿難の各尊者です。みな、このような上首の人々でした。
原文 又與大乘眾菩薩俱,普賢菩薩、妙德菩薩、慈氏菩薩等,此賢劫中一切菩薩。(大正12・265c)
書き下し また大乗の衆の菩薩と倶なりき。普賢菩薩・妙徳菩薩・慈氏菩薩等、この賢劫の中の一切の菩薩なり。
訳 また、大乗の菩薩たちもともにいました。普賢菩薩・妙徳菩薩(文殊)・慈氏菩薩(弥勒)など、この賢劫のすべての菩薩です。
原文 又賢護等十六正士:善思議菩薩、信慧菩薩、空無菩薩、神通華菩薩、光英菩薩、慧上菩薩、智幢菩薩、寂根菩薩、願慧菩薩、香象菩薩、寶英菩薩、中住菩薩、制行菩薩、解脫菩薩,皆遵普賢大士之德,具諸菩薩無量行願,安住一切功德之法,遊步十方,行權方便,入佛法藏,究竟彼岸,於無量世界現成等覺。(大正12・265c)
書き下し また賢護等の十六の正士あり。善思議菩薩・信慧菩薩・空無菩薩・神通華菩薩・光英菩薩・慧上菩薩・智幢菩薩・寂根菩薩・願慧菩薩・香象菩薩・宝英菩薩・中住菩薩・制行菩薩・解脱菩薩なり。みな普賢大士の徳に遵ひ、諸菩薩の無量の行願を具し、一切功徳の法に安住す。十方に遊歩して権方便を行じ、仏の法蔵に入りて彼岸を究竟し、無量の世界において等覚を成ずることを現ず。
訳 また、賢護をはじめとする十六人の正士がいました。善思議・信慧・空無・神通華・光英・慧上・智幢・寂根・願慧・香象・宝英・中住・制行・解脱の各菩薩です。みな普賢大士の徳にしたがい、菩薩たちの量りしれない行と願をそなえ、あらゆる功徳の法に安らかにとどまっていました。十方に自在におもむいて巧みな手だてを行い、仏の法の蔵に入って彼岸をきわめ、量りしれない世界で、さとりを成就する姿を現していました。
〔読み〕経の冒頭は、聞いたこと、聞いた中身、時、説く主、処、聴衆を、この順に挙げます。注釈の伝統は、ここに六つの成就(信・聞・時・主・処・衆)を数えるのが通例で、多くの経の「如是我聞」の順にしたがって信を先に置きます。この経は「我聞如是」と、聞を先に立てています。
\[ \begin{aligned} \text{序} &= \langle\, \text{聞},\ \text{信},\ \text{時},\ \text{主},\ \text{処},\ \text{衆} \,\rangle \\ &= \langle\, \text{我聞},\ \text{如是},\ \text{一時},\ \text{佛},\ \text{王舍城耆闍崛山},\ \text{比丘衆と菩薩衆} \,\rangle \end{aligned} \]
〔借・定義寄り|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕「我聞如是」は、聞いた言葉をそのとおりに護り持って、次の聞き手に渡す形をしています。G-1 の「前の縁起が生成した像を護持する行為が次の縁起への問いとなる」に写すと、次のとおりです。i₀ は仏の説法が聞き手のうちに結んだ像、g はそれを護り持つこと、c₁ はこの経を次に聞く者に向けられる問いです。経の終わりの流通(弥勒への付嘱)が、同じ形をもう一度とります。
\[ g(i_0) = c_1, \qquad i_0 = \text{説法の像}, \quad c_1 = \text{次に聞く者への問い} \]
〔読み〕集まった者の数を、経の言うとおりに書きます。上首として名の挙がる尊者は三十一人です。「十六正士」と言われますが、名が挙がるのは賢護を含めて十五人です。この訳は、名の挙がらない一人を補いません(序の約束の三)。
\[ \begin{aligned} |\text{大比丘衆}| &= 12000, & |\text{名の挙がる上首}| &= 31, \\ |\text{十六正士}| &= 16, & |\text{名の挙がる正士}| &= 15. \end{aligned} \]
原文 處兜率天弘宣正法,捨彼天宮降神母胎,從右脇生,現行七步。光明顯曜,普照十方無量佛土,六種震動,舉聲自稱:「吾當於世為無上尊,釋梵奉侍,天、人歸仰。」(大正12・265c–266a)
書き下し 兜率天に処して正法を弘宣し、かの天宮を捨てて神を母胎に降し、右脇より生じて、七歩を行ずることを現ず。光明顕曜して、あまねく十方無量の仏土を照らし、六種に震動す。声を挙げてみづから称すらく、「われまさに世において無上尊となるべし。釈・梵奉侍し、天・人帰仰せん」と。
訳 この菩薩たちは、兜率天にあって正しい法を広く説き、その天の宮殿を捨てて母の胎に宿り、右の脇から生まれて、七歩を歩む姿を現します。光明が輝きわたって十方の量りしれない仏の国土をあまねく照らし、大地は六種に震動します。声をあげて、みずから「わたしは世において無上の尊者となるであろう。帝釈天と梵天が仕え、天と人が帰依して仰ぐであろう」と称えます。
原文 示現算計、文藝、射御,博綜道術,貫練群籍,遊於後園講武試藝。現處宮中色味之間,見老、病、死,悟世非常,棄國財位,入山學道,服乘、白馬、寶冠、瓔珞,遣之令還。捨珍妙衣而著法服,剃除鬚髮,端坐樹下。勤苦六年,行如所應。(大正12・266a)
書き下し 算計・文芸・射御を示現し、道術を博綜し、群籍を貫練し、後園に遊びて武を講じ芸を試む。宮中色味の間に処することを現じ、老・病・死を見て世の非常を悟り、国の財位を棄てて山に入りて道を学す。服乗・白馬・宝冠・瓔珞、これを遣はして還らしむ。珍妙の衣を捨てて法服を著し、鬚髪を剃除して樹下に端坐す。勤苦すること六年、行ずること応ずるところのごとし。
訳 算術・文芸・弓術と馬術を示し、道術を広くおさめ、多くの書物に通じ、後ろの園に遊んで武芸を習い試みます。宮中で色と味の楽しみのうちにある姿を現しますが、老い・病・死を見て世の無常を悟り、国と財と位を捨て、山に入って道を学びます。身につけていた衣と乗り物、白馬・宝冠・首飾りは、使いに持たせて帰らせます。美しい衣を捨てて法衣を着け、ひげと髪を剃り落として、樹の下に端座します。六年のあいだ苦行に励み、なすべきとおりに行じます。
原文 現五濁剎隨順群生,示有塵垢沐浴金流。天按樹枝得攀出池,靈禽翼從往詣道場,吉祥感徵表章功祚。哀受施草,敷佛樹下,跏趺而坐,奮大光明使魔知之。魔率官屬而來逼試,制以智力皆令降伏,得微妙法成最正覺。(大正12・266a)
書き下し 五濁の刹に現じて群生に随順し、塵垢あることを示して金流に沐浴す。天、樹枝を按じ、攀ぢて池より出づることを得たり。霊禽翼従して道場に往詣し、吉祥感徴して功祚を表章す。哀れみて施草を受け、仏樹の下に敷きて跏趺して坐し、大光明を奮ひて魔をしてこれを知らしむ。魔、官属を率ゐて来りて逼り試む。制するに智力をもつてして、みな降伏せしめ、微妙の法を得て最正覚を成ず。
訳 五濁の世に現れて人々にしたがい、身に塵や垢があるかのように示して、金色の流れで沐浴します。天人が木の枝をたわめると、それにすがって池から上がります。霊妙な鳥たちが翼を並べて従い、道場へと赴きます。吉祥のしるしが感応して現れ、その功徳と福運をあらわします。草を施す者をあわれんでその草を受け、仏樹の下に敷いて結跏趺坐し、大いなる光明を放って魔にそれを知らせます。魔は眷属を率いてやって来て迫り試みますが、智慧の力でこれを制して、すべて降伏させます。そして微妙の法を得て、最上の正覚を成就します。
原文 釋梵祈勸請轉法輪,以佛遊步、佛吼而吼,扣法鼓、吹法螺、執法劍、建法幢、震法雷、曜法電、澍法雨、演法施,常以法音覺諸世間,光明普照無量佛土。一切世界六種震動,總攝魔界、動魔宮殿,眾魔慴怖莫不歸伏。摑裂邪網,消滅諸見,散諸塵勞,壞諸欲塹。嚴護法城,開闡法門;洗濯垢污,顯明清白;光融佛法,宣流正化。(大正12・266a)
書き下し 釈・梵祈勧して法輪を転ぜんことを請ず。仏の遊歩・仏の吼をもつて吼え、法鼓を扣き、法螺を吹き、法剣を執り、法幢を建て、法雷を震ひ、法電を曜かし、法雨を澍ぎ、法施を演ぶ。常に法音をもつて諸の世間を覚し、光明あまねく無量の仏土を照らす。一切の世界六種に震動し、総じて魔界を摂し、魔の宮殿を動かせば、衆魔慴怖して帰伏せざるはなし。邪網を掴裂し、諸見を消滅し、諸の塵労を散じ、諸の欲塹を壊る。法城を厳護し、法門を開闡す。垢汚を洗濯し、清白を顕明す。仏法を光融し、正化を宣流す。
訳 帝釈天と梵天が、法輪を転じてくださるよう祈り願います。そこで、仏としての歩みと仏としての獅子吼とをもって吼え、法の鼓を打ち、法の螺を吹き、法の剣を執り、法の幢を建て、法の雷をとどろかせ、法の稲妻をひらめかせ、法の雨を注ぎ、法の施しをのべます。常に法の声で世の人々を目覚めさせ、光明はあまねく量りしれない仏の国土を照らします。あらゆる世界が六種に震動し、魔の世界をすべて取りおさえ、魔の宮殿を揺り動かすので、魔たちはみな恐れおののいて帰伏します。邪な見解の網を引き裂き、さまざまな誤った見解を消し去り、煩悩の塵をはらい、欲の堀を壊します。法の城を厳かに護り、法の門を開きます。垢と汚れを洗い清め、清らかさを明らかにします。仏の法を輝かせて広め、正しい教化をのべ伝えます。
原文 入國分衛獲諸豐饍,貯功德、示福田、欲宣法、現欣笑,以諸法藥救療三苦。顯現道意無量功德,授菩薩記成等正覺,示現滅度拯濟無極。消除諸漏,植眾德本,具足功德微妙難量。遊諸佛國,普現道教,其所修行清淨無穢。(大正12・266a)
書き下し 国に入りて分衛して諸の豊饍を獲、功徳を貯へ、福田を示し、法を宣べんと欲して欣笑を現じ、諸の法薬をもつて三苦を救療す。道意の無量の功徳を顕現し、菩薩に記を授けて等正覚を成ぜしむ。滅度を示現すれども、拯済すること極まりなし。諸漏を消除し、衆の徳本を植ゑ、功徳を具足すること微妙にして量りがたし。諸の仏国に遊びて、あまねく道教を現ず。その修行するところ清浄にして穢れなし。
訳 国に入って托鉢し、豊かな食物を受けて、功徳をたくわえ、福田であることを示し、法を説こうとして、ほほえみを現します。さまざまな法の薬で、三つの苦しみを救い癒やします。さとりを求める心の量りしれない功徳を現し、菩薩たちに記を授けて等正覚を成就させます。滅度を示し現しますが、救いには限りがありません。もろもろの煩悩の漏れを除き、多くの功徳の本を植え、そなえた功徳は微妙で量りがたいものです。さまざまな仏の国に遊んで、あまねく仏道の教えを現します。その修行は清らかで、汚れがありません。
〔読み〕この菩薩たちが現す仏の一生を、段の言葉から拾うと次の列になります。伝統はこれを八相と呼びます(数え方には異同があります)。
\[ \begin{aligned} &\text{兜率天に処す} \to \text{母胎に降る} \to \text{右脇より生ず} \to \text{出家} \\ &\quad \to \text{降魔} \to \text{最正覚を成ず} \to \text{法輪を転ず} \to \text{滅度を示現す} \end{aligned} \]
〔読み〕列のどの相も、「現行七步」「示現算計」「現處宮中」「現五濁剎」「示現滅度」のように、現すことの内に置かれています。p を現すことを 現(p) と書けば、菩薩が現すのは相の列そのものです。
\[ \forall k \in \{1, \dots, 8\} :\ \text{現}(\text{相}_k) \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕列は滅度で終わりますが、経は「示現滅度拯濟無極」と続けます。滅度は示し現された終わりで、救い(拯済)には終わりがありません。A10 (iv) の「完了点を持たない」の形です。救いが止む時 t* はない、と書きます。
\[ \text{現}(\text{滅度}) \;\wedge\; \neg\, \exists\, t^{*}\ \forall t > t^{*} :\ \neg\, \text{拯濟}(t) \]
原文 譬如幻師現眾異像,為男、為女無所不變,本學明了在意所為。此諸菩薩亦復如是,學一切法貫綜縷練,所住安諦靡不致化,無數佛土皆悉普現,未曾慢恣、愍傷眾生。(大正12・266a–266b)
書き下し たとへば幻師の衆の異像を現じて、男となり女となり、変ぜざるところなきがごとし。本より学して明了なれば、意の為すところにあり。この諸の菩薩もまたかくのごとし。一切の法を学して貫綜縷練し、住するところ安諦にして、化を致さざるはなし。無数の仏土にみなことごとくあまねく現じて、いまだかつて慢恣ならず、衆生を愍傷す。
訳 たとえば幻術師が、さまざまに異なる姿を現して、男にもなり女にもなり、変じないものがないようなものです。もとより術を学んで明らかに知っているので、思いのままに現せるのです。これらの菩薩たちも、またこのとおりです。あらゆる法を学んで、そのすべてを貫き修め、身を置く所は安らかで確かであり、教化をなしとげない所はありません。数えきれない仏の国土に、ことごとくあまねく姿を現しますが、おごりやほしいままな振る舞いはかつてなく、衆生をあわれみいたみます。
原文 如是之法一切具足,菩薩經典究暢要妙,名稱普至導御十方,無量諸佛咸共護念。佛所住者皆已得住、大聖所立而皆已立,如來道化各能宣布,為諸菩薩而作大師。以甚深禪慧開導眾人,通諸法性,達眾生相,明了諸國,供養諸佛。(大正12・266b)
書き下し かくのごときの法、一切具足し、菩薩の経典の要妙を究暢す。名称あまねく至りて十方を導御し、無量の諸仏、みなともに護念したまふ。仏の住したまふところには、みなすでに住することを得、大聖の立てたまふところには、みなすでに立てり。如来の道化をおのおのよく宣布して、諸の菩薩のために大師となる。甚深の禅慧をもつて衆人を開導し、諸法の性に通じ、衆生の相に達し、諸国を明了にし、諸仏を供養す。
訳 このような法をすべてそなえ、菩薩の経典の要となる奥深い教えをきわめています。その名はあまねく行きわたって十方を導き、量りしれない仏たちが、みなそろってこの菩薩たちを護り念じておられます。仏のとどまられる境地に、みなすでにとどまり、大いなる聖者の立てられた所に、みなすでに立っています。如来の教化をそれぞれによく広め、菩薩たちのために大いなる師となります。きわめて深い禅定と智慧で人々を導き、あらゆるものの本性に通じ、衆生のありさまに達し、さまざまな国を明らかに知り、仏たちを供養します。
原文 化現其身猶如電光,善學無畏之網曉了幻化之法。壞裂魔網,解諸纏縛。超越聲聞、緣覺之地,得空、無相、無願三昧。善立方便,顯示三乘。(大正12・266b)
書き下し その身を化現すること、なほ電光のごとし。よく無畏の網を学して、幻化の法を暁了す。魔網を壊裂し、諸の纏縛を解く。声聞・縁覚の地を超越して、空・無相・無願の三昧を得たり。よく方便を立てて、三乗を顕示す。
訳 その身を変化させて現すことは、稲妻の光のようです。おそれなき教えの網をよく学んで、幻のような変化のことわりを明らかに知っています。魔の網を引き裂き、もろもろの束縛を解きます。声聞と縁覚の境地を超えて、空・無相・無願の三昧を得ています。巧みな手だてをよく立てて、三つの乗り物(三乗)を示します。
原文 於此中下而現滅度,亦無所作、亦無所有,不起、不滅得平等法。具足成就無量總持百千三昧,諸根智慧廣普寂定,深入菩薩法藏,得佛華嚴三昧。宣暢演說一切經典,住深定門,悉覩現在無量諸佛,一念之頃無不周遍。濟諸劇難諸閑不閑,分別顯示真實之際,得諸如來辯才之智。(大正12・266b)
書き下し この中下において滅度を現ずれども、また作すところなく、またあるところなく、起こらず滅せずして平等の法を得たり。無量の総持と百千の三昧とを具足し成就す。諸根と智慧と、広普にして寂定なり。深く菩薩の法蔵に入りて、仏華厳三昧を得たり。一切の経典を宣暢し演説す。深定の門に住して、ことごとく現在の無量の諸仏を覩たてまつり、一念の頃に周遍せざることなし。諸の劇難と諸の閑・不閑とを済ひ、真実の際を分別し顕示して、諸の如来の弁才の智を得たり。
訳 中・下の者たちのためには滅度を現しますが、実はなすところもなく、あるところもなく、起こることも滅することもない、平等の法を得ています。量りしれない総持(陀羅尼)と百千の三昧をそなえて成就し、その諸根と智慧は広く行きわたって、静かに定まっています。菩薩の法の蔵に深く入り、仏華厳三昧を得ています。あらゆる経典をのべ広めて説き、深い禅定の門にとどまって、いま現におられる量りしれない仏たちをことごとく拝し、一念のあいだに行きわたらない所はありません。激しい難にある者を救い、仏道を修めるいとまのある者もない者も救い、真実の際(きわ)を分けて示し、仏たちの弁才の智慧を得ています。
原文 入眾言音,開化一切,超過世間諸所有法。心常諦住度世之道,於一切萬物而隨意自在。為諸庶類作不請之友,荷負群生為之重擔。受持如來甚深法藏,護佛種性常使不絕。興大悲、愍眾生,演慈辯、授法眼、杜三趣、開善門,以不請之法施諸黎庶,如純孝之子愛敬父母。於諸眾生視若自己,一切善本皆度彼岸,悉獲諸佛無量功德,智慧聖明不可思議。(大正12・266b)
書き下し 衆の言音に入りて一切を開化し、世間の諸の所有の法に超過す。心、常に度世の道に諦住して、一切の万物において意に随ひて自在なり。諸の庶類のために不請の友となり、群生を荷負してこれを重担となす。如来の甚深の法蔵を受持し、仏の種性を護りて常に絶えざらしむ。大悲を興して衆生を愍み、慈弁を演べ、法眼を授け、三趣を杜ぎ、善門を開く。不請の法をもつて諸の黎庶に施すこと、純孝の子の父母を愛敬するがごとし。諸の衆生において視ること自己のごとし。一切の善本、みな彼岸に度り、ことごとく諸仏の無量の功徳を獲て、智慧聖明なること不可思議なり。
訳 あらゆる言葉に通じてすべての者を教え導き、世間のあらゆるものを超え出ています。心は常に、世を渡る道にしっかりととどまり、すべてのものに対して思いのままに自在です。もろもろの人々のために、頼まれなくとも友となり、衆生を背負って、それをみずからの重い荷とします。如来の甚深の法の蔵を受けたもち、仏の種姓を護って、常に絶えないようにします。大悲をおこして衆生をあわれみ、慈しみの弁舌をのべ、法の眼を授け、三悪趣への道をふさぎ、善への門を開きます。頼まれなくとも法を人々に施すさまは、まことの孝行の子が父母を愛し敬うようです。衆生を見ることは、自分自身を見るようです。あらゆる善の本は、みな彼岸に至り、仏たちの量りしれない功徳をことごとく得て、その智慧と聖なる明らかさは、思いはかることができません。
原文 如是之等菩薩大士不可稱計,一時來會。(大正12・266b)
書き下し かくのごとき等の菩薩大士、称計すべからず。一時に来会せり。
訳 このような菩薩大士たちが、数えきれないほど、一時に集まって来ていました。
〔読み〕幻師の譬えと、「於此中下而現滅度…不起、不滅得平等法」を合わせて読みます。p を現すことを 現(p) と書きます。菩薩は中・下の者に滅度を現しますが、法の上では、起こることも滅することもありません。二つの言明は食い違いません。現(p) からは p が出てこないからです。幻師が男の姿を現しても、幻師が男になるのではないのと同じです。
\[ \text{現}(\text{滅度}) \;\wedge\; \neg\,\text{起} \;\wedge\; \neg\,\text{滅}, \qquad \text{現}(p) \nRightarrow p \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A5 自覚慈悲の同値性〕〔読み〕段は、同じ菩薩について、「通諸法性」(智)と、「達眾生相」「興大悲、愍眾生」(悲)とを並べて言います。A5 の経典的基礎の欄の「悲智双運」の形です。ただし、この段が言うのは、二つが一人に具わることまでです。A5 の本文の言う収束(問題が十分に深いとき、二つの道が一点に至る)を、この段は語りません。
\[ \forall b \in \text{来会の菩薩} :\ \text{智}(b) \wedge \text{悲}(b) \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A2 慈悲の縁起的集合論〕〔読み〕「於諸眾生視若自己」と「荷負群生為之重擔」は、衆生のだれをも自らのように見て、群生を重い荷として負う、と言います。A2 の経典的基礎の欄の「積構造=「誰も取り残さない」」に重ねれば、菩薩の負う荷から外される衆生は一人もいない、という全称の形です。経はここで、菩薩自身の安寧については言いません(同じ段は、菩薩が「安住一切功德之法」にあると言います)。安寧の量 W も用いません。これは、この訳の重ね方です。
\[ \forall x \in \text{眾生} :\ x \in \text{所荷負}(\text{菩薩})\ \ (\text{荷負群生為之重擔}), \qquad \forall x \in \text{眾生} :\ \text{視}(\text{菩薩},\ x) = \text{視}(\text{菩薩},\ \text{自己})\ \ (\text{視若自己}) \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕「不可稱計」の称計は、量り数えることです。この訳は、それを A0 の言う記号体系で量を汲み尽くそうとすることの一つと読みます。経は、来会した菩薩大士の数を挙げず、称計の外に置きます。式も、そこに数を入れません。
\[ |M| \notin \{\, n : n \text{ を称計しうる} \,\}, \qquad M = \text{来会の菩薩大士} \]
仏のお顔の輝きを拝した阿難がそのわけを問い、仏はその問いを讃えて、如来が世に出るわけを説きます。
原文 爾時,世尊諸根悅豫,姿色清淨,光顏巍巍。(大正12・266b)
書き下し その時、世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして、光顔巍巍たり。
訳 その時、世尊は、身も心も喜びにあふれ、お姿は清らかで、光り輝くお顔はひときわ気高くおられました。
原文 尊者阿難承佛聖旨,即從座起,偏袒右肩,長跪合掌而白佛言:「今日世尊諸根悅豫,姿色清淨,光顏巍巍,如明淨鏡影暢表裏,威容顯曜超絕無量,未曾瞻覩殊妙如今。唯然,大聖!我心念言:『今日世尊住奇特法、今日世雄住諸佛所住、今日世眼住導師行、今日世英住最勝道、今日天尊行如來德。去來現佛佛佛相念,得無今佛念諸佛耶?何故威神光光乃爾?』」(大正12・266b–266c)
書き下し 尊者阿難、仏の聖旨を承けて、すなはち座より起ち、右の肩を偏袒し、長跪合掌して、仏にまうしてまうさく、「今日、世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして、光顔巍巍たること、明浄なる鏡の影、表裏に暢るがごとし。威容顕曜にして、超絶したまへること無量なり。いまだかつて殊妙なること今のごとくなるを瞻覩せず。唯然、大聖、我、心に念言すらく、『今日、世尊は奇特の法に住したまへり。今日、世雄は諸仏の所住に住したまへり。今日、世眼は導師の行に住したまへり。今日、世英は最勝の道に住したまへり。今日、天尊は如来の徳を行じたまへり。去・来・現の仏、仏と仏とあひ念じたまふ。今の仏も諸仏を念じたまふことなきことを得んや。なにがゆゑぞ威神の光、光いまし爾るや』」と。
訳 尊者阿難は、仏のお心を受けて座から立ち上がり、右の肩をあらわにし、ひざまずいて合掌し、仏に申し上げました。「今日、世尊は、身も心も喜びにあふれ、お姿は清らかで、光り輝くお顔は気高く、明るく清らかな鏡の影が表にも裏にも通りわたるかのようです。威厳あるお姿は輝きわたり、たぐいもなく、量りしれません。これほど殊に妙なるお姿を、わたしはかつて拝したことがありません。まことに、大いなる聖者よ。わたしは心の中でこう思いました。『今日、世尊はたぐいまれな法にとどまっておられる。今日、世の雄者は仏たちのとどまられる境地にとどまっておられる。今日、世の眼は導師の行にとどまっておられる。今日、世の英傑は最も勝れた道にとどまっておられる。今日、天の尊者は如来の徳を行じておられる。過去・未来・現在の仏は、仏と仏とが互いに念じあわれる。いまの仏も、仏たちを念じておられるのではないか。そうでなければ、なぜ威神の光がこれほどに輝くのだろうか』と。」
原文 於是世尊告阿難曰:「云何,阿難!諸天教汝來問佛耶?自以慧見問威顏乎?」(大正12・266c)
書き下し ここに世尊、阿難に告げてのたまはく、「いかんぞ阿難、諸天の汝を教へて来りて仏に問はしむるや。みづから慧見をもつて威顔を問ふや」と。
訳 そこで世尊は阿難に告げられました。「阿難よ、どうなのか。天の神々があなたに教えて、仏に問わせに来させたのか。それとも、あなた自身の智慧の見るところによって、この威ある顔のわけを問うのか。」
原文 阿難白佛:「無有諸天來教我者,自以所見問斯義耳。」(大正12・266c)
書き下し 阿難、仏にまうさく、「諸天の来りて我を教ふる者あることなし。みづから見るところをもつて、この義を問ひたてまつるのみ」と。
訳 阿難は仏に申し上げました。「天の神々が来てわたしに教えたのではありません。わたし自身の見たところによって、このことをお尋ねするのです。」
原文 佛言:「善哉,阿難!所問甚快。發深智慧真妙辯才,愍念眾生問斯慧義。如來以無盡大悲矜哀三界,所以出興於世,光闡道教,欲拯群萌惠以真實之利。無量億劫難值難見,猶靈瑞華時時乃出。今所問者多所饒益,開化一切諸天人民。(大正12・266c)
書き下し 仏のたまはく、「善いかな阿難、問へるところはなはだ快し。深き智慧、真妙の弁才を発して、衆生を愍念してこの慧義を問へり。如来、無尽の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興したまふゆゑは、道教を光闡して、群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。無量億劫にも値ひがたく見たてまつりがたきこと、なほ霊瑞華の時ありて時にいまし出づるがごとし。いま問へるところは、饒益するところ多く、一切の諸天・人民を開化す。
訳 仏は仰せになりました。「よろしい、阿難よ。あなたの問いは、まことにすばらしい。深い智慧とまことに妙なる弁才をおこし、衆生をあわれみ念じて、この智慧の義を問うたのである。如来は、尽きることのない大悲をもって、三界をあわれまれる。如来が世に出られるわけは、仏道の教えを輝かせて広め、多くの衆生を救って、真実の利益を恵もうとされるからである。如来には、量りしれない億劫のあいだにも遇いがたく、まみえがたい。霊瑞華が、ごくまれにしか咲かないようなものである。いまあなたが問うたことは、多くの者に利益をもたらし、すべての天の神々と人々を教え導くであろう。
原文 「阿難!當知如來正覺其智難量,多所導御,慧見無礙,無能遏絕。以一飡之力,能住壽命億百千劫無數無量,復過於此。諸根悅豫不以毀損,姿色不變光顏無異。所以者何?如來定慧究暢無極,於一切法而得自在。(大正12・266c)
書き下し 「阿難、まさに知るべし。如来の正覚は、その智量りがたく、導御するところ多し。慧見無礙にして、よく遏絶するものなし。一飡の力をもつて、よく寿命を住すること億百千劫、無数無量にして、またこれに過ぎたり。諸根悦予して毀損せず、姿色変ぜず、光顔異なることなし。ゆゑはいかん。如来は定慧究暢して極まりなく、一切の法において自在を得たまへり。
訳 「阿難よ、知るがよい。如来の正覚は、その智慧を量ることができず、導くところは多い。智慧の見るところは何ものにも妨げられず、これをさえぎることのできるものはない。一度の食事の力で、億・百・千劫、数えきれず量りしれないほどの寿命を保つことができ、さらにそれを超えることもできる。諸根は喜びにあふれて損なわれず、姿は変わらず、輝く顔は変わることがない。なぜかといえば、如来は禅定と智慧をきわめつくして限りなく、あらゆる法において自在を得ておられるからである。
原文 「阿難諦聽,今為汝說。」(大正12・266c)
書き下し 「阿難、あきらかに聴け。いま汝がために説かん」と。
訳 「阿難よ、よく聞きなさい。いま、あなたのために説こう。」
原文 對曰:「唯然,願樂欲聞。」(大正12・266c)
書き下し 対へてまうさく、「唯然。願楽して聞きたてまつらんと欲ふ」と。
訳 阿難はお答えしました。「はい。喜んでお聞きしたいと願います。」
〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕阿難は「去來現佛佛佛相念」を前提に置き、いまの仏の輝きをその一例と見て問います。仏と仏とが互いに念じ合うことは、A10 (v) の「仏性は相互に映し合う(インドラの網)」に重ねて読めます。ただし経が言うのは仏どうしが念じ合うことで、すべての存在の仏性が映し合うことまでは言いません。
\[ \forall\, b, b' \in \text{去來現佛} :\ \text{念}(b, b'), \qquad \text{問}:\ \text{念}(\text{今佛},\ \text{諸佛})\ ? \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A1 空鏡の公理〕〔読み〕仏は、問いが諸天に教えられたものでなく、阿難自身の見たところから出たことを確かめ、そのうえで、それを「愍念眾生問斯慧義」と讃えます。A1 の「問い(c:慈悲成分)」にあたるのが、この衆生をあわれむ問いです。A1 に重ねれば、問いが、それを受けとめる場 u と出会って、以下に説かれる法 i が生まれる、と置けます。ただし経は、説かれる法の拠り所を如来の智慧に置き(「如來正覺其智難量」)、問いについては「今所問者多所饒益」、多くの者を益する、と讃えます。段の終わりの「唯然,願樂欲聞」は、こんどは聞く側の受容です。
\[ c \otimes u \to i, \qquad c = \text{愍念眾生問斯慧義}, \quad \text{出所}(c) = \text{自以所見}, \quad i = \text{以下に説かれる法} \]
〔読み〕如来が世に出る因と目的を、経の言葉のままに書きます。因は大悲で、目的は、教えを広め、群萌を救い、真実の利を恵むことです。
\[ \text{無盡大悲} \;\Longrightarrow\; \text{出興於世}, \qquad \text{出興の目的} = \text{光闡道教} \wedge \text{拯群萌} \wedge \text{惠以真實之利} \]
〔異本〕「無盡大悲」の「盡」を、大正蔵の校注は、流布別本が「蓋」に作ると記します。CBETA は「無盡」を「無蓋」とすべきかと按じ、慧遠・吉蔵・憬興の注釈書と、卍続蔵経の一書(X22n0397)を挙げます。三師はいずれも「無蓋大悲」として注し、慧遠と憬興は「無蓋」が正しく改めるに及ばないと述べます(CBETA の本文で確かめました)。日本の浄土教では「無蓋の大悲」と読むのが通例と承知していますが、この点は未照合です。この訳は底本の「無盡」に従います。また、流布本の「欲拯群萌惠以真實之利」を、大正蔵の本文(高麗本)は「普令群萌獲真法利」に、宋・元・明の三本は「欲拯濟群萌惠以真實之利」に作ります。式にすると、どちらも如来がはたらきの主です。違いは、流布本が如来の意(「欲」)として、群萌を救い真実の利を恵むことを言うのに対し、大正蔵の本文は、群萌にあまねく(「普」)真の法の利を獲させる(「令」)ことを言う点にあります。利が群萌に至ることは、どちらも同じです。
\[ \text{流布本}:\ \text{欲}\bigl(\text{如來},\ \text{拯}(\text{群萌}) \wedge \text{惠}(\text{群萌},\ \text{真實之利})\bigr) \qquad \text{大正蔵の本文}:\ \text{普令}\bigl(\text{如來},\ \text{獲}(\text{群萌},\ \text{真法利})\bigr) \]
〔読み〕「能住壽命億百千劫無數無量,復過於此」は、挙げた量をさらに超える、と言います。これを、どの有限の劫数も上から押さえることができない、と読みます(序の約束の三の、一つの読みです)。
\[ \forall n \in \mathbb{N} :\ \text{住しうる寿命} > n\ \text{劫} \]
仏は、はるかな過去の仏たちを順に挙げ、世自在王仏のもとで一人の国王が発心して法蔵と名のるところまでを説きます。
原文 佛告阿難:「乃往過去久遠無量不可思議無央數劫,錠光如來興出於世,教化度脫無量眾生,皆令得道乃取滅度。次有如來名曰光遠、次名月光、次名栴檀香、次名善山王、次名須彌天冠、次名須彌等曜、次名月色、次名正念、次名離垢、次名無著、次名龍天、次名夜光、次名安明頂、次名不動地、次名琉璃妙華、次名琉璃金色、次名金藏、次名炎光、次名炎根、次名地動、次名月像、次名日音、次名解脫華、次名莊嚴光明、次名海覺神通、次名水光、次名大香、次名離塵垢、次名捨厭意、次名寶炎、次名妙頂、次名勇立、次名功德持慧、次名蔽日月光、次名日月琉璃光、次名無上琉璃光、次名最上首、次名菩提華、次名月明、次名日光、次名華色王、次名水月光、次名除癡冥、次名度蓋行、次名淨信、次名善宿、次名威神、次名法慧、次名鸞音、次名師子音、次名龍音、次名處世,如此諸佛皆悉已過。(大正12・266c–267a)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「乃往過去久遠無量不可思議無央数劫に、錠光如来、世に興出して、無量の衆生を教化し度脱して、みな道を得しめて、すなはち滅度を取りたまひき。次に如来ましましき、名をば光遠といふ。次をば月光・栴檀香・善山王・須弥天冠・須弥等曜・月色・正念・離垢・無著・竜天・夜光・安明頂・不動地・琉璃妙華・琉璃金色・金蔵・炎光・炎根・地動・月像・日音・解脱華・荘厳光明・海覚神通・水光・大香・離塵垢・捨厭意・宝炎・妙頂・勇立・功徳持慧・蔽日月光・日月琉璃光・無上琉璃光・最上首・菩提華・月明・日光・華色王・水月光・除痴冥・度蓋行・浄信・善宿・威神・法慧・鸞音・師子音・竜音・処世と、つぎつぎに名づく。かくのごときの諸仏、みなことごとくすでに過ぎたまへり。
訳 仏は阿難に告げられました。「はるか遠い過去、量りしれず、思いはかることもできない、数えきれない劫の昔に、錠光如来が世に出られ、量りしれない衆生を教え導いて迷いから救い出し、みなに道を得させたうえで、滅度に入られた。その次に光遠という名の如来が出られ、つづいて、月光・栴檀香・善山王・須弥天冠・須弥等曜・月色・正念・離垢・無著・竜天・夜光・安明頂・不動地・琉璃妙華・琉璃金色・金蔵・炎光・炎根・地動・月像・日音・解脱華・荘厳光明・海覚神通・水光・大香・離塵垢・捨厭意・宝炎・妙頂・勇立・功徳持慧・蔽日月光・日月琉璃光・無上琉璃光・最上首・菩提華・月明・日光・華色王・水月光・除痴冥・度蓋行・浄信・善宿・威神・法慧・鸞音・師子音・竜音・処世と名づける如来が、つぎつぎに出られた。これらの仏たちは、みなすでに過ぎ去られた。
原文 「爾時,次有佛名世自在王如來、應供、等正覺、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、佛、世尊。時有國王,聞佛說法心懷悅豫,尋發無上正真道意,棄國、捐王,行作沙門,號曰法藏,高才勇哲與世超異。詣世自在王如來所,稽首佛足,右遶三匝,長跪合掌以頌讚曰:(大正12・267a)
書き下し 「その時、次に仏ましましき。世自在王如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づけたてまつる。時に国王ありき。仏の説法を聞きて心に悦予を懐き、すなはち無上正真道の意を発し、国を棄て王を捐てて、行じて沙門となり、号して法蔵といふ。高才勇哲にして、世と超異せり。世自在王如来の所に詣でて、仏足を稽首し、右に遶ること三匝して、長跪合掌して、頌をもつて讃じてまうさく、
訳 「その時、次に仏が出られた。世自在王如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と申し上げる。その時、一人の国王がいた。仏の説法を聞いて心に喜びをいだき、ただちに、この上ない正しくまことの道を求める心をおこし、国を棄て王位を捨てて沙門となり、法蔵と名のった。その才は高く、勇気と智慧は世に抜きんでていた。世自在王如来のもとに詣でて、仏の足に額をつけて礼拝し、右回りに三度めぐり、ひざまずいて合掌し、偈をもって讃えて申し上げた。
〔読み〕経が名を挙げる過去の仏は、錠光から処世までの五十三仏で、経はそのみなを「已過」と言います。その次に出られたのが世自在王仏で、法蔵の師となります。
\[ \langle b_1, b_2, \dots, b_{53} \rangle, \quad b_1 = \text{錠光}, \ b_{53} = \text{處世}, \qquad \forall k \le 53 :\ \text{已過}(b_k), \qquad b_{54} = \text{世自在王} \]
〔読み〕錠光如来は「皆令得道乃取滅度」、すなわち、教化した者みなに道を得させてから、はじめて滅度に入られました。滅度に入ることが、教化した者すべての得道を条件としています。この形は、のちの法蔵菩薩の誓いの形(上巻 六)を先取りしています。
\[ \text{取滅度}(\text{錠光}) \;\Longrightarrow\; \forall x \in \text{所化の衆生} :\ \text{得道}(x) \]
〔読み〕国王が法蔵となるまでを、経の言葉の順に並べます。始まりは、仏の説法を聞くことです。
\[ \text{聞佛說法} \to \text{心懷悅豫} \to \text{發無上正真道意} \to \text{棄國捐王} \to \text{行作沙門} \to \text{號曰法藏} \]
法蔵が世自在王仏を讃え、自らの願いを述べる偈です。四字を一句とする八十句を、四句ずつ二十の偈に分けて示します。
| 偈 | 原文 | 書き下し | 訳 |
|---|---|---|---|
| 一 | 「『光顏巍巍, 威神無極, 如是炎明, 無與等者。 | 光顔巍巍として、威神極まりなし。かくのごときの炎明、ともに等しき者なし。 | 輝くお顔は気高く、威神の力は限りがありません。このような輝きに並ぶものはありません。 |
| 二 | 日月摩尼, 珠光炎耀, 皆悉隱蔽, 猶若聚墨。 | 日月・摩尼、珠光の炎耀も、みなことごとく隠蔽して、なほ聚墨のごとし。 | 日や月、摩尼の宝珠の輝きも、みな隠れてしまい、墨を集めたかのようです。 |
| 三 | 如來容顏, 超世無倫, 正覺大音, 響流十方。 | 如来の容顔は、世に超えて倫なし。正覚の大音、響き十方に流る。 | 如来のお顔は世に超えすぐれ、比べるものがありません。正覚の大いなる声は、十方に響きわたります。 |
| 四 | 戒聞精進, 三昧智慧, 威德無侶, 殊勝希有。 | 戒・聞・精進、三昧・智慧、威徳侶なく、殊勝にして希有なり。 | 戒・多聞・精進・三昧・智慧において、その威徳は並ぶものがなく、ことにすぐれて、たぐいまれです。 |
| 五 | 深諦善念, 諸佛法海, 窮深盡奧, 究其涯底。 | 深く諦かによく念じたまふ、諸仏の法海を。深きを窮め奥を尽くして、その涯底を究めたまふ。 | 仏たちの法の海を、深く明らかによく念じ、その深みをきわめ奥を尽くして、果ての底まで究めておられます。 |
| 六 | 無明、欲、怒, 世尊永無, 人雄師子, 神德無量。 | 無明と欲と怒りと、世尊には永くなし。人雄師子にして、神徳無量なり。 | 無明と貪欲と怒りは、世尊には永久にありません。人の中の雄者、獅子なるお方の神徳は、量りしれません。 |
| 七 | 功勳廣大, 智慧深妙, 光明威相, 震動大千。 | 功勲広大にして、智慧深妙なり。光明の威相、大千を震動す。 | その功績は広大で、智慧は深く妙なるものです。光明の威あるお姿は、三千大千世界を震わせます。 |
| 八 | 願我作佛, 齊聖法王, 過度生死, 靡不解脫。 | 願はくは我、仏と作りて、聖法王に斉しく、生死を過度して、解脱せざることなからしめん。 | 願わくは、わたしも仏となって、聖なる法の王であるあなたに等しくなり、生死の海を渡して、解脱しない者がないようにしたいと思います。 |
| 九 | 布施、調意、 戒、忍、精進, 如是三昧, 智慧為上。 | 布施・調意・戒・忍・精進、かくのごときの三昧、智慧、上と為らん。 | 布施と心をととのえること、戒と忍辱と精進、このような三昧と智慧とにおいて、最上となりましょう。 |
| 十 | 吾誓得佛, 普行此願, 一切恐懼, 為作大安。 | 吾、誓ふ、仏を得んに、あまねくこの願を行じて、一切の恐懼に、ために大安を作さん。 | わたしは誓います。仏となったなら、あまねくこの願いを行い、恐れおののくすべての者のために、大いなる安らぎとなりましょう。 |
| 十一 | 假使有佛, 百千億萬, 無量大聖, 數如恒沙, | たとひ仏ましまして、百千億万の無量の大聖、数恒沙のごとくならんに、 | たとえ、百千億万の、量りしれない大いなる聖者である仏が、ガンジス河の砂の数ほどおられて、 |
| 十二 | 供養一切, 斯等諸佛, 不如求道, 堅正不却。 | 一切のこれらの諸仏を供養せんよりは、道を求めて堅正にして却かざらんにはしかじ。 | そのすべての仏たちを供養するとしても、道を求めて、堅く正しく退かないことには及びません。 |
| 十三 | 譬如恒沙, 諸佛世界, 復不可計, 無數剎土, | たとへば恒沙のごときの諸仏の世界、また計ふべからざる無数の刹土あらんに、 | たとえば、ガンジス河の砂の数ほどの仏たちの世界があり、さらに数えきれない無数の国土があるとしても、 |
| 十四 | 光明悉照, 遍此諸國, 如是精進, 威神難量。 | 光明ことごとく照らして、この諸国に遍からしめん。かくのごとく精進して、威神量りがたからん。 | わたしの光明はそのすべてを照らし、これらの国々にあまねく行きわたるようにしましょう。このように精進して、量りがたい威神の力をそなえましょう。 |
| 十五 | 令我作佛, 國土第一, 其眾奇妙, 道場超絕。 | 我、仏と作らんに、国土をして第一ならしめん。その衆は奇妙にして、道場は超絶せん。 | わたしが仏となったなら、その国土を第一のものとし、そこに集う人々はすぐれて妙なる者たちで、道場は比べるものがないようにしましょう。 |
| 十六 | 國如泥洹, 而無等雙, 我當哀愍, 度脫一切。 | 国は泥洹のごとくにして、等双なからん。我まさに哀愍して、一切を度脱すべし。 | その国は涅槃のようで、並ぶものがないでしょう。わたしは必ず、あわれみをもって、すべての者を救いましょう。 |
| 十七 | 十方來生, 心悅清淨, 已到我國, 快樂安穩。 | 十方より来生せんもの、心悦びて清浄ならん。すでにわが国に到らば、快楽安穏ならん。 | 十方から生まれて来る者は、心が喜びにあふれて清らかになり、わたしの国に至れば、楽しく安らかとなるでしょう。 |
| 十八 | 幸佛信明, 是我真證, 發願於彼, 力精所欲。 | 幸はくは仏、信明したまへ。これわが真証なり。願を彼に発して、所欲を力精せん。 | どうか仏よ、わたしの心を確かに明らかにご覧ください。あなたこそ、わたしのまことの証人です。わたしはかの国への願いをおこし、望むところに向けて力を尽くして励みます。 |
| 十九 | 十方世尊, 智慧無礙, 常令此尊, 知我心行。 | 十方の世尊は、智慧無礙なり。常にこの尊をして、わが心行を知らしめん。 | 十方の世尊は、その智慧に障りがありません。常にこの尊き方々に、わたしの心と行いを知っていただきましょう。 |
| 二十 | 假令身止, 諸苦毒中, 我行精進, 忍終不悔。』」(大正12・267a–267b) | たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行は精進にして、忍びてつひに悔いじ。 | たとえこの身を、さまざまな苦しみと害毒のただ中に置くことになっても、わたしは精進を行じて、耐え忍び、決して悔いることはありません。 |
原文 佛告阿難:「法藏比丘說此頌已而白佛言:『唯然,世尊!我發無上正覺之心,願佛為我廣宣經法,我當修行,攝取佛國清淨莊嚴無量妙土,令我於世速成正覺,拔諸生死勤苦之本。』」(大正12・267b)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはりて、仏にまうしてまうさく、『唯然、世尊、我、無上正覚の心を発せり。願はくは仏、わがために広く経法を宣べたまへ。我まさに修行して、仏国の清浄荘厳なる無量の妙土を摂取すべし。我をして世においてすみやかに正覚を成じて、もろもろの生死勤苦の本を抜かしめたまへ』」と。
訳 仏は阿難に告げられました。「法蔵比丘は、この偈を説き終えて、仏に申し上げた。『まことに、世尊よ。わたしは無上の正覚を求める心をおこしました。どうか仏よ、わたしのために広く教えをお説きください。わたしはそれを修行して、仏の国の清らかに荘厳された、量りしれない妙なる国土を摂め取りたいと思います。わたしが世において速やかに正覚を成就し、生死の苦しみのもろもろの根本を抜くことができますように』と。」
〔読み〕偈の組み立てです。第一から第七の偈で仏を讃え、第八の偈の「願我作佛」から、自らの願いに移ります。
\[ \begin{aligned} \text{讃仏偈} = {} & \text{讃(一〜七)} \oplus \text{作仏の願(八〜十)} \oplus \text{求道の重さ(十一・十二)} \\ & \oplus \text{光明(十三・十四)} \oplus \text{国土(十五〜十七)} \\ & \oplus \text{証(十八・十九)} \oplus \text{不悔(二十)} \end{aligned} \]
〔読み〕第八の偈の「靡不解脫」は、「解脱しない者がない」という二重の否定で、「すべての者が解脱する」という全称と同じです。第十六の偈の「度脫一切」は、同じことを全称でじかに言います。経はこの形(靡不・莫不・無不)を、のちの願や荘厳の段でもくり返し用います。
\[ \text{靡不解脫} \;\equiv\; \neg\, \exists\, x :\ \neg\, \text{解脫}(x) \;\equiv\; \forall x :\ \text{解脫}(x) \]
〔読み〕第十一・十二の偈は、二つの行いの重さを比べます。恒河の砂の数ほどの仏をすべて供養することも、道を求めて堅く正しく退かないことには及びません。式の 𝔅_恒沙 は、供養される恒沙の仏たちで、|𝔅_恒沙| は数ではなく、経の言う「恒沙」という量の名です(B の字は、仏性 B(x) のために取っておきます)。
\[ V(\text{求道・堅正不却}) \;>\; V\bigl(\text{供養}(\mathfrak{B}_{\text{恒沙}})\bigr), \qquad |\mathfrak{B}_{\text{恒沙}}| = \text{恒沙} \]
〔読み〕第二十の偈は、どのような境遇 s においても、精進して悔いない、と誓います。境遇の全体 S には「諸苦毒中」も含まれます。境遇によって変わらない誓いです。
\[ \forall s \in S :\ \text{精進}(s) \wedge \neg\, \text{悔}(s), \qquad \text{諸苦毒中} \in S \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A5 自覚慈悲の同値性〕〔読み〕法蔵は、教えを聞いて修行し、清らかな国土を摂め取り、速やかに正覚を成じて、生死の苦しみの根を抜くことを願います。列の終わりが正覚ではなく抜苦であることは、正覚を求めること(上求菩提)が、衆生の苦を抜くこと(下化衆生)に向けられている、という形です。A5 の経典的基礎の欄の「上求菩提下化衆生の不可分性」にあたります。
\[ \text{聞}(\text{經法}) \to \text{修行} \to \text{攝取}(\text{妙土}) \to \text{速成正覺} \to \text{拔}(\text{生死勤苦之本}) \]
師の仏は、二百一十億の仏国を法蔵に説いて示し、法蔵は五劫のあいだ思惟して、清らかな国土の行を摂め取ります。
原文 佛語阿難:「時世饒王佛告法藏比丘:『汝所修行莊嚴佛土,汝自當知。』(大正12・267b)
書き下し 仏、阿難に語りたまはく、「時に世饒王仏、法蔵比丘に告げたまはく、『汝が修行するところの荘厳仏土は、汝みづからまさに知るべし』と。
訳 仏は阿難に語られました。「その時、世饒王仏は法蔵比丘に告げられた。『あなたが修行して荘厳しようとする仏の国土のことは、あなた自身が知るべきである』と。
原文 「比丘白佛:『斯義弘深,非我境界。唯願世尊廣為敷演諸佛如來淨土之行。我聞此已,當如說修行成滿所願。』(大正12・267b)
書き下し 「比丘、仏にまうさく、『この義は弘深にして、わが境界にあらず。ただ願はくは世尊、広くために諸仏如来の浄土の行を敷演したまへ。我これを聞きをはりて、まさに説のごとく修行して、所願を成満すべし』と。
訳 「比丘は仏に申し上げた。『その意味は広く深く、わたしの及ぶところではありません。どうか世尊よ、わたしのために、仏たちの浄土の行を広くお説きください。わたしはそれを聞いたうえで、説かれたとおりに修行して、願うところを成し遂げます』と。
原文 「爾時,世自在王佛知其高明志願深廣,即為法藏比丘而說經言:『譬如大海,一人升量,經歷劫數尚可窮底,得其妙寶。人有至心精進,求道不止,會當剋果,何願不得?』(大正12・267b–267c)
書き下し 「その時、世自在王仏、その高明にして志願の深広なるを知ろしめして、すなはち法蔵比丘のために経を説きてのたまはく、『たとへば大海を一人升もつて量らんに、劫数を経歴せば、なほ底を窮めてその妙宝を得べきがごとし。人、至心に精進して道を求めて止まざることあらば、かならずまさに果を剋すべし。いづれの願か得ざらん』と。
訳 「その時、世自在王仏は、法蔵比丘が聡明で、志と願いが深く広いことを知られて、法蔵比丘のために教えを説いて言われた。『たとえば大海の水を、一人の人が升で汲み量っても、劫の時を重ねれば、なお底まで汲み尽くして、その妙なる宝を得ることができるようなものである。人がまことの心で精進し、道を求めてやまなければ、必ず果を得るであろう。どんな願いがかなわないことがあろうか』と。
原文 「於是,世自在王佛即為廣說二百一十億諸佛剎土天人之善惡、國土之麤妙,應其心願悉現與之。(大正12・267c)
書き下し 「ここに世自在王仏、すなはちために広く二百一十億の諸仏の刹土の天人の善悪、国土の麤妙を説きて、その心願に応じて、ことごとく現じてこれを与へたまふ。
訳 「そこで世自在王仏は、法蔵比丘のために、二百一十億の仏たちの国土における天と人の善し悪しと、国土の粗さと妙なるさまとを広く説き、その心の願いに応じて、それらをことごとく目の前に現して与えられた。
原文 「時彼比丘聞佛所說嚴淨國土,皆悉覩見。超發無上殊勝之願,其心寂靜,志無所著,一切世間無能及者。具足五劫,思惟攝取莊嚴佛國清淨之行。」(大正12・267c)
書き下し 「時にかの比丘、仏の所説の厳浄の国土を聞きて、みなことごとく覩見し、無上殊勝の願を超発す。その心寂静にして、志著するところなく、一切世間によく及ぶ者なし。五劫を具足して、荘厳仏国の清浄の行を思惟し摂取す」と。
訳 「その時、かの比丘は、仏が説かれた厳かで清らかな国土のことを聞き、そのすべてを目のあたりに見て、この上なくすぐれた願いを、他に超えておこした。その心は静まり、志はとらわれるところがなく、世のだれも及ぶ者はなかった。まる五劫のあいだ、仏の国を荘厳する清らかな行を思惟して、摂め取った。」
原文 阿難白佛:「彼佛國土壽量幾何?」(大正12・267c)
書き下し 阿難、仏にまうさく、「かの仏の国土の寿量はいくばくぞ」と。
訳 阿難は仏にお尋ねしました。「その仏の国の寿命は、どれほどでしたか。」
原文 佛言:「其佛壽命四十二劫。(大正12・267c)
書き下し 仏のたまはく、「その仏の寿命は四十二劫なりき。
訳 仏は言われました。「その仏の寿命は四十二劫であった。
原文 「時法藏比丘攝取二百一十億諸佛妙土清淨之行。如是修已,詣彼佛所,稽首禮足,遶佛三匝,合掌而住,白佛言:『世尊!我已攝取莊嚴佛土清淨之行。』(大正12・267c)
書き下し 「時に法蔵比丘、二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取す。かくのごとく修しをはりて、かの仏の所に詣でて、稽首して足を礼し、仏を遶ること三匝して、合掌して住し、仏にまうしてまうさく、『世尊、我すでに荘厳仏土の清浄の行を摂取しつ』と。
訳 「その時、法蔵比丘は、二百一十億の仏たちの妙なる国土の清らかな行を摂め取った。このように修め終えると、かの仏のもとに詣で、額を仏の足につけて礼拝し、仏のまわりを三度めぐり、合掌して立ち、仏に申し上げた。『世尊よ、わたしはすでに、仏の国土を荘厳する清らかな行を摂め取りました』と。
原文 「佛告比丘:『汝今可說,宜知是時。發起悅可一切大眾。菩薩聞已,修行此法,緣致滿足無量大願。』(大正12・267c)
書き下し 「仏、比丘に告げたまはく、『汝いま説くべし。よろしく是れ時なることを知るべし。一切の大衆を発起し悦可せしめよ。菩薩聞きをはりて、この法を修行し、縁りて無量の大願を満足することを致さん』と。
訳 「仏は比丘に告げられた。『いまこそ説きなさい。今がその時であると知るがよい。すべての大衆を奮い立たせ、喜ばせなさい。菩薩たちはそれを聞いてこの法を修行し、それによって量りしれない大いなる願いを満たすであろう』と。
原文 「比丘白佛:『唯垂聽察,如我所願,當具說之。(大正12・267c)
書き下し 「比丘、仏にまうさく、『ただ聴察を垂れたまへ。わが所願のごとく、まさに具さにこれを説くべし。
訳 「比丘は仏に申し上げた。『どうかお聞き届けください。わたしの願うところを、つぶさに申し上げます。
〔異本〕流布本は、ここだけ師の仏の名を「世饒王佛」とし、「汝所修行」と作ります。大正蔵の本文は「世自在王佛」「如所修行」です。「世饒王」は、世自在王と同じ名の別の訳し方と見られます。
〔借・公理|刊行済|第1層 A9 灌頂の公理〕〔読み〕師はまず「汝自當知」と、知るべきことを法蔵のうちに置きます。そのうえで「應其心願悉現與之」と、法蔵の心の願いに応じて諸仏の国を現して見せます。法蔵は、それを見て、すぐれた願いをおこします(「超發」)。A9 の「「変える」のではなく「変わるための場を整える」」に重ねて読めます。現(p ∣ q) は、q に応じて p を現すことです。
\[ \text{現}\bigl(\,\text{二百一十億の佛剎} \mid \text{法藏の心願}\,\bigr) \;\Longrightarrow\; \text{覩見} \;\Longrightarrow\; \text{超發無上殊勝之願} \]
〔読み〕大海の譬えは、一つひとつは小さな行いも、止むことなく続ければ果に至る、と言います。「何願不得」は「靡不」と同じく、全称です。
\[ \bigl(\forall t :\ \text{至心精進}(t)\bigr) \;\Longrightarrow\; \exists\, T :\ \text{剋果}(T), \qquad \text{何願不得} \;\equiv\; \forall w \in \text{願} :\ \text{得}(w) \]
〔読み〕阿難は、五劫の思惟が説かれたすぐ後で、師の仏の寿命を尋ねます。経の並びからは、五劫の思惟が師の寿命四十二劫のうちに収まることが読み取れます。数は経の言うままで、劫の長さを計算しません(序の約束の三)。
\[ \text{思惟の期間} = \text{五劫} \;<\; \text{四十二劫} = \text{世自在王佛の壽命} \]
〔借・定義寄り|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕師は「菩薩聞已,修行此法,緣致滿足無量大願」と、法蔵の願が説かれることの意味を告げます。五劫の思惟が結んだ像(願)は、説かれ、護り持たれて、それを聞く菩薩たちの次の問いと行いになります。G-1 の形です。
\[ g\bigl(i_{\text{法藏の願}}\bigr) = c_{\text{聞く菩薩}}, \qquad c_{\text{聞く菩薩}} \to \text{修行此法} \to \text{滿足無量大願} \]
法蔵が世自在王仏の前で説く四十八の願です。各願の頭の「『は、仏の語りの中で法蔵の言葉が続いていることを示す CBETA の約物です。書き下しと訳では略します。
〔定義〕四十八願を式に写すための記号です。
〔読み〕願の文型「設我得佛,……者,不取正覺」は、「わたしが仏となるとき、……であるなら、正覚を取らない」です。……に入るのは Pₙ の否定です。これを式にすると左の形になり、論理の上では右の形と同じです。
\[ (\text{正覚} \wedge \neg P_n) \Rightarrow \neg\,\text{正覚} \quad\equiv\quad \text{正覚} \Rightarrow P_n \quad\equiv\quad \mathbf{1}[\text{正覚}] \le \mathbf{1}[P_n] \]
〔読み〕同じだと言えるわけは、次のとおりです(A は正覚、P は Pₙ)。誓いは、正覚そのものを Pₙ に懸けます。ゆえに、Pₙ を欠いたまま正覚だけが成ることは、ありえません。
\[ (A \wedge \neg P) \Rightarrow \neg A \;\equiv\; \neg A \vee P \vee \neg A \;\equiv\; \neg A \vee P \;\equiv\; A \Rightarrow P \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A2 慈悲の縁起的集合論〕〔読み〕多くの願では、Pₙ は、国の天と人一人ひとりについての条件 Qₙ(x) の全称です。そのとき 𝟙 の式は積の形になり、誰か一人でも Qₙ を欠けば積は零となって、正覚は成りません。A2 の「誰か一人の安寧が零になると積全体が零になる」と同じ組み立てです。借りるのは組み立てだけで、W_Nash の量ではありません。
\[ P_n = \forall x \in \mathcal{N} :\ Q_n(x) \quad\Longrightarrow\quad \mathbf{1}[\text{正覚}] \;\le\; \prod_{x \in \mathcal{N}} \mathbf{1}[Q_n(x)] \]
〔読み〕四十八願をまとめれば、正覚は四十八の条件すべてに懸かります。経はのちに、法蔵が仏と成ったことを説きます(上巻 十二)。そこで、経の語る世界の内では、四十八の条件がみな成っている、と読めます。これは経の言葉の組み立てを写したもので、経の語る事柄の証拠ではありません(序の約束の二)。
\[ \text{正覚} \;\Longrightarrow\; \bigwedge_{n=1}^{48} P_n \]
〔読み〕「下至……」は「少なくとも……」の意で、能力などの下限を定めます。たとえば第五願の「下至不知百千億那由他諸劫事者」は、知る範囲が N₀ 劫に届かない者が一人でもいれば、の意です。
〔異本〕第五・第六・第八願の「下至不知」「下至不見」「下至不知」の「不」は、流布本の読みです。大正蔵の本文(高麗本)は、この三願で「不」を欠き、第九願の「下至不能超過」と第十二願の「下至不照」では「不」を持ちます。流布本では、この五つの願の「下至」が、そろって下限の意になります。また第五願の「不識宿命」を、大正蔵の本文は「不悉識宿命」に作ります。
原文 「『設我得佛,國有地獄、餓鬼、畜生者,不取正覺。(大正12・267c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国に地獄・餓鬼・畜生があるなら、わたしは正覚を取りません。
〔読み〕国に三悪趣がないこと。
\[ P_1 = \text{我國} \cap \{\text{地獄},\ \text{餓鬼},\ \text{畜生}\} = \emptyset \]
原文 「『設我得佛,國中人天壽終之後復更三惡道者,不取正覺。(大正12・267c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天、寿終りてののち、また三悪道に更らば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人が、命を終えたのち、ふたたび三悪道に戻ることがあるなら、正覚を取りません。
〔読み〕国の天と人が、三悪道に戻らないこと。
\[ P_2 = \forall x \in \mathcal{N} :\ \neg\,\text{復更三惡道}(x) \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A2 慈悲の縁起的集合論〕〔読み〕四十八願は、最も苦しい境涯である三悪趣を、国からなくし(第一願)、戻る道も断つ(第二願)ことから始まります。A2 の派生の欄の「下降的 Φ_C(最弱の項への優先的介入)」に、順序の上だけで重ねて読めます。この二つの願は国の成り立ちを定めるもので、よそにいる最も弱い者に手を差し伸べる、とは言いません。順序から形を読み取ったもので、経が順序の理由を語っているのではありません。
原文 「『設我得佛,國中人天不悉真金色者,不取正覺。(大正12・267c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天、ことごとく真金色ならずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人が、みな真金の色でないなら、正覚を取りません。
〔読み〕一人も漏れなく真金色であること。「不悉」の「悉」が全称を表します。
\[ P_3 = \forall x \in \mathcal{N} :\ \text{真金色}(x) \]
原文 「『設我得佛,國中人天形色不同有好醜者,不取正覺。(大正12・267c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天、形色不同にして好醜あらば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人の姿かたちが同じでなく、美しい者と醜い者とがあるなら、正覚を取りません。
〔読み〕願の否定の側は「形色不同有好醜」、姿かたちが同じでなく、好醜の別があることです。式は、その否定を写して、そのような二人がいないこととします。姿かたちがすべて同一であることまでは、願の文は求めません(上巻 十三の「形無異狀」は、成就の姿を語る文です)。
\[ P_4 = \neg\,\exists x, y \in \mathcal{N} :\ \text{形色不同}(x, y) \wedge \text{好}(x) \wedge \text{醜}(y) \]
原文 「『設我得佛,國中人天不識宿命,下至不知百千億那由他諸劫事者,不取正覺。(大正12・267c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天、宿命を識らずして、下、百千億那由他の諸劫の事を知らざるに至らば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人が、過去世のことを知らず、少なくとも百千億那由他の劫の昔のことまでを知るのでないなら、正覚を取りません。
〔読み〕宿命を知る広がりが、少なくとも N₀ 劫に及ぶこと。
\[ P_5 = \forall x \in \mathcal{N} :\ \text{宿命を知る劫}(x) \ge N_0 \]
原文 「『設我得佛,國中人天不得天眼,下至不見百千億那由他諸佛國者,不取正覺。(大正12・267c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天、天眼を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の国を見ざるに至らば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人が天眼を得ず、少なくとも百千億那由他の仏の国々を見ることができないなら、正覚を取りません。
〔読み〕天眼の及ぶ仏国が、少なくとも N₀ であること。
\[ P_6 = \forall x \in \mathcal{N} :\ \text{天眼の及ぶ佛國}(x) \ge N_0 \]
原文 「『設我得佛,國中人天不得天耳,下至聞百千億那由他諸佛所說不悉受持者,不取正覺。(大正12・267c–268a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天、天耳を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の所説を聞きて、ことごとく受持せざるに至らば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人が天耳を得ず、少なくとも百千億那由他の仏たちの説かれることを聞いて、そのすべてを受けたもつのでないなら、正覚を取りません。
〔読み〕N₀ の仏たちの説くところを、一つも漏らさず受けたもつこと。𝔅_N₀ は、その N₀ の仏たちです。
\[ P_7 = \forall x \in \mathcal{N}\ \forall b \in \mathfrak{B}_{N_0} :\ \text{受持}\bigl(x,\ \text{所說}(b)\bigr) \]
原文 「『設我得佛,國中人天不得見他心智,下至不知百千億那由他諸佛國中眾生心念者,不取正覺。(大正12・268a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天、見他心智を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の国の中の衆生の心念を知らざるに至らば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人が、他人の心を見る智慧を得ず、少なくとも百千億那由他の仏の国々の衆生の心の思いを知るのでないなら、正覚を取りません。
〔読み〕他心智の及ぶ仏国が、少なくとも N₀ であること。
\[ P_8 = \forall x \in \mathcal{N} :\ \text{他心智の及ぶ佛國}(x) \ge N_0 \]
原文 「『設我得佛,國中人天不得神足於一念頃,下至不能超過百千億那由他諸佛國者,不取正覺。(大正12・268a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天、神足を得ずして、一念の頃に、下、百千億那由他の諸仏の国を超過すること能はざるに至らば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人が神足を得ず、一念のあいだに、少なくとも百千億那由他の仏の国々を飛び越えることができないなら、正覚を取りません。
〔読み〕一念のあいだに越えうる仏国が、少なくとも N₀ であること。式の一念は、時の長さの名です。
\[ P_9 = \forall x \in \mathcal{N} :\ \text{一念のうちに超過しうる佛國}(x) \ge N_0 \]
原文 「『設我得佛,國中人天若起想念貪計身者,不取正覺。(大正12・268a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天、もし想念を起こして身を貪計せば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人が、もし思いをおこして、自分の身に執着してはからうなら、正覚を取りません。
〔読み〕身への貪計を起こす者がいないこと。この願は、「若」を用いて、満たされない側の事柄をそのままに言います。
\[ P_{10} = \neg\, \exists\, x \in \mathcal{N} :\ \text{起想念貪計身}(x) \]
原文 「『設我得佛,國中人天不住定聚必至滅度者,不取正覺。(大正12・268a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天、定聚に住してかならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人が、さとりに定まった仲間(定聚)にとどまって、必ず滅度に至るのでないなら、正覚を取りません。
〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔借・公理|刊行済|第1層 A9 灌頂の公理〕〔読み〕定聚に住することと、滅度に必ず至ること。願の文は、この二つを「かつ」で並べます。A10 (ii) の「顕在化の必然性」の閾値構造に重ねれば、定聚に住することが閾値を超えることにあたり、「必至」が、その後いずれ必ず滅度に至ることにあたる、と読めます(下の式の二つ目)。また A9 に重ねれば、国は滅度を作り出すのではなく、滅度に至ることが定まる場である、と読めます。
\[ P_{11} = \forall x \in \mathcal{N} :\ \text{住定聚}(x) \wedge \exists\, T\ \forall t \ge T :\ \text{滅度}(x, t), \qquad \text{A10 (ii) に重ねて} :\ \text{住定聚}(x) \Rightarrow \exists\, T\ \forall t \ge T :\ \text{滅度}(x, t) \]
原文 「『設我得佛,光明有能限量,下至不照百千億那由他諸佛國者,不取正覺。(大正12・268a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの光明に限りがあって、少なくとも百千億那由他の仏の国々を照らすのでないなら、正覚を取りません。
〔読み〕光明がどの有限の量にも上から押さえられないこと(前半)と、照らす仏国が少なくとも N₀ であること(後半)。光明を照らす国の数で量り、N₀ を有限の量とみなすなら、前半が成れば後半も成ります。ただし N₀ は量の名で、この訳はその値を計算しません(序の約束の三)。経は「限量なし」を、具体的な下限でも確かめられる形で言い添えています。序の約束の三のとおり、これは「無量」の一つの読みです。
\[ P_{12} = \bigl(\forall L < \infty :\ \text{光明} > L\bigr) \;\wedge\; \text{照らす佛國} \ge N_0 \]
記号は上巻 六の定めに従います。この節で加える記号は次のとおりです。
〔定義〕
原文 「『設我得佛,壽命有能限量,下至百千億那由他劫者,不取正覺。(大正12・268a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの寿命に限りがあって、たとえ百千億那由他劫であっても限られるなら、正覚を取りません。
〔読み〕寿命が、どの有限の量にも上から押さえられないこと。第十二願と違い、この願の「下至」には「不」がありません。ここでの N₀ 劫は、満たすべき下限ではなく、「それほど長くても、限りがあるなら足りない」という例です。「下至」の二つの使い方が、式でははっきり分かれます。
\[ P_{13} = \forall L < \infty :\ \text{壽命} > L, \qquad \text{壽命} \le N_0\ \text{劫} \;\Rightarrow\; \neg P_{13} \]
原文 「『設我得佛,國中聲聞有能計量,乃至三千大千世界聲聞緣覺於百千劫悉共計挍知其數者,不取正覺。(大正12・268a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の声聞、よく計量ありて、乃至、三千大千世界の声聞・縁覚、百千劫においてことごとくともに計校して、その数を知らば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の声聞の数を量ることができ、たとえば三千大千世界の声聞と縁覚が百千劫のあいだ、みなで力を合わせて数えて、その数を知ることができるようなら、正覚を取りません。
〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕数え上げは、記号の体系で量を汲み尽くそうとすることです。この願は、極端な例として挙がる数え上げ k*(三千大千世界の声聞と縁覚が総がかりで百千劫)でさえ、国の声聞の数に届かないことを求めます。K は数え上げの手だての全体です。A0 の「いかなる記号体系 L も、u′(虚空の余剰)を汲み尽くせない」の、数についての形です。
\[ P_{14} = \forall k \in K :\ \neg\,\text{知其數}\bigl(k,\ |\text{國中聲聞}|\bigr), \qquad k^{*} \in K \]
〔異本〕「三千大千世界聲聞緣覺」の「聲聞」を、大正蔵の本文は「眾生」に作り(「三千大千世界眾生緣覺」)、宋・元・明の三本は「眾生悉成緣覺」に作ります(脚注「眾生+(悉成)【三】,眾生流布本作聲聞」)。数え上げる者は、流布本では声聞と縁覚、大正蔵の本文では衆生と縁覚、三本では縁覚と成った衆生です。上の k* の「声聞と縁覚」は、流布本の読みによります。上巻 十二の寿命の段の「十方世界無量眾生皆得人身,悉令成就聲聞、緣覺」は、三本の読みに近い形です。
原文 「『設我得佛,國中人天壽命無能限量——除其本願脩短自在——若不爾者,不取正覺。(大正12・268a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天は寿命よく限量なからん。その本願ありて脩短自在ならんをば除く。もし爾らずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人の寿命は、限りのないものとなりましょう。ただし、自らの本願によって、寿命の長短を思いのままにしようとする者は除きます。もしそうでないなら、正覚を取りません。
〔読み〕除かれるのは、自らの願いで寿命の長短を選ぶ者です。除外は、取り上げることとしてではなく、選ぶ自由として書かれています。式では、除外は「または」の一方の側になります。
\[ P_{15} = \forall x \in \mathcal{N} :\ \text{本願脩短自在}(x) \;\vee\; \bigl(\forall L < \infty :\ \text{壽命}(x) > L\bigr) \]
原文 「『設我得佛,國中人天乃至聞有不善名者,不取正覺。(大正12・268a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天、乃至、不善の名ありと聞かば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人が、不善という名を聞くことさえあるなら、正覚を取りません。
〔読み〕不善の名を聞くことさえないこと。「乃至」が、最も弱い場合(名を聞くだけ)にまで条件を及ぼします。
\[ P_{16} = \forall x \in \mathcal{N} :\ \neg\,\text{聞}(x,\ \text{不善之名}) \]
原文 「『設我得佛,十方世界無量諸佛不悉咨嗟稱我名者,不取正覺。(大正12・268a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、十方の世界の量りしれない仏たちが、みなことごとくわたしの名をほめたたえるのでないなら、正覚を取りません。
〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕十方の仏たちが、みなこの仏の名をほめたたえること。仏が仏の名をほめたたえる形で、A10 (v) の「仏性は相互に映し合う」に重ねて読めます。ただし、この願が言うのは、十方の仏たちがこの仏の名を称えるという一つの向きで、互いに称え合うとまでは言いません(第三十一願と同じ注意です)。発起序で阿難が前提に置いた「佛佛相念」と、名の上で響き合います。こうして十方に広まる名を衆生が聞くことは、下巻 十四の本願成就文で説かれます。
\[ P_{17} = \forall b \in \mathfrak{B} :\ \text{咨嗟稱}(b,\ \text{我名}) \]
原文 「『設我得佛,十方眾生至心信樂欲生我國,乃至十念,若不生者,不取正覺,唯除五逆、誹謗正法。(大正12・268a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とを除く。
訳 わたしが仏となるとき、十方の衆生が、まことの心で信じ喜び、わたしの国に生まれたいと願って、たとえわずか十念でも念じるのに、もし生まれないなら、わたしは正覚を取りません。ただし、五逆の罪を犯す者と、正しい法をそしる者とを除きます。
〔読み〕願の条件を、そのままの形で式にします。三つの心(至心・信樂・欲生)と念とがそろうなら、生まれる、です。「乃至十念」の「乃至」は「わずか……でも」の意で、十念は足りる量の例として挙がります。念(x) は x の念の数です。何を念とするかは、下の〔諸釈〕のとおり分かれます。E は除かれる者で、これも読みが分かれます。
\[ P_{18} = \forall x \in \mathcal{S} \setminus E :\ \bigl(\text{至心}(x) \wedge \text{信樂}(x) \wedge \text{欲生}(x) \wedge \text{念}(x) \ge 10\bigr) \;\Rightarrow\; \text{生}(x) \]
〔諸釈〕「念」の読みです。
曇鸞と善導の句は、CBETA の本文で確かめました(『往生論註』大正40・834c、『往生礼讃』大正47・447c)。法然と親鸞については、この訳者の知識による要約で、原典に当たっていません。式は、念(x) を数として置いたまま、何を数えるかを決めません。読みの違いは、念(x) の中身と、数え方(曇鸞の「不必須知頭數」)のところに入ります。
〔諸釈〕「唯除五逆、誹謗正法」の読みです。除かれる者 E の中身が、読みによって次のように変わります。
| 読み | 除かれる者 E | 拠り所 |
|---|---|---|
| 文の字義 | 五逆の者と、正法を謗る者 | 経の文 |
| 曇鸞 | 正法を謗る者。五逆だけで謗法のない者は、『観経』の下品下生のとおり生まれる | 『往生論註』「一經以具二種重罪…以不謗正法故是故得生」「但令誹謗正法,雖更無餘罪,必不得生」(大正40・834a) |
| 慧遠 | 逆を造って重く悔いない者、または観仏の行を修めえない者と、正法を謗る者。人と行との二義で『観経』と分ける | 『無量寿経義疏』「釋有兩義:一約人分別…二約行分別」(大正37・107b) |
| 善導(抑止門) | 実際には除かれない。造る前に止めるための言葉で、造った者も摂め取られる | 『観経疏』散善義「此義仰就抑止門中解…方便止言不得往生,亦不是不攝也」(大正37・277a) |
〔諸釈〕拠り所の句は、いずれも CBETA の本文で確かめました。この訳は、どの読みが正しいとも判じません。
\[ \begin{aligned} E_{\text{字義}} &= \text{五逆} \cup \text{謗法} \\ E_{\text{曇鸞}} &= \text{謗法} \\ E_{\text{慧遠}} &= \{\, x \in \text{五逆} : \neg\,\text{重悔}(x) \,\} \cup \text{謗法} \quad (\text{人による義}) \\ E_{\text{善導}} &= \emptyset, \qquad \text{制止の対象} = \text{五逆} \cup \text{謗法}\ (\text{造る前}) \end{aligned} \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕A10 (i) は仏性の遍在(すべての x について B(x) ≠ ∅)を言い、(vi) は「仏性を否定する者にも B(x) ≠ ∅ は撤回されない」とします。除外の句の「誹謗正法」が仏性を否定することを含む、と仮に置いて、この公理を経に重ねるなら、除外の句は、仏性 B(x) を取り上げる言葉としては読めません。生(往生)と B(仏性)は別の述語なので、E をどの読みでとっても、B(x) ≠ ∅ と食い違うことはありません。上の表のどの読みも、この点では同じ側に立ちます。ただし、これはこの訳による重ね合わせで、整理表がこの願を論じているのではありません。また、この重ね合わせによって、どの読みが正しいとも判じません(序の約束の四)。
\[ \forall x \in \mathcal{S} :\ B(x) \neq \emptyset \quad (\text{A10 (i)・(vi)}), \qquad x \in E \;\nRightarrow\; B(x) = \emptyset \]
原文 「『設我得佛,十方眾生發菩提心修諸功德,至心發願欲生我國,臨壽終時,假令不與大眾圍遶現其人前者,不取正覺。(大正12・268a–268b)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心に願を発して我が国に生ぜんと欲はん。寿終の時に臨んで、たとひ大衆と囲遶してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、十方の衆生が、さとりを求める心をおこし、さまざまな功徳を修め、まことの心で願いをおこして、わたしの国に生まれたいと望むなら、その命の終わるときに、もしわたしが大衆とともにその人を取り囲んで、その人の前に現れないなら、正覚を取りません。
〔読み〕条件を満たす者の臨終に、仏が大衆とともにその前に現れること。
\[ P_{19} = \forall x \in \mathcal{S} :\ \bigl(\text{發菩提心}(x) \wedge \text{修諸功德}(x) \wedge \text{至心發願欲生}(x)\bigr) \Rightarrow \text{現前}(\text{我と大眾},\ x,\ \text{臨壽終時}) \]
原文 「『設我得佛,十方眾生聞我名號、係念我國,植諸德本、至心迴向欲生我國,不果遂者,不取正覺。(大正12・268b)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心に回向して我が国に生ぜんと欲はん。果遂せずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、十方の衆生が、わたしの名を聞いて、思いをわたしの国にかけ、さまざまな功徳の本を植えて、まことの心でそれを振り向け、わたしの国に生まれたいと望むなら、それが果たし遂げられないということがあれば、正覚を取りません。
〔借・定義寄り|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕植えた徳本(前の縁起が結んだ像)を、至心に回向して(振り向けて。G-1 では、この振り向けを護持にあたると読みます)、欲生(次の縁起への問い)とする、という組み立てです。G-1 の形で、整理表は G-1 の注に「回向・供養の再定義はすべてG-1の実装」と記します。
\[ P_{20} = \forall x \in \mathcal{S} :\ \bigl(\text{聞名}(x) \wedge \text{係念}(x) \wedge \text{植德本}(x) \wedge \text{至心迴向欲生}(x)\bigr) \Rightarrow \text{果遂}(x), \qquad g(\text{徳本}) = \text{欲生我國} \]
〔読み〕十方の衆生に向けた三つの願を並べます。条件はそれぞれ違いますが、どれも「欲生我國」を含みます。
| 願 | 衆生の側の条件 | 約束されること |
|---|---|---|
| 第十八願 | 至心・信楽・欲生、乃至十念(五逆・謗法を除く) | 生まれる |
| 第十九願 | 発菩提心・修諸功徳・至心発願・欲生 | 臨終に、仏が大衆とともに現れる |
| 第二十願 | 聞名・係念・植諸徳本・至心回向・欲生 | 果たし遂げられる |
\[ \forall n \in \{18, 19, 20\} :\ \text{条件}_n(x) \;\Rightarrow\; \text{欲生}(x) \]
〔諸釈〕日本の浄土教、とりわけ親鸞は、この三つの願を、真実(第十八願)と方便(第十九・第二十願)の関係で読みます。この訳者の知識による要約で、原典に当たっていません。
原文 「『設我得佛,國中人天不悉成滿三十二大人相者,不取正覺。(大正12・268b)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天、ことごとく三十二大人相を成満せずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人が、みなことごとく三十二の大人の相をそなえるのでないなら、正覚を取りません。
〔読み〕一人も漏れなく三十二相をそなえること。
\[ P_{21} = \forall x \in \mathcal{N} :\ \text{成滿三十二大人相}(x) \]
原文 「『設我得佛,他方佛土諸菩薩眾來生我國,究竟必至一生補處——除其本願自在所化,為眾生故,被弘誓鎧,積累德本度脫一切;遊諸佛國修菩薩行,供養十方諸佛如來;開化恒沙無量眾生,使立無上正真之道;超出常倫諸地之行,現前修習普賢之德——若不爾者,不取正覺。(大正12・268b)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、他方の仏土の諸菩薩衆、我が国に来生せば、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化にして、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累して一切を度脱し、諸仏の国に遊びて菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめ、常倫諸地の行に超出して、現前に普賢の徳を修習せんをば除く。もし爾らずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、他の仏の国土の菩薩たちがわたしの国に生まれてくるなら、ついには必ず一生補処の位に至ります。ただし、それぞれの本願によって自在に人々を教化しようとする者は除きます。その者たちは、衆生のために弘い誓いの鎧を身にまとい、功徳の本を積み重ねてすべての者を救い、さまざまな仏の国をめぐって菩薩の行を修め、十方の仏たちを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの量りしれない衆生を教え導いて、この上ない正しくまことの道に立たせ、ふつうの段階の行を超え出て、普賢の徳をまのあたりに修めるのです。もしそうでないなら、正覚を取りません。
〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕来生する菩薩は必ず一生補処に至りますが、自らの本願で衆生のもとに留まり、教化を続けることを選ぶ者は除かれます。第十五願と同じく、除外は選ぶ自由です。除かれる者のあり方は、A10 (vii) の「大悲闡提:W_Nash の全体最大化のために衆生と共にある帯域に留まる菩薩の存在様式」と、(iv) の「完了点を持たない」とに重なります。
\[ P_{22} = \forall x \in \mathcal{T} :\ \text{本願自在所化}(x) \;\vee\; \text{必至一生補處}(x) \]
〔諸釈〕除外の句がどこまでかが、読みで分かれます。この訳は CBETA の句読に従い、「超出常倫諸地之行,現前修習普賢之德」を除かれる者のあり方の内に置きました(下の式の Q)。日本の浄土教の訓読には、この句を除外の外に出し、来生する菩薩のすべてについて言うとするものがあります(Q′)。また親鸞は、この願を還相回向の願として読みます。この段落の諸釈は、この訳者の知識によるもので、原典に当たっていません。式にすると、違いは「超出……」を、「または」の内に置くか、外に出して「かつ」で結ぶかです。
\[ \begin{aligned} Q &:\ \forall x \in \mathcal{T} :\ \bigl(\text{自在所化}(x) \wedge \text{超出常倫}(x)\bigr) \vee \text{一生補處}(x) \\ Q' &:\ \forall x \in \mathcal{T} :\ \bigl(\text{自在所化}(x) \vee \text{一生補處}(x)\bigr) \wedge \text{超出常倫}(x) \end{aligned} \]
原文 「『設我得佛,國中菩薩承佛神力供養諸佛,一食之頃不能遍至無數無量那由他諸佛國者,不取正覺。(大正12・268b)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の菩薩、仏の神力を承けて諸仏を供養せんに、一食の頃にあまねく無数無量那由他の諸仏の国に至ること能はずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の菩薩たちが、仏の神力を受けて仏たちを供養しようとするとき、一度の食事のあいだに、数えきれず量りしれない那由他の仏の国々にあまねく至ることができないなら、正覚を取りません。
〔読み〕一食のあいだに、数えきれない仏国(「無數無量那由他諸佛國」)に至って供養できること。式の 無數佛國 は、その仏国たちです。
\[ P_{23} = \forall x \in \mathcal{B}\ \forall \beta \in \text{無數佛國} :\ \text{至}(x, \beta)\ \text{一食之頃のうちに} \]
原文 「『設我得佛,國中菩薩在諸佛前現其德本,諸所欲求供養之具若不如意者,不取正覺。(大正12・268b)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の菩薩、諸仏の前にありてその徳本を現ぜんに、もろもろの欲求するところの供養の具、もし意のごとくならずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の菩薩たちが、仏たちの前でその功徳の本を現そうとするとき、求める供養の品々がもし思いのままにならないなら、正覚を取りません。
〔読み〕求める供養の具が、どれも意のとおりになること。
\[ P_{24} = \forall x \in \mathcal{B}\ \forall w \in \text{欲求供養之具}(x) :\ \text{如意}(w) \]
記号は上巻 六・七の定めに従います。
原文 「『設我得佛,國中菩薩不能演說一切智者,不取正覺。(大正12・268b)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の菩薩、一切智を演説すること能はずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の菩薩たちが、一切智を説きのべることができないなら、正覚を取りません。
〔読み〕
\[ P_{25} = \forall x \in \mathcal{B} :\ \text{演說一切智}(x) \]
原文 「『設我得佛,國中菩薩不得金剛那羅延身者,不取正覺。(大正12・268b)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の菩薩、金剛那羅延の身を得ずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の菩薩たちが、金剛のように堅固な、那羅延(力ある神)のような身を得ないなら、正覚を取りません。
〔読み〕
\[ P_{26} = \forall x \in \mathcal{B} :\ \text{得金剛那羅延身}(x) \]
原文 「『設我得佛,國中人、天、一切萬物嚴淨光麗,形色殊特,窮微極妙,無能稱量。其諸眾生乃至逮得天眼,有能明了辯其名數者,不取正覺。(大正12・268b)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人・天、一切の万物、厳浄光麗にして、形色殊特に、微を窮め妙を極めて、よく称量することなけん。そのもろもろの衆生、乃至、天眼を逮得せんに、よく明了にその名数を弁ふることあらば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の人と天、そしてあらゆるものは、厳かに清らかで光り輝き、姿かたちはことにすぐれ、微妙をきわめて、だれも量り称えることができないでしょう。そこの衆生が、たとえ天眼を得たとしても、そのものたちの名と数をはっきりと見分けることができるなら、正覚を取りません。
〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕第十四願と同じ形です。天眼を得た者でさえ、万物の名と数を尽くせないこと。数えつくせないことが、ここでは欠けではなく、荘厳のしるしとして誓われます。
\[ P_{27} = \forall x :\ \text{逮得天眼}(x) \Rightarrow \neg\,\text{明了辯}\bigl(x,\ \text{名數}(\text{國中萬物})\bigr) \]
原文 「『設我得佛,國中菩薩乃至少功德者,不能知見其道場樹無量光色高四百萬里者,不取正覺。(大正12・268b–268c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の菩薩、乃至、少功徳の者も、その道場樹の無量の光色ありて高さ四百万里なるを知見すること能はずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の菩薩たちが、功徳の少ない者に至るまで、量りしれない光と色をもち、高さ四百万里の道場の樹を知り見ることができないなら、正覚を取りません。
〔読み〕「乃至少功德者」は、功徳の最も少ない者までを全称に含める句で、その者も例外としないことを明示します。四百万里は経の言うままで、換算しません。
\[ P_{28} = \forall x \in \mathcal{B} :\ \text{知見}(x,\ \text{道場樹}), \qquad \text{功德}(x) \text{ が最も少ない } x \text{ を含む} \]
原文 「『設我得佛,國中菩薩若受讀經法,諷誦持說而不得辯才智慧者,不取正覺。(大正12・268c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の菩薩、もし経法を受読し、諷誦持説して、弁才智慧を得ずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の菩薩たちが、経を受けて読み、口にとなえ、たもち説いても、弁才と智慧を得ないなら、正覚を取りません。
〔読み〕
\[ P_{29} = \forall x \in \mathcal{B} :\ \bigl(\text{受讀}(x) \wedge \text{諷誦}(x) \wedge \text{持說}(x)\bigr) \Rightarrow \text{得辯才智慧}(x) \]
原文 「『設我得佛,國中菩薩智慧辯才若可限量者,不取正覺。(大正12・268c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の菩薩の智慧弁才、もし限量すべくは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の菩薩たちの智慧と弁才に、もし量ることのできる限りがあるなら、正覚を取りません。
〔読み〕第二十九願が智慧と弁才の生じることを、この願がその限りのないことを誓います。
\[ P_{30} = \forall x \in \mathcal{B}\ \forall L < \infty :\ \text{智慧辯才}(x) > L \]
原文 「『設我得佛,國土清淨,皆悉照見十方一切無量無數不可思議諸佛世界,猶如明鏡覩其面像;若不爾者,不取正覺。(大正12・268c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国土清浄にして、みなことごとく十方一切の無量無数不可思議の諸仏の世界を照見すること、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もし爾らずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国土は清らかで、十方のあらゆる、量りしれず数えきれない、思いはかることもできない仏たちの世界を、ことごとく照らし映し、明るい鏡に自分の顔を見るようでしょう。もしそうでないなら、正覚を取りません。
〔借・公理|刊行済|第1層 A1 空鏡の公理〕〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕国土そのものが鏡となって、十方の仏の世界を映します。A1 の経典的基礎の欄の「鏡の比喩」と、A10 (v) の「仏性は相互に映し合う(インドラの網)」とに重なります。ただし、経がここで言うのは、この国が十方を映すことまでです。十方の国々が互いに映し合うとまでは言いません。
\[ P_{31} = \forall w \in \text{十方諸佛世界} :\ \text{照見}(\text{我國土},\ w) \]
原文 「『設我得佛,自地已上至于虛空,宮殿、樓觀、池流、華樹——國中所有一切萬物——皆以無量雜寶百千種香而共合成,嚴飾奇妙超諸人天,其香普薰十方世界,菩薩聞者皆修佛行;若不如是者,不取正覺。(大正12・268c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、地より以上、虚空に至るまで、宮殿・楼観・池流・華樹、国中のあらゆる一切の万物、みな無量の雑宝、百千種の香をもつて、ともに合成して、厳飾奇妙にしてもろもろの人天に超えん。その香、あまねく十方世界に薫じて、菩薩聞かん者、みな仏行を修せん。もしかくのごとくならずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、地面から上は虚空に至るまで、宮殿・楼閣・池や流れ・花の樹など、国のなかのあらゆるものは、みな量りしれない種々の宝と百千種の香とでできていて、その飾りはたぐいなく妙なるもので、人や天の世界をはるかに超えるでしょう。その香りはあまねく十方の世界にかおり、それをかいだ菩薩たちは、みな仏の行を修めるでしょう。もしそのようでないなら、正覚を取りません。
〔借・公理|刊行済|第1層 A9 灌頂の公理〕〔読み〕国の万物の香りが、十方の菩薩を仏の行へと向かわせます。A9 の「変わるための場を整える」に重ねれば、国は行を強いるのではなく、行のおこる場として働く、と読めます。
\[ P_{32} = \bigl(\forall m \in \text{國中萬物} :\ m = \text{合成}(\text{雜寶},\ \text{香})\bigr) \;\wedge\; \forall x \in \text{十方の菩薩} :\ \text{聞香}(x) \Rightarrow \text{修佛行}(x) \]
原文 「『設我得佛,十方無量不可思議諸佛世界眾生之類,蒙我光明觸其身者,身心柔軟超過人天;若不爾者,不取正覺。(大正12・268c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触れん者、身心柔軟にして人天に超過せん。もし爾らずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、十方の量りしれない、思いはかることもできない仏たちの世界の衆生で、わたしの光明を受けてその身に触れた者は、身も心も柔らかになって、人や天を超えるでしょう。もしそうでないなら、正覚を取りません。
〔定義〕𝒰 は、十方の量りしれない仏たちの世界の衆生(「十方無量不可思議諸佛世界眾生之類」)です。𝒰_女、𝒰_菩 は、その世界の女性と菩薩です。
〔読み〕第三十三願から第三十六願は、国の外、十方の仏たちの世界にいる衆生に向けた願です。光明(第三十三願)と名(第三十四〜三十六願)が、衆生のいるその場に届きます。願の及ぶ範囲が、国の中から国の外へ広がります。
\[ P_{33} = \forall x \in \mathcal{U} :\ \text{觸光}(x) \Rightarrow \text{身心柔軟}(x) \wedge \text{超過人天}(x), \qquad \mathcal{U} \cap \mathcal{N} = \emptyset \]
原文 「『設我得佛,十方無量不可思議諸佛世界眾生之類,聞我名字不得菩薩無生法忍、諸深總持者,不取正覺。(大正12・268c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍・もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、十方の量りしれない、思いはかることもできない仏たちの世界の衆生が、わたしの名を聞いて、菩薩の無生法忍と、さまざまな深い総持とを得ないなら、正覚を取りません。
〔読み〕
\[ P_{34} = \forall x \in \mathcal{U} :\ \text{聞名}(x) \Rightarrow \text{無生法忍}(x) \wedge \text{深總持}(x) \]
原文 「『設我得佛,十方無量不可思議諸佛世界,其有女人聞我名字,歡喜信樂,發菩提心,厭惡女身,壽終之後復為女像者,不取正覺。(大正12・268c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りてののちに、また女の像とならば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、十方の量りしれない、思いはかることもできない仏たちの世界に女性がいて、わたしの名を聞き、喜び信じて、さとりを求める心をおこし、女性の身であることを厭うなら、その命が終わったのちに、ふたたび女性の姿となるようなら、正覚を取りません。
〔読み〕条件は、すべてその人自身の側にあります(聞名・歓喜信楽・発菩提心・厭悪女身)。願は、その人が自ら厭う身を、その人の望むとおりに離れさせる、という形です。経の文は、その時代の身の受けとめ方を前提にしています。この訳は文をそのまま訳し、その前提の是非は判じません。
\[ P_{35} = \forall x \in \mathcal{U}_{\text{女}} :\ \bigl(\text{聞名} \wedge \text{歡喜信樂} \wedge \text{發菩提心} \wedge \text{厭惡女身}\bigr)(x) \Rightarrow \neg\,\text{復為女像}(x) \]
原文 「『設我得佛,十方無量不可思議諸佛世界,諸菩薩眾聞我名字,壽終之後常修梵行至成佛道;若不爾者,不取正覺。(大正12・268c)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののち、常に梵行を修して仏道を成ずるに至らん。もし爾らずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、十方の量りしれない、思いはかることもできない仏たちの世界の菩薩たちが、わたしの名を聞いたなら、命が終わったのちも常に清らかな行を修めて、仏道を成就するに至るでしょう。もしそうでないなら、正覚を取りません。
〔読み〕
\[ P_{36} = \forall x \in \mathcal{U}_{\text{菩}} :\ \text{聞名}(x) \Rightarrow \text{常修梵行}(x) \wedge \text{至成佛道}(x) \]
記号は上巻 六〜八の定めに従います。
〔定義〕𝒱 は、他方の国土の菩薩たち(「他方國土諸菩薩眾」)です。第二十二願の 𝒯(法蔵の国に来て生まれる菩薩)と違い、𝒱 はその国にいながら名を聞く菩薩です。
原文 「『設我得佛,十方無量不可思議諸佛世界,諸天人民聞我名字,五體投地稽首作禮,歡喜信樂修菩薩行,諸天世人莫不致敬;若不爾者,不取正覺。(大正12・268c–269a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸天・人民、わが名字を聞きて、五体を地に投げて稽首作礼し、歓喜信楽して菩薩の行を修せんに、諸天・世人、敬を致さざること莫けん。もし爾らずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、十方の量りしれない、思いはかることもできない仏たちの世界の天と人々が、わたしの名を聞いて、五体を地に投げて礼拝し、喜び信じて菩薩の行を修めるなら、天も世の人も、その者を敬わない者はありません。もしそうでないなら、正覚を取りません。
〔読み〕「莫不致敬」は「靡不」と同じく全称です(上巻 四)。
\[ P_{37} = \forall x \in \mathcal{U} :\ \bigl(\text{諸天人民} \wedge \text{聞名} \wedge \text{作禮} \wedge \text{歡喜信樂} \wedge \text{修菩薩行}\bigr)(x) \Rightarrow \forall y \in \text{諸天世人} :\ \text{致敬}(y, x) \]
原文 「『設我得佛,國中人天欲得衣服隨念即至,如佛所讚應法妙服自然在身;若有裁縫、擣染、浣濯者,不取正覺。(大正12・269a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天、衣服を得んと欲はば、念に随ひてすなはち至り、仏の讃めたまふところの応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人が衣を得たいと思えば、思うにしたがってただちに届き、仏がほめられるような法にかなった妙なる衣が、おのずから身に着けられるでしょう。もし、裁って縫ったり、打って染めたり、洗ったりすることがあるなら、正覚を取りません。
〔読み〕望むことと得ることのあいだに、労も間もないこと。
\[ P_{38} = \forall x \in \mathcal{N} :\ \text{欲衣}(x) \Rightarrow \text{自然在身}(x), \qquad \neg\,\exists\ \text{裁縫・擣染・浣濯} \]
原文 「『設我得佛,國中人天所受快樂不如漏盡比丘者,不取正覺。(大正12・269a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の人天の受くるところの快楽、漏尽の比丘のごとくならずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の天と人が受ける楽しみが、煩悩を尽くした比丘の楽しみに及ばないなら、正覚を取りません。
〔読み〕楽しみの物差しは、煩悩を尽くした者の楽しみです。国の楽しみは、欲の満ちる楽しみではなく、解脱の楽しみを物差しに量られます。
\[ P_{39} = \forall x \in \mathcal{N} :\ \text{快樂}(x) \;\ge\; \text{快樂}(\text{漏盡比丘}) \]
原文 「『設我得佛,國中菩薩隨意欲見十方無量嚴淨佛土,應時如願,於寶樹中皆悉照見,猶如明鏡覩其面像;若不爾者,不取正覺。(大正12・269a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の菩薩、意に随ひて十方無量の厳浄の仏土を見んと欲はば、時に応じて願のごとく、宝樹のなかにして、みなことごとく照見すること、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もし爾らずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の菩薩たちが、思いのままに十方の量りしれない厳かで清らかな仏の国土を見たいと思えば、その時に願いのとおり、宝の樹のなかに、そのすべてを照らし見ることが、明るい鏡に自分の顔を見るようでしょう。もしそうでないなら、正覚を取りません。
〔借・公理|刊行済|第1層 A1 空鏡の公理〕〔読み〕第三十一願では国土が鏡でした。ここでは宝樹が鏡となり、見るのは菩薩、時は「應時」、すなわち望んだその時です。
\[ P_{40} = \forall x \in \mathcal{B}\ \forall w \in \text{十方嚴淨佛土} :\ \text{欲見}(x, w) \Rightarrow \text{照見}(x,\ w,\ \text{寶樹中})\ \text{應時} \]
原文 「『設我得佛,他方國土諸菩薩眾聞我名字,至于得佛,諸根缺陋不具足者,不取正覺。(大正12・269a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、仏を得るに至るまで、諸根欠陋して具足せずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、他の国土の菩薩たちが、わたしの名を聞いて、仏となるに至るまでのあいだに、身の諸根に欠けや劣るところがあってそなわらないなら、正覚を取りません。
〔読み〕名を聞いた時から成仏の時までの、すべての時にわたる条件です。
\[ P_{41} = \forall x \in \mathcal{V} :\ \text{聞名}(x) \Rightarrow \forall t \in [\,t_{\text{聞}},\ t_{\text{得佛}}\,] :\ \text{諸根具足}(x, t) \]
原文 「『設我得佛,他方國土諸菩薩眾聞我名字,皆悉逮得清淨解脫三昧,住是三昧一發意頃,供養無量不可思議諸佛世尊而不失定意;若不爾者,不取正覺。(大正12・269a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく清浄解脱三昧を逮得せん。この三昧に住して、一たび意を発さん頃に、無量不可思議の諸仏世尊を供養して、定意を失せじ。もし爾らずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、他の国土の菩薩たちが、わたしの名を聞いて、みなことごとく清浄解脱三昧を得、その三昧にとどまって、一たび心をおこすほどのあいだに、量りしれない、思いはかることもできない仏たちを供養しても、定まった心を失うことがないでしょう。もしそうでないなら、正覚を取りません。
〔読み〕供養という動きのあいだも、定は保たれます。動きと静けさが同時に成る、という形です。
\[ P_{42} = \forall x \in \mathcal{V} :\ \text{聞名}(x) \Rightarrow \bigl(\text{供養}(x,\ \text{無量諸佛})\ \text{一發意頃} \;\wedge\; \text{不失定意}(x)\bigr) \]
原文 「『設我得佛,他方國土諸菩薩眾聞我名字,壽終之後生尊貴家;若不爾者,不取正覺。(大正12・269a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののち、尊貴の家に生ぜん。もし爾らずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、他の国土の菩薩たちが、わたしの名を聞いたなら、命が終わったのち、尊く貴い家に生まれるでしょう。もしそうでないなら、正覚を取りません。
〔読み〕
\[ P_{43} = \forall x \in \mathcal{V} :\ \text{聞名}(x) \Rightarrow \text{壽終之後生尊貴家}(x) \]
原文 「『設我得佛,他方國土諸菩薩眾聞我名字,歡喜踊躍,修菩薩行,具足德本;若不爾者,不取正覺。(大正12・269a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、歓喜踊躍して菩薩の行を修し、徳本を具足せん。もし爾らずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、他の国土の菩薩たちが、わたしの名を聞いて、躍り上がるほど喜び、菩薩の行を修めて、功徳の本をそなえるでしょう。もしそうでないなら、正覚を取りません。
〔読み〕
\[ P_{44} = \forall x \in \mathcal{V} :\ \text{聞名}(x) \Rightarrow \text{歡喜踊躍}(x) \wedge \text{修菩薩行}(x) \wedge \text{具足德本}(x) \]
原文 「『設我得佛,他方國土諸菩薩眾聞我名字,皆悉逮得普等三昧,住是三昧至于成佛,常見無量不可思議一切諸佛;若不爾者,不取正覺。(大正12・269a)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく普等三昧を逮得し、この三昧に住して成仏に至るまで、常に無量不可思議の一切の諸仏を見たてまつらん。もし爾らずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、他の国土の菩薩たちが、わたしの名を聞いて、みなことごとく普等三昧を得、その三昧にとどまって、仏となるに至るまで、常に、量りしれず思いはかることもできない、すべての仏たちを拝するでしょう。もしそうでないなら、正覚を取りません。
〔読み〕「常」は、名を聞いてから成仏までの、すべての時にわたる全称です。
\[ P_{45} = \forall x \in \mathcal{V} :\ \text{聞名}(x) \Rightarrow \forall t \in [\,t_{\text{聞}},\ t_{\text{成佛}}\,]\ \forall b \in \text{一切諸佛} :\ \text{見}(x,\ b,\ t) \]
原文 「『設我得佛,國中菩薩隨其志願,所欲聞法自然得聞;若不爾者,不取正覺。(大正12・269a–269b)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、国中の菩薩、その志願に随ひて、聞かんと欲ふところの法、自然に聞くことを得ん。もし爾らずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、わたしの国の菩薩たちは、その志と願いにしたがって、聞きたいと思う法を、おのずから聞くことができるでしょう。もしそうでないなら、正覚を取りません。
〔借・公理|刊行済|第1層 A9 灌頂の公理〕〔読み〕法は、その人の志願に応じて、おのずから届きます(「隨其志願,所欲聞法自然得聞」)。A9 に重ねれば、国が「変わるための場」として働く形と読めます。
\[ P_{46} = \forall x \in \mathcal{B}\ \forall d :\ \text{欲聞}(x, d) \Rightarrow \text{自然得聞}(x, d) \]
原文 「『設我得佛,他方國土諸菩薩眾聞我名字,不即得至不退轉者,不取正覺。(大正12・269b)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち不退転に至ることを得ずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、他の国土の菩薩たちが、わたしの名を聞いて、ただちに不退転の位に至ることができないなら、正覚を取りません。
〔読み〕「即」は、名を聞くことと不退転に至ることのあいだに、時の隔たりがないことを言います。式では同じ t で書きます。
\[ P_{47} = \forall x \in \mathcal{V}\ \forall t :\ \text{聞名}(x, t) \Rightarrow \text{至不退轉}(x, t) \]
原文 「『設我得佛,他方國土諸菩薩眾聞我名字,不即得至第一、第二、第三法忍,於諸佛法不能即得不退轉者,不取正覺。』」(大正12・269b)
書き下し たとひ我、仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち第一・第二・第三の法忍に至ることを得ず、諸仏の法において、すなはち不退転を得ること能はずは、正覚を取らじ。
訳 わたしが仏となるとき、他の国土の菩薩たちが、わたしの名を聞いて、ただちに第一・第二・第三の法忍に至ることができず、仏たちの法において、ただちに不退転を得ることができないなら、正覚を取りません。
〔読み〕
\[ P_{48} = \forall x \in \mathcal{V}\ \forall t :\ \text{聞名}(x, t) \Rightarrow \text{至三法忍}(x, t) \wedge \text{於諸佛法不退轉}(x, t) \]
〔読み〕四十八の条件 Pₙ を、条件が掛かる相手(量化の領域)で分けると、次のとおりです。分け方はこの訳によります(第三十二願は国の万物について言い、その香りを聞く十方の菩薩にも及びます)。
| 領域 | 願 | 数 |
|---|---|---|
| 仏自身(光明・寿命) | 第十二・十三願 | 2 |
| 国土と万物 | 第一・二十七・三十一・三十二願 | 4 |
| 𝒩 国の天と人 | 第二〜十一・十五・十六・二十一・三十八・三十九願 | 15 |
| 国の声聞 | 第十四願 | 1 |
| ℬ 国の菩薩 | 第二十三〜二十六・二十八〜三十・四十・四十六願 | 9 |
| 𝒯 他方から来て生まれる菩薩 | 第二十二願 | 1 |
| 𝔅 十方の諸仏 | 第十七願 | 1 |
| 𝒮 十方の衆生 | 第十八〜二十願 | 3 |
| 𝒰 十方の諸仏世界の衆生 | 第三十三〜三十七願 | 5 |
| 𝒱 他方の国土の菩薩 | 第四十一〜四十五・四十七・四十八願 | 7 |
\[ \text{正覚} \;\Longrightarrow\; \bigwedge_{n=1}^{48} P_n, \qquad 2 + 4 + 15 + 1 + 9 + 1 + 1 + 3 + 5 + 7 = 48 \]
〔読み〕正覚の条件は、国の内(𝒩・ℬ・𝒯・声聞・国土)にも、国の外(𝒮・𝒰・𝒱・𝔅)にも、仏自身にも掛かります。国の外にいる衆生への条件を欠いても、正覚は成りません。誓いが自分の国の中で閉じていないことが、式の上でも見えます。
四十八願を説き終えた法蔵は、重ねて誓いの偈を説き、天地がそれに応えます。偈は五字を一句とする四十四句で、四句ずつ十一の偈に分けて示します。
原文 佛告阿難:「爾時,法藏比丘說此願已,而說頌曰:(大正12・269b)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「その時、法蔵比丘、この願を説きをはりて、頌を説きていはく、
訳 仏は阿難に告げられました。「その時、法蔵比丘は、これらの願を説き終えて、偈を説いて言った。
| 偈 | 原文 | 書き下し | 訳 |
|---|---|---|---|
| 一 | 「『我建超世願, 必至無上道, 斯願不滿足, 誓不成正覺。 | われ超世の願を建つ。かならず無上道に至らん。この願満足せずは、誓ひて正覚を成らじ。 | わたしは世を超えた願いを建てました。必ずこの上ない道に至りましょう。この願いが満たされないなら、誓って正覚を成就しません。 |
| 二 | 我於無量劫, 不為大施主, 普濟諸貧苦, 誓不成正覺。 | われ無量劫において、大施主となりて、あまねくもろもろの貧苦を済はずは、誓ひて正覚を成らじ。 | わたしが量りしれない劫のあいだ、大いなる施し主となって、貧しさに苦しむ者たちをあまねく救うのでないなら、誓って正覚を成就しません。 |
| 三 | 我至成佛道, 名聲超十方, 究竟靡所聞, 誓不成正覺。 | われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。 | わたしが仏道を成就したときには、その名は十方に超えて響くでしょう。もしついに聞こえないところがあるなら、誓って正覚を成就しません。 |
| 四 | 離欲深正念, 淨慧修梵行, 志求無上道, 為諸天人師。 | 欲を離れて深く正念にして、浄慧もつて梵行を修し、無上道を志求して、もろもろの天人の師とならん。 | 欲を離れ、深く正しい念にとどまり、清らかな智慧をもって清らかな行を修め、この上ない道を志し求めて、天と人々の師となりましょう。 |
| 五 | 神力演大光, 普照無際土, 消除三垢冥, 廣濟眾厄難。 | 神力、大光を演べて、あまねく無際の土を照らし、三垢の冥を消除して、広くもろもろの厄難を済はん。 | 神通の力で大いなる光を放ち、果てしない国土をあまねく照らして、三つの垢(貪・瞋・痴)の闇を除き、さまざまな災いと苦難から広く救いましょう。 |
| 六 | 開彼智慧眼, 滅此昏盲闇, 閉塞諸惡道, 通達善趣門。 | かの智慧の眼を開きて、この昏盲の闇を滅し、もろもろの悪道を閉塞して、善趣の門に通達せしめん。 | 人々の智慧の眼を開いて、その暗く盲いた闇を滅ぼし、悪しき道をすべてふさいで、善き境涯への門を通じさせましょう。 |
| 七 | 功祚成滿足, 威曜朗十方, 日月戢重暉, 天光隱不現。 | 功祚、満足を成じて、威曜、十方に朗らかならん。日月も重暉を戢め、天の光も隠れて現ぜじ。 | 功徳と福が満ち足りて、その威光は十方に明らかに輝き、日も月も重なる輝きをおさめ、天の光も隠れて現れないでしょう。 |
| 八 | 為眾開法藏, 廣施功德寶, 常於大眾中, 說法師子吼。 | 衆のために法蔵を開きて、広く功徳の宝を施し、常に大衆のなかにして、法を説きて師子吼せん。 | 人々のために法の蔵を開いて、功徳の宝を広く施し、常に大衆のなかで、獅子が吼えるように法を説きましょう。 |
| 九 | 供養一切佛, 具足眾德本, 願慧悉成滿, 得為三界雄。 | 一切の仏を供養して、もろもろの徳本を具足し、願と慧とことごとく成満して、三界の雄となることを得ん。 | すべての仏を供養して、多くの功徳の本をそなえ、願いと智慧とがことごとく満ちて、三界の雄者となりましょう。 |
| 十 | 如佛無礙智, 通達靡不照, 願我功慧力, 等此最勝尊。 | 仏の無礙智の、通達して照らさざることなきがごとく、願はくはわが功慧の力、この最勝尊に等しからん。 | 仏の妨げのない智慧が、あらゆるところに通じて照らさないところがないように、願わくは、わたしの功徳と智慧の力が、この最も勝れた尊者に等しくなりますように。 |
| 十一 | 斯願若剋果, 大千應感動, 虛空諸天人, 當雨珍妙華。』」(大正12・269b–269c) | この願もし剋果せば、大千まさに感動すべし。虚空のもろもろの天人、まさに珍妙の華を雨らすべし。 | この願いが果たされるのなら、三千大千世界は感じて震い動き、虚空の天人たちは、珍しく妙なる花を降らすでしょう。 |
原文 佛語阿難:「法藏比丘說此頌已,應時普地六種震動,天雨妙華以散其上,自然音樂空中讚言:『決定必成無上正覺。』於是法藏比丘具足修滿如是大願,誠諦不虛,超出世間深樂寂滅。(大正12・269c)
書き下し 仏、阿難に語りたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはるに、時に応じてあまねく地、六種に震動し、天より妙華を雨らして、もつてその上に散ず。自然の音楽、空中に讃じていはく、『決定してかならず無上正覚を成ぜん』と。ここに法蔵比丘、かくのごときの大願を具足し修満して、誠諦にして虚しからず、世間に超出して深く寂滅を楽ふ。
訳 仏は阿難に語られました。「法蔵比丘がこの偈を説き終えると、たちまち大地はあまねく六種に震動し、天から妙なる花が降って、その上に散りかかった。おのずから奏でられる音楽が、空中で讃えて言った。『必ず、無上の正覚を成就するであろう』と。こうして法蔵比丘は、このような大いなる願いをそなえ修め満たした。それは真実で、むなしくはなかった。法蔵比丘は世間を超え出て、深く寂滅を願った。
〔読み〕第一から第三の偈は、願と同じ形(誓不成正覺)で、正覚を三つの条件に懸け直します。第一の条件は「斯願」の満足、すなわち四十八願のすべてです。伝統がこの偈を重誓偈(三誓偈)と呼ぶとおり、誓いが重ねられます。第三の条件は、第十七願と同じく名に関わり、名が十方のどこにも届くことを求めます。
\[ \begin{aligned} &\text{正覚} \;\Rightarrow\; Q_1 \wedge Q_2 \wedge Q_3 \\ &Q_1 = \bigwedge_{n=1}^{48} P_n, \qquad Q_2 = \text{大施主} \wedge \forall x \in \text{貧苦} :\ \text{濟}(x), \qquad Q_3 = \forall p \in \text{十方} :\ \text{聞}(\text{名聲},\ p) \end{aligned} \]
〔異本〕第一から第三の偈の「誓不成正覺」を、大正蔵の本文は三つとも「誓不成等覺」に作ります。流布本は、願文の「不取正覺」と同じ「正覺」で、三つの誓いを願と同じ語にそろえます。ほかに、「廣濟」を「明濟」、「無礙智」を「無量智」、「靡不照」を「靡不遍」、「功慧力」を「功德力」に作ります。また第三偈の「究竟靡所聞」を、大正蔵の本文は「究竟靡不聞」に作ります(脚注「不=所【宋】【元】,流布本亦同」)。CBETA は、宮本と房山石経などによって、本文を「所」に改めています。「不」に作れば、この句は満たすべき姿(ついに聞こえない所はない)を言い、「所」に作れば、満たされない場合(ついに聞こえる所がない)を言います。誓いの条件 Q₃(名が十方のどこにも届くこと)は、どちらに読んでも同じです。
〔借・札なし|刊行済|第0層 レジスタ分離〕〔読み〕第十一の偈は、「願が果を結ぶなら、天地が応える」という形で、しるしを求めます。経は、そのしるしが現れたことと、空中の声が「決定必成無上正覺」と讃えたこととを語ります。論理の上では、p → q と q とから p は出てきません。経は、確かさを推論としてではなく、天の声という証言として語っています。これは経典・ミュトス層の語りで、式はその組み立てを写すだけです。
\[ \begin{aligned} &\text{求め}:\ \text{剋果} \Rightarrow (\text{大千感動} \wedge \text{雨珍妙華}) \\ &\text{経の語ること}:\ \text{大千感動} \wedge \text{雨珍妙華} \wedge \text{空中讚言}(\text{決定必成無上正覺}) \\ &\text{注}:\ (p \Rightarrow q) \wedge q \;\nvdash\; p \end{aligned} \]
誓いを建てた法蔵が、思いはかることのできない長い時をかけて行を修めるさまが説かれます。
原文 「阿難!時彼比丘於其佛所諸天、魔、梵、龍神八部大眾之中發斯弘誓,建此願已,一向專志莊嚴妙土。所修佛國恢廓廣大,超勝獨妙,建立常然,無衰、無變。(大正12・269c)
書き下し 「阿難、時にかの比丘、その仏の所の諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発し、この願を建てをはりて、一向に志を専らにして妙土を荘厳す。修するところの仏国は、恢廓広大にして超勝独妙なり。建立常然にして、衰なく変なし。
訳 「阿難よ、その時かの比丘は、師の仏のもとで、天の神々・魔・梵天・竜神など八部の大衆のなかで、この弘い誓いをおこし、この願いを建て終えると、ひたすら志を専らにして、妙なる国土を荘厳した。修めた仏の国は、広々として大きく、他に超えすぐれて比べるものがなく、その成り立ちは常にそのままで、衰えることも変わることもない。
原文 於不可思議兆載永劫積植菩薩無量德行,不生欲覺、瞋覺、害覺,不起欲想、瞋想、害想,不著色、聲、香、味、觸法。忍力成就,不計眾苦。少欲知足,無染恚癡,三昧常寂,智慧無礙。(大正12・269c)
書き下し 不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず、欲想・瞋想・害想を起こさず、色・声・香・味・触・法に著せず。忍力成就して、衆苦を計らず。少欲知足にして、染・恚・痴なく、三昧常に寂にして、智慧無礙なり。
訳 思いはかることもできない兆載永劫という長い時をかけて、菩薩の量りしれない徳行を積み植えた。貪りの思い・怒りの思い・害する思いを生じず、貪りの想い・怒りの想い・害する想いを起こさず、色・声・香・味・触・法にとらわれなかった。忍耐の力を成就して、さまざまな苦しみを苦にせず、欲が少なく足ることを知り、貪り・怒り・愚かさに染まることがなく、三昧は常に静かで、智慧は何ものにも妨げられなかった。
原文 無有虛偽諂曲之心,和顏愛語先意承問,勇猛精進志願無倦,專求清白之法。以惠利群生,恭敬三寶,奉事師長;以大莊嚴具足眾行,令諸眾生功德成就。住空、無相、無願之法,無作、無起,觀法如化。遠離麁言、自害、害彼、彼此俱害,修習善語,自利、利人、彼我兼利。棄國、捐王,絕去財色。自行六波羅蜜,教人令行。(大正12・269c)
書き下し 虚偽諂曲の心あることなく、和顔愛語にして、意に先だちて承問す。勇猛精進にして志願倦むことなく、もつぱら清白の法を求む。もつて群生を恵利し、三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳成就せしむ。空・無相・無願の法に住して、作なく起なく、法を観ずること化のごとし。麁言の自害・害彼・彼此倶害を遠離して、善語の自利・利人・彼我兼利を修習す。国を棄て王を捐てて、財色を絶ち去り、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。
訳 偽りやへつらいの心はなく、やわらいだ顔と慈しみの言葉で、相手の思いに先んじてその望むところを汲み取った。勇ましく精進して、志と願いに倦むことなく、ひたすら清らかな法を求めた。それによって衆生に恵みと利益を与え、三宝を敬い、師や長上に仕えた。大いなる荘厳によってさまざまな行をそなえ、衆生に功徳を成就させた。空・無相・無願の法にとどまって、作為もなく起こすこともなく、あらゆるものを幻のように観じた。自分を害し、他を害し、自他ともに害する荒い言葉を遠く離れ、自分を利し、他を利し、自他ともに利する善い言葉を修めた。国を棄て、王位を捨て、財と色欲を断ち去って、みずから六波羅蜜を行じ、人にも教えて行わせた。
原文 「無央數劫積功累德,隨其生處在意所欲,無量寶藏自然發應,教化安立無數眾生。住於無上正真之道,或為長者、居士、豪姓、尊貴,或為剎利國君、轉輪聖帝,或為六欲天主乃至梵王。常以四事供養恭敬一切諸佛,如是功德不可稱說。(大正12・269c)
書き下し 「無央数劫に功を積み徳を累ぬ。その生処に随ひて意の所欲にあり。無量の宝蔵、自然に発応して、無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ。あるいは長者・居士・豪姓・尊貴となり、あるいは刹利国君・転輪聖帝となり、あるいは六欲天主、乃至、梵王となる。常に四事をもつて一切の諸仏を供養し恭敬す。かくのごときの功徳、称説すべからず。
訳 「数えきれない劫のあいだ功を積み徳を重ね、どこに生まれても思いのままであった。量りしれない宝の蔵がおのずから応じて現れ、数えきれない衆生を教え導き、安らかに立たせて、この上ない正しくまことの道にとどまらせた。あるときは長者・居士・豪族・高貴な者となり、あるときは王族の国王・転輪聖王となり、あるときは六欲天の主、さらには梵天王となった。常に四つの供え物で、すべての仏を供養し敬った。このような功徳は、説き尽くすことができない。
〔諸釈〕「教化安立無數眾生。住於無上正真之道」の切り方です。CBETA の句読は「眾生」で句を切り、「住於無上正真之道」を後の「或為長者……」に続けるので、道に住するのは法蔵だ、と読める形になります。慧遠は「教化安立住於正道」を一つの句として引き、「以財攝他,令歸正法」、財によって他を摂め、正しい法に帰させる、と読み、次の段を「或為長者居士」から始めます(『無量寿経義疏』、大正37・105a)。経の後の所にも「安立無量眾生於佛正道」という同じ形があります(大正12・272b)。この訳の書き下しと訳は、慧遠の読みに従い、道に住するのを衆生として読みました。いずれも CBETA の本文で確かめました。
\[ \text{CBETA の句読} :\ \text{住}(\text{法藏},\ \text{無上正真之道}), \qquad \text{慧遠・この訳} :\ \text{令}\bigl(\text{法藏},\ \text{住}(\text{眾生},\ \text{無上正真之道})\bigr) \]
原文 口氣香潔如優盋羅華,身諸毛孔出栴檀香,其香普熏無量世界;容色端正,相好殊妙,其手常出無盡之寶,衣服、飲食珍妙華香,繪蓋幢幡莊嚴之具。如是等事超諸天人,於一切法而得自在。」(大正12・269c–270a)
書き下し 口気は香潔にして優鉢羅華のごとく、身のもろもろの毛孔より栴檀香を出す。その香、あまねく無量の世界に薫ず。容色端正にして、相好殊妙なり。その手より常に無尽の宝、衣服・飲食・珍妙の華香、絵蓋・幢幡・荘厳の具を出す。かくのごときらの事、もろもろの天人に超え、一切の法において自在を得たり」と。
訳 口の息は清らかに香り、優鉢羅華(青蓮華)のようで、身体の毛穴からは栴檀の香りが出て、その香りはあまねく量りしれない世界にかおった。顔かたちは端正で、相好はことにすぐれていた。その手からは常に、尽きることのない宝、衣服や飲食、珍しく妙なる花や香、絵の天蓋・幢幡などの飾りが出た。このようなことは、天や人をはるかに超え、あらゆる法において自在を得ていた。」
〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕法蔵の歩みを時の順に並べます。五劫の思惟(上巻 五)ののちに誓いが建ち、そののちに兆載永劫の修行が続きます。経はこの長さを「不可思議」とし、功徳を「不可稱說」とします。式も、そこに数を入れません。
\[ \text{五劫の思惟} \;\to\; \text{發斯弘誓} \;\to\; \text{兆載永劫の積植德行} \;\to\; \text{成佛(上巻 十二)}, \qquad |\text{兆載永劫}| = \text{不可思議} \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A2 慈悲の縁起的集合論〕〔読み〕言葉の善し悪しを、自と彼の二項で量っています。遠離する言葉は「自害・害彼・彼此倶害」、修める言葉は「自利・利人・彼我兼利」です。自と彼のそれぞれについて、害さないことを 1、害することを 0 として掛け合わせると、どちらか一人でも害する言葉では、積は零になります。A2 の「誰か一人の安寧が零になると積全体が零になる」の組み立てを、二人に当てた形です(安寧の量 W そのものは使いません)。経が修めるとする「彼我兼利」は、害さないだけでなく、ともに利する言葉です。積の形が写すのは、その手前の、だれも害さない、までです。
\[ \mathbf{1}[\neg\,\text{害}(\text{自})] \cdot \mathbf{1}[\neg\,\text{害}(\text{彼})] = 0 \iff \text{自害} \vee \text{害彼}\ \ (\text{彼此俱害を含む}), \qquad \text{修習} :\ \text{自利} \wedge \text{利人}\ \ (\text{彼我兼利}) \]
阿難の問いに答えて、仏は、法蔵がすでに仏と成っていること、その国土、光明、寿命、聖衆の数を説きます。
原文 阿難白佛:「法藏菩薩為已成佛而取滅度、為未成佛?為今現在?」(大正12・270a)
書き下し 阿難、仏にまうさく、「法蔵菩薩は、すでに成仏して滅度を取りたまへりとやせん、いまだ成仏したまはずとやせん、今現にましますとやせん」と。
訳 阿難は仏にお尋ねしました。「法蔵菩薩は、すでに仏となって滅度に入られたのでしょうか。まだ仏となっておられないのでしょうか。それとも、いま現においでになるのでしょうか。」
原文 佛告阿難:「法藏菩薩今已成佛,現在西方,去此十萬億剎,其佛世界名曰安樂。」(大正12・270a)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩は、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億の刹なり。その仏の世界を名づけて安楽といふ」と。
訳 仏は阿難に告げられました。「法蔵菩薩は、いますでに仏となり、現に西方においでになる。ここから十万億の国土を過ぎたところで、その仏の世界を安楽という。」
原文 阿難又問:「其佛成道已來為經幾時?」(大正12・270a)
書き下し 阿難、また問ひたてまつる、「その仏、成道よりこのかた、いくばくの時を経たまへりや」と。
訳 阿難はまたお尋ねしました。「その仏が道を成就されてから、どれほどの時がたったのでしょうか。」
原文 佛言:「成佛已來凡歷十劫。其佛國土自然七寶——金、銀、琉璃、珊瑚、琥珀、車磲、碼碯——合成為地,恢廓曠蕩不可限極。悉相雜廁,轉相入間,光赫焜耀,微妙奇麗,清淨莊嚴超踰十方一切世界眾寶中精,其寶猶如第六天寶。又其國土無須彌山及金剛鐵圍一切諸山,亦無大海、小海、溪渠、井谷。佛神力故,欲見則現。亦無地獄、餓鬼、畜生諸難之趣。亦無四時——春、秋、冬、夏——不寒、不熱,常和調適。」(大正12・270a)
書き下し 仏のたまはく、「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり。その仏の国土は、自然の七宝、金・銀・琉璃・珊瑚・琥珀・車磲・碼碯、合成して地とせり。恢廓曠蕩として限極すべからず。ことごとくあひ雑厠し、うたたあひ入間して、光赫焜耀し、微妙奇麗なり。清浄荘厳にして十方一切の世界に超踰し、衆宝のなかの精なり。その宝は、なほ第六天の宝のごとし。またその国土には、須弥山および金剛鉄囲、一切の諸山なし。また大海・小海・渓渠・井谷なし。仏の神力のゆゑに、見んと欲へばすなはち現ず。また地獄・餓鬼・畜生、諸難の趣なし。また四時の春・秋・冬・夏なし。寒からず熱からず、常に和らかにして調適なり」と。
訳 仏は言われました。「仏となられてから、およそ十劫がたっている。その仏の国土は、おのずからなる七つの宝、すなわち金・銀・琉璃・珊瑚・琥珀・硨磲・瑪瑙が合わさって大地となっており、広々として果てしなく、限りを定めることができない。それらの宝はことごとく混じり合い、互いに入り組み合って、光り輝き、微妙で美しく、清らかに荘厳されて、十方のあらゆる世界を超えている。もろもろの宝のなかの精髄であり、その宝は第六天の宝のようである。またその国土には、須弥山も、金剛の鉄囲山も、そのほかの山々もない。大海も小海も、谷川も溝も、井戸も谷もない。ただ仏の神力によって、見たいと思えば現れる。また、地獄・餓鬼・畜生という苦難の境涯もない。また春・秋・冬・夏の四季もなく、寒くも暑くもなく、常にやわらいでほどよい。」
原文 爾時,阿難白佛言:「世尊!若彼國土無須彌山,其四天王及忉利天依何而住?」(大正12・270a)
書き下し その時、阿難、仏にまうしてまうさく、「世尊、もしかの国土に須弥山なくは、その四天王および忉利天は、なにに依りてか住する」と。
訳 その時、阿難は仏に申し上げました。「世尊よ、もしその国土に須弥山がないのなら、四天王や忉利天は、何に依ってとどまっているのでしょうか。」
原文 佛語阿難:「第三炎天乃至色究竟天皆依何住?」(大正12・270a)
書き下し 仏、阿難に語りたまはく、「第三の炎天、乃至、色究竟天は、みななにに依りてか住する」と。
訳 仏は阿難に言われました。「第三の炎天から色究竟天に至るまでの天は、みな何に依ってとどまっているのか。」
原文 阿難白佛:「行業果報不可思議。」(大正12・270a)
書き下し 阿難、仏にまうさく、「行業の果報、不可思議なり」と。
訳 阿難は仏に申し上げました。「行いの業の果報は、思いはかることができません。」
原文 佛語阿難:「行業果報不可思議,諸佛世界亦不可思議。其諸眾生功德善力住行業之地,故能爾耳。」(大正12・270a)
書き下し 仏、阿難に語りたまはく、「行業の果報不可思議なり。諸仏の世界もまた不可思議なり。そのもろもろの衆生、功徳善力をもつて行業の地に住す。ゆゑによく爾るのみ」と。
訳 仏は阿難に言われました。「行いの業の果報は思いはかることができない。仏たちの世界もまた、思いはかることができない。そこの衆生は、功徳と善の力によって、行いの業がもたらす地にとどまっている。だから、そのようにとどまることができるのである。」
原文 阿難白佛:「我不疑此法,但為將來眾生欲除其疑惑,故問斯義。」(大正12・270a)
書き下し 阿難、仏にまうさく、「我この法を疑はず。ただ将来の衆生のために、その疑惑を除かんと欲ふがゆゑに、この義を問ひたてまつる」と。
訳 阿難は仏に申し上げました。「わたしはこの法を疑ってはいません。ただ、これから先の衆生のために、その疑いを除こうと思って、このことをお尋ねしたのです。」
〔読み〕上巻 六で、四十八願を「正覚 ⇒ ⋀Pₙ」と読みました。ここで経は、法蔵が「今已成佛」であり、成仏から十劫を経たと語ります。前件が成り立つので、経の語る世界の内では、四十八の条件がすべて成り立っている、と読めます(前件肯定式)。経の語りの内での推論であって、経の語る事柄の証拠ではありません(序の約束の二)。
\[ \Bigl(\text{正覚} \Rightarrow \bigwedge_{n=1}^{48} P_n\Bigr) \;\wedge\; \text{正覚} \;\vdash\; \bigwedge_{n=1}^{48} P_n, \qquad \text{成佛已來} \approx \text{十劫}\ \ (\text{凡歷十劫}) \]
〔諸釈〕善導は『往生礼讃』で、第十八願を引いたのち、「彼佛今現在世成佛,當知本誓重願不虛,眾生稱念必得往生」と述べます(CBETA で確かめました。大正47・447c)。今現に仏と成っていることから、本願が虚しくないことを導くのは、上の式と同じ形です。
〔読み〕国土の語りは、願の成就をそのままに語る所を含みます。「亦無地獄、餓鬼、畜生諸難之趣」は第一願の P₁ そのものです。また、山や海は「無い」のに「欲見則現」です。上巻 一で見たとおり、現(p) から p は出てこないので、二つは食い違いません。
\[ \text{國土} \cap \{\text{地獄},\ \text{餓鬼},\ \text{畜生}\} = \emptyset\ \ (= P_1), \qquad \forall p \in \{\text{須彌山},\ \text{大海}, \dots\} :\ \neg\,\text{有}(p) \wedge \bigl(\text{欲見}(p) \Rightarrow \text{現}(p)\bigr) \]
〔異本〕「欲見則現」の「現」は流布本の字で、大正蔵の本文は「見」に作ります(「欲見則見」。脚注「見流布本作現」)。大正蔵の本文に従えば、「見たいと思えば見える」となり、式の 現(p) は 見(x, p) になります。どちらでも、山や海が「無い」ことと、見えること、現れることとは食い違いません。
〔読み〕阿難の問いは、「天が住むには須弥山に依らねばならない」を前提にしています。仏は、須弥山に依らずに住む天(第三の炎天から色究竟天)を挙げて、その前提が全称としては成り立たないことを示します。反例による答えです。
\[ \exists\, h \in \{\text{炎天}, \dots, \text{色究竟天}\} :\ \text{住}(h) \wedge \neg\,\text{依}(h,\ \text{須彌山}) \;\vdash\; \neg\,\forall h\, \bigl(\text{住}(h) \Rightarrow \text{依}(h,\ \text{須彌山})\bigr) \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A1 空鏡の公理〕〔読み〕阿難は、自らは疑わないと言い、問いは将来の衆生の疑いを除くためだと言います。発起序の「愍念眾生問斯慧義」と同じく、A1 の「問い(c:慈悲成分)」の形です。ここでは問いの向き先が、まだいない衆生に向いています。
\[ c_{\text{阿難}} :\ \text{向き先} = \text{將來眾生}, \qquad \text{目的} = \text{除其疑惑}, \qquad \neg\,\text{疑}(\text{阿難}) \]
原文 佛告阿難:「無量壽佛威神光明最尊第一,諸佛光明所不能及。或有佛光照百佛世界、或千佛世界,取要言之,乃照東方恒沙佛剎,南、西、北方四維,上、下亦復如是。或有佛光照于七尺,或照一由旬,二、三、四、五由旬,如是轉倍乃至照於一佛剎土。(大正12・270a)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神光明は最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶこと能はざるところなり。あるいは仏光の百仏世界を照らし、あるいは千仏世界を照らすあり。要を取りてこれを言はば、すなはち東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下も、またまたかくのごとし。あるいは仏光の七尺を照らし、あるいは一由旬、二・三・四・五由旬を照らすあり。かくのごとく転倍して、乃至、一仏刹土を照らす。
訳 仏は阿難に告げられました。「無量寿仏の威神の光明は最も尊く第一であって、仏たちの光明も及ぶことができない。ある仏の光は百の仏の世界を、あるいは千の仏の世界を照らす。要点をとって言えば、東方のガンジス河の砂の数ほどの仏の国々を照らし、南・西・北、四維、上下もまた同じである。また、ある仏の光は七尺を照らし、あるいは一由旬、二・三・四・五由旬を照らし、このように次第に増して、ついに一つの仏の国土を照らす。
原文 是故,無量壽佛號無量光佛、無邊光佛、無礙光佛、無對光佛、炎王光佛、清淨光佛、歡喜光佛、智慧光佛、不斷光佛、難思光佛、無稱光佛、超日月光佛。(大正12・270a–270b)
書き下し このゆゑに、無量寿仏を無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号したてまつる。
訳 それゆえ、無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と申し上げる。
原文 「其有眾生遇斯光者,三垢消滅,身意柔軟,歡喜踊躍,善心生焉。若在三塗勤苦之處,見此光明,皆得休息,無復苦惱;壽終之後皆蒙解脫。(大正12・270b)
書き下し 「それ衆生ありて、この光に遇ふ者は、三垢消滅し、身意柔軟にして、歓喜踊躍し、善心生ず。もし三塗勤苦の処にありて、この光明を見たてまつらば、みな休息を得て、また苦悩なけん。寿終りてののち、みな解脱を蒙る。
訳 「この光に遇う衆生は、三つの垢が消え、身も心も柔らかになり、躍り上がるほど喜び、善い心が生まれる。もし三塗の苦しみの場所にいても、この光明を見るなら、みな休息を得て、もはや苦しみ悩むことはなく、命が終わったのち、みな解脱を得る。
原文 「無量壽佛光明顯赫照耀十方諸佛國土,莫不聞焉。不但我今稱其光明,一切諸佛、聲聞、緣覺、諸菩薩眾咸共歎譽,亦復如是。若有眾生聞其光明威神功德,日夜稱說至心不斷,隨意所願得生其國,為諸菩薩、聲聞大眾所共歎譽稱其功德;至其然後得佛道時,普為十方諸佛菩薩歎其光明亦如今也。」(大正12・270b)
書き下し 「無量寿仏の光明は、顕赫として十方諸仏の国土を照耀し、聞えざることなし。ただわれいまその光明を称するのみにあらず、一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに歎誉したまふこと、またまたかくのごとし。もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至心不断ならば、意の所願に随ひてその国に生ずることを得て、もろもろの菩薩・声聞大衆のために、ともにその功徳を歎誉し称せられん。それしかうしてのち、仏道を得ん時に至りて、あまねく十方の諸仏・菩薩のために、その光明を歎ぜられんこと、また今のごとくならん」と。
訳 「無量寿仏の光明は明るく輝いて、十方の仏たちの国土を照らし、その評判の聞こえないところはない。わたしがいまその光明をほめたたえているだけではなく、すべての仏・声聞・縁覚・菩薩たちも、みなともに同じようにほめたたえている。もし衆生が、その光明の威神の功徳を聞いて、昼も夜もそれをほめたたえて説き、まことの心で絶えることがなければ、願いのとおりにその国に生まれることができ、菩薩や声聞の大衆に、ともにその功徳をほめたたえられるであろう。そしてのちに仏道を成就するときには、十方の仏や菩薩たちに、その光明をほめたたえられること、ちょうどいまのようであろう。」
原文 佛言:「我說無量壽佛光明威神巍巍殊妙,晝夜一劫尚未能盡。」(大正12・270b)
書き下し 仏のたまはく、「わが無量寿仏の光明威神の巍巍殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ尽くすこと能はじ」と。
訳 仏は言われました。「わたしが無量寿仏の光明と威神の気高くすぐれた妙なるさまを説こうとすれば、昼夜一劫のあいだ説き続けても、なお説き尽くすことはできない。」
〔読み〕光明の段は、第十二願の成就を語ります。他の仏の光は、七尺から一仏土など、範囲を挙げて言われますが、無量寿仏の光には、どの仏の光も及びません。ただし経はここで、照らす仏国が N₀ 以上であることまでは言わないので、式は P₁₂ をこの段から導かず、成就を語る、とだけ書きます。
\[ \forall b \neq \text{無量壽佛} :\ \text{光}(b) < \text{光}(\text{無量壽佛}), \qquad \text{光明の段} :\ P_{12}\ \text{の成就を語る} \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕十二の光の名のうち、八つを式に写します。炎王・清浄・歓喜・智慧の四つは光の質を言う名なので、式にしません。難思と無称は、思うことも称えることも光を尽くせないという名で、A0 の「いかなる記号体系 L も、u′(虚空の余剰)を汲み尽くせない」の形です。上の「晝夜一劫尚未能盡」も同じです。
\[ \begin{aligned} &\text{無量光}:\ \forall L < \infty :\ \text{光} > L & &\text{無邊光}:\ \neg\,\exists\ \text{邊} \\ &\text{無礙光}:\ \forall o :\ \neg\,\text{礙}(o) & &\text{無對光}:\ \neg\,\exists\, b \neq \text{無量壽佛} :\ \text{光}(b) \ge \text{光} \\ &\text{不斷光}:\ \forall t :\ \text{照}(t) & &\text{超日月光}:\ \text{光} > \text{光}(\text{日}),\ \text{光}(\text{月}) \\ &\text{難思光}:\ \text{思い尽くせない} & &\text{無稱光}:\ \text{称え尽くせない} \end{aligned} \]
〔借・定義|出所札なし(第二著作)|第4層 Φ_C 慈悲の場〕〔借・公理|刊行済|第1層 A2 慈悲の縁起的集合論〕〔読み〕光は、遇う衆生のすべてに及び、なかでも最も苦しい三塗の場所にまで届きます。A2 の派生の欄の「下降的 Φ_C(最弱の項への優先的介入)」に重ねて読めます。ただし経は、光が三塗にまで届くと言うだけで、「優先」とは言いません。光を Φ_C(慈悲の場)の現れと重ねるのも、この訳の読みです。
\[ \forall x :\ \text{在}(x,\ \text{三塗勤苦之處}) \wedge \text{見光}(x) \Rightarrow \text{休息}(x) \wedge \neg\,\text{苦惱}(x) \wedge \text{壽終之後解脫}(x) \]
〔借・定義寄り|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕光明の功徳を聞いて称える者は、生まれて称えられる者となり、ついに仏となって、その光明を十方に称えられます。「亦如今也」、すなわちいまの無量寿仏と同じように。聞いた功徳(像)を称説して護り持つことが、次の縁起を拓く、G-1 の形が、ここでは一巡りして始めに戻ります。
\[ \text{聞光明功德} \to \text{日夜稱說} \to \text{生其國} \to \text{歎譽される} \to \text{得佛道} \to \text{十方に光明を歎ぜられる}\ (\text{亦如今也}) \]
原文 佛語阿難:「又無量壽佛壽命長久不可稱計,汝寧知乎?假使十方世界無量眾生皆得人身,悉令成就聲聞、緣覺,都共集會禪思一心,竭其智力於百千萬劫悉共推算,計其壽命長遠之數,不能窮盡知其限極。聲聞、菩薩、天、人之眾,壽命長短亦復如是,非算數譬喻所能知也。又聲聞、菩薩其數難量不可稱說,神智洞達威力自在,能於掌中持一切世界。」(大正12・270b)
書き下し 仏、阿難に語りたまはく、「また無量寿仏の寿命は、長久にして称計すべからず。汝むしろ知るや。たとひ十方世界の無量の衆生、みな人身を得て、ことごとく声聞・縁覚を成就せしめ、すべてともに集会して、禅思一心にその智力を竭して、百千万劫においてことごとくともに推算して、その寿命の長遠の数を計へんに、窮尽してその限極を知ること能はじ。声聞・菩薩・天・人の衆の寿命の長短も、またまたかくのごとし。算数・譬喻のよく知るところにあらず。また声聞・菩薩、その数量りがたく、称説すべからず。神智洞達して威力自在なり。よく掌のなかに一切の世界を持つ」と。
訳 仏は阿難に言われました。「また、無量寿仏の寿命は長く久しく、数えることができない。あなたはそれを知っているか。たとえ十方の世界の量りしれない衆生がみな人の身を得て、ことごとく声聞や縁覚となり、すべてが一所に集まって、静かに思いを一つにし、その智慧の力を尽くして、百千万劫のあいだともに計算し、その寿命の長さの数を数えたとしても、その限りをきわめ尽くして知ることはできない。その国の声聞・菩薩・天・人たちの寿命の長さもまた同じで、計算や譬えで知ることのできるものではない。また声聞や菩薩の数は量りがたく、説き尽くすことができない。その神通の智慧は明らかに通じ、威力は自在で、手のひらの中に一切の世界をのせることができる。」
原文 佛語阿難:「彼佛初會,聲聞眾數不可稱計,菩薩亦然。如今大目犍連百千萬億無量無數,於阿僧祇那由他劫乃至滅度悉共計挍,不能究了多少之數。譬如大海深廣無量,假使有人析其一毛以為百分,以一分毛沾取一渧。於意云何?其所渧者於彼大海,何所為多?」(大正12・270b–270c)
書き下し 仏、阿難に語りたまはく、「かの仏の初会の声聞衆の数、称計すべからず。菩薩もまた然なり。いまの大目犍連のごとき者、百千万億無量無数にして、阿僧祇那由他劫において、乃至、滅度まで、ことごとくともに計校すとも、多少の数を究了すること能はじ。たとへば大海の深広無量なるに、たとひ人ありて、その一毛を析きてもつて百分となし、一分の毛をもつて一渧を沾し取らんがごとし。意においていかん。その渧るところのものは、かの大海において、いづれをか多しとする」と。
訳 仏は阿難に言われました。「かの仏の最初の集会の声聞の数は数えることができず、菩薩もまた同じである。いまの大目犍連のような者が、百千万億、量りしれず数えきれないほどいて、阿僧祇那由他劫のあいだ、滅度に入るまで、みなで力を合わせて数えたとしても、その多少の数をきわめ知ることはできない。たとえば、深く広く量りしれない大海があるとして、ある人が一本の毛を裂いて百分の一にし、その一分の毛で一滴をひたし取ったとしよう。あなたはどう思うか。そのしたたり取った一滴と、かの大海と、どちらが多いか。」
原文 阿難白佛:「彼所渧水比於大海多少之量,非巧歷算數、言辭譬類所能知也。」(大正12・270c)
書き下し 阿難、仏にまうさく、「かの渧るところの水を大海に比ぶるに、多少の量は、巧暦・算数・言辞・譬類のよく知るところにあらず」と。
訳 阿難は仏に申し上げました。「そのしたたり取った水を大海と比べるなら、その多少の差は、巧みな暦の計算や算術、言葉や譬えで知ることのできるものではありません。」
原文 佛語阿難:「如目連等於百千萬億那由他劫計彼初會聲聞菩薩,所知數者猶如一渧,其所不知如大海水。(大正12・270c)
書き下し 仏、阿難に語りたまはく、「目連等のごとき、百千万億那由他劫において、かの初会の声聞・菩薩を計へんに、知るところの数は、なほ一渧のごとし。その知らざるところは、大海の水のごとし。
訳 仏は阿難に言われました。「目連のような者たちが、百千万億那由他劫のあいだ、かの最初の集会の声聞と菩薩を数えたとしても、知ることのできる数は一滴のようなもので、知ることのできない数は大海の水のようである。
〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕寿命と聖衆の数の段は、第十三願と第十四願の成就を語ります。ただし経がここで言うのは、寿命の長さも聖衆の数も、数え尽くして知ることができない、ということです。第十三願の式(どの有限の量にも上から押さえられない)は、この段からは導かず、式も「知りえない」の形で書きます。数え上げの例は、第十四願の k* と同じく、極端な例です(十方の衆生が皆、声聞・縁覚となって百千万劫、目連のごとき者が阿僧祇那由他劫)。それでも知れるのは一滴で、知れないのは大海です。経はこの比を数で言わず、阿難も「非巧歷算數、言辭譬類所能知也」と答えます。式の ∼ は「なほ……のごとし」の写しで、数の比を言うものではありません。
\[ \begin{aligned} &\forall k \in K :\ \neg\,\text{知其限極}(k,\ \text{壽命})\ \ (\text{不能窮盡知其限極}), \qquad \forall k \in K :\ \neg\,\text{知其數}(k,\ |\text{聲聞・菩薩}|)\ \ (\text{不可稱計}) \\ &|\text{知るところの數}| \;:\; |\text{知らざるところ}| \;\sim\; \text{一渧} \;:\; \text{大海水}, \qquad \text{一渧} = \text{一毛の百分の一で沾し取る量} \end{aligned} \]
安楽の国の宝樹、道場樹、楽の音、宝池、住む者たちの暮らしが説かれます。
原文 「又其國土,七寶諸樹周滿世界——金樹、銀樹、琉璃樹、玻瓈樹、珊瑚樹、瑪瑙樹、硨磲樹——或有二寶、三寶乃至七寶轉共合成。(大正12・270c)
書き下し 「またその国土に、七宝の諸樹、世界に周満せり。金樹・銀樹・琉璃樹・玻瓈樹・珊瑚樹・瑪瑙樹・硨磲樹なり。あるいは二宝・三宝、乃至、七宝、うたたともに合成せるあり。
訳 「またその国土には、七宝の樹々が世界いっぱいに満ちている。金の樹、銀の樹、琉璃の樹、玻瓈の樹、珊瑚の樹、瑪瑙の樹、硨磲の樹である。また、二つの宝、三つの宝、さらには七つの宝が互いに合わさってできた樹もある。
原文 或有金樹,銀葉、華、果;或有銀樹,金葉、華、果;或琉璃樹,頗梨為葉,華、果亦然;或水精樹,琉璃為葉,華、果亦然;或珊瑚樹,瑪瑙為葉,華、果亦然;或瑪瑙樹,琉璃為葉,華、果亦然;或車𤦲樹,眾寶為葉,華、果亦然。(大正12・270c)
書き下し あるいは金樹に銀の葉・華・果なるあり。あるいは銀樹に金の葉・華・果なるあり。あるいは琉璃樹に頗梨を葉とす、華・果もまた然り。あるいは水精樹に琉璃を葉とす、華・果もまた然り。あるいは珊瑚樹に瑪瑙を葉とす、華・果もまた然り。あるいは瑪瑙樹に琉璃を葉とす、華・果もまた然り。あるいは硨磲樹に衆宝を葉とす、華・果もまた然り。
訳 金の樹に銀の葉・花・実がなっているものもあれば、銀の樹に金の葉・花・実がなっているものもある。琉璃の樹に頗梨の葉がつき花と実も同じであるもの、水晶の樹に琉璃の葉がつき花と実も同じであるもの、珊瑚の樹に瑪瑙の葉がつき花と実も同じであるもの、瑪瑙の樹に琉璃の葉がつき花と実も同じであるもの、硨磲の樹にさまざまな宝の葉がつき花と実も同じであるものもある。
原文 或有寶樹,紫金為本、白銀為莖、琉璃為枝、水精為條、珊瑚為葉、瑪瑙為華、車𤦲為實;或有寶樹,白銀為本、琉璃為莖、水精為枝、珊瑚為條、瑪瑙為葉、車𤦲為華、紫金為實;或有寶樹,琉璃為本、水精為莖、珊瑚為枝、瑪瑙為條、車𤦲為葉、紫金為華、白銀為實;或有寶樹,水精為本、珊瑚為莖、瑪瑙為枝、車𤦲為條、紫金為葉、白銀為華、琉璃為實;或有寶樹,珊瑚為本、瑪瑙為莖、車𤦲為枝、紫金為條、白銀為葉、琉璃為華、水精為實;或有寶樹,瑪瑙為本、車𤦲為莖、紫金為枝、白銀為條、琉璃為葉、水精為華、珊瑚為實;或有寶樹,車𤦲為本、紫金為莖、白銀為枝、琉璃為條、水精為葉、珊瑚為華、碼碯為實此諸寶樹。(大正12・270c)
書き下し あるいは宝樹あり、紫金を本とし、白銀を茎とし、琉璃を枝とし、水精を条とし、珊瑚を葉とし、瑪瑙を華とし、硨磲を実とす。あるいは宝樹あり、白銀を本とし、琉璃を茎とし、水精を枝とし、珊瑚を条とし、瑪瑙を葉とし、硨磲を華とし、紫金を実とす。あるいは宝樹あり、琉璃を本とし、水精を茎とし、珊瑚を枝とし、瑪瑙を条とし、硨磲を葉とし、紫金を華とし、白銀を実とす。あるいは宝樹あり、水精を本とし、珊瑚を茎とし、瑪瑙を枝とし、硨磲を条とし、紫金を葉とし、白銀を華とし、琉璃を実とす。あるいは宝樹あり、珊瑚を本とし、瑪瑙を茎とし、硨磲を枝とし、紫金を条とし、白銀を葉とし、琉璃を華とし、水精を実とす。あるいは宝樹あり、瑪瑙を本とし、硨磲を茎とし、紫金を枝とし、白銀を条とし、琉璃を葉とし、水精を華とし、珊瑚を実とす。あるいは宝樹あり、硨磲を本とし、紫金を茎とし、白銀を枝とし、琉璃を条とし、水精を葉とし、珊瑚を華とし、碼碯を実とす。
訳 また、宝の樹には、次のようなものもある。紫金を根、白銀を幹、琉璃を枝、水晶を小枝、珊瑚を葉、瑪瑙を花、硨磲を実とする樹。白銀を根、琉璃を幹、水晶を枝、珊瑚を小枝、瑪瑙を葉、硨磲を花、紫金を実とする樹。琉璃を根、水晶を幹、珊瑚を枝、瑪瑙を小枝、硨磲を葉、紫金を花、白銀を実とする樹。水晶を根、珊瑚を幹、瑪瑙を枝、硨磲を小枝、紫金を葉、白銀を花、琉璃を実とする樹。珊瑚を根、瑪瑙を幹、硨磲を枝、紫金を小枝、白銀を葉、琉璃を花、水晶を実とする樹。瑪瑙を根、硨磲を幹、紫金を枝、白銀を小枝、琉璃を葉、水晶を花、珊瑚を実とする樹。硨磲を根、紫金を幹、白銀を枝、琉璃を小枝、水晶を葉、珊瑚を花、瑪瑙を実とする樹。
原文 行行相值、莖莖相望、枝枝相準、葉葉相向、華華相順、實實相當,榮色光耀不可勝視。清風時發,出五音聲,微妙宮商自然相和。(大正12・270c–271a)
書き下し このもろもろの宝樹、行行あひ値ひ、茎茎あひ望み、枝枝あひ準へ、葉葉あひ向かひ、華華あひ順ひ、実実あひ当れり。栄色光耀、勝げて視るべからず。清風時に発りて、五つの音声を出す。微妙の宮商、自然にあひ和す。
訳 これらの宝の樹は、列と列とが整然と向かい合い、幹と幹とが互いに望み合い、枝と枝とがそろい、葉と葉とが向き合い、花と花とが調和し、実と実とが釣り合っている。その輝く色と光は、まばゆくて見尽くすことができない。清らかな風がときおり吹くと、五つの音が出て、微妙な調べがおのずから和して響く。
〔異本〕「碼碯為實此諸寶樹。」の「此諸寶樹」は、大正蔵の校注が流布本の読みとして記す字句を当てたもので、句点は大正蔵の本文の位置のままです。書き下しと訳では、この四字を次の文の主語として読みます。また第七の樹の実の「碼碯」は「瑪瑙」の異体です。
〔読み〕七つの宝樹を表にすると、七宝が樹ごとに一つずつずれて並んでいることが見えます。どの樹も七宝を一つずつ持ち、どの部分の列にも七宝が一つずつ現れます。各行・各列にどの宝も一度ずつ現れる配置で、数学でいう巡回のラテン方陣です。経はこれに続けて「行行相值、莖莖相望……實實相當」と言います。これは、列や部分の並びがそろって向かい合うことを言う句で、どの宝がどの部分になるかの規則(上の方陣)とは別のことです。整いという点で響き合いますが、同じことを言うのではありません。
| 樹 | 本 | 莖 | 枝 | 條 | 葉 | 華 | 實 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 一 | 紫金 | 白銀 | 琉璃 | 水精 | 珊瑚 | 瑪瑙 | 車磲 |
| 二 | 白銀 | 琉璃 | 水精 | 珊瑚 | 瑪瑙 | 車磲 | 紫金 |
| 三 | 琉璃 | 水精 | 珊瑚 | 瑪瑙 | 車磲 | 紫金 | 白銀 |
| 四 | 水精 | 珊瑚 | 瑪瑙 | 車磲 | 紫金 | 白銀 | 琉璃 |
| 五 | 珊瑚 | 瑪瑙 | 車磲 | 紫金 | 白銀 | 琉璃 | 水精 |
| 六 | 瑪瑙 | 車磲 | 紫金 | 白銀 | 琉璃 | 水精 | 珊瑚 |
| 七 | 車磲 | 紫金 | 白銀 | 琉璃 | 水精 | 珊瑚 | 瑪瑙 |
\[ \text{寶}(k, j) = t_{\,((j + k - 2) \bmod 7) + 1}, \qquad t = (\text{紫金},\ \text{白銀},\ \text{琉璃},\ \text{水精},\ \text{珊瑚},\ \text{瑪瑙},\ \text{車磲}) \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A4 夢の位相空間〕〔読み〕k は樹の番号、j は部分の番号(本・莖・枝・條・葉・華・實の順に一から七)です。表と式では「車𤦲」を「車磲」と書きます。経はこの配置を式では言いません。式は、経の列挙の順にそのまま現れている規則を、書き出したものです。表と式に現れる配置の整いは美しいものですが、この訳は、それを教えの証拠とはしません。これは、A4 が禁じる向き(ミュトス地図の美しさをロゴス地図上の主張の証拠にすること)の逆の向きに、この訳が掛ける歯止めです(序の約束の二)。
原文 「又無量壽佛其道場樹,高四百萬里,其本周圍五十由旬,枝葉四布二十萬里。一切眾寶自然合成,以月光摩尼持海輪寶——眾寶之王——而莊嚴之。(大正12・271a)
書き下し 「また無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里、その本の周囲五十由旬、枝葉四布すること二十万里なり。一切の衆宝、自然に合成し、月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり。
訳 「また、無量寿仏の道場の樹は、高さが四百万里、根元のまわりが五十由旬で、枝葉は四方に二十万里広がっている。あらゆる宝がおのずから合わさってできており、宝のなかの王である月光摩尼と持海輪宝で飾られている。
原文 周匝條間垂寶瓔珞,百千萬色種種異變,無量光炎照耀無極。珍妙寶網羅覆其上,一切莊嚴隨應而現。(大正12・271a)
書き下し 周匝して条の間に宝の瓔珞を垂れ、百千万の色、種々に異変し、無量の光炎、照耀すること極まりなし。珍妙の宝網、その上に羅覆し、一切の荘厳、応に随ひて現ず。
訳 小枝のあいだには、ぐるりと宝の首飾りが垂れ下がり、百千万の色がさまざまに移り変わり、量りしれない光の炎が限りなく照り輝いている。珍しく妙なる宝の網がその上をおおい、あらゆる飾りが、求めに応じて現れる。
原文 微風徐動吹諸枝葉演出無量妙法音聲其聲流布遍諸佛國。其聞音者得深法忍,住不退轉至成佛道耳根清徹,不遭苦患;目覩其色、耳聞其音、鼻知其香、舌甞其味、身觸其光、心以法緣,一切皆得甚深法忍,住不退轉至成佛道,六根清徹無諸惱患。(大正12・271a)
書き下し 微風やうやく動きて、もろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演出す。その声流布して、諸仏の国に遍し。その音を聞く者は、深法忍を得て、不退転に住し、仏道を成るに至るまで、耳根清徹にして苦患に遭はず。目にその色を覩、耳にその音を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味はひを甞め、身にその光を触れ、心に法をもつて縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得て、不退転に住し、仏道を成るに至るまで、六根清徹にして、もろもろの悩患なし。
訳 そよ風がゆるやかに吹いて枝や葉をそよがせると、量りしれない妙なる法の音声が流れ出し、その声は広がって仏たちの国々にあまねく届く。その音を聞く者は深い法忍を得て、不退転の位にとどまり、仏道を成就するに至るまで、耳は清らかに澄みとおり、苦しみや患いに遭うことがない。目でその色を見、耳でその音を聞き、鼻でその香りをかぎ、舌でその味をなめ、身でその光にふれ、心で法を思えば、みなことごとく甚深の法忍を得て、不退転の位にとどまり、仏道を成就するに至るまで、六根は清らかに澄みとおり、さまざまな悩みや患いがない。
原文 「阿難!若彼國人天見此樹者,得三法忍:一者、音響忍,二者、柔順忍,三者、無生法忍。此皆無量壽佛威神力故、本願力故、滿足願故、明了願故、堅固願故、究竟願故。」(大正12・271a)
書き下し 「阿難、もしかの国の人天、この樹を見る者は、三法忍を得。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなり」と。
訳 「阿難よ、その国の人や天がこの樹を見れば、三つの法忍を得る。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍である。これはみな、無量寿仏の威神の力により、本願の力により、その願いが満たされ、明らかで、堅固で、究極のものであることによるのである。」
〔異本〕道場樹の「其本周圍五十由旬」を、大正蔵の本文は「五千由旬」に作ります。また「微風徐動吹諸枝葉演出無量妙法音聲其聲流布遍諸佛國」を、大正蔵の本文は「微風徐動出妙法音,普流十方一切佛國」と短く作り、「耳根清徹」の四字を欠きます。流布本の字句は大正蔵の校注の読みをそのまま当てたので、その範囲には句読点がありません。
〔借・公理|刊行済|第1層 A9 灌頂の公理〕〔読み〕道場樹は、六つの感官のどれから触れても、深い法忍と不退転に至る場として説かれます。A9 の「「変える」のではなく「変わるための場を整える」」に重ねれば、触れる者が変わる場を整えている、と読めます。これはこの訳の重ね方で、経はその働きを、無量寿仏の威神力と本願力によるとします(下の三法忍の所)。高さ四百万里は第二十八願の数と一致します。
\[ \forall s \in \{\text{眼},\ \text{耳},\ \text{鼻},\ \text{舌},\ \text{身},\ \text{意}\} :\ \text{縁}(s,\ \text{道場樹}) \Rightarrow \text{甚深法忍} \wedge \text{住不退轉} \]
〔読み〕三法忍を得るのは、かの国の人天のうち、この樹を見る者です(「若彼國人天見此樹者」)。その因として、経は六つを挙げます(「此皆……故」)。式では、条件と因とを分け、因は含意の前件に置きません。この訳は、「本願力」を経の語る因としてそのまま置き、整理表の加持の公理には写しません(手引き)。
\[ \forall x \in \mathcal{N} :\ \text{見此樹}(x) \Rightarrow \text{得三法忍}(x), \qquad \text{因} = \{\text{威神力},\ \text{本願力},\ \text{滿足願},\ \text{明了願},\ \text{堅固願},\ \text{究竟願}\}\ \ (\text{此皆……故}) \]
原文 佛告阿難:「世間帝王有百千音樂,自轉輪聖王乃至第六天上,伎樂音聲展轉相勝千億萬倍;第六天上萬種樂音,不如無量壽國諸七寶樹一種音聲千億倍也。亦有自然萬種伎樂,又其樂聲無非法音,清揚哀亮,微妙和雅,十方世界音聲之中最為第一。(大正12・271a)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「世間の帝王に百千の音楽あり。転輪聖王より、乃至、第六天上まで、伎楽の音声、展転してあひ勝ること千億万倍なり。第六天上の万種の楽音も、無量寿国のもろもろの七宝樹の一種の音声に如かざること千億倍なり。また自然の万種の伎楽あり。またその楽の声、法音にあらざることなし。清揚哀亮にして、微妙和雅なり。十方世界の音声のなかに、もつとも第一とす。
訳 仏は阿難に告げられました。「世の帝王には百千の音楽がある。転輪聖王から第六天に至るまで、楽の音は次々に勝って、千億万倍となる。しかし第六天の万種の楽の音も、無量寿仏の国の七宝の樹の一つの音声に、千億倍も及ばない。またその国には、おのずから奏でられる万種の楽があり、その楽の声はすべて法の音である。清らかに高く、哀しみを帯びて澄みとおり、微妙で和やかで雅やかであって、十方の世界の音声のなかで最も第一である。
原文 「又,講堂、精舍、宮殿、樓觀皆七寶莊嚴,自然化成,復以真珠、明月摩尼眾寶以為交露,覆蓋其上。(大正12・271a)
書き下し 「また講堂・精舎・宮殿・楼観は、みな七宝をもつて荘厳し、自然に化成す。また真珠・明月摩尼の衆宝をもつて交露とし、その上に覆蓋す。
訳 「また、講堂・精舎・宮殿・楼閣はみな七宝で荘厳され、おのずから化して成ったものである。さらに真珠や明月摩尼などの宝で網飾りを作り、その上をおおっている。
原文 內、外、左、右有諸浴池,或十由旬,或二十、三十,乃至百千由旬,縱廣深淺各皆一等,八功德水湛然盈滿,清淨香潔味如甘露。黃金池者底白銀沙,白銀池者底黃金沙,水精池者底琉璃沙,琉璃池者底水精沙,珊瑚池者底琥珀沙,琥珀池者底珊瑚沙,車𤦲池者底碼碯沙,瑪瑙池者底車𤦲沙,白玉池者底紫金沙,紫金池者底白玉沙,或二寶、三寶乃至七寶轉共合成。(大正12・271a–271b)
書き下し 内外左右に、もろもろの浴池あり。あるいは十由旬、あるいは二十・三十、乃至、百千由旬なり。縦広深浅、おのおのみな一等なり。八功徳水、湛然として盈満し、清浄香潔にして、味はひ甘露のごとし。黄金の池には底に白銀の沙あり。白銀の池には底に黄金の沙あり。水精の池には底に琉璃の沙あり。琉璃の池には底に水精の沙あり。珊瑚の池には底に琥珀の沙あり。琥珀の池には底に珊瑚の沙あり。硨磲の池には底に碼碯の沙あり。瑪瑙の池には底に硨磲の沙あり。白玉の池には底に紫金の沙あり。紫金の池には底に白玉の沙あり。あるいは二宝・三宝、乃至、七宝、うたたともに合成せり。
訳 その内外左右には、さまざまな浴池がある。十由旬のもの、二十・三十由旬のもの、さらには百千由旬のものもある。縦と横の広さと深さは、それぞれみな等しい。八つの功徳をそなえた水が静かにたたえられて満ち、清らかで香り高く、その味は甘露のようである。黄金の池の底には白銀の砂、白銀の池の底には黄金の砂、水晶の池の底には琉璃の砂、琉璃の池の底には水晶の砂、珊瑚の池の底には琥珀の砂、琥珀の池の底には珊瑚の砂、硨磲の池の底には瑪瑙の砂、瑪瑙の池の底には硨磲の砂、白玉の池の底には紫金の砂、紫金の池の底には白玉の砂がある。また、二つ、三つ、さらには七つの宝が合わさってできた池もある。
原文 其池岸上有栴檀樹,華葉垂布,香氣普熏。天優盋羅華、盋曇摩華、拘物頭華、分陀利華,雜色光茂彌覆水上。(大正12・271b)
書き下し その池の岸の上に栴檀樹あり。華葉垂れ布きて、香気あまねく薫ず。天の優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華、雑色光茂して、あまねく水の上に覆へり。
訳 その池の岸には栴檀の樹があり、花と葉が垂れ広がって、香りがあまねく漂う。天の優鉢羅華(青蓮華)・鉢曇摩華(紅蓮華)・拘物頭華(黄蓮華)・分陀利華(白蓮華)が、色とりどりに輝き茂って、水面をあまねくおおっている。
〔読み〕楽の音の比べです。第六天の「万種」の音が、宝樹の「一種」の音に千億倍及ばない、と言います。「無非法音」は二重の否定で、その楽の声がすべて法の音であるという全称です。千億倍は経の言うままの量の名です。
\[ \frac{\text{音}(\text{七寶樹の一種})}{\text{音}(\text{第六天の萬種})} = \text{千億倍}, \qquad \text{無非法音} \;\equiv\; \forall v \in \text{樂聲} :\ \text{法音}(v) \]
〔読み〕十の池の底の砂は、池の宝と対になる宝で、対は五組です。どの組も、甲の池の底に乙の砂があり、乙の池の底に甲の砂があります。池から砂への対応 σ は、二度当てると元に戻る対応(数学でいう対合)で、自分自身に移る宝はありません。式では「瑪瑙」「車磲」と書きます。字の書き分けは、すぐ後の〔異本〕に記します。
\[ \text{沙}(\text{池}) = \sigma(\text{池}), \qquad \sigma = (\text{黃金}\ \text{白銀})(\text{水精}\ \text{琉璃})(\text{珊瑚}\ \text{琥珀})(\text{車磲}\ \text{瑪瑙})(\text{白玉}\ \text{紫金}), \qquad \sigma \circ \sigma = \mathrm{id} \]
〔異本〕この訳の原文では、瑪瑙が「碼碯」とも「瑪瑙」とも書かれ、硨磲が「硨磲」とも「車𤦲」とも書かれます。大正蔵の脚注は、「車𤦲池者底碼碯沙」の所で、三本と流布本が「瑪瑙」を「碼碯」に作り、以下も同じ(下同)と記します。七宝の樹の「硨磲樹」の所でも、「車𤦲」を「硨磲」に作り、以下も同じと記します。この訳は、CBETA の校勘を一か所ずつ当てて原文を組んだので、この「下同」を後の箇所に及ぼしていません(覚え書き)。書き下しは原文の字に従い、「車𤦲」だけを「硨磲」と書きます。訳では「硨磲」「瑪瑙」と書きます。
原文 「彼諸菩薩及聲聞眾若入寶池,意欲令水沒足,水即沒足;欲令至膝,即至于膝;欲令至腰,水即至腰;欲令至頸,水即至頸;欲令灌身,自然灌身;欲令還復,水輒還復。調和冷煖自然隨意,開神悅體蕩除心垢,清明澂潔淨若無形。(大正12・271b)
書き下し 「かのもろもろの菩薩および声聞衆、もし宝池に入りて、意に水をして足を没さしめんと欲へば、水すなはち足を没す。膝に至らしめんと欲へば、すなはち膝に至る。腰に至らしめんと欲へば、水すなはち腰に至る。頸に至らしめんと欲へば、水すなはち頸に至る。身に灌がしめんと欲へば、自然に身に灌ぐ。還復せしめんと欲へば、水すなはち還復す。冷煖を調和して、自然に意に随ふ。神を開き体を悦ばしめて、心垢を蕩除す。清明澄潔にして、浄きこと形なきがごとし。
訳 「その国の菩薩たちや声聞たちが宝の池に入るとき、水が足をひたすようにと思えば、水はすぐに足をひたし、膝までと思えば膝まで、腰までと思えば腰まで、首までと思えば首までとどく。身体に注ぎかかるようにと思えば、おのずから身体に注ぎかかり、元に戻るようにと思えば、水はすぐに元に戻る。冷たさと温かさの加減も、おのずから思いのままである。水は心を開き、身体を悦ばせ、心の垢を洗い流す。清らかに明るく澄みきって、その清らかさは、形がないかのようである。
原文 寶沙映徹無深不照,微瀾迴流轉相灌注,安詳徐逝不遲不疾。波揚無量自然妙聲,隨其所應莫不聞者,或聞佛聲,或聞法聲,或聞僧聲,或寂靜聲、空無我聲、大慈悲聲、波羅蜜聲,或十力無畏不共法聲、諸通慧聲、無所作聲、不起滅聲、無生忍聲,乃至甘露灌頂眾妙法聲。(大正12・271b)
書き下し 宝沙映徹して、深きとして照らさざることなし。微瀾迴流して、うたたあひ灌注す。安詳としてやうやく逝き、遅からず疾からず。波、無量自然の妙声を揚ぐ。その所応に随ひて、聞かざる者なし。あるいは仏の声を聞き、あるいは法の声を聞き、あるいは僧の声を聞く。あるいは寂静の声、空無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声、あるいは十力・無畏・不共法の声、諸通慧の声、無所作の声、不起滅の声、無生忍の声、乃至、甘露灌頂、衆妙法の声なり。
訳 宝の砂は透きとおって輝き、どれほど深い所も、照らされない所はない。さざ波はめぐり流れて、互いに注ぎ合い、ゆったりと静かに流れて、遅くもなく速くもない。波は、量りしれない、おのずからの妙なる声を立てる。それぞれにふさわしいところに応じて、聞かない者はいない。ある者は仏の声を聞き、ある者は法の声を聞き、ある者は僧の声を聞く。あるいは寂静の声、空・無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声、あるいは十力・無畏・不共法の声、神通と智慧の声、無所作の声、不起滅の声、無生法忍の声、さらには甘露の灌頂の声など、もろもろの妙なる法の声を聞く。
原文 如是等聲,稱其所聞歡喜無量,隨順清淨離欲寂滅真實之義、隨順三寶力無所畏不共之法、隨順通慧菩薩聲聞所行之道。無有三塗苦難之名,但有自然快樂之音,是故其國名曰安樂。(大正12・271b)
書き下し かくのごときらの声、その聞くところに称ひて、歓喜すること無量なり。清浄・離欲・寂滅・真実の義に随順し、三宝・力・無所畏・不共の法に随順し、通慧・菩薩・声聞所行の道に随順す。三塗苦難の名あることなく、ただ自然快楽の音のみあり。このゆゑにその国を名づけて安楽といふ。
訳 このような声を聞くと、それぞれ聞いたところにかなって、量りしれなく歓喜し、清浄・離欲・寂滅・真実の義に随い、三宝・力・無所畏・不共の法に随い、神通と智慧をそなえた菩薩や声聞の行く道に随う。その国には、三悪道の苦しみや難儀の名さえなく、ただおのずからの快い楽しみの音だけがある。それゆえ、その国を安楽と名づける。
〔借・公理|刊行済|第1層 A9 灌頂の公理〕〔読み〕池の水は、入る者を一つの型に合わせるのでなく、一人ひとりの意のままに応じます。そのうえで「開神悅體蕩除心垢」と、心を開き垢を除きます。A9 の「変わるための場を整える」の形です。式では、水の高さを入る者ごとの値 水(x) と置きます。経が一人ひとりの「意欲」に応じると言うからです。
\[ \forall x \in \text{入池者},\ \forall w \in W :\ \text{欲}(x, w) \Rightarrow \text{水}(x) = w, \qquad W = \{\text{沒足},\ \text{至膝},\ \text{至腰},\ \text{至頸},\ \text{灌身},\ \text{還復}\}, \qquad \text{冷煖}(x) = \text{意}(x) \]
〔読み〕波の声も、一人ひとりの「所應」に随って聞こえます。「莫不聞」は「聞かない者はない」で、全称です。経が挙げる声の名は、「乃至」によって途中を略した例で、声の全体は「無量」と言われます。式の S は、その全体の名です。なお「甘露灌頂」の「灌頂」は、手引きの A9(灌頂の公理)と語が重なりますが、この訳は語の重なりを根拠に両者を結びません。
\[ \text{莫不聞} \;\equiv\; \neg\,\exists x \in \text{入池者} :\ \neg\,\text{聞}(x) \;\equiv\; \forall x \in \text{入池者} :\ \text{聞}(x), \qquad \text{聞}(x) :\Leftrightarrow \exists s \in S :\ \text{聞}(x, s) \wedge s \in \text{所應}(x), \qquad S \supseteq \{\text{佛聲},\ \text{法聲},\ \text{僧聲},\ \ldots,\ \text{甘露灌頂眾妙法聲}\} \]
〔異本〕「是故其國名曰安樂」の「安樂」を、大正蔵の本文は「極樂」に作ります。宋・元・明の三本と流布本は「安樂」です。また「清明澂潔」の「澂」を、大正蔵の本文は「澄」に作ります。同じ字の異体です。
〔読み〕国の名の由来が、「是故」によって条件として述べられます。苦の名さえなく、音はみな快い楽しみの音であること、その二つがそろって「安楽」の名が立ちます。第十六願は、国の人天が不善の名を聞くことさえないと誓いました。ここでも否定は、苦そのものより先に、名の水準に及んでいます。名が国にないなら、それを聞く者もいません。
\[ \text{三塗苦難之名} \notin \text{國} \;\wedge\; \forall v \in \text{音}(\text{國}) :\ \text{自然快樂}(v) \;\;\overset{\text{是故}}{\Longrightarrow}\;\; \text{名}(\text{國}) = \text{安樂}, \qquad \text{名} \notin \text{國} \;\Rightarrow\; \forall x \in \mathcal{N} :\ \neg\,\text{聞}(x,\ \text{名}) \]
原文 「阿難!彼佛國土諸往生者,具足如是清淨色身、諸妙音聲、神通功德,所處宮殿、衣服、飲食、眾妙華香莊嚴之具,猶第六天自然之物。(大正12・271b)
書き下し 「阿難、かの仏国土のもろもろの往生者は、かくのごときの清浄の色身、もろもろの妙音声、神通功徳を具足す。処するところの宮殿・衣服・飲食・衆妙華香・荘厳の具は、なほ第六天の自然の物のごとし。
訳 「阿難よ、その仏の国に生まれた者たちは、このような清らかな身体と、妙なる声と、神通の功徳とをそなえている。住まう宮殿、衣服、飲食、さまざまな妙なる花や香、身を飾る品々は、第六天におのずからそなわる物のようである。
原文 若欲食時,七寶盋器自然在前,金、銀、琉璃、車𤦲、瑪瑙、珊瑚、琥珀、明月真珠如是諸盋隨意而至,百味飲食自然盈滿。雖有此食實無食者,但見色、聞香,意以為食,自然飽足,身心柔軟,無所味著。事已化去,時至復現。(大正12・271b–271c)
書き下し もし食せんと欲ふ時は、七宝の鉢器、自然に前にあり。金・銀・琉璃・硨磲・瑪瑙・珊瑚・琥珀・明月真珠、かくのごときの諸鉢、意に随ひて至り、百味の飲食、自然に盈満す。この食ありといへども、実に食する者なし。ただ色を見、香を聞ぎて、意をもつて食となし、自然に飽足して、身心柔軟にして、味著するところなし。事已りて化して去り、時至ればまた現ず。
訳 食事をしようと思うときには、七宝の鉢がおのずから前に現れる。金・銀・琉璃・硨磲・瑪瑙・珊瑚・琥珀・明月真珠の、このような鉢が思いのままにやって来て、百の味の飲食がおのずから満ちる。しかし、この食物はあっても、実際に食べる者はいない。ただ色を見、香りをかいで、心に食事としたと思えば、おのずから満ち足りて、身も心も柔らかになり、味に執着することがない。食事が終われば消え去り、時が来ればまた現れる。
〔異本〕「七寶盋器」の「盋」を、大正蔵の本文は「應」に作り(「七寶應器」)、宋・元・明の三本は「鉢」に作ります。「如是諸盋」は、大正蔵の本文では「如是眾鉢」、三本では「如是諸鉢」です。ここで、大正蔵の脚注は流布本を「諸盋」とし、CBETA の校勘は「盋」の一字とします。この訳は脚注に従いました(覚え書き)。
〔読み〕食はあっても、食べる者はいません。色を見ること、香をかぐこと、心にそれを食とすること、この三つで満ち足ります。満ち足りることが、食べ尽くすことを要しません。味への執着もおこりません。食は求めに応じて現れ、用が済めば消えます。
\[ \text{有}(\text{此食}) \wedge \neg\,\exists x :\ \text{食者}(x), \qquad \text{見色}(x) \wedge \text{聞香}(x) \wedge \text{意以為食}(x) \;\Rightarrow\; \text{飽足}(x) \wedge \neg\,\text{味著}(x), \qquad \text{事已} \Rightarrow \text{化去},\ \ \text{時至} \Rightarrow \text{復現} \]
原文 「彼佛國土清淨安穩,微妙快樂,次於無為泥洹之道。其諸聲聞、菩薩、人、天,智慧高明,神通洞達。咸同一類,形無異狀,但因順餘方,故有人、天之名。顏貌端正,超世希有,容色微妙,非天、非人,皆受自然虛無之身、無極之體。」(大正12・271c)
書き下し 「かの仏国土は、清浄安穏にして、微妙快楽なり。無為泥洹の道に次げり。そのもろもろの声聞・菩薩・人・天は、智慧高明にして、神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形に異状なし。ただ余方に因順するがゆゑに、人・天の名あり。顔貌端正にして、世に超えて希有なり。容色微妙にして、天にあらず人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と。
訳 「その仏の国は清らかで安らかで、妙なる楽しみに満ち、無為の涅槃の道にすぐ次ぐものである。そこの声聞・菩薩・人・天は、智慧が高く明らかで、神通に通達している。みな同じ一つの類で、姿かたちに違いはない。ただ他の世界の呼び方にならって、人・天という名があるだけである。顔かたちは端正で、世にすぐれてまれであり、容色は妙なるもので、天でもなく人でもない。みな、おのずからなる虚無の身、限りのない体を受けている。」
〔読み〕第四願の成就の姿で、ここでは声聞と菩薩も含めて、形に異なる様がない(「形無異狀」)と言われます。「人」「天」は、他の世界の呼び方に順った名で、類の違いを言うものではありません。名は二つあっても、類は一つで、その類は天でも人でもありません。名と類とが食い違うことを、経が自ら断っています。また「次於無為泥洹之道」は、この国を無為の涅槃の道のすぐ次に置く順序で、式では ≺ と書きます。
\[ \forall x, y \in \mathcal{N} \cup \mathcal{B} \cup \text{聲聞} :\ \text{類}(x) = \text{類}(y) \wedge \text{形}(x) = \text{形}(y), \qquad \forall x \in \mathcal{N} :\ \text{名}(x) \in \{\text{人},\ \text{天}\}\ (\text{因順餘方}), \qquad \forall x \in \mathcal{N} \cup \mathcal{B} \cup \text{聲聞} :\ \text{類}(x) \notin \{\text{人},\ \text{天}\}\ (\text{非天非人}), \qquad \text{彼佛國土} \prec \text{無為泥洹之道} \]
原文 佛告阿難:「譬如世間貧窮乞人在帝王邊,形貌容狀寧可類乎?」(大正12・271c)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「たとへば世間の貧窮の乞人の、帝王の辺にあらんがごとき、形貌容状、むしろ類すべけんや」と。
訳 仏は阿難に告げられた。「たとえば、世の貧しい乞食が帝王のそばにいるとしたら、その姿かたちを、帝王と並べて比べることができるだろうか。」
原文 阿難白佛:「假令此人在帝王邊,羸陋醜惡無以為喻,百千萬億不可計倍。所以然者?貧窮乞人底極廝下,衣不蔽形,食趣支命,飢寒困苦,人理殆盡。(大正12・271c)
書き下し 阿難、仏にまうさく、「たとひこの人、帝王の辺にあらんも、羸陋醜悪にして、もつて喩へとすることなきこと、百千万億不可計倍ならん。しかるゆゑは、貧窮の乞人は、底極廝下にして、衣、形を蔽はず、食、わづかに命を支ふ。飢寒困苦して、人理ほとんど尽きなんとす。
訳 阿難は仏に申し上げた。「たとえこの人が帝王のそばにいても、やせ衰えて見苦しく醜いことは、たとえようもなく、百千万億倍、数えきれないほどの隔たりがあります。なぜかと申しますと、貧しい乞食は、最も低い身分の者で、衣服は身体を覆わず、食べ物はわずかに命をつなぐだけで、飢えと寒さに苦しみ、人としての暮らしはほとんど尽きかけているからです。
原文 皆坐前世不植德本,積財不施、富有益慳,但欲唐得、貪求無厭,不肯修善、犯惡山積。如是壽終,財寶消散,苦身聚積為之憂惱,於己無益,徒為他有。無善可怙,無德可恃,是故,死墮惡趣,受此長苦。罪畢得出生為下賤,愚鄙廝極示同人類。(大正12・271c)
書き下し これみな前世に徳本を植ゑず、財を積みて施さず、富有にしていよいよ慳しみ、ただいたづらに得んと欲ひて、貪求して厭ふことなく、あへて善を修せず、悪を犯すこと山のごとく積めるによる。かくのごとくして寿終れば、財宝消散す。身を苦しめて聚積し、これがために憂悩すれども、己において益なく、いたづらに他の有となる。善として怙むべきなく、徳として恃むべきなし。このゆゑに、死して悪趣に堕して、この長き苦を受く。罪畢りて出づることを得れども、生れて下賤となり、愚鄙廝極にして、人類に同じきことを示す。
訳 それはみな、前の世に功徳の本を植えず、財を積んでも施さず、豊かになるほどますます物惜しみし、ただ労せずに得ることばかりを願い、むさぼり求めて飽くことなく、善を修めようとはせず、山のように悪を重ねてきたためです。そうして命が終われば、財宝は散り失せます。身を苦しめて蓄え、そのために憂い悩んだのに、自分には何の益もなく、むなしく他人のものとなります。頼りとすべき善もなく、たのみとすべき徳もありません。それゆえ、死んで悪道に堕ち、この長い苦しみを受けるのです。罪が尽きて出ることができても、生まれては下賤の身となり、愚かで卑しく最も低い者として、かろうじて人の仲間であるさまを見せるだけです。
原文 所以世間帝王人中獨尊,皆由宿世積德所致,慈惠博施,仁愛兼濟,履信修善,無所違諍。是以壽終,福應得昇善道,上生天上享茲福樂。積善餘慶今得為人,適生王家自然尊貴,儀容端正眾所敬事,妙衣珍膳隨心服御。宿福所追,故能致此。」(大正12・271c)
書き下し 世間の帝王の、人中に独尊なるゆゑは、みな宿世に徳を積めるの致すところなり。慈恵博く施し、仁愛兼ねて済ひ、信を履み善を修して、違諍するところなし。ここをもつて寿終れば、福応じて善道に昇ることを得、天上に上生してこの福楽を享く。積善の余慶に、いま人となることを得て、たまたま王家に生れて、自然に尊貴なり。儀容端正にして、衆の敬事するところなり。妙衣珍膳、心に随ひて服御す。宿福の追ふところ、ゆゑによくこれを致す」と。
訳 世の帝王が人の中でひとり尊いのは、みな前の世に徳を積んだことによるものです。慈しみの恵みを広く施し、思いやりをもってひろく人々を救い、信を踏み行い善を修めて、争うことがありませんでした。それゆえ命が終わると、福に応じて善い世界に昇ることができ、天上に生まれてその福と楽しみを受けました。積んだ善の余りの喜びによって、いま人として生まれ、たまたま王家に生まれて、おのずから尊く貴い身となりました。姿かたちは端正で、人々に敬われ仕えられ、妙なる衣と珍しい食物を、心のままに用いています。前の世の福が後を追ってくるので、このようになれるのです。」
〔異本〕「不肯修善」の「肯」を、大正蔵の本文は「信」に作ります(「不信修善」)。
〔借・札なし|刊行済|第0層 レジスタ分離〕〔読み〕阿難は、乞食と帝王の違いを、前の世の行いから説き明かします。二つの道は同じ形をしていて、前の世の行い、死後の行き先、その後の生まれ、の三段で進みます。業とその果報の語りは、経典・ミュトス層のものです。式の ⇝ は、経の語る次の生への移りで、事実層の因果法則を主張するものではありません。
\[ \begin{aligned} &\text{乞人} :&& \neg\,\text{植德本} \wedge \text{慳} \wedge \text{貪} \wedge \neg\,\text{修善} \;\rightsquigarrow\; \text{惡趣(長苦)} \;\overset{\text{罪畢}}{\rightsquigarrow}\; \text{下賤} \\ &\text{帝王} :&& \text{積德}\ (\text{博施} \wedge \text{兼濟} \wedge \text{修善} \wedge \text{無違諍}) \;\rightsquigarrow\; \text{天上(福樂)} \;\overset{\text{餘慶}}{\rightsquigarrow}\; \text{王家} \end{aligned} \]
原文 佛告阿難:「汝言是也。假如帝王,雖人中尊貴,形色端正,比之轉輪聖王,甚為鄙陋,猶彼乞人在帝王邊也。轉輪聖王威相殊妙天下第一,比之忉利天王,又復醜惡不得相喻萬億倍也。假令天帝比第六天王,百千億倍不相類也。設第六天王比無量壽佛國菩薩、聲聞,光顏容色不相及逮,百千萬億不可計倍。」(大正12・271c–272a)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「なんぢが言ふところ是なり。たとひ帝王のごとき、人中に尊貴にして形色端正なりといへども、これを転輪聖王に比ぶれば、はなはだ鄙陋なりとす。なほかの乞人の帝王の辺にあるがごとし。転輪聖王は、威相殊妙にして天下第一なれども、これを忉利天王に比ぶれば、また醜悪にして、あひ喩ふることを得ざること万億倍なり。たとひ天帝を第六天王に比ぶれば、百千億倍あひ類せず。たとひ第六天王を無量寿仏国の菩薩・声聞に比ぶれば、光顔容色あひ及逮せざること、百千万億不可計倍なり」と。
訳 仏は阿難に告げられた。「おまえの言うとおりである。たとえば帝王は、人の中では尊く、姿かたちも端正であるが、転輪聖王と比べれば、ひどく見劣りがして、ちょうどあの乞食が帝王のそばにいるようなものである。転輪聖王は、威厳ある姿がことにすぐれて天下第一であるが、忉利天の王と比べれば、やはり醜く、万億倍もたとえようがない。また天帝(忉利天の王)を第六天の王と比べれば、百千億倍も比べものにならない。そして第六天の王を無量寿仏の国の菩薩や声聞と比べれば、その光り輝く顔かたちは遠く及ばず、百千万億倍、数えきれないほどである。」
〔読み〕比べは五段の鎖です。乞食から始めて、一段上がるごとに、下の者は上の者のそばの「乞人」になります。鎖の頂は、欲界の最上の第六天の王よりさらに上の、この国の菩薩と声聞です。倍の数は、経の言うままの量の名で、掛け合わせることはしません。楽の音の比べ(上の「第六天上萬種樂音…千億倍」)と同じ形の鎖です。
\[ \begin{aligned} &\text{乞人} \prec \text{帝王} && \text{百千萬億不可計倍} \\ &\text{帝王} \prec \text{轉輪聖王} && \text{猶彼乞人在帝王邊} \\ &\text{轉輪聖王} \prec \text{忉利天王} && \text{萬億倍} \\ &\text{忉利天王(天帝)} \prec \text{第六天王} && \text{百千億倍} \\ &\text{第六天王} \prec \text{無量壽國の菩薩・聲聞} && \text{百千萬億不可計倍} \end{aligned} \]
原文 佛告阿難:「無量壽國其諸天人,衣服、飲食、華香、瓔珞、繒蓋幢幡、微妙音聲,所居舍宅、宮殿、樓閣,稱其形色、高下、大小,或一寶、二寶,乃至無量眾寶,隨意所欲,應念即至。(大正12・272a)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「無量寿国のそのもろもろの天人の、衣服・飲食・華香・瓔珞・繒蓋・幢幡・微妙の音声、所居の舎宅・宮殿・楼閣は、その形色・高下・大小に称ふ。あるいは一宝・二宝、乃至、無量の衆宝、意の所欲に随ひて、念に応じてすなはち至る。
訳 仏は阿難に告げられた。「無量寿仏の国の天や人たちの衣服、飲食、花や香、首飾り、絹の天蓋や幢幡、妙なる音楽、住まう家や宮殿や楼閣は、その人の姿・背丈・大きさにかなっている。一つの宝、二つの宝、さらには量りしれない多くの宝でできたものが、思いのままに、念ずるのに応じてすぐに現れる。
原文 又,以眾寶妙衣遍布其地,一切人天踐之而行。無量寶網彌覆佛土,皆以金縷、真珠、百千雜寶、奇妙珍異莊嚴交飾,周匝四面垂以寶鈴,光色晃耀盡極嚴麗。(大正12・272a)
書き下し また、衆宝の妙衣をもつてあまねくその地に布き、一切の人天、これを践みて行く。無量の宝網、仏土に弥覆せり。みな金縷・真珠・百千の雑宝の、奇妙珍異なるをもつて荘厳し交飾せり。周匝四面に垂るるに宝鈴をもつてす。光色晃耀にして、ことごとく厳麗を極む。
訳 また、多くの宝でできた妙なる衣が地一面に敷かれ、すべての人や天はその上を踏んで歩く。量りしれない宝の網が仏の国をおおい、みな金の糸、真珠、百千のさまざまな宝、珍しく妙なるもので飾りが交えられ、四方のまわりには宝の鈴が垂れ下がっている。その光と色はきらめき輝いて、この上なく荘厳で美しい。
原文 自然德風徐起微動,其風調和,不寒、不暑;溫涼柔軟,不遲、不疾;吹諸羅網及眾寶樹,演發無量微妙法音,流布萬種溫雅德香。其有聞者,塵勞垢習自然不起,風觸其身皆得快樂,譬如比丘得滅盡三昧。(大正12・272a)
書き下し 自然の徳風、やうやく起りて微動す。その風、調和にして、寒からず暑からず、温涼柔軟にして、遅からず疾からず。もろもろの羅網およびもろもろの宝樹を吹くに、無量微妙の法音を演発し、万種温雅の徳香を流布す。それ聞くことある者は、塵労垢習、自然に起らず。風その身に触るるに、みな快楽を得。たとへば比丘の滅尽三昧を得るがごとし。
訳 おのずからなる徳の風がゆるやかに起こって、かすかに動く。その風はほどよく調和して、寒くもなく暑くもなく、温かさ涼しさはやわらかで、遅くもなく速くもない。その風が網や宝の樹々を吹くと、量りしれない妙なる法の音が響き出し、万種の穏やかで雅やかな徳の香りが流れ広がる。その音を聞き、その香りをかぐ者は、煩悩の塵や垢に染まった習いが、おのずから起こらなくなる。風がその身に触れると、みな快い楽しみを得る。それはちょうど、比丘が滅尽三昧を得たときのようである。
〔読み〕「隨意所欲,應念即至」は、第三十八願(衣を得たいと思えば、思うにしたがってただちに届く)を、衣だけでなく、食・華香・住まいにまで広げて述べる、成就の姿です。また、風に触れて得る楽しみは、比丘が滅尽三昧を得たときに喩えられます。第三十九願が、国の楽しみの物差しを、煩悩を尽くした比丘の楽しみに置いたのと、同じ向きの喩えです。「其有聞者」の「聞」は、法の音を聞くことと、香をかぐこと(聞香)の両方に掛けて訳しました。
\[ \forall x \in \mathcal{N},\ \forall o \in \{\text{衣服},\ \text{飲食},\ \text{華香},\ \ldots,\ \text{樓閣}\} :\ \text{念}(x, o) \Rightarrow \text{即至}(o, x) \quad (P_{38}\ \text{の擴がり}), \qquad \text{觸風}(x) \Rightarrow \text{快樂}(x) \approx \text{快樂}(\text{得滅盡三昧の比丘}) \quad (P_{39}\ \text{と同じ向き}) \]
原文 「又,風吹散華遍滿佛土,隨色次第而不雜亂,柔軟光澤馨香芬烈,足履其上陷下四寸,隨舉足已還復如故。華用已訖地輒開裂,以次化沒清淨無遺,隨其時節風吹散華,如是六返。(大正12・272a)
書き下し 「また風、華を吹き散らして、仏土に遍満す。色の次第に随ひて雑乱せず。柔軟光沢にして、馨香芬烈なり。足その上を履むに、陥み下ること四寸、足を挙げをはるに随ひて、還復すること故のごとし。華、用ゐることすでに訖れば、地すなはち開裂して、次いでをもつて化没し、清浄にして遺りなし。その時節に随ひて、風、華を吹き散らすこと、かくのごとく六返す。
訳 「また、風が花を吹き散らして、仏の国いっぱいに満たす。花は色の順に並んで、乱れまじることがない。柔らかくつややかで、香りは強く芳しい。足でその上を踏むと四寸沈み、足を上げるとすぐに元どおりになる。花の役目が終わると、地がたちまち開いて、花は順に消えてゆき、清らかで何も残らない。時節に応じて、風が花を吹き散らすことが、このように六度くり返される。
〔読み〕花の一巡りは、散る・用いられる・消える、で元の清らかな地に戻ります。何も残らないので、巡りを何度くり返しても、地は清らかなままです。くり返しても変わらない性質を、数学では不変量と言います。ここでの不変量は「清淨」です。踏んだ跡も、足を上げれば元に戻ります。
\[ \text{地}_{t+1} = \text{化沒}\bigl(\text{用}(\text{散華}(\text{地}_t))\bigr) = \text{地}_t, \qquad \text{清淨}(\text{地}_t)\ \ (t = 1, \ldots, 6), \qquad \text{陷}(\text{履}) = \text{四寸},\ \ \text{陷}(\text{舉足已}) = 0 \]
原文 「又眾寶蓮華周滿世界,一一寶華百千億葉,其華光明無量種色,青色青光,白色白光,玄、黃、朱、紫光色亦然,暐曄煥爛,明曜日月。一一華中出三十六百千億光;一一光中出三十六百千億佛,身色紫金,相好殊特;一一諸佛又放百千光明,普為十方說微妙法;如是諸佛各各安立無量眾生於佛正道。」(大正12・272a–272b)
書き下し 「また衆宝の蓮華、世界に周満せり。一々の宝華に百千億の葉あり。その華の光明、無量種の色なり。青色には青光、白色には白光あり。玄・黄・朱・紫の光色もまたしかなり。暐曄煥爛として、日月よりも明曜なり。一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々の光のなかより三十六百千億の仏を出す。身色紫金にして、相好殊特なり。一々の諸仏、また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために微妙の法を説きたまふ。かくのごときの諸仏、おのおの無量の衆生を仏の正道に安立せしめたまふ」と。
訳 「また、宝の蓮の花が世界いっぱいに満ちている。一つひとつの宝の花には百千億の花びらがあり、その花の光は量りしれない種類の色をしている。青い色からは青い光、白い色からは白い光が出て、黒・黄・朱・紫の光と色も同じである。光はきらきらと輝いて、日や月よりも明るい。一つひとつの花の中から三十六百千億の光が出て、一つひとつの光の中から三十六百千億の仏が現れる。その身は紫金の色で、すぐれた相好をそなえている。一人ひとりの仏はまた百千の光明を放ち、あまねく十方のために妙なる法を説く。このような仏たちが、それぞれ量りしれない衆生を、仏の正しい道に安らかに立たせるのである。」
〔異本〕「其華光明」の「華」を、大正蔵の本文は「葉」に作ります(「其葉光明」)。三本と流布本は「華」です。
〔読み〕「一一」は全称です。華から光へ、光から仏へと、同じ数の枝分かれが二段つづき、仏はさらに光を放って十方に法を説きます。数は、経の言うままの量の名です。荘厳の段は、この句で閉じられます。宝の花の輝きは、仏が現れて衆生を仏道に立たせることに行き着きます。荘厳は、衆生のためのものとして説かれています。
\[ \forall h \in \text{寶華}\ \exists^{=k} \ell \in \text{光}(h),\quad \forall \ell\ \exists^{=k} b \in \text{佛}(\ell),\quad \forall b :\ \text{說法}(b,\ \text{十方}) \wedge \text{安立}(b,\ \text{無量眾生},\ \text{佛正道}), \qquad k = \text{三十六百千億} \]
下巻は、四十八願のうち、第十一・第十七・第十八願が成就していることを告げる文から始まります。この文は、のちに本願成就文と呼ばれます。
原文 佛告阿難:「其有眾生生彼國者,皆悉住於正定之聚。所以者何?彼佛國中無諸邪聚及不定聚,十方恒沙諸佛如來皆共讚歎無量壽佛威神功德不可思議。(大正12・272b)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「それ衆生ありて、かの国に生ずる者は、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかには、もろもろの邪聚および不定聚なければなり。十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃歎したまふ。
訳 仏は阿難に告げられた。「衆生のうち、その国に生まれる者は、みなことごとく正定聚(さとりに定まった人々)に住する。なぜかといえば、その仏の国には、邪定聚(邪に定まった人々)も不定聚(定まらない人々)もいないからである。ガンジス河の砂の数ほどの十方の仏・如来たちは、みなともに、無量寿仏の威神と功徳が思いはかることもできないことを、ほめたたえておられる。
原文 諸有眾生聞其名號信心歡喜,乃至一念,至心迴向願生彼國,即得往生住不退轉,唯除五逆、誹謗正法。」(大正12・272b)
書き下し あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向して、かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得て、不退転に住す。ただ五逆と誹謗正法とを除く」と。
訳 あらゆる衆生が、その名号を聞いて、信じ喜ぶ心を、たとえ一念でもおこし、まことの心で回向して、その国に生まれたいと願うなら、ただちに往生することができ、不退転の位に住する。ただし、五逆の罪を犯す者と、正しい法をそしる者とを除く。」
〔借・公理|刊行済|第1層 A9 灌頂の公理〕〔読み〕衆生は、正定聚・邪定聚・不定聚の三つの聚のどれかに属します。経は、生まれた者が皆、正定聚に住する理由を、国に他の二つの聚がないことに求めます。三つで全体を尽くす分け方なので、二つがなければ、残る一つにすべての者が属します。式では、この理由づけが、そのまま正しい推論の形をしています。正定聚に住することは、第十一願(P₁₁)の「住定聚」の成就です。国の在り方そのものが、住む者の定まりを支える場として読めます。A9 の「変わるための場を整える」に重ねた読みです。式の 生彼國者 は、かの国に生まれた衆生の集まりです。
\[ \mathcal{S} = \text{正定聚} \sqcup \text{邪聚} \sqcup \text{不定聚}, \qquad \text{生彼國者} = \{x \in \mathcal{S} :\ \text{生}(x,\ \text{彼國})\}, \qquad \text{生彼國者} \cap (\text{邪聚} \cup \text{不定聚}) = \emptyset \;\Longrightarrow\; \forall x \in \text{生彼國者} :\ x \in \text{正定聚} \quad (P_{11}\ \text{の住定聚}) \]
〔読み〕十方の諸仏がみな無量寿仏をほめたたえることは、第十七願(P₁₇)の成就です。文はそこから、衆生が「その名号を聞く」ことへ続きます。第十七願で十方に広まる名を、第十八願の成就の文で衆生が聞く、という二つの願の連なりです。式の → は、文の続く順を示すもので、論理の含意ではありません。
\[ P_{17}\ \text{の成就}\ \bigl(\forall b \in \mathfrak{B} :\ \text{讚歎}(b,\ \text{無量壽佛威神功德})\bigr) \;\to\; \text{聞其名號}(x) \;\to\; \text{信心歡喜}(x) \;\to\; \text{即得往生}(x) \]
〔読み〕第十八願とその成就の文を、句ごとに並べます。対応のつけ方は、この訳の読みです。成就の文には、願にない「聞其名號」が加わります。また願の「乃至十念」に対して、成就の文は「乃至一念」と言います。どちらの「乃至」も「わずか……でも」の意で、足りる量の下の端を示します。二つの「念」を同じ物差しで数えるなら、念の条件に限っては、成就の文の下の端(一念)が願の下の端(十念)より低く、念の条件を満たす者の集まりは、成就の文のほうが広くなります。ただし成就の文には「聞其名號」と「迴向」が加わるので、条件の全体どうしが包み包まれる関係にあるかは、この対応からは出てきません。ただし、二つの「念」が同じものを指すかどうかは、読みが分かれます(下の〔諸釈〕)。上巻 十二では、願の式と「今已成佛」から、各願が成り立つことを導きました。成就の文は、そのことを経が自らの言葉で告げる所です。除かれる者 E の読みは、第十八願の〔諸釈〕の表のとおりです。
| 第十八願 | 本願成就文 |
|---|---|
| (なし) | 聞其名號 |
| 至心 | 至心迴向 |
| 信樂 | 信心歡喜 |
| 欲生我國 | 願生彼國 |
| 乃至十念 | 乃至一念 |
| 若不生者,不取正覺 | 即得往生,住不退轉 |
| 唯除五逆、誹謗正法 | 唯除五逆、誹謗正法 |
\[ P_{18}^{\text{成就}} = \forall x \in \mathcal{S} \setminus E :\ \bigl(\text{聞名}(x) \wedge \text{信心歡喜}(x) \wedge \text{念}(x) \ge 1 \wedge \text{至心迴向}(x) \wedge \text{願生}(x)\bigr) \Rightarrow \text{即得往生}(x) \wedge \text{住不退轉}(x), \qquad \{x : \text{念}(x) \ge 10\} \subseteq \{x : \text{念}(x) \ge 1\}\ \ (\text{念の条件に限る}) \]
〔諸釈〕この文の読みです。
二つの読みの違いは、式の上では、回向する者がだれか、という引数の違いとして現れます。迴向(a, b) は、a が b に向けて振り向けることです。
\[ \text{字義の読み} :\ \text{迴向}(x,\ \text{彼國}), \qquad \text{親鸞の読み} :\ \text{迴向}(\text{如來},\ x) \]
その国に生まれたいと願う十方の衆生を、行いの違いによって、上・中・下の三つの輩(ともがら)に分けて説きます。
原文 佛告阿難:「十方世界諸天人民,其有至心願生彼國,凡有三輩。其上輩者,捨家棄欲而作沙門,發菩提心,一向專念無量壽佛,修諸功德願生彼國。此等眾生臨壽終時,無量壽佛與諸大眾現其人前,即隨彼佛往生其國,便於七寶華中自然化生,住不退轉,智慧勇猛,神通自在。(大正12・272b)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「十方世界の諸天・人民、それ心を至して、かの国に生ぜんと願ずることあらば、おほよそ三輩あり。その上輩といふは、家を捨て欲を棄てて沙門となり、菩提心を発し、一向にもつぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ず。これらの衆生、寿終らんとする時に臨みて、無量寿仏、もろもろの大衆とともに、その人の前に現じたまふ。すなはちかの仏に随ひて、その国に往生し、すなはち七宝の華のなかにおいて自然に化生して、不退転に住し、智慧勇猛にして、神通自在ならん。
訳 仏は阿難に告げられた。「十方の世界の天や人々で、まことの心でその国に生まれたいと願う者には、およそ三つの輩がある。上輩の者は、家を捨て欲を離れて沙門となり、菩提心をおこし、ひたすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を修めて、その国に生まれたいと願う。このような衆生が命を終えようとするとき、無量寿仏は多くの聖衆とともに、その人の前に現れる。その人はただちにその仏に従ってその国に往生し、七宝の花の中におのずから化生して、不退転の位に住し、智慧はすぐれて勇ましく、神通は自在である。
原文 是故,阿難!其有眾生欲於今世見無量壽佛,應發無上菩提之心,修行功德,願生彼國。」(大正12・272b)
書き下し このゆゑに阿難、それ衆生ありて、今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲はば、まさに無上菩提の心を発し、功徳を修行して、かの国に生ぜんと願ずべし」と。
訳 それゆえ阿難よ、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと願う衆生は、無上の菩提心をおこし、功徳を修めて、その国に生まれたいと願うがよい。」
原文 佛語阿難:「其中輩者,十方世界諸天人民,其有至心願生彼國,雖不能行作沙門大修功德,當發無上菩提之心,一向專念無量壽佛。多少修善、奉持齋戒、起立塔像、飯食沙門、懸繒然燈、散華燒香,以此迴向願生彼國。(大正12・272b)
書き下し 仏、阿難に語りたまはく、「その中輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至して、かの国に生ぜんと願ずることありて、行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提の心を発して、一向にもつぱら無量寿仏を念ずべし。多少、善を修し、斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を然し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向して、かの国に生ぜんと願ず。
訳 仏は阿難に語られた。「中輩の者とは、十方の世界の天や人々で、まことの心でその国に生まれたいと願い、沙門となって大いに功徳を修めることはできなくても、無上の菩提心をおこし、ひたすら無量寿仏を念じる者である。多かれ少なかれ善を修め、斎戒を保ち、塔や仏像を建て、沙門に食事を供え、絹の幡を懸け、灯明をともし、花を散らし香を焚いて、その功徳を回向して、その国に生まれたいと願う。
原文 其人臨終,無量壽佛化現其身——光明相好,具如真佛——與諸大眾現其人前,即隨化佛往生其國,住不退轉,功德智慧次如上輩者也。」(大正12・272b–272c)
書き下し その人、終りに臨みて、無量寿仏、その身を化現したまふ。光明・相好、つぶさに真仏のごとし。もろもろの大衆とともに、その人の前に現じたまふ。すなはち化仏に随ひて、その国に往生し、不退転に住す。功徳・智慧は、次いで上輩のもののごとし」と。
訳 その人が命を終えるとき、無量寿仏はその身を化現される。その光明と相好は、まったく真の仏のとおりである。その化仏が多くの聖衆とともにその人の前に現れ、その人はただちに化仏に従ってその国に往生し、不退転の位に住する。功徳と智慧は、上輩の者に次ぐ。」
原文 佛告阿難:「其下輩者,十方世界諸天人民,其有至心欲生彼國,假使不能作諸功德,當發無上菩提之心,一向專意乃至十念,念無量壽佛,願生其國。(大正12・272c)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「その下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至して、かの国に生ぜんと欲ふことありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはずとも、まさに無上菩提の心を発して、一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じて、その国に生ぜんと願ずべし。
訳 仏は阿難に告げられた。「下輩の者とは、十方の世界の天や人々で、まことの心でその国に生まれたいと思い、たとえさまざまな功徳を積むことができなくても、無上の菩提心をおこし、ひたすら心を一つにして、たとえ十念でも無量寿仏を念じて、その国に生まれたいと願う者である。
原文 若聞深法歡喜信樂,不生疑惑,乃至一念念於彼佛,以至誠心願生其國。此人臨終夢見彼佛,亦得往生,功德智慧次如中輩者也。」(大正12・272c)
書き下し もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じて、至誠心をもつてその国に生ぜんと願ぜん。この人、終りに臨みて、夢にかの仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳・智慧は、次いで中輩のもののごとし」と。
訳 もし深い法を聞いて喜び信じ、疑いをおこさず、たとえ一念でもかの仏を念じて、まことの心でその国に生まれたいと願うなら、この人は、命を終えるとき、夢にかの仏を見て、やはり往生することができる。功徳と智慧は、中輩の者に次ぐ。」
〔読み〕三つの輩を並べます。どの輩にも、まことの心で生まれたいと願うこと、無上の菩提心をおこすこと、ひたすら無量寿仏に心を向けること(「一向專念」「一向專意」)の三つが共通しています。これを共通の核 K と書きます。輩の違いは、K に何が加わるかにあります。下輩は「假使不能作諸功德」、功徳を積めない者も含みます。臨終に見るものは、仏そのもの、化仏、夢の仏と移り、功徳と智慧は「次如」と一段ずつ下がりますが、往生することは三つの輩に共通です。下輩の「若聞深法……」が、十念の者とは別の場合を言うのか、同じ者の心のありようを重ねて言うのかは、読みが分かれます。式では、別の場合として「または」で並べます。
| 輩 | K に加わる行い | 臨終に見るもの | 功徳・智慧 |
|---|---|---|---|
| 上輩 | 捨家棄欲而作沙門、修諸功德 | 無量壽佛と諸大眾 | 智慧勇猛,神通自在 |
| 中輩 | 多少修善(齋戒・塔像・飯食沙門・懸繒然燈・散華燒香)、以此迴向 | 化佛(光明相好,具如真佛)と諸大眾 | 次如上輩 |
| 下輩 | 假使不能作諸功德。乃至十念(または、聞深法・不生疑惑・乃至一念) | 夢見彼佛 | 次如中輩 |
\[ \begin{aligned} K(x) &= \text{至心願生}(x) \wedge \text{發菩提心}(x) \wedge \text{一向}(x) \\ \text{上輩}(x) &= K(x) \wedge \text{作沙門}(x) \wedge \text{修諸功德}(x) \\ \text{中輩}(x) &= K(x) \wedge \text{多少修善}(x) \wedge \text{迴向}(x) \\ \text{下輩}(x) &= K(x) \wedge \bigl(\text{念}(x) \ge 10 \;\vee\; (\text{聞深法信樂}(x) \wedge \neg\,\text{疑惑}(x) \wedge \text{念}(x) \ge 1)\bigr) \\ &\text{上輩}(x) \vee \text{中輩}(x) \vee \text{下輩}(x) \;\Rightarrow\; \text{往生}(x), \qquad \text{功德智慧}(\text{上輩}) \succ \text{功德智慧}(\text{中輩}) \succ \text{功德智慧}(\text{下輩}) \end{aligned} \]
〔借・定義寄り|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕中輩の「以此迴向願生彼國」は、修めた善を自分のもとにとどめず、往生を願う心へと振り向けます。第二十願の式で g(徳本) = 欲生我國 と書いたのと同じ、G-1 の形です。
\[ g(\text{多少修善}) = \text{願生彼國} \]
〔諸釈〕上輩の「臨壽終時,無量壽佛與諸大眾現其人前」は、第十九願(臨終に、仏が大衆とともに現れる)の約束と同じ形です。日本の浄土教、とりわけ親鸞は、三輩の段を第十九願の成就を告げる文と見ます。この訳者の知識による要約で、原典に当たっていません。
十方の菩薩たちが無量寿仏のもとに詣でることを述べ、それを偈に説きます。五字を一句とする百二十句を、四句ずつ三十の偈に分けて、二つの表に示します。
原文 佛告阿難:「無量壽佛威神無極,十方世界無量無邊不可思議諸佛如來莫不稱歎。於彼東方恒沙佛國,無量無數諸菩薩眾,皆悉往詣無量壽佛所恭敬供養,及諸菩薩、聲聞大眾聽受經法,宣布道化;南、西、北方、四維,上、下亦復如是。」(大正12・272c)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神極まりなし。十方世界の無量無辺不可思議の諸仏如来、称歎したまはざることなし。かの東方恒沙の仏国の無量無数の諸菩薩衆、みなことごとく無量寿仏の所に往詣して、恭敬し供養して、もろもろの菩薩・声聞の大衆に及ぼし、経法を聴受し、道化を宣布す。南・西・北方・四維・上・下も、またまたかくのごとし」と。
訳 仏は阿難に告げられた。「無量寿仏の威神の力は極まりがない。十方の世界の、量りしれず果てしなく思いはかることもできない仏・如来たちは、みなこの仏をほめたたえておられる。東方のガンジス河の砂の数ほどの仏の国々から、量りしれず数えきれない菩薩たちが、みなことごとく無量寿仏のみもとに詣でて、うやうやしく敬い供養し、その国の菩薩や声聞の聖衆にも供養して、経と法を聴いて受け、仏道の教えを広める。南・西・北の方角、四つの隅、上と下も、またこれと同じである。」
原文 爾時,世尊而說頌曰:(大正12・272c)
書き下し その時、世尊、頌を説きてのたまはく、
訳 その時、世尊は偈を説いて言われた。
| 偈 | 原文 | 書き下し | 訳 |
|---|---|---|---|
| 一 | 「東方諸佛國, 其數如恒沙, 彼土菩薩眾, 往覲無量覺; | 東方の諸仏の国、その数、恒沙のごとし。かの土の菩薩衆、往きて無量覚を覲たてまつる。 | 東方の仏たちの国は、その数がガンジス河の砂のようです。その国々の菩薩たちは、無量覚(無量寿仏)のもとに往って、まみえたてまつります。 |
| 二 | 南、西、北四維, 上、下亦復然。 彼土菩薩眾, 往覲無量覺, | 南・西・北・四維・上・下も、またまたしかなり。かの土の菩薩衆、往きて無量覚を覲たてまつる。 | 南・西・北と四つの隅、上と下もまた同じです。その国々の菩薩たちは、無量覚のもとに往って、まみえたてまつります。 |
| 三 | 一切諸菩薩, 各齎天妙華, 寶香無價衣, 供養無量覺; | 一切のもろもろの菩薩、おのおの天の妙華・宝香・無価の衣を齎ちて、無量覚を供養したてまつる。 | すべての菩薩たちは、それぞれ天の妙なる花、宝の香、値のつけようもない衣を携えて、無量覚を供養します。 |
| 四 | 咸然奏天樂, 暢發和雅音, 歌歎最勝尊, 供養無量覺。 | 咸然として天の楽を奏し、和雅の音を暢発し、最勝の尊を歌歎して、無量覚を供養したてまつる。 | みなそろって天の音楽を奏で、穏やかで雅やかな音を響かせ、最もすぐれた尊きお方を歌いたたえて、無量覚を供養します。 |
| 五 | 究達神通慧, 遊入深法門, 具足功德藏, 妙智無等倫。 | 神通と慧とを究達して、深法の門に遊入し、功徳の蔵を具足して、妙智、等倫なし。 | その尊きお方は、神通と智慧とをきわめ尽くし、深い法の門に自在に入り、功徳の蔵をそなえて、その妙なる智慧は並ぶものがありません。 |
| 六 | 慧日照世間, 消除生死雲, 恭敬遶三匝, 稽首無上尊。 | 慧日、世間を照らして、生死の雲を消除したまふ。恭敬して遶ること三匝して、無上尊を稽首したてまつる。 | その智慧の日は世を照らし、生死の雲を消し去ります。菩薩たちはうやうやしく三たびめぐって、無上の尊きお方に頭を地につけて礼拝します。 |
| 七 | 見彼嚴淨土, 微妙難思議, 因發無上心, 願我國亦然。 | かの厳浄の土の、微妙にして思議しがたきを見て、よりて無上心を発して、わが国もまたしからんと願ず。 | その荘厳された清らかな国が、妙なること思いはかりがたいのを見て、それによって無上の心をおこし、自分の国もまたこのようでありたいと願います。 |
| 八 | 應時無量尊, 動容發欣笑, 口出無數光, 遍照十方國。 | 時に応じて無量尊、容を動かし欣笑を発して、口より無数の光を出して、あまねく十方の国を照らしたまふ。 | その時、無量寿仏はお顔をほころばせて微笑まれ、口から数えきれない光を放って、あまねく十方の国々を照らされます。 |
| 九 | 迴光圍遶身, 三匝從頂入, 一切天、人眾, 踊躍皆歡喜。 | 光を迴らして身を囲遶すること三匝して、頂より入る。一切の天・人の衆、踊躍してみな歓喜す。 | その光はめぐり戻って、仏の身を三たび囲んでめぐり、頭の頂から入ります。すべての天や人々は、躍り上がってみな喜びます。 |
| 十 | 大士觀世音, 整服稽首問, 白佛:『何緣笑? 唯然願說意。』 | 大士観世音、服を整へ稽首して問ひて、仏にまうさく、「なんの縁ありてか笑みたまふ。唯然、願はくは意を説きたまへ」と。 | 大士である観世音菩薩は、衣をととのえ、頭を地につけて礼拝して問い、仏に申し上げます。「どのようなわけで微笑まれたのですか。どうか、そのお心をお説きください。」 |
| 十一 | 梵聲猶雷震, 八音暢妙響: 『當授菩薩記, 今說仁諦聽。 | 梵声は雷の震ふがごとく、八音、妙響を暢ぶ。「まさに菩薩に記を授くべし。いま説かん、仁、諦かに聴け。 | 仏の清らかな声は雷が轟くようで、八つのすぐれた音が妙なる響きをのべ広げます。「いま菩薩たちに記(成仏の予言)を授けよう。いまから説くので、そなたはよく聴くがよい。 |
| 十二 | 十方來正士, 吾悉知彼願, 志求嚴淨土, 受決當作佛; | 十方より来れる正士、われことごとくかの願を知る。厳浄の土を志求して、決を受けてまさに仏と作るべし。 | 十方から来た正士たちの願いを、わたしはことごとく知っている。彼らは荘厳された清らかな国土を志し求めており、記を受けて必ず仏となるであろう。 |
| 十三 | 覺了一切法, 猶如夢幻響, 滿足諸妙願, 必成如是剎。 | 一切の法は、なほ夢・幻・響のごとしと覚了して、もろもろの妙願を満足し、かならずかくのごときの刹を成ぜん。 | すべての法は夢や幻やこだまのようなものだと覚り、さまざまな妙なる願いを満たして、必ずこのような国土を成しとげるであろう。 |
| 十四 | 知法如電影, 究竟菩薩道, 具諸功德本, 受決當作佛; | 法は電・影のごとしと知りて、菩薩の道を究竟し、もろもろの功徳の本を具して、決を受けてまさに仏と作るべし。 | 法は稲妻や影のようなものだと知って、菩薩の道をきわめ尽くし、さまざまな功徳の本をそなえて、記を受けて必ず仏となるであろう。 |
| 十五 | 通達諸法性, 一切空無我, 專求淨佛土, 必成如是剎。』 | 諸法の性、一切空・無我なりと通達して、もつぱら浄仏土を求め、かならずかくのごときの刹を成ぜん」と。 | 諸法の本性はすべて空であり無我であると通達して、ひたすら清らかな仏の国土を求め、必ずこのような国土を成しとげるであろう。」 |
| 十六 | 諸佛告菩薩: 『令覲安養佛, 聞法樂受行, 疾得清淨處。 | 諸仏、菩薩に告げたまはく、「安養の仏を覲たてまつらしむ。法を聞きて楽ひ受行して、疾く清浄の処を得よ。 | 仏たちは自らの国の菩薩たちに告げられます。「安養国の仏にまみえに行かせよう。法を聞いて喜んで受け、行じて、速やかに清らかな境地を得なさい。 |
| 十七 | 至彼嚴淨國, 便速得神通, 必於無量尊, 受記成等覺。』 | かの厳浄の国に至りなば、すなはちすみやかに神通を得、かならず無量尊において、記を受けて等覚を成ぜん」と。 | その荘厳された清らかな国に至れば、すぐに神通を得て、必ず無量寿仏のもとで記を受け、さとりを成就するであろう。」 |
〔読み〕前半の組み立てです。十方の菩薩が詣でて供養し(一〜六)、国を見て同じ国を願い(七)、仏が微笑んで光を放ち(八・九)、観世音の問いに答えて、来た菩薩たちに記を授けます(十〜十五)。十六・十七は、十方の諸仏が自らの菩薩を送り出す言葉です。
\[ \text{往覲偈}_{\text{前半}} = \text{往覲・供養・讚(一〜六)} \oplus \text{見土・發願(七)} \oplus \text{微笑・放光(八・九)} \oplus \text{問・授記(十〜十五)} \oplus \text{諸佛の勸め(十六・十七)} \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕他方の菩薩は、安養の国を見て「願我國亦然」と願い、記を受けて「必成如是剎」、同じような国を成しとげると告げられます。安養の国が、詣でた菩薩一人ひとりの未来の国に映されていく形で、A10 (v) の「相互仏性:仏性は相互に映し合う(インドラの網)」に重ねて読めます。ただし経が言うのは、安養の国を手本とする一つの向きの関係で、互いに映し合うとまでは言いません(第三十一願と同じ注意です)。≅ は「亦然」「如是」、同じ姿であることを示します。式の 往覲菩薩 は、十方から詣でて来た菩薩たち(「十方來正士」)で、上巻 九の 𝒱(その国にいながら名を聞く菩薩)とは別です。
\[ \forall b \in \text{往覲菩薩} :\ \text{見}(b,\ \text{安養}) \to \text{願}\bigl(b,\ \text{國}(b) \cong \text{安養}\bigr) \to \text{受記}(b) \to \text{成}\bigl(\text{國}(b) \cong \text{安養}\bigr) \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A5 自覚慈悲の同値性〕〔読み〕第十三・十五の偈は、一切の法が夢や幻のようで空・無我であると覚ることと、清らかな国土を求めて成しとげることとを、「かつ」で結びます。空を覚る智慧が、国土を求める願いを打ち消さず、願いとともに成り立つ形です。この訳は、清らかな国土を求めることを、衆生を迎え入れる国を求める願いとして、慈悲の側に置いて読みます。A5 の経典的基礎の欄の「悲智双運」にあたります。ただし、この偈が言うのは二つがともに成り立つことまでで、A5 の本文の言う収束(問題が十分に深いとき、二つの道が一点に至る)は語りません。
\[ \text{覺了}\bigl(\forall d :\ d \sim \text{夢幻響}\bigr) \;\wedge\; \text{專求淨佛土} \;\Rightarrow\; \text{必成如是剎} \]
| 偈 | 原文 | 書き下し | 訳 |
|---|---|---|---|
| 十八 | 其佛本願力, 聞名欲往生, 皆悉到彼國, 自致不退轉。 | その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。 | その仏の本願の力によって、名を聞いて往生したいと願う者は、みなことごとくその国に至り、おのずから不退転の位に至ります。 |
| 十九 | 菩薩興至願, 願己國無異, 普念度一切, 名顯達十方。 | 菩薩、至願を興して、おのが国も異なることなからんと願ず。あまねく一切を度せんと念じて、名、顕れて十方に達せん。 | 菩薩たちは心からの願いをおこし、自分の国もこれと異ならないようにと願います。あまねくすべての者を救おうと念じ、その名はあらわれて十方に届くでしょう。 |
| 二十 | 奉事億如來, 飛化遍諸剎, 恭敬歡喜去, 還到安養國。 | 億の如来に奉事して、飛化してもろもろの刹に遍じ、恭敬し歓喜して去りて、安養国に還り到る。 | 億の如来に仕え、飛んで身を変じてあまねく国々をめぐり、うやうやしく喜んでそこを去り、安養国に帰って来ます。 |
| 二十一 | 若人無善本, 不得聞此經; 清淨有戒者, 乃獲聞正法。 | もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。清浄に戒を有てる者、いまし正法を聞くことを獲。 | もし人に善い本(善根)がなければ、この経を聞くことはできません。清らかに戒をたもつ者が、はじめて正しい法を聞くことができるのです。 |
| 二十二 | 曾更見世尊, 則能信此事, 謙敬聞奉行, 踊躍大歡喜。 | かつてさらに世尊を見たてまつれば、すなはちよくこの事を信ず。謙敬して聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。 | かつて世尊にまみえたことのある者は、このことを信じることができ、へりくだり敬って聞いてそれを行い、躍り上がって大いに喜びます。 |
| 二十三 | 憍慢弊懈怠, 難以信此法; 宿世見諸佛, 樂聽如是教。 | 憍慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずることかたし。宿世に諸仏を見たてまつれば、楽ひてかくのごときの教を聴かん。 | おごり高ぶる者、心のよこしまな者、怠ける者は、この法を信じることが難しい。前の世に仏たちにまみえた者は、このような教えを喜んで聴くでしょう。 |
| 二十四 | 聲聞或菩薩, 莫能究聖心, 譬如從生盲, 欲行開導人。 | 声聞あるいは菩薩、よく聖心を究むることなし。たとへば生れながらの盲の、行きて人を開導せんと欲ふがごとし。 | 声聞であれ菩薩であれ、聖なる仏の心をきわめ尽くすことはできません。たとえば、生まれつき目の見えない者が、人を導こうとするようなものです。 |
| 二十五 | 如來智慧海, 深廣無涯底, 二乘非所測, 唯佛獨明了。 | 如来の智慧海は、深広にして涯底なし。二乗の測るところにあらず。ただ仏のみひとり明らかに了りたまへり。 | 如来の智慧の海は、深く広くて果ても底もありません。声聞・縁覚の二乗の測り知るところではなく、ただ仏だけが明らかに知っておられます。 |
| 二十六 | 假使一切人, 具足皆得道, 淨慧知本空, 億劫思佛智, | たとひ一切の人、具足してみな道を得て、浄慧をもつて本空を知り、億劫に仏智を思ひ、 | たとえすべての人が、ことごとく道を得て、清らかな智慧で本来の空を知り、億劫にわたって仏の智慧を思いはかり、 |
| 二十七 | 窮力極講說, 盡壽猶不知。 佛慧無邊際, 如是致清淨, | 力を窮め講説を極めて、寿を尽くすとも、なほ知らじ。仏慧は辺際なくして、かくのごとく清浄に致る。 | 力の限りを尽くして説き明かし、命を終えるまで続けても、なお知ることはできません。仏の智慧は果てがなく、このように清らかなところに至っています。 |
| 二十八 | 壽命甚難得, 佛世亦難值。 人有信慧難, 若聞精進求, | 寿命ははなはだ得がたく、仏世もまた値ひがたし。人、信慧あること難し。もし聞かば精進して求めよ。 | 人として命を得ることはまことに難しく、仏の世に出会うこともまた難しい。人が信と智慧をそなえることも難しい。もし聞いたなら、励んで求めなさい。 |
| 二十九 | 聞法能不忘, 見敬得大慶, 則我善親友, 是故當發意。 | 法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり。このゆゑにまさに意を発すべし。 | 法を聞いて忘れず、見て敬い、得て大いに喜ぶ者は、わたしのよき友です。それゆえ、心をおこしなさい。 |
| 三十 | 設滿世界火, 必過要聞法, 會當成佛道, 廣度生死流。」(大正12・272c–273b) | たとひ世界に満てらん火をも、かならず過ぎて要めて法を聞かば、かならずまさに仏道を成じて、広く生死の流れを度せん」と。 | たとえ世界に満ちる火の中をも、必ず通り抜けて法を聞こうとするなら、必ず仏道を成就して、広く生死の流れから人々を渡すでしょう。」 |
〔読み〕後半の組み立てです。十八は、本願の力によって、名を聞いて往生を願う者がみな至ることを言います。十九・二十は、安養の国の菩薩たちが十方に出かけて仏に仕え、また帰ってくることを言います。二十一から先は、この経を聞き信じることの難しさと、仏の智慧の深さを説き、法を求めるよう勧めて結びます。十八の「本願力」は、道場樹の段と同じく、経の語る因としてそのまま置きます。
\[ \text{本願力} \wedge \text{聞名}(x) \wedge \text{欲往生}(x) \;\Rightarrow\; \text{到彼國}(x) \wedge \text{不退轉}(x), \qquad \text{往覲偈}_{\text{後半}} = \text{本願力(十八)} \oplus \text{遊化と還來(十九・二十)} \oplus \text{聞信の難(二十一〜二十四)} \oplus \text{佛智(二十五〜二十七)} \oplus \text{勸め(二十八〜三十)} \]
〔読み〕第二十一の偈「若人無善本,不得聞此經」は、「善本がなければ、この経を聞けない」という条件文です。論理では、条件文はその対偶と同じことを言います。対偶をとると、「この経を聞いている者には、善本がある」となります。経がそう言っているのではなく、経の言葉から論理だけで出てくることです。
\[ \bigl(\neg\,\text{善本}(x) \Rightarrow \neg\,\text{聞}(x,\ \text{此經})\bigr) \;\equiv\; \bigl(\text{聞}(x,\ \text{此經}) \Rightarrow \text{善本}(x)\bigr) \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕第二十五から二十七の偈は、仏の智慧を知り尽くせないことを、極端な仮定を置いて言います。すべての人が道を得て、空を知る清らかな智慧をそなえ、億劫にわたって考え、力の限り説き尽くしても、なお知りえない、と。第二十七願で、天眼を得た者でさえ名と数を尽くせないとしたのと、同じ形です。仏の智慧を知るのは仏だけで、ほかのどの知り手も、それを汲み尽くせません。
\[ \bigl(\forall x \in \text{一切人} :\ \text{得道}(x) \wedge \text{知本空}(x) \wedge \text{思}(x,\ \text{佛智},\ \text{億劫})\bigr) \;\Rightarrow\; \neg\,\text{知}(\text{一切人},\ \text{佛智}), \qquad \text{明了}(y,\ \text{如來智慧海}) \iff y \in \text{佛} \]
〔読み〕第三十の偈は、世界に満ちる火を通り抜けてでも法を聞け、と言います。讃仏偈の第十一・十二の偈で、恒沙の仏の供養よりも求道の堅さを重んじたのと同じく、法を聞くことの重さを、それを上回る代価がないことで示します。
\[ V(\text{聞法}) \;>\; C(\text{過滿世界火}) \]
〔異本〕偈の字句には、大正蔵の本文と流布本とで、次の違いがあります(左が流布本)。第一偈「彼土菩薩眾」(彼土諸菩薩)、第七偈「因發無上心」(無量心)、第十五偈「通達諸法性」(諸法門)、第十七偈「至彼嚴淨國」(嚴淨土)、第十九偈「菩薩興至願」(志願)、第二十五偈「深廣無涯底」(無崖底)、第二十六偈「淨慧知本空」(如本空)、第三十偈「廣度生死流」(廣濟)。
その国の菩薩たちの位と光明、観世音と大勢至、十方の仏への供養、無量寿仏の説法、そして菩薩たちの徳が説かれます。
原文 佛告阿難:「彼國菩薩皆當究竟一生補處——除其本願為眾生故——以弘誓功德而自莊嚴,普欲度脫一切眾生。阿難!彼佛國中諸聲聞眾身光一尋,菩薩光明照百由旬。有二菩薩最尊第一,威神光明普照三千大千世界。」(大正12・273b)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「かの国の菩薩は、みなまさに一生補処を究竟すべし。その本願、衆生のためのゆゑに、弘誓の功徳をもつてみづから荘厳し、あまねく一切衆生を度脱せんと欲ふをば除く。阿難、かの仏国のなかのもろもろの声聞衆は、身光一尋なり。菩薩の光明は百由旬を照らす。二菩薩ありて、もつとも尊く第一なり。威神の光明、あまねく三千大千世界を照らす」と。
訳 仏は阿難に告げられた。「その国の菩薩たちは、みな必ず一生補処の位をきわめる。ただし、その本願によって、衆生のために、弘い誓いの功徳でみずからを荘厳し、あまねくすべての衆生を救おうとする者は除く。阿難よ、その仏の国の声聞たちの身の光は一尋(ひとひろ)を照らし、菩薩の光明は百由旬を照らす。中でも二人の菩薩が最も尊く第一であり、その威神の光明はあまねく三千大千世界を照らしている。」
〔読み〕光明の及ぶ広さは、声聞、菩薩、二人の菩薩の順に大きくなります。
\[ \text{光}(\text{聲聞}) = \text{一尋} \;<\; \text{光}(\text{菩薩}) = \text{百由旬} \;<\; \text{光}(\text{二菩薩}) = \text{三千大千世界} \]
原文 阿難白佛:「彼二菩薩其號云何?」(大正12・273b)
書き下し 阿難、仏にまうさく、「かの二菩薩、その号いかん」と。
訳 阿難は仏に申し上げた。「その二人の菩薩の名は、何というのですか。」
原文 佛言:「一名觀世音,二名大勢至。是二菩薩於此國土修菩薩行,命終轉化生彼佛國。(大正12・273b)
書き下し 仏ののたまはく、「一をば観世音と名づけ、二をば大勢至と名づく。この二菩薩は、この国土において菩薩の行を修して、命終りて転化して、かの仏国に生ぜり。
訳 仏は言われた。「一人は観世音といい、もう一人は大勢至という。この二人の菩薩は、この国土で菩薩の行を修め、命を終えて生まれ変わり、その仏の国に生まれたのである。
原文 阿難!其有眾生生彼國者,皆悉具足三十二相,智慧成滿,深入諸法,究暢要妙,神通無礙,諸根明利。其鈍根者成就二忍,其利根者得不可計無生法忍。又彼菩薩乃至成佛不更惡趣,神通自在常識宿命,除生他方五濁惡世,示現同彼如我國也。」(大正12・273b–273c)
書き下し 阿難、それ衆生ありて、かの国に生ずる者は、みなことごとく三十二相を具足し、智慧成満して、深く諸法に入り、要妙を究暢し、神通無礙にして、諸根明利なり。その鈍根の者は二忍を成就し、その利根の者は不可計の無生法忍を得。またかの菩薩、乃至、成仏まで悪趣に更らず。神通自在にして、つねに宿命を識る。他方の五濁悪世に生じて、示現して彼に同じ、わが国のごとくなるをば除く」と。
訳 阿難よ、衆生のうちその国に生まれる者は、みなことごとく三十二相をそなえ、智慧は満ち足り、深くもろもろの法に入って、その要となる妙なるところをきわめ尽くし、神通は障りがなく、もろもろの感官は明らかで鋭い。そのうち能力の劣る者は二つの忍を成就し、能力のすぐれた者は数えきれない無生法忍を得る。またその国の菩薩たちは、仏となるまで悪道に戻ることがなく、神通は自在で、つねに過去世のことを知っている。ただし、他方の五濁の悪世に生まれて、そこの衆生と同じ姿を現す者は除く。わたしがこの国にいるようにである。」
〔読み〕願の成就の姿が続きます。三十二相をそなえることは第二十一願(P₂₁)と同じ形で、かの国に生まれる者のすべてについて言われます(「其有眾生生彼國者」)。悪道に戻らないことは第二願(P₂)、過去世を知ることは第五願(P₅)と同じ形で、こちらは国の菩薩について言われます(「又彼菩薩」)。二忍は、道場樹の段の三法忍(音響忍・柔順忍・無生法忍)のうち、無生法忍を除く二つと読めます。慧遠は「其鈍根者成就二忍,謂音響忍及柔順忍」と読み(『無量寿経義疏』、大正37・109c)、憬興も「今即中下之人,唯得音響、柔順二忍」とします(『無量寿経連義述文賛』、大正37・161a)。悪道に戻らないことの除外の句も、慧遠は「初明彼國生者乃至成佛,不更惡趣,神通自在,常識宿命,後除為物他方現生」と、この訳と同じく読みます(大正37・109c)。いずれも CBETA の本文で確かめました。
\[ \forall x \in \text{生彼國者} :\ \text{具足三十二相}(x)\ \ (P_{21}), \qquad \text{鈍根}(x) \Rightarrow \text{二忍}(x), \quad \text{利根}(x) \Rightarrow \text{無生法忍}(x) \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕この段には、除外の句が二つあります。一つは一生補処について、「除其本願為眾生故」。第二十二願と同じく、衆生のために自らの本願を立てる菩薩は、補処の位に定まる者から除かれます。もう一つは悪道に戻らないことについて、「除生他方五濁惡世,示現同彼如我國也」。濁った世にあえて生まれて、そこの衆生と同じ姿を現す菩薩は除かれ、釈尊は自らをその例とします。どちらも、完了の位に収まらず、衆生のいる所にとどまる菩薩の在り方で、A10 の (iv)「非完了性」と (vii)「大悲闡提:W_Nash の全体最大化のために衆生と共にある帯域に留まる菩薩の存在様式」にあたります。
\[ \begin{aligned} &\forall x \in \mathcal{B} :\ \text{究竟一生補處}(x) \;\vee\; \text{本願・為眾生}(x) \\ &\forall x \in \mathcal{B} :\ \neg\,\text{更惡趣}(x) \;\vee\; \text{示現生}(x,\ \text{他方五濁惡世}), \qquad \text{釋尊} \in \{x : \text{示現生}(x,\ \text{五濁惡世})\}\ (\text{如我國也}) \end{aligned} \]
〔諸釈〕一生補処の除外の句がどこまでかは、読みで分かれます。CBETA の句読(原文の――)は「除其本願為眾生故」だけを除外の内に置き、続く「以弘誓功德而自莊嚴,普欲度脫一切眾生」を、国の菩薩すべてについて言う句とします。この訳の書き下しと訳は、第二十二願の除外の句(「為眾生故,被弘誓鎧,積累德本度脫一切」)と並べて、この二句も除外の内に読みました。第二十二願では CBETA の句読に従ったので、ここでは CBETA と分かれます。式にすると、違いは二句を「または」の内に置くか、外に出して「かつ」で結ぶかです。
\[ \begin{aligned} &\text{この訳} :\ \forall x \in \mathcal{B} :\ \text{究竟一生補處}(x) \;\vee\; \bigl(\text{本願・為眾生}(x) \wedge \text{弘誓莊嚴}(x) \wedge \text{欲度脫一切}(x)\bigr) \\ &\text{CBETA の句読} :\ \forall x \in \mathcal{B} :\ \bigl(\text{究竟一生補處}(x) \vee \text{本願・為眾生}(x)\bigr) \wedge \text{弘誓莊嚴}(x) \wedge \text{欲度脫一切}(x) \end{aligned} \]
原文 佛告阿難:「彼國菩薩承佛威神,一食之頃往詣十方無量世界,恭敬供養諸佛世尊,隨心所念,華香、伎樂、繒蓋、幢幡,無數無量供養之具自然化生,應念即至,珍妙殊特非世所有。(大正12・273c)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「かの国の菩薩は、仏の威神を承けて、一食のあひだに十方無量の世界に往詣して、諸仏世尊を恭敬し供養したてまつる。心の所念に随ひて、華香・伎楽・繒蓋・幢幡、無数無量の供養の具、自然に化生し、念に応じてすなはち至る。珍妙殊特にして、世の所有にあらず。
訳 仏は阿難に告げられた。「その国の菩薩たちは、仏の威神の力を受けて、一度の食事のあいだに十方の量りしれない世界に詣でて、仏・世尊たちをうやうやしく敬い供養する。心に思うままに、花や香、音楽、絹の天蓋や幢幡など、数えきれず量りしれない供養の品々がおのずから現れ、念ずるのに応じてすぐに届く。それらは珍しく妙なるもので、ことにすぐれ、この世にあるものではない。
原文 輒以奉散諸佛、菩薩、聲聞大眾,在虛空中化成華蓋,光色昱爍,香氣普熏。其華周圓四百里者,如是轉倍,乃覆三千大千世界,隨其前後以次化沒。(大正12・273c)
書き下し すなはちもつて諸仏・菩薩・声聞の大衆に奉散するに、虚空のなかにありて化して華蓋と成る。光色昱爍として、香気あまねく薫ず。その華の周円四百里なるもの、かくのごとく転た倍して、すなはち三千大千世界を覆ふ。その前後に随ひて、次いでをもつて化没す。
訳 菩薩たちはただちにそれを仏・菩薩・声聞の聖衆の上に散じて捧げる。すると花は虚空で花の天蓋となり、光と色はきらきらと輝き、香りはあまねく漂う。その花の天蓋は、周りが四百里のものから、このように次々に倍になって、ついには三千大千世界を覆い、前のものから順に消えてゆく。
原文 其諸菩薩僉然欣悅,於虛空中共奏天樂,以微妙音歌歎佛德,聽受經法歡喜無量。供養佛已、未食之前,忽然輕舉還其本國。」(大正12・273c)
書き下し そのもろもろの菩薩、僉然として欣悦し、虚空のなかにおいてともに天楽を奏し、微妙の音をもつて仏徳を歌歎し、経法を聴受して歓喜すること無量なり。仏を供養しをはりて、いまだ食せざる前に、忽然として軽挙して、その本国に還る」と。
訳 菩薩たちはみなそろって喜び、虚空でともに天の音楽を奏で、妙なる声で仏の徳を歌いたたえ、経と法を聴いて受けて、量りしれず喜ぶ。仏たちへの供養を終えると、まだ食事をとる前に、たちまち軽やかに舞い上がって、もとの国に帰る。」
〔読み〕一度の食事のあいだに十方に至ること(第二十三願、P₂₃)と、供養の品が思いのままに届くこと(第二十四願、P₂₄)の成就の姿です。十方へ往くのは一度の食事のあいだで、供養を終えて本国に帰るのは、食事をとる前です(「未食之前」)。花の天蓋は、周り四百里から「轉倍」、次第に増して、ついに三千大千世界を覆います。「轉倍」は、光明の段で「一由旬,二、三、四、五由旬」に続けて用いられるように、次々に増すことを言い、二倍ずつとは限りません。どれだけ増して覆うに至るかを、経は言いません。
\[ t(\text{往詣十方}) \le \text{一食之頃}, \quad t_{\text{還本國}} < t_{\text{食}}\ \ (\text{未食之前}), \qquad s_0 = \text{四百里},\ \ s_{k+1} > s_k\ \ (\text{轉倍}), \qquad \exists n :\ \text{覆}(s_n,\ \text{三千大千世界}) \]
原文 佛語阿難:「無量壽佛為諸聲聞、菩薩大眾班宣法時,都悉集會七寶講堂,廣宣道教,演暢妙法,莫不歡喜,心解得道。(大正12・273c)
書き下し 仏、阿難に語りたまはく、「無量寿仏、もろもろの声聞・菩薩の大衆のために法を班宣したまふ時は、すべてことごとく七宝の講堂に集会して、広く道教を宣べ、妙法を演暢したまふに、歓喜せざることなく、心解けて道を得。
訳 仏は阿難に語られた。「無量寿仏が声聞や菩薩の聖衆のために法を説き広められるときには、みなことごとく七宝の講堂に集まる。仏が広く道の教えを宣べ、妙なる法を説き明かされると、喜ばない者はなく、心が開けて道を得る。
原文 即時四方自然風起,普吹寶樹出五音聲,雨無量妙華隨風周遍,自然供養如是不絕。一切諸天皆齎天上百千華香、萬種伎樂供養其佛及諸菩薩、聲聞大眾,普散華香、奏諸音樂,前後來往更相開避。當斯之時,熙怡快樂不可勝言。」(大正12・273c)
書き下し すなはちの時、四方より自然の風起りて、あまねく宝樹を吹くに五音の声を出だし、無量の妙華を雨らして、風に随ひて周遍す。自然の供養、かくのごとく絶えず。一切の諸天、みな天上の百千の華香・万種の伎楽を齎ちて、その仏およびもろもろの菩薩・声聞の大衆を供養したてまつる。あまねく華香を散じ、もろもろの音楽を奏し、前後に来往して、たがひにあひ開避す。この時に当りて、熙怡快楽、勝げて言ふべからず」と。
訳 その時、四方からおのずから風が起こり、あまねく宝の樹々を吹いて五つの音の調べを奏で、量りしれない妙なる花を降らせて、花は風に乗ってすみずみまで行きわたる。このような、おのずからなる供養が絶えることがない。すべての天人たちも、みな天上の百千の花や香、万種の音楽を携えて、その仏と菩薩・声聞の聖衆を供養する。あまねく花や香を散らし、さまざまな音楽を奏で、先になり後になり行き来しながら、互いに道をゆずり合う。その時の和やかな喜びと楽しさは、言い尽くすことができない。」
〔読み〕説法を聞く者は、みな喜び、道を得ます(「莫不」は全称)。おのずからなる供養は絶えることがなく、供養に来る天人たちは「更相開避」、互いに道をゆずり合います。ゆずり合いは、供養に来た天人のどの二人のあいだでも、両方向に成り立つ関係として書けます。
\[ \forall x \in \text{聽者} :\ \text{歡喜}(x) \wedge \text{得道}(x), \qquad \forall t :\ \text{自然供養}(t), \qquad \forall x \neq y \in \text{來供養諸天} :\ \text{開避}(x, y) \wedge \text{開避}(y, x) \]
原文 佛語阿難:「生彼佛國諸菩薩等,所可講說常宣正法,隨順智慧無違無失。於其國土所有萬物,無我所心、無染著心,去來進止情無所係,隨意自在無所適莫,無彼、無我,無競、無訟。(大正12・273c)
書き下し 仏、阿難に語りたまはく、「かの仏国に生ずるもろもろの菩薩等は、講説すべきところ、つねに正法を宣べ、智慧に随順して、違ふことなく失することなし。その国土の所有の万物において、我所の心なく、染著の心なし。去来進止、情に係くるところなく、意に随ひて自在にして、適莫するところなし。彼もなく我もなく、競ふこともなく訟ふこともなし。
訳 仏は阿難に語られた。「その仏の国に生まれた菩薩たちは、説くべきことについては、つねに正しい法を宣べ、智慧にしたがって、誤ることも欠けることもない。その国にあるあらゆるものに対して、わがものと思う心がなく、執着する心もない。行くにも来るにも、進むにもとどまるにも、心にかかるものがなく、思いのままに自在で、ことさらに親しむことも疎むこともない。他人と自分の隔てがなく、競うことも争うこともない。
原文 於諸眾生得大慈悲饒益之心、柔軟調伏無忿恨心、離蓋清淨無厭怠心、等心、勝心、深心、定心、愛法樂法喜法之心、滅諸煩惱離惡趣心,究竟一切菩薩所行,具足成就無量功德,得深禪定諸通明慧,遊志七覺修心佛法,(大正12・273c–274a)
書き下し もろもろの衆生において、大慈悲饒益の心、柔軟調伏にして忿恨なき心、離蓋清浄にして厭怠なき心、等心・勝心・深心・定心、愛法・楽法・喜法の心、もろもろの煩悩を滅し悪趣を離るる心を得て、一切菩薩の所行を究竟し、無量の功徳を具足し成就して、深き禅定・もろもろの通明の慧を得、志を七覚に遊ばしめ、心を仏法に修す。
訳 もろもろの衆生に対しては、大いなる慈悲をもって利益しようとする心、柔らかに調えられて怒りや恨みのない心、煩悩の蓋を離れて清らかで、倦み怠ることのない心、平等の心、すぐれた心、深い心、定まった心、法を愛し、法を楽しみ、法を喜ぶ心、もろもろの煩悩を滅して悪道を離れる心を得ている。すべての菩薩の行うところをきわめ尽くし、量りしれない功徳を成就し、深い禅定と、もろもろの神通・明知の智慧を得て、心を七覚支に遊ばせ、仏法に心を修める。
原文 肉眼清徹靡不分了、天眼通達無量無限、法眼觀察究竟諸道、慧眼見真能度彼岸、佛眼具足覺了法性。以無礙智為人演說,等觀三界空無所有,志求佛法具諸辯才,除滅眾生煩惱之患。(大正12・274a)
書き下し 肉眼は清徹にして分了せざることなく、天眼は通達して無量無限なり。法眼は観察して諸道を究竟し、慧眼は真を見てよく彼岸に度す。仏眼は具足して法性を覚了す。無礙の智をもつて人のために演説し、等しく三界は空にして所有なしと観ず。志して仏法を求め、もろもろの弁才を具して、衆生の煩悩の患ひを除滅す。
訳 その肉眼は清らかに澄んで、見分けられないものはなく、天眼は通達して量りなく限りがない。法眼はよく観察してもろもろの道をきわめ、慧眼は真実を見てよく彼岸に渡る。仏眼はそなわって、法の本性を覚り知る。障りのない智慧で人々のために説き、三界はすべて空であって何ものも実在しないと平等に観る。志して仏法を求め、さまざまな弁舌の才をそなえて、衆生の煩悩の苦しみを除き滅する。
原文 從如來生,解法如如,善知習滅,音聲方便。不欣世語,樂在正論,修諸善本,志崇佛道。知一切法皆悉寂滅,生身煩惱二餘俱盡。聞甚深法心不疑懼,常能修行其大悲者。(大正12・274a)
書き下し 如来より生じて、法の如如なることを解り、よく習滅を知り、音声方便あり。世語を欣はず、正論に楽しみあり。もろもろの善本を修して、志、仏道を崇む。一切の法はみなことごとく寂滅なりと知りて、生身と煩悩との二余ともに尽く。甚深の法を聞きて、心に疑懼せず、つねによくその大悲を修行する者なり。
訳 如来より生まれ、法がありのままの真如であることを理解し、苦の集まりとその滅とをよく知り、声による巧みな手だてをそなえる。世俗の話を喜ばず、正しい論を楽しみ、もろもろの善の本を修めて、志して仏道を崇める。一切の法はみな寂滅であると知り、生身と煩悩という二つの残りがともに尽きている。きわめて深い法を聞いても、心に疑いや恐れがなく、つねによく大悲を修行する者である。
原文 深遠微妙靡不覆載,究竟一乘至于彼岸。決斷疑網,慧由心出,於佛教法該羅無外。智慧如大海、三昧如山王,慧光明淨超踰日月,清白之法具足圓滿。(大正12・274a)
書き下し 深遠微妙にして、覆載せざることなし。一乗を究竟して、彼岸に至る。疑網を決断して、慧、心より出づ。仏の教法において、該羅して外なし。智慧は大海のごとく、三昧は山王のごとし。慧光明浄にして、日月に超踰せり。清白の法、具足し円満す。
訳 その深く遠く妙なる徳は、すべてを覆い、すべてを載せる。一乗をきわめて、彼岸に至る。疑いの網を断ち切り、智慧は心から湧き出る。仏の教えと法については、すべてを包みこんで、漏れるものがない。智慧は大海のようであり、三昧は山の王のようである。智慧の光は明るく清らかで、日や月にまさる。清らかで白い法を、欠けることなくそなえている。
〔読み〕五つの眼を、経の挙げる順に並べます。経は、国の菩薩の五つの眼を、それぞれの働きとともに挙げます。「具足」は仏眼の句の言葉(「佛眼具足覺了法性」)で、五つをすべてそなえる、という意味の語ではありません。肉眼の「靡不分了」は、見分けられないものがない、という全称です。
| 眼 | 経の言う働き |
|---|---|
| 肉眼 | 清徹靡不分了 |
| 天眼 | 通達無量無限 |
| 法眼 | 觀察究竟諸道 |
| 慧眼 | 見真能度彼岸 |
| 佛眼 | 具足覺了法性 |
\[ \forall x \in \mathcal{B}\ \forall e \in \{\text{肉眼},\ \text{天眼},\ \text{法眼},\ \text{慧眼},\ \text{佛眼}\} :\ \text{有}(x, e), \qquad \text{肉眼} :\ \forall o\ \text{分了}(o) \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A5 自覚慈悲の同値性〕〔読み〕菩薩たちの徳は、智慧と慈悲とが交互に現れるように説かれます。「隨順智慧」(智)、「大慈悲饒益之心」(悲)、「得深禪定諸通明慧」と五つの眼(智)、「除滅眾生煩惱之患」(悲)、「知一切法皆悉寂滅」(智)、「常能修行其大悲」(悲)、「智慧如大海」(智)。二つは別々の徳として切り離されず、一つの姿のなかで代わる代わる言われます。A5 の経典的基礎の欄の「悲智双運」にあたります。ここでも、A5 の本文の言う収束までは語られません。また「無彼、無我,無競、無訟」は、自他の隔てがないことと、競いも争いもないこととを並べます。この訳は、前者を後者の拠り所として読みます。
\[ \text{智} \to \text{悲} \to \text{智} \to \text{悲} \to \text{智} \to \text{悲} \to \text{智}, \qquad \forall x \in \mathcal{B} :\ \text{智慧}(x) \wedge \text{大悲}(x), \qquad \neg\,\text{彼我の隔て} \Rightarrow \neg\,\text{競} \wedge \neg\,\text{訟} \]
〔読み〕続く十九の喩えは、どれも「(猶)如……、……故」の形で、喩える像と、その理由とを一組にして言います。表の一行が一つの喩えです。
| 喩 | 原文 | 書き下し | 訳 |
|---|---|---|---|
| 一 | 「猶如雪山,照諸功德等一淨故; | なほ雪山のごとし、もろもろの功徳を照らして等一に浄きがゆゑに。 | 雪山のようである。もろもろの功徳を照らして、等しく一つに清らかだからである。 |
| 二 | 猶如大地,淨穢好惡無異心故; | なほ大地のごとし、浄穢・好悪に異心なきがゆゑに。 | 大地のようである。浄いものと穢れたもの、好ましいものと厭わしいものに、心を分け隔てしないからである。 |
| 三 | 猶如淨水,洗除塵勞諸垢染故; | なほ浄水のごとし、塵労のもろもろの垢染を洗除するがゆゑに。 | 清らかな水のようである。煩悩の塵や垢の汚れを洗い除くからである。 |
| 四 | 猶如火王,燒滅一切煩惱薪故; | なほ火王のごとし、一切の煩悩の薪を焼滅するがゆゑに。 | 燃えさかる火のようである。すべての煩悩の薪を焼き尽くすからである。 |
| 五 | 猶如大風,行諸世界無障礙故; | なほ大風のごとし、もろもろの世界に行きて障礙なきがゆゑに。 | 大風のようである。どの世界を行くにも障りがないからである。 |
| 六 | 猶如虛空,於一切有無所著故; | なほ虚空のごとし、一切の有において所著なきがゆゑに。 | 虚空のようである。あらゆる存在に執着するところがないからである。 |
| 七 | 猶如蓮華,於諸世間無染污故; | なほ蓮華のごとし、もろもろの世間において染汚なきがゆゑに。 | 蓮の花のようである。世のさまざまなものに染まり汚れることがないからである。 |
| 八 | 猶如大乘,運載群萌出生死故; | なほ大乗のごとし、群萌を運載して生死を出だすがゆゑに。 | 大きな乗り物のようである。生きとし生けるものを乗せ運んで、生死の世界から出すからである。 |
| 九 | 猶如重雲,震大法雷覺未覺故; | なほ重雲のごとし、大法の雷を震ひて未覚を覚らしむるがゆゑに。 | 重なる雲のようである。大いなる法の雷を轟かせて、まだ目覚めていない者を目覚めさせるからである。 |
| 十 | 猶如大雨,雨甘露法潤眾生故; | なほ大雨のごとし、甘露の法を雨らして衆生を潤すがゆゑに。 | 大雨のようである。甘露の法を降らせて衆生を潤すからである。 |
| 十一 | 如金剛山,眾魔外道不能動故; | 金剛山のごとし、衆魔・外道も動かすことあたはざるがゆゑに。 | 金剛の山のようである。多くの魔や外道も動かすことができないからである。 |
| 十二 | 如梵天王,於諸善法最上首故; | 梵天王のごとし、もろもろの善法において最上首なるがゆゑに。 | 梵天王のようである。もろもろの善い法において最も上首だからである。 |
| 十三 | 如尼拘類樹,普覆一切故; | 尼拘類樹のごとし、あまねく一切を覆ふがゆゑに。 | 尼拘類樹(ニグローダの樹)のようである。あまねくすべてを覆うからである。 |
| 十四 | 如優曇盋華,希有難遇故; | 優曇鉢華のごとし、希有にして遇ひがたきがゆゑに。 | 優曇鉢華のようである。まれで、出会いがたいからである。 |
| 十五 | 如金翅鳥,威伏外道故; | 金翅鳥のごとし、外道を威伏するがゆゑに。 | 金翅鳥のようである。外道を威厳をもって屈服させるからである。 |
| 十六 | 如眾遊禽,無所藏積故; | 衆の遊禽のごとし、蔵積するところなきがゆゑに。 | 空を行く鳥たちのようである。蓄えるものを持たないからである。 |
| 十七 | 猶如牛王,無能勝故; | なほ牛王のごとし、よく勝つものなきがゆゑに。 | 牛の王のようである。これに勝てるものがないからである。 |
| 十八 | 猶如象王,善調伏故; | なほ象王のごとし、よく調伏せるがゆゑに。 | 象の王のようである。よく調えられているからである。 |
| 十九 | 如師子王,無所畏故。(大正12・274a) | 師子王のごとし、畏るるところなきがゆゑに。 | 獅子の王のようである。恐れるものがないからである。 |
〔読み〕喩えは、ある一点についての似かよいを言うもので、すべての点で同じだというのではありません。経は、その一点を「故」で示します。式では、似かよいの観点を添字にして書きます。
\[ \text{菩薩} \;\sim_{\,\text{理}_k}\; \text{像}_k \quad (k = 1, \ldots, 19), \qquad \text{例:}\ \text{菩薩} \;\sim_{\,\text{於一切有無所著}}\; \text{虛空} \]
原文 「曠若虛空,大慈等故;摧滅嫉心,不忌勝故。專樂求法,心無厭足;常欲廣說,志無疲倦。擊法鼓、建法幢、曜慧日、除癡闇、修六和敬、常行法施,志勇精進,心不退弱。(大正12・274a–274b)
書き下し 「曠きこと虚空のごとし、大慈等しきがゆゑに。嫉心を摧滅す、勝れたるを忌まざるがゆゑに。もつぱら法を求むることを楽ひて、心に厭足なし。つねに広く説かんと欲ひて、志に疲倦なし。法鼓を撃ち、法幢を建て、慧日を曜かし、痴闇を除き、六和敬を修し、つねに法施を行ず。志勇精進にして、心退弱せず。
訳 「その広さは虚空のようである。大いなる慈しみが平等だからである。妬みの心を打ち砕いている。すぐれた者を忌みきらわないからである。ひたすら法を求めることを楽しんで、心に飽き足りることがなく、つねに広く説こうと願って、志に疲れや倦みがない。法の太鼓を打ち、法の幢を建て、智慧の日を輝かせ、愚かさの闇を除き、六和敬を修め、つねに法の施しを行う。志は勇ましく精進して、心が退いたり弱ったりすることがない。
原文 為世燈明、最勝福田,常為導師等無憎愛。唯樂正道無餘欣戚,拔諸欲刺以安群生,功慧殊勝莫不尊敬,滅三垢障遊諸神通。(大正12・274b)
書き下し 世の灯明となり、最勝の福田となり、つねに導師となりて、等しくして憎愛なし。ただ正道を楽ひて、余の欣戚なし。もろもろの欲の刺を抜きて、もつて群生を安んず。功慧殊勝にして、尊敬せざることなし。三垢の障を滅して、もろもろの神通に遊ぶ。
訳 世の灯明となり、最もすぐれた福田となり、つねに導き手となって、分け隔てなく、憎むことも愛することもない。ただ正しい道を楽しんで、それ以外のことで喜んだり悲しんだりしない。さまざまな欲の棘を抜いて、生きとし生けるものを安らかにする。功徳と智慧がことにすぐれ、敬わない者はいない。貪・瞋・痴の三つの垢の障りを滅して、さまざまな神通に遊ぶ。
原文 因力、緣力、意力、願力、方便之力、常力、善力、定力、慧力、多聞之力、施戒、忍辱、精進、禪定、智慧之力、正念正觀諸通明力、如法調伏諸眾生力,如是等力一切具足。身色相好,功德、辯才具足莊嚴,無與等者。恭敬供養無量諸佛,常為諸佛所共稱歎。究竟菩薩諸波羅蜜,修空無相無願三昧、不生不滅諸三昧門,遠離聲聞緣覺之地。(大正12・274b)
書き下し 因力・縁力・意力・願力・方便の力・常力・善力・定力・慧力・多聞の力、施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧の力、正念・正観・諸通明の力、如法に諸衆生を調伏する力、かくのごときらの力、一切具足せり。身色・相好・功徳・弁才、具足し荘厳して、ともに等しき者なし。無量の諸仏を恭敬し供養して、つねに諸仏のともに称歎したまふところとなる。菩薩の諸波羅蜜を究竟し、空・無相・無願の三昧、不生不滅の諸三昧門を修して、声聞・縁覚の地を遠離せり。
訳 因の力、縁の力、意の力、願の力、方便の力、常の力、善の力、定の力、慧の力、多聞の力、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の力、正しい念と正しい観察ともろもろの神通・明知の力、法にかなって衆生を調え導く力、このような力をすべてそなえている。身の色、相好、功徳、弁舌の才はみなそなわって荘厳され、並ぶ者がない。量りしれない仏たちを敬い供養し、つねに仏たちからともにほめたたえられている。菩薩のもろもろの波羅蜜をきわめ尽くし、空・無相・無願の三昧と、不生不滅のもろもろの三昧の門を修めて、声聞や縁覚の境地を遠く離れている。
〔読み〕力の列は「如是等力」と結ばれます。挙げた力は例で、列はここで閉じていません。その全体を「一切具足」、すべてそなえると言います。また国の菩薩は「常為諸佛所共稱歎」、十方の仏たちにほめたたえられます。第十七願で仏が諸仏にほめたたえられたのと同じ形が、ここでは菩薩について言われます。
\[ \forall x \in \mathcal{B} :\ \bigl(\forall p \in \text{力} :\ \text{具足}(x, p)\bigr) \wedge \bigl(\forall b \in \mathfrak{B} :\ \text{稱歎}(b, x)\bigr), \qquad \text{力} \supseteq \{\text{因力},\ \text{緣力},\ \ldots,\ \text{如法調伏諸眾生力}\} \]
原文 「阿難!彼諸菩薩成就如是無量功德,我但為汝略說之耳;若廣說者,百千萬劫不能窮盡。」(大正12・274b)
書き下し 「阿難、かのもろもろの菩薩は、かくのごときの無量の功徳を成就せり。われただなんぢがために略してこれを説くのみ。もし広く説かば、百千万劫にも窮尽することあたはじ」と。
訳 「阿難よ、その菩薩たちは、このような量りしれない功徳を成就している。わたしはただおまえのために、そのあらましを説いたにすぎない。もし詳しく説くなら、百千万劫かけても説き尽くすことはできない。」
〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕ここまでの長い列挙も「略說」、あらましにすぎない、と経は言います。どれほど長く説いても、説かれたものは功徳の全体に届きません。上巻 十二の「晝夜一劫尚未能盡」と同じ形で、A0 の「いかなる記号体系 L も、u′(虚空の余剰)を汲み尽くせない」にあたります。この段の式は、その略説のさらに一部を写したものです。
\[ \text{略說} \subsetneq \text{功德}(\mathcal{B}), \qquad \forall T \le \text{百千萬劫} :\ \text{說}(T) \subsetneq \text{功德}(\mathcal{B}) \]
〔異本〕菩薩の徳を言う所に、大正蔵の本文と流布本とで、意味に関わる次の違いがあります(左が流布本、括弧の中が大正蔵の本文)。「摧滅嫉心,不忌勝故」(不望勝故。脚注「望=要【宋】,忌【元】【明】,流布本亦同」)、「正念正觀諸通明力」(正念止觀)。書き下しと訳は流布本に従い、「勝れたるを忌まざるがゆゑに」「正念・正観」と読みました。大正蔵の本文に従えば、「勝れることを望まないから」「正念・止観」となります。
ここから釈尊は弥勒菩薩たちに向かい、安養の国を願うよう勧めて、世の人々の苦しみのありさまを説きます。伝統的に三毒段と呼ばれ、貪り・怒り・愚かさの三つの毒が順に説かれると読まれる段です。
〔諸釈〕慧遠の『無量寿経義疏』は、この段の初めの勧めの所までを、かの国の勝れた楽しみを挙げて人に願わせる前の一段の結びとし(「上來第一舉彌陀國勝樂之事,令人願求」)、「然世人薄俗」から下巻 十九の終わりまでを、娑婆の穢れと悪を挙げて人に厭わせる一段とし、四つに分けます。「於中有四:一舉三毒煩惱之過、二勸人修捨、三舉五惡五痛五燒苦之過、四勸人修捨」(大正37・112a)。三毒の所はさらに、「先明貪過;「世間人民父子」已下,明其瞋過;「如是世人不信」已下,明其癡過」と、貪り・怒り・愚かさの順に分けます(同)。CBETA の本文で確かめました。この訳の〔読み〕で「伝統的に……と読まれる所」と書くのは、この分け方を指します。
\[ \text{娑婆穢惡} = \bigl\langle\, \underbrace{\text{三毒}}_{\text{貪} \,\to\, \text{瞋} \,\to\, \text{癡}},\ \ \text{勸人修捨},\ \ \text{五惡・五痛・五燒},\ \ \text{勸人修捨} \,\bigr\rangle \qquad (\text{慧遠の分科}) \]
〔異本〕この段と次の五悪の段は、無量寿経の異訳と梵本のすべてにあるわけではありません。山田恵文「「三毒五悪段」考」は、現存の梵本にこの二つの段がなく、漢訳では『大阿弥陀経』『平等覚経』と本経の三本にだけある、と述べます。この訳は、流布本に従って、二つの段も訳します。
原文 佛告彌勒菩薩、諸天、人等:「無量壽國聲聞、菩薩功德智慧不可稱說,又其國土微妙安樂清淨若此,何不力為善,念道之自然,著於無上下,洞達無邊際?宜各勤精進,努力自求之,必得超絕去,往生安養國。橫截五惡趣,惡趣自然閉;昇道無窮極,易往而無人。其國不逆違,自然之所牽,何不棄世事,勤行求道德,可獲極長生,壽樂無有極?(大正12・274b)
書き下し 仏、弥勒菩薩・諸天・人等に告げたまはく、「無量寿国の声聞・菩薩の功徳・智慧は、称説すべからず。またその国土は、微妙・安楽・清浄なることかくのごとし。なんぞ力めて善をなし、道の自然なることを念じて、上下なきことを著し、辺際なきことを洞達せざらん。よろしくおのおの勤めて精進して、努力してみづからこれを求むべし。かならず超絶して去ることを得て、安養国に往生せん。横に五悪趣を截りて、悪趣自然に閉ぢ、道に昇ること窮極なし。往き易くして人なし。その国、逆違せず、自然の牽くところなり。なんぞ世事を棄てて、勤行して道徳を求めざらん。極長の生を獲べく、寿楽極まりあることなし。
訳 仏は弥勒菩薩や天・人たちに告げられた。「無量寿仏の国の声聞や菩薩の功徳と智慧は、言い表すこともできない。またその国土は、これほどまでに妙なる、安らかな楽しみに満ちた、清らかなところである。どうして努めて善を行い、道がおのずからなるものであることを念じ、上も下もない平等を明らかにし、果てのないものに通達しようとしないのか。それぞれ努め励んで、みずから力を尽くしてこれを求めるがよい。そうすれば、必ず迷いの世界を超え出て、安養の国に往生することができる。五つの悪道を横ざまに断ち切り、悪道はおのずから閉じ、道に昇ることには窮まりがない。往きやすいのに、往く人がいない。その国は拒むことがなく、おのずから引き寄せられるのである。どうして世の事を捨てて、励み行って道と徳を求めないのか。そうすれば、きわまりなく長い命を得て、命と楽しみに限りがない。
〔読み〕「易往而無人」、往きやすいのに往く人がいない、という句を式にします。経は、求めれば必ず往けると言い(「努力自求之,必得超絕去」)、国は拒まないと言います(「不逆違」)。それでも往く者がごく少ないなら、論理の上では、求める者が少ない、ということになります。「無人」を、この訳は、往く人がまったくいないことではなく、世の人に比べてごく少ないことと読みました。下巻 二十一で、この世界から六十七億の不退の菩薩が往生すると言われるからです。妨げは道にも国にもなく、求める側にあります。経はその理由を「何不棄世事」と問い、続く段で、世の事に心を奪われるありさまを説きます。
\[ \text{求}(x) \Rightarrow \text{往生}(x)\ \ (\text{易往・不逆違・必得}), \qquad |\{x \in \text{世人} : \text{往生}(x)\}| \ll |\text{世人}|\ \ (\text{無人}) \;\;\Longrightarrow\;\; |\{x \in \text{世人} : \text{求}(x)\}| \ll |\text{世人}| \]
〔諸釈〕「自然之所牽」の読みは分かれます。吉蔵は、この句を前の「其國不逆違」とともに往きやすさを言う句とし、因を修めれば、その果に引かれる、と読みます。「「其國不逆違,自然之所牽」,此二句釋易往義。明修因竅招果,則為此果所牽也」(『無量寿経義疏』、大正37・123b)。この訳の訳文は、この読みに沿っています。慧遠は、この句を「無人」の理由とし、娑婆の衆生は習いに覆われ纏われて、おのずから縛られて往かない、と読みます。「「自然所牽」,顯前無人」「自然為之牽縛不去,故彼無人」(大正37・112a)。慧遠はまた「無人修因,往生者尟,故曰無人」と、「無人」を往生する者の少ないことと読みます(同)。憬興も「久習纏蓋,自然為之牽縛不往,故自然所牽即前無人也」と慧遠と同じく読み、そのうえで、因が満ち果が熟せば、はたらきを借りずにおのずから招かれる、という説(「有說:因滿果熟,不假功用,自然招致,故自然所牽」)も、「義亦可也」と認めます(『無量寿経連義述文賛』、大正37・163c)。いずれも CBETA の本文で確かめました。
\[ \text{吉藏} :\ \text{修因}(x) \Rightarrow \text{牽}(\text{果},\ x)\ \ (\text{釋易往義}), \qquad \text{慧遠・憬興} :\ \text{牽縛}(\text{習},\ x) \Rightarrow \neg\,\text{往}(x)\ \ (\text{顯前無人}) \]
原文 「然世人薄俗,共諍不急之事。於此劇惡極苦之中,勤身營務以自給濟。無尊、無卑,無貧、無富,少、長、男、女共憂錢財,有無同然,憂思適等。(大正12・274b)
書き下し 「しかるに世人、薄俗にして、ともに不急の事を諍ふ。この劇悪極苦のなかにおいて、身を勤めて営務し、もつてみづから給済す。尊もなく卑もなく、貧もなく富もなく、少長・男女ともに銭財を憂ふ。有無同じく然り。憂思まさに等し。
訳 「ところが世の人々は、浅はかで俗にまみれ、急がなくてもよいことを互いに争っている。このはなはだ悪く、きわめて苦しい世の中で、身を労して働き、自分の暮らしを立てている。身分の高い者も低い者も、貧しい者も富める者も、老いも若きも、男も女も、みな金銭や財産のことを憂えている。持つ者も持たない者も同じで、その憂いの思いはちょうど等しい。
原文 屏營愁苦,累念積慮,為心走使,無有安時——有田憂田、有宅憂宅,牛、馬、六畜、奴婢、錢財、衣、食、什物,復共憂之——重思累息,憂念愁怖,橫為非常、水、火、盜賊、怨家、債主焚漂劫奪,消散磨滅,憂毒忪忪,無有解時。結憤心中不離憂惱,心堅意固適無縱捨,或坐摧碎身亡命終,棄捐之去莫誰隨者。(大正12・274b–274c)
書き下し 屏営し愁苦して、念を累ね慮りを積み、心のために走せ使はれて、安き時あることなし。田あれば田を憂へ、宅あれば宅を憂ふ。牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、またともにこれを憂ふ。思ひを重ね息を累ねて、憂念愁怖す。横に非常の水火・盗賊・怨家・債主のために焚き漂はされ劫奪せられて、消散し磨滅すれば、憂毒忪忪として解くる時あることなし。憤りを心中に結びて憂悩を離れず、心堅く意固くして、まさに縦捨することなし。あるいは摧砕に坐して、身亡び命終れば、これを棄捐して去るに、誰か随ふ者なし。
訳 おろおろと思い悩み、思いを重ね、心配を積みかさね、心にこき使われて、安らぐときがない。田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、牛や馬などの家畜、召使い、金銭や財産、衣服や食べ物、家財道具も、また同じように憂える。思いを重ね、ため息をつき、憂い悩み、恐れおののく。思いがけない水害や火事、盗賊、恨みをもつ者、貸し主によって、焼かれ、流され、奪い取られて、消え失せてしまうと、憂いの毒に心がざわめいて、解けるときがない。憤りを胸に結んで憂い悩みから離れず、心はかたくなで、手放すことがない。あるいは身が砕かれ、命が終われば、すべてを捨てて去り、ついて来るものは何もない。
原文 「尊貴、豪富亦有斯患,憂懼萬端,勤苦若此,結眾寒熱與痛共居。貧窮下劣困乏常無,無田亦憂欲有田、無宅亦憂欲有宅,無牛、馬、六畜、奴婢、錢財、衣、食、什物亦憂欲有之。適有一復少一、有是少是,思有齊等;適欲具有便復糜散。(大正12・274c)
書き下し 「尊貴・豪富も、またこの患ひあり。憂懼万端にして、勤苦することかくのごとし。もろもろの寒熱を結びて、痛みとともに居す。貧窮・下劣は、困乏してつねになし。田なければまた憂へて田あらんと欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんと欲ふ。牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物なければ、また憂へてこれあらんと欲ふ。たまたま一あればまた一を少き、これあればこれを少く。斉等にあらんと思ふ。たまたま具さにあらんと欲へば、すなはちまた糜散す。
訳 「身分の高い者や富豪にも、このような悩みがある。憂いと恐れは数かぎりなく、苦しみはこのとおりで、さまざまな寒さ暑さの苦しみを身に結び、痛みとともに暮らしている。貧しく身分の低い者は、困窮していつも物がない。田がなければ田がほしいと憂え、家がなければ家がほしいと憂え、牛や馬などの家畜、召使い、金銭や財産、衣服や食べ物、家財道具がなければ、それがほしいと憂える。たまたま一つ手に入れば、また別の一つが足りず、これがあれば、あれが足りない。人並みにそろえたいと思い、ようやくすべてそろいそうになると、たちまちまた散り失せてしまう。
原文 如是憂苦當復求索,不能時得思想無益,身心俱勞,坐起不安,憂念相隨,勤苦若此,亦結眾寒熱與痛共俱。或時坐之終身夭命,不肯為善、行道、進德,壽終身死當獨遠去,有所趣向善惡之道,莫能知者。(大正12・274c)
書き下し かくのごとく憂苦して、まさにまた求索すれども、時に得ることあたはず。思想するに益なく、身心ともに労れて、坐起安からず。憂念あひ随ひて、勤苦することかくのごとし。またもろもろの寒熱を結びて、痛みとともに倶なり。あるいは時にこれに坐して、身を終へ命を夭す。あへて善をなし道を行じ徳を進めず、寿終り身死して、まさにひとり遠く去るべし。趣向するところの善悪の道あれども、よく知る者なし。
訳 このように憂い苦しんで、また求めても、思うときに得ることはできない。思い悩んでも益はなく、身も心も疲れ果て、座っても立っても落ち着かない。憂いの思いがつきまとい、苦しみはこのとおりで、やはりさまざまな寒さ暑さの苦しみを身に結び、痛みとともにある。あるいはそのために、命を縮めて死ぬこともある。善を行い、道を行じ、徳を進めようとはせず、命が終わり身が死ねば、ただひとり遠く去っていくほかはない。行き先には善い道と悪い道とがあるが、それを知る者はいない。
〔読み〕ここまでは、伝統的に貪りの毒と読まれる所です。経は、持つ者も持たない者も同じだけ憂う、と言います(「有無同然,憂思適等」)。憂いの大きさは、持ち物の多い少ないによりません。また「適有一復少一」、一つ得ればまた一つが足りず、そろいかけると散ってしまいます。どれだけ持っても、まだ持たない物への欲が残り、満ち足りる所に至りません。死ねば、持ち物は一つもついて来ません(「莫誰隨者」)。
\[ \text{憂}(\text{有}) = \text{憂}(\text{無}) > 0, \qquad \forall S\ \exists o \notin S :\ \text{欲}(o)\ \ (\text{適有一復少一}), \qquad \text{隨}(S,\ \text{死後}) = \emptyset \]
原文 「世間人民,父子、兄弟、夫婦、家室、中外親屬,當相敬愛,無相憎嫉;有無相通,無得貪惜;言色常和,莫相違戾。或時心諍有所恚怒,今世恨意微相憎嫉,後世轉劇至成大怨。所以者何?世間之事更相患害,雖不即時應急相破,然含毒畜怒結憤精神,自然剋識不得相離,皆當對生更相報復。(大正12・274c)
書き下し 「世間の人民、父子・兄弟・夫婦・家室・中外の親属、まさにあひ敬愛して、あひ憎嫉することなかるべし。有無あひ通じて、貪惜することを得ることなかれ。言色つねに和して、あひ違戻することなかれ。あるいは時に心に諍ひて恚怒するところあれば、今世の恨みの意は、微しくあひ憎嫉すれども、後世には転た劇しくして、大怨と成るに至る。ゆゑはいかん。世間の事、たがひにあひ患害す。即時に急にあひ破せずといへども、しかも毒を含み怒りを畜へ、憤りを精神に結びて、自然に剋識して、あひ離るることを得ず。みなまさに対ひ生じて、たがひにあひ報復すべし。
訳 「世の人々は、親子、兄弟、夫婦、家族、一族の親類同士、互いに敬い愛して、憎み妬み合ってはならない。持つ者と持たない者とが互いに融通し合い、むさぼり惜しんではならない。言葉も顔色もつねに和やかにして、互いに逆らってはならない。ところが、ときに心に争いがおこって怒ることがあると、この世での恨みの思いは、わずかに憎み妬む程度であっても、後の世ではしだいに激しくなって、大きな恨みとなるに至る。なぜかといえば、世の事は、互いに害し合うものだからである。すぐにその場で急に壊し合うことはなくても、毒を含み、怒りを蓄え、憤りを心に結んで、おのずからそれが心に刻まれて離れることがない。みな、それぞれ相手と向き合って生まれ、互いに報い返し合うことになる。
原文 人在世間愛欲之中,獨生、獨死,獨去、獨來,當行至趣苦樂之地,身自當之無有代者。善惡變化、殃福異處,宿豫嚴待,當獨趣入。遠到他所莫能見者,善惡自然追行所生。窈窈冥冥別離久長,道路不同會見無期,甚難甚難復得相值。(大正12・274c)
書き下し 人、世間の愛欲のなかにありて、ひとり生じひとり死し、ひとり去りひとり来る。まさに行きて苦楽の地に至り趣くべし。身みづからこれに当りて、代る者あることなし。善悪変化して、殃福処を異にす。宿より予め厳しく待ちて、まさにひとり趣き入るべし。遠く他所に到りぬれば、よく見る者なし。善悪自然にして、行を追うて生ずるところなり。窈窈冥冥として、別離久しく長し。道路同じからずして、会ひ見ること期なし。またあひ値ふことを得ること、はなはだ難くはなはだ難し。
訳 人は世の愛欲の中にあって、ひとりで生まれ、ひとりで死に、ひとりで去り、ひとりで来る。それぞれが行って、苦しみや楽しみの境に至り赴くのであり、その身でみずから受けて、代わってくれる者はいない。善と悪とに応じて変わり、災いと幸いとは行き先を異にする。それらはあらかじめ厳しく待ち受けていて、ひとりでそこに入っていくのである。遠く他の所へ行ってしまえば、もう見ることのできる者はいない。善と悪とは、おのずから行いを追って、生まれる先についてくる。暗くはるかで、別れは長く久しい。行く道が同じではないから、また会うときもない。ふたたび出会うことは、まことに難しく、まことに難しい。
原文 何不棄眾事,各曼強健時,努力勤修善,精進願度世,可得極長生?如何不求道,安所須待,欲何樂哉?(大正12・274c–275a)
書き下し なんぞもろもろの事を棄てて、おのおの強健の時に曼びて、努力して善を勤修し、精進して世を度せんと願はざる。極長の生を得べし。いかんぞ道を求めざる。いづくに須待するところありて、なんの楽をか欲はんや。
訳 どうしてさまざまな事を捨てて、それぞれ体が丈夫なうちに、努めて善を修め、励んで迷いの世を渡ろうと願わないのか。そうすれば、きわまりなく長い命を得ることができるのに。どうして道を求めないのか。いったい何を待ち、どんな楽しみを望もうというのか。
〔借・札なし|刊行済|第0層 レジスタ分離〕〔読み〕ここは、伝統的に怒りの毒と読まれる所です。今の世のわずかな恨みが、後の世には「轉劇」、しだいに激しくなって大きな恨みとなり、互いに報い返し合います。また人は、ひとりで生まれ、ひとりで死に、その報いは自分で受けて、代わる者がありません。世をまたぐ報いの語りは、経典・ミュトス層のものです。式は、その語りの組み立てを写すもので、事実層の因果法則を主張するものではありません。
\[ \text{恨}_{\text{後世}} \gg \text{恨}_{\text{今世}}\ \ (\text{轉劇}), \qquad \text{報}(x \to y) \Rightarrow \text{報}(y \to x)\ \ (\text{更相報復}), \qquad \forall x :\ \text{受}\bigl(x,\ \text{果}(\text{行}(x))\bigr) \wedge \neg\,\exists y \neq x :\ \text{代}(y, x) \]
原文 「如是,世人不信作善得善、為道得道,不信人死更生、惠施得福,善惡之事都不信之,謂之不然終無有是。但坐此故,且自見之,更相瞻視,先後同然。轉相承受父餘教令,先人祖父素不為善、不識道德,身愚神闇,心塞意閉。死生之趣、善惡之道,自不能見,無有語者;吉凶禍福,競各作之,無一怪也。(大正12・275a)
書き下し 「かくのごとく、世人は、善をなして善を得、道をなして道を得ることを信ぜず。人死してさらに生じ、恵施して福を得ることを信ぜず。善悪の事、すべてこれを信ぜず、これを然らずと謂ひて、つひにこれあることなしとす。ただこれに坐するがゆゑに、しばらくみづからこれを見て、たがひにあひ瞻視して、先後同じく然り。うたたあひ父の余せる教令を承受す。先人・祖父、もとより善をなさず、道徳を識らず、身愚かに神闇く、心塞がり意閉ぢて、死生の趣、善悪の道、みづから見ることあたはず、語る者あることなし。吉凶禍福、競ひておのおのこれをなして、一も怪しむことなし。
訳 「このように世の人々は、善を行えば善い報いを得、道を修めれば道を得ることを信じない。人が死んでまた生まれ、恵み施せば福を得ることを信じない。善悪の事を何一つ信じず、そんなことはない、決してありはしないと言う。ただこの不信のために、自分の見るところだけをよりどころとし、互いに見習い合って、前の者も後の者も同じようである。次々に父の遺した教えを受け継ぐが、先祖や父祖はもともと善を行わず、道と徳を知らず、身は愚かで心は暗く、心はふさがり閉ざされていたので、死んで生まれる行き先や、善悪の道を、自分で見ることができず、教えてくれる者もいなかった。吉凶禍福をめいめい競って作り出しながら、一つとして怪しむことがない。
原文 生死常道轉相嗣立,或父哭子、或子哭父,兄弟、夫婦更相哭泣,顛倒上下無常根本,皆當過去不可常保。教語開導,信之者少,是以生死流轉無有休止。(大正12・275a)
書き下し 生死の常の道、うたたあひ嗣ぎ立つ。あるいは父、子に哭し、あるいは子、父に哭す。兄弟・夫婦、たがひにあひ哭泣す。顛倒上下することは、無常の根本なり。みなまさに過ぎ去るべくして、つねに保つべからず。教語開導すれども、これを信ずる者少なし。ここをもつて生死流転して、休止あることなし。
訳 生まれては死ぬことは世の常の道で、次々に受け継がれていく。あるいは父が子の死を泣き、あるいは子が父の死を泣き、兄弟や夫婦も互いに泣き合う。上の者が先に、下の者が後に、という順もさかさまになるのが、無常の根本である。すべては過ぎ去るものであって、いつまでも保つことはできない。教えを説いて導いても、それを信じる者は少ない。それゆえ、生死に流転して、やむことがない。
〔読み〕ここは、伝統的に愚かさの毒と読まれる所です。経は、世の人が信じない四つのことを挙げます。そして、信じない教えが、父から子へ次々に受け継がれていきます。前の代の教えをそのまま受けることが、代を重ねてくり返される形です。
\[ \neg\,\text{信}(\text{作善得善}) \wedge \neg\,\text{信}(\text{為道得道}) \wedge \neg\,\text{信}(\text{人死更生}) \wedge \neg\,\text{信}(\text{惠施得福}), \qquad \text{教}_{n+1} = \text{承受}(\text{教}_n)\ \ (\text{轉相承受父餘教令}) \]
原文 「如此之人,矇冥抵突,不信經法,心無遠慮,各欲快意;癡惑於愛欲,不達於道德;迷沒於瞋怒,貪狼於財色。坐之不得道,當更惡趣苦,生死無窮已,哀哉甚可傷。(大正12・275a)
書き下し 「かくのごときの人は、矇冥抵突して、経法を信ぜず、心に遠き慮りなく、おのおの意を快くせんと欲ふ。愛欲に痴惑して、道徳に達せず。瞋怒に迷没し、財色に貪狼す。これに坐して道を得ず、まさに悪趣の苦に更るべし。生死窮まりやむことなし。哀しいかな、はなはだ傷むべし。
訳 「このような人々は、目も心も暗くて突き当たってばかりで、経と法を信じず、心に先々の思慮がなく、それぞれ自分の心の快さばかりを求める。愛欲に迷って、道と徳に通じず、怒りに溺れ、財と色とを狼のようにむさぼる。そのために道を得ることができず、また悪道の苦しみを受けることになる。生死は窮まりなく続いて、やむことがない。哀れなことよ、まことに痛ましい。
原文 或時室家,父子、兄弟、夫婦,一死一生更相哀愍,恩愛、思慕、憂念結縛,心意痛著迭相顧戀,窮日卒歲無有解已。教語道德心不開明,思想恩好不離情欲。昏矇閉塞,愚惑所覆,不能深思熟計、心自端正、專精行道、決斷世事,便旋至竟年壽終盡不能得道,無可奈何。(大正12・275a)
書き下し あるいは時に室家の父子・兄弟・夫婦、一は死し一は生きて、たがひにあひ哀愍す。恩愛・思慕して、憂念結縛し、心意痛著して、たがひにあひ顧恋す。日を窮め歳を卒ふれども、解けやむことあることなし。道徳を教語すれども、心開明せず。恩好を思想して、情欲を離れず。昏矇閉塞して、愚惑に覆はれ、深く思ひ熟く計りて、心みづから端正にし、専精に道を行じ、世事を決断することあたはず。便旋して竟りに至り、年寿終り尽きて、道を得ることあたはず。いかんともすべきことなし。
訳 あるいは家族のうち、親子、兄弟、夫婦の一方が死に、一方が生き残ると、互いに哀しみ合う。恩愛と思慕の情で憂いの思いに縛られ、心は痛んで執着し、互いに慕い合って、日を重ね年を終えても、解けることがない。道と徳を説き聞かせても、心が開けない。恩愛のことばかりを思って、情欲を離れない。心が暗くふさがり、愚かさと迷いに覆われて、深く考えよく計って、心をみずから正し、ひたすら道を行い、世の事にけりをつけることができない。ぐずぐずしているうちに最後に至り、寿命が尽きて、道を得ることができない。どうしようもないのである。
原文 「總猥憒擾皆貪愛欲,惑道者眾、悟之者寡,世間怱怱,無可憀賴。尊卑、上下、貧富、貴賤,勤苦怱務各懷殺毒,惡氣窈冥為妄興事,違逆天地不從人心,自然非惡先隨與之。恣聽所為待其罪極,其壽未盡便頓奪之。下入惡道,累世勤苦展轉其中,數千億劫無有出期。痛不可言,甚可哀愍。」(大正12・275a–275b)
書き下し 「総猥憒擾して、みな愛欲を貪る。道に惑ふ者は衆く、これを悟る者は寡し。世間怱怱として、憀頼すべきことなし。尊卑・上下・貧富・貴賤、勤苦怱務して、おのおの殺毒を懐く。悪気窈冥として、妄りに事を興すことをなす。天地に違逆し、人心に従はず。自然の非悪、先づ随ひてこれに与ふ。恣にそのなすところを聴して、その罪の極まるを待ちて、その寿いまだ尽きざるに、すなはち頓にこれを奪ふ。下りて悪道に入りて、累世に勤苦す。そのなかに展転して、数千億劫にも出づる期あることなし。痛み言ふべからず。はなはだ哀愍すべし」と。
訳 「すべて入り乱れて騒がしく、みな愛欲をむさぼっている。道に迷う者は多く、道を悟る者は少ない。世の中はせわしなく、頼りにできるものは何もない。身分の高い者も低い者も、上の者も下の者も、貧しい者も富める者も、貴い者も賤しい者も、あくせくと苦しみ働きながら、それぞれ殺意の毒を胸に抱いている。悪しき気が暗く立ちこめ、みだりに事を起こし、天地の道理に逆らい、人の心に従わない。するとおのずから悪の報いが先回りしてこれに与えられる。その行うままにまかせて、罪が極まるのを待ち、寿命がまだ尽きないうちに、たちまち命を奪う。下って悪道に入り、幾世にもわたって苦しみ、その中を転々として、数千億劫たっても出る時がない。その痛ましさは言葉にできない。まことに哀れむべきことである。」
〔読み〕三つの毒は、この段の一つの文にそろって現れます。「癡惑於愛欲」(愚かさ)、「迷沒於瞋怒」(怒り)、「貪狼於財色」(貪り)です。これらによって道を得ず、悪道の苦しみに戻ります。また「惑道者眾、悟之者寡」と、迷う者は多く、悟る者は少ないと結ばれます。式の 惑(x, 三毒) は、x がこの三つに惑うことです。
\[ \text{三毒} = \{\text{貪}\ (\text{貪狼於財色}),\ \text{瞋}\ (\text{迷沒於瞋怒}),\ \text{癡}\ (\text{癡惑於愛欲})\}, \qquad \text{惑}(x,\ \text{三毒}) \;\Rightarrow\; \neg\,\text{得道}(x) \wedge \text{更惡趣苦}(x)\ \ (\text{坐之}), \qquad |\text{惑道者}| \gg |\text{悟者}| \]
原文 佛告彌勒菩薩、諸天人等:「我今語汝世間之事,人用是故,坐不得道。當熟思計遠離眾惡,擇其善者勤而行之。愛欲榮華不可常保,皆當別離無可樂者。曼佛在世當勤精進,其有至心願生安樂國者,可得智慧明達、功德殊勝;勿得隨心所欲,虧負經戒在人後也。儻有疑意不解經者,可具問佛,當為說之。」(大正12・275b)
書き下し 仏、弥勒菩薩・諸天人等に告げたまはく、「われいまなんぢに世間の事を語る。人これをもつてのゆゑに、坐して道を得ず。まさに熟く思ひ計りて、衆悪を遠離し、その善なるものを択びて、勤めてこれを行ずべし。愛欲・栄華は、つねに保つべからず。みなまさに別離すべくして、楽しむべきものなし。仏の在世に曼びて、まさに勤めて精進すべし。それ心を至して安楽国に生ぜんと願ずることあらば、智慧明達し、功徳殊勝なることを得べし。心の所欲に随ひて、経戒に虧負して、人の後にあることを得ることなかれ。もし疑ひの意ありて経を解らざる者は、つぶさに仏に問ふべし。まさにためにこれを説くべし」と。
訳 仏は弥勒菩薩や天・人たちに告げられた。「わたしはいま、おまえたちに世の事を語った。人はこのために、道を得ることができないのである。よく考え計って、もろもろの悪を遠ざけ、善いものを選んで、励んでこれを行うがよい。愛欲や栄華は、いつまでも保つことはできない。すべて別れねばならないものであって、楽しむに足るものはない。仏が世にいるうちに、励み努めるがよい。まことの心で安楽の国に生まれたいと願う者は、智慧が明らかに通達し、功徳がことにすぐれたものとなるであろう。心の欲するままにまかせて、経の戒めにそむき、人に後れをとってはならない。もし疑いの思いがあって経を理解できない者は、くわしく仏に問うがよい。そのために説いて聞かせよう。」
原文 彌勒菩薩長跪白言:「佛威神尊重,所說快善,聽佛經語貫心思之。世人實爾如佛所言,今佛慈愍顯示大道,耳目開明長得度脫,聞佛所說莫不歡喜。諸天、人民、蠕動之類,皆蒙慈恩解脫憂苦。佛語教誡甚深甚善,智慧明見八方、上下、去來今事,莫不究暢。(大正12・275b)
書き下し 弥勒菩薩、長跪してまうさく、「仏の威神尊重にして、説きたまふところ快く善し。仏の経語を聴きて、心に貫きてこれを思ふに、世人まことに爾なり、仏の言ひたまふところのごとし。いま仏、慈愍して大道を顕示したまふ。耳目開明して、長く度脱を得。仏の説きたまふところを聞きて、歓喜せざることなし。諸天・人民・蠕動の類、みな慈恩を蒙りて、憂苦を解脱す。仏の語の教誡は、はなはだ深くはなはだ善し。智慧明らかに八方・上下・去来今の事を見たまひて、究暢せざることなし。
訳 弥勒菩薩はひざまずいて申し上げた。「仏の威神はまことに尊く重く、お説きになったことは心に快く、すぐれています。仏の経のお言葉を聴いて、心に刻んで思いますに、世の人はまことに仏の言われるとおりです。いま仏は慈しみあわれんで、大いなる道を明らかに示してくださいました。耳も目も開かれて、長く迷いから救われることができます。仏の説かれたことを聞いて、喜ばない者はおりません。天や人々、うごめく虫のたぐいまで、みな慈しみの恩を受けて、憂いと苦しみから解き放たれます。仏の教えの戒めは、まことに深く、まことに善いものです。仏の智慧は、八方と上下、過去・未来・現在の事を明らかに見て、きわめ尽くさないことがありません。
原文 今我眾等所以蒙得度脫,皆佛前世求道之時謙苦所致。恩德普覆,福祿巍巍,光明徹照達空無極;開入泥洹,教授典攬威制消化,感動十方無窮無極。佛為法王尊超眾聖,普為一切天人之師,隨心所願皆令得道。今得值佛,復聞無量壽佛聲,靡不歡喜,心得開明。」(大正12・275b)
書き下し いまわれら衆等、度脱を蒙り得るゆゑは、みな仏の前世に道を求めたまひし時の謙苦の致すところなり。恩徳あまねく覆ひ、福禄巍巍として、光明徹照し、空に達して極まりなし。泥洹に開入せしめ、典攬を教授し、威制消化して、十方を感動せしめたまふこと、窮まりなく極まりなし。仏は法王として、尊きこと衆聖に超え、あまねく一切の天人の師となりて、心の願ふところに随ひて、みな道を得しめたまふ。いま仏に値ひたてまつることを得て、また無量寿仏の声を聞きたてまつり、歓喜せざることなく、心開明することを得たり」と。
訳 いまわたしたちが救いを受けることができるのは、みな仏が前の世に道を求めておられたときの、身を低くしての苦労のたまものです。その恩徳はあまねく覆い、福徳は高く大きく、光明は透きとおって照らし、虚空に達して限りがありません。人々を涅槃に入らせ、教えの要を授け、威をもって悪を制し、化して導き、十方を感動させることは、窮まりなく限りがありません。仏は法の王として、その尊さは聖者たちを超え、あまねくすべての天と人の師となって、心に願うところに応じて、みな道を得させてくださいます。いま仏にお会いすることができ、また無量寿仏の声を聞いて、喜ばない者はなく、心が開けて明らかになりました。」
原文 佛告彌勒菩薩:「汝言是也。若有慈敬於佛者,實為大善。天下久久乃復有佛,今我於此世作佛,演說經法,宣布道教,斷諸疑網;拔愛欲之本,杜眾惡之源。遊步三界無所拘礙,典攬智慧眾道之要,執持綱維昭然分明,開示五趣度未度者,決正生死泥洹之道。(大正12・275b)
書き下し 仏、弥勒菩薩に告げたまはく、「なんぢが言ふこと是なり。もし仏を慈敬することあらば、まことに大善とす。天下に久久にしていまし、また仏あり。いまわれこの世において仏となりて、経法を演説し、道教を宣布して、もろもろの疑網を断ち、愛欲の本を抜き、衆悪の源を杜ぐ。三界に遊歩するに拘礙するところなし。智慧・衆道の要を典攬し、綱維を執持して、昭然として分明なり。五趣を開示して、いまだ度せざる者を度し、生死・泥洹の道を決正す。
訳 仏は弥勒菩薩に告げられた。「おまえの言うとおりである。仏を慈しみ敬う者があれば、それはまことに大いなる善である。この世には、きわめて長い時を経て、ようやくまた仏が現れる。いまわたしはこの世で仏となり、経と法を説き、道の教えを広めて、もろもろの疑いの網を断ち、愛欲の根を抜き、もろもろの悪の源をふさぐ。三界を歩みめぐって、とらわれるところがない。智慧ともろもろの道の要をおさめ、その大綱をしっかりと保って、明らかではっきりしている。五つの迷いの世界を明らかに示して、まだ救われていない者を救い、生死と涅槃の道をはっきりと定める。
原文 「彌勒當知,汝從無數劫來修菩薩行,欲度眾生,其已久遠,從汝得道至于泥洹不可稱數。汝及十方諸天、人民一切四眾,永劫已來展轉五道,憂畏勤苦不可具言,乃至今世生死不絕,與佛相值聽受經法,又復得聞無量壽佛。快哉甚善,吾助爾喜。(大正12・275b–275c)
書き下し 「弥勒、まさに知るべし。なんぢ無数劫よりこのかた菩薩の行を修して、衆生を度せんと欲ふこと、それすでに久遠なり。なんぢに従ひて道を得て泥洹に至るもの、称数すべからず。なんぢおよび十方の諸天・人民、一切の四衆、永劫よりこのかた五道に展転して、憂畏勤苦、つぶさに言ふべからず。乃至、今世まで生死絶えず。仏とあひ値ひて、経法を聴受し、またまた無量寿仏を聞くことを得たり。快いかな、はなはだ善し。われなんぢを助けて喜ぶ。
訳 「弥勒よ、知るがよい。おまえは数えきれない劫の昔から菩薩の行を修め、衆生を救おうとしてきた。それはすでに久しく遠いことである。おまえによって道を得て涅槃に至った者は、数えることもできない。おまえと十方の天や人々、すべての四衆は、永い劫の昔から五つの迷いの世界を経めぐり、その憂いと恐れと苦しみは、言い尽くすことができない。今の世に至るまで、生死は絶えなかった。それがいま、仏に出会って経と法を聴いて受け、さらにまた無量寿仏のことを聞くことができた。なんと喜ばしいことか。まことに善いことである。わたしも、おまえとともに喜ぼう。
原文 「汝今亦可自厭生、死、老、病、痛苦、惡露、不淨、無可樂者,宜自決斷。端身正行,益作諸善;修己潔體,洗除心垢;言行忠信,表裏相應;人能自度,轉相拯濟;精明求願,積累善本。(大正12・275c)
書き下し 「なんぢいままたみづから生・死・老・病・痛苦を厭ふべし。悪露・不浄にして、楽しむべきものなし。よろしくみづから決断して、身を端しくし行ひを正しくして、ますますもろもろの善をなし、己を修め体を潔くして、心の垢を洗除し、言行忠信にして、表裏あひ応ずべし。人よくみづから度して、うたたあひ拯済し、精明に求願して、善本を積累せよ。
訳 「おまえはいま、生まれること、死ぬこと、老いること、病むことの痛みと苦しみを、みずから厭うがよい。身は汚れた液が流れ出る不浄なもので、楽しむに足るものはない。みずから決断して、身を正し行いを正して、ますます善を行い、自分を修め身を清めて、心の垢を洗い除き、言葉と行いはまことと信に満ちて、表と裏とが一致するようにせよ。人はみずから救われ、さらに互いに救い合い、明らかな心で願い求めて、善の本を積み重ねるがよい。
原文 雖一世勤苦須臾之間,後生無量壽佛國快樂無極,長與道德合明,永拔生死根本,無復貪恚、愚癡、苦惱之患。欲壽一劫、百劫、千萬億劫,自在隨意皆可得之,無為自然次於泥洹之道。汝等宜各精進求心所願,無得疑惑中悔自為過咎,生彼邊地七寶宮殿,五百歲中受諸厄也。」(大正12・275c)
書き下し 一世の勤苦は須臾のあひだなりといへども、後に無量寿仏国に生じて、快楽極まりなし。長く道徳と明を合はせ、永く生死の根本を抜きて、また貪恚・愚痴・苦悩の患ひなし。寿一劫・百劫・千万億劫ならんと欲へば、自在に意に随ひて、みなこれを得べし。無為自然にして、泥洹の道に次げり。なんぢら、よろしくおのおの精進して、心の願ふところを求むべし。疑惑し中悔して、みづから過咎をなして、かの辺地の七宝の宮殿に生じて、五百歳のなかにもろもろの厄を受くることを得ることなかれ」と。
訳 この一生の苦労は、ほんのしばらくの間のことにすぎないが、のちに無量寿仏の国に生まれれば、その楽しみは限りがない。長く道と徳とともに明らかであり、永く生死の根本を抜いて、もはや貪り・怒り・愚かさ・苦しみの患いはない。寿命を一劫、百劫、千万億劫にしたいと思えば、意のままに自在にみな得ることができる。それはおのずからなる無為の境地で、涅槃の道に次ぐものである。おまえたちは、それぞれ励んで、心に願うところを求めるがよい。疑い惑って、途中で悔い、みずから過ちを招いて、かの国のほとりの七宝の宮殿に生まれ、五百年のあいだ、もろもろの厄を受けることになってはならない。」
原文 彌勒白佛言:「受佛重誨,專精修學,如教奉行,不敢有疑。」(大正12・275c)
書き下し 弥勒、仏にまうしてまうさく、「仏の重き誨へを受けて、専精に修学し、教へのごとく奉行して、あへて疑ひあらじ」と。
訳 弥勒は仏に申し上げた。「仏の重いお諭しを受けて、ひたすら修め学び、教えのとおりに行って、決して疑いを持ちません。」
〔借・定義寄り|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕「人能自度,轉相拯濟」は、みずから救われた者が、次々に互いを救っていく形です。救われたことを自分のもとにとどめず、次の者を救う働きに渡します。G-1 の形です。
\[ \text{度}(x_n) \to \text{拯濟}(x_n,\ x_{n+1}) \to \text{度}(x_{n+1}) \to \cdots, \qquad g(\text{度}_n) = \text{拯濟}_{n+1} \]
〔読み〕一生の苦労は「須臾」、限りのある短い間で、往生してからの楽しみは「無極」、限りがありません。限りある代価と限りない果とを比べる形です。寿命の長さを意のままに選べることは、第十五願(P₁₅)と同じ形です。また、かの国を願いながら、疑い惑って途中で悔いる者は、国のほとりの宮殿に生まれ、五百年のあいだ厄を受けると言われます。このことは、下巻 二十の胎生の段で詳しく説かれます。
\[ C(\text{一世勤苦}) < \infty\ \ (\text{須臾}), \quad V(\text{生無量壽佛國}) = \text{無極} \;\Rightarrow\; V \gg C, \qquad \text{願生}(x) \wedge \text{疑惑}(x) \wedge \text{中悔}(x) \Rightarrow \text{生邊地宮殿}(x) \wedge \text{五百歲受厄}(x) \]
〔異本〕「其有至心願生安樂國者」の「至心」を、大正蔵の本文は「至」の一字に作ります。また「復聞無量壽佛聲」の「無量壽佛」を、大正蔵の本文は「無量壽」に作ります。このほか、三毒の段の「累世勤苦」の「勤」を、大正蔵の本文は「懟」(うらむ)に作り(「累世懟苦」。三本と流布本は「勤」)、「千萬億劫」を「千億萬劫」に作ります。
釈尊は、この世の五つの悪と、それによる五つの痛み・五つの焼け苦しみを一つずつ説き、それぞれの後に、善を行う者は救われることを同じ言葉で添えます。
原文 佛告彌勒:「汝等能於此世端心正意,不作眾惡,甚為至德,十方世界最無倫匹。所以者何?諸佛國土天人之類自然作善,不大為惡,易可開化。今我於此世間作佛,處於五惡、五痛、五燒之中,為最劇苦。教化群生令捨五惡、令去五痛、令離五燒;降化其意令持五善,獲其福德度世長壽泥洹之道。」(大正12・275c)
書き下し 仏、弥勒に告げたまはく、「なんぢら、よくこの世において心を端しくし意を正しくして、衆悪をなさざれば、はなはだ至徳とす。十方世界に最も倫匹なし。ゆゑはいかん。諸仏の国土の天人の類は、自然に善をなして、大きに悪をなさざれば、開化すべきこと易し。いまわれこの世間において仏となりて、五悪・五痛・五焼のなかに処すること、最も劇苦たり。群生を教化して、五悪を捨てしめ、五痛を去らしめ、五焼を離れしめ、その意を降化して五善を持たしめ、その福徳・度世・長寿・泥洹の道を獲しめん」と。
訳 仏は弥勒に告げられた。「おまえたちがこの世で心を正し思いを正して、もろもろの悪をなさないなら、それはこの上ない徳であり、十方の世界で並ぶものがない。なぜかといえば、仏たちの国土の天や人は、おのずから善を行い、大きな悪をなさないので、教え導くことがたやすい。いまわたしはこの世で仏となって、五悪・五痛・五焼のただ中にいる。それは最も激しい苦しみである。わたしは生きとし生けるものを教え導いて、五悪を捨てさせ、五痛を去らせ、五焼を離れさせ、その心を調えて五善をたもたせ、福徳と、世を渡ることと、長寿と、涅槃の道とを得させよう。」
〔借・公理|刊行済|第1層 A2 慈悲の縁起的集合論〕〔読み〕釈尊は、五悪・五痛・五焼のただ中、最も苦しみの激しい世に仏となったと言います。そして、そのような世で悪をなさないことは、悪の少ない国でのそれより尊いと言います。苦しみの最も深い所に仏が身を置く形で、A2 の派生の欄の「下降的 Φ_C(最弱の項への優先的介入)」に重ねて読めます。ただし経は「優先」とは言いません。式の後半の V の比べは、この世で悪をなさないことの重さを写すもので、A2 から借りたものではありません。
\[ \text{苦}(\text{此世}) = \max\ \ (\text{為最劇苦}) \;\wedge\; \text{作佛}(\text{釋尊},\ \text{此世}), \qquad V(\text{不作眾惡} \mid \text{此世}) \;>\; V(\text{不作眾惡} \mid \text{諸佛國土}) \]
原文 佛言:「何等五惡?何等五痛?何等五燒?何等消化五惡、令持五善,獲其福德度世長壽泥洹之道?(大正12・275c)
書き下し 仏ののたまはく、「なにをか五悪といふ。なにをか五痛といふ。なにをか五焼といふ。なにをか五悪を消化して、五善を持たしめ、その福徳・度世・長寿・泥洹の道を獲しむといふ。
訳 仏は言われた。「何を五悪というのか。何を五痛というのか。何を五焼というのか。どのようにして五悪を消し去り、五善をたもたせ、福徳と、世を渡ることと、長寿と、涅槃の道とを得させるのか。
原文 「佛言其一惡者,諸天、人民、蠕動之類。欲為眾惡莫不皆然。強者伏弱轉相剋賊,殘害殺戮迭相吞噬,不知修善惡逆無道,後受殃罰自然趣向。神明記識犯者不赦,故有貧窮、下賤、乞丐、孤獨、聾盲、瘖啞、愚癡、弊惡,至有尫狂不逮之屬。又有尊貴、豪富、高才、明達皆由宿世慈孝、修善積德所致。世有常道、王法、牢獄不肯畏慎,為惡入罪受其殃罰,求望解脫難得免出。(大正12・275c–276a)
書き下し 「仏ののたまはく、その一の悪といふは、諸天・人民・蠕動の類、もろもろの悪をなさんと欲ひて、みな然らざることなし。強き者は弱きを伏し、うたたあひ剋賊し、残害殺戮して、たがひにあひ呑噬す。善を修することを知らず、悪逆無道にして、後に殃罰を受け、自然に趣向す。神明記識して、犯す者を赦さず。ゆゑに貧窮・下賤・乞丐・孤独・聾盲・瘖唖・愚痴・弊悪あり、尫狂不逮の属あるに至る。また尊貴・豪富・高才・明達あるは、みな宿世に慈孝にして、善を修し徳を積めるの致すところなり。世に常道・王法・牢獄あれども、あへて畏れ慎まず、悪をなして罪に入り、その殃罰を受く。解脱を求望すれども、免れ出づることを得がたし。
訳 「仏は言われた。その第一の悪とは、天や人々、うごめく虫のたぐいまで、もろもろの悪をなそうとして、そうでない者はいない、ということである。強い者は弱い者を押さえつけ、互いに傷つけ合い、むごたらしく殺し合って、互いに食い合う。善を修めることを知らず、悪逆で道に外れ、のちに災いの罰を受けて、おのずからその報いへと向かっていく。神々はそれを記しとどめて、犯した者を許さない。それゆえ、貧しい者、身分の低い者、物乞いをする者、身寄りのない者、耳の聞こえない者、目の見えない者、言葉を話せない者、愚かな者、心のねじけた者があり、さらには体が弱く心の乱れた、人に及ばない者たちまでがいる。また、身分の高い者、富豪、才能の高い者、聡明な者があるのは、みな前の世に慈しみ深く孝を尽くし、善を修めて徳を積んだことによる。世には常の道、王の法、牢獄があるのに、恐れ慎もうとせず、悪をなして罪に陥り、その災いの罰を受ける。そこから解き放たれたいと願っても、免れ出ることは難しい。
原文 世間有此目前見事,壽終後世尤深尤劇,入其幽冥轉生受身。譬如王法痛苦極刑,故有自然三塗無量苦惱,轉貿其身、改形易道,所受壽命或長或短,魂神精識自然趣之。當獨值向相從共生,更相報復無有絕已,殃惡未盡不得相離,展轉其中無有出期,難得解脫痛不可言。天地之間自然有是,雖不即時卒暴應至,善惡之道會當歸之。是為一大惡、一痛、一燒,勤苦如是。(大正12・276a)
書き下し 世間にこの目前に見る事あり。寿終りて後世には、もつとも深くもつとも劇し。その幽冥に入りて、生を転じ身を受く。たとへば王法の痛苦極刑のごとし。ゆゑに自然の三塗無量の苦悩あり。その身を転貿し、形を改め道を易へて、受くるところの寿命、あるいは長くあるいは短し。魂神精識、自然にこれに趣く。まさにひとり値ひ向かひて、あひ従ひてともに生じ、たがひにあひ報復して、絶えやむことあることなし。殃悪いまだ尽きざれば、あひ離るることを得ず。そのなかに展転して、出づる期あることなし。解脱を得がたく、痛み言ふべからず。天地のあひだに自然にこれあり。即時に卒暴に応じ至らずといへども、善悪の道、かならずまさにこれに帰すべし。これを一の大悪・一の痛・一の焼とす。勤苦することかくのごとし。
訳 世の中には、このように目の前に見える事がある。命が終わって後の世には、さらに深く、さらに激しい。その暗がりに入って、生を変えて身を受ける。たとえば王の法による苦痛の極刑のようなものである。それゆえ、おのずからなる三悪道の量りしれない苦悩がある。身を移し替え、姿を改め、行く道を変えて、受ける寿命は長かったり短かったりする。魂と心は、おのずからそこへ赴く。ひとりで行き当たり、互いに付き従ってともに生まれ、互いに報い返し合って、やむことがない。災いと悪が尽きないうちは、離れることができない。その中を転々として、出る時がなく、解き放たれることは難しく、その痛みは言葉にできない。天地のあいだには、おのずからこのことがある。すぐさま突然に報いが来なくても、善悪の道は、必ずそこへ帰着する。これを第一の大悪・第一の痛・第一の焼という。その苦しみはこのとおりである。
原文 「譬如大火焚燒人身,人能於中一心制意、端身正行,獨作諸善、不為眾惡者,身獨度脫,獲其福德度世上天泥洹之道,是為一大善也。」(大正12・276a)
書き下し 「たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくそのなかにおいて、一心に意を制し、身を端しくし行ひを正しくして、ひとりもろもろの善をなし、衆悪をなさざれば、身ひとり度脱して、その福徳・度世・上天・泥洹の道を獲。これを一の大善とす」と。
訳 「それは大火が人の身を焼くようなものである。人がその中にあって、心を一つにして思いを制し、身を正し行いを正して、ひとりもろもろの善を行い、もろもろの悪をなさなければ、その身ひとりは救われて、福徳と、世を渡ることと、天に昇ることと、涅槃の道とを得る。これを第一の大善という。」
〔読み〕この段は、同じ組み立てを五回くり返します。第 N の悪を説き、それが第 N の痛と第 N の焼であると結び、続いて、大火の中でも善を行う者は救われる、という同じ言葉を添えて、第 N の大善とします。N を変えるだけで同じ形が現れるので、式では N を添字にした一つの型として書きます。第五の善だけは、言葉と行いの一致など、条件が加わります。
\[ \forall N \in \{1, \ldots, 5\} :\quad \text{惡}_N \Rightarrow \text{痛}_N \wedge \text{燒}_N, \qquad \text{善}_N\ (N \leq 4) :\ \bigl(\text{一心制意} \wedge \text{端身正行} \wedge \text{獨作諸善} \wedge \text{不為眾惡}\bigr) \Rightarrow \text{身獨度脫} \wedge \text{獲福德} \]
〔借・札なし|刊行済|第0層 レジスタ分離〕〔読み〕この段は、貧しさや身分、病や障害を、前の世の行いの報いとして語ります。これは経典・ミュトス層の語りです。整理表のレジスタ分離は、この層の語りを事実層の証拠に転じることを禁じます(「証拠に転用不可」)。ゆえにこの訳は、この語りを、現実のだれかの境遇や身体を説明したり裁いたりするものとしては読みません。式は、経の語る因と果の組み立てを写すだけです。
〔諸釈〕五悪・五痛・五焼の読みです。拠り所の句は、いずれも CBETA の本文で確かめました。
| 読み | 五悪 | 五痛 | 五焼 | 拠り所 |
|---|---|---|---|---|
| 慧遠 | 殺・盗・邪婬・妄語・飲酒(五戒が防ぐもの) | この世で王法に罰せられ、厄難にあうこと | 来世に三途で報いを受けること | 『無量寿経義疏』「殺、盜、邪婬、妄語、飲酒,是其五惡。造此五惡,於現世中王法治罪,身遭厄難,名為五痛。以此五惡,於未來世三途受報,說為五燒」(大正37・114a) |
| 吉蔵 | 殺・盗・邪婬・妄語・飲酒 | 苦の果 | 苦の果 | 『無量寿経義疏』「「五痛、五燒」,明其苦果。由惡故燒,由燒故痛」(大正37・124a) |
| 憬興 | 五戒が防ぐ五つ | この世の王法の罰(華報) | 三途の果報 | 『無量寿経連義述文賛』は、痛を苦受、焼を苦具とする説を挙げたうえで、「現閉王法身遭厄難名為五痛,三途果報名為五燒」とします(大正37・166a–b) |
\[ \text{慧遠・憬興} :\ \text{痛}_N = \text{報}(\text{惡}_N,\ \text{現世}),\quad \text{燒}_N = \text{報}(\text{惡}_N,\ \text{來世}), \qquad \text{吉藏} :\ \text{惡}_N \Rightarrow \text{燒}_N \Rightarrow \text{痛}_N\ \ (\text{由惡故燒,由燒故痛}) \]
〔異本〕「佛言其一惡者」の「佛言」は、大正蔵の本文にはなく、流布本にあります。
原文 佛言:「其二惡者,世間人民——父子、兄弟、室家、夫婦——都無義理,不順法度。奢婬憍縱,各欲快意,任心自恣,更相欺惑。心口各異、言念無實、佞諂不忠、巧言諛媚、嫉賢謗善,陷入怨枉。(大正12・276a)
書き下し 仏ののたまはく、「その二の悪といふは、世間の人民、父子・兄弟・室家・夫婦、すべて義理なく、法度に順はず。奢婬憍縦にして、おのおの意を快くせんと欲ひ、心に任せてみづから恣にし、たがひにあひ欺惑す。心口おのおの異にして、言念実なく、佞諂にして忠ならず、巧言諛媚にして、賢を嫉み善を謗り、怨枉に陥れ入る。
訳 仏は言われた。「その第二の悪とは、世の人々が、親子、兄弟、家族、夫婦のあいだで、まったく義理がなく、法や規範に従わないことである。おごって淫らにふるまい、思い上がって勝手気ままに、それぞれ自分の心の快さを求め、心のままにほしいままにして、互いに欺き惑わし合う。心と口とが違い、言葉にも思いにも誠がなく、へつらって忠実でなく、巧みな言葉でこびへつらい、賢い者をねたみ、善い者をそしって、無実の罪に陥れる。
原文 主上不明任用臣下、臣下自在機偽多端,踐度能行知其形勢。在位不正為其所欺,妄損忠良不當天心。臣欺其君、子欺其父,兄弟、夫婦、中外知識更相欺誑,各懷貪欲、瞋恚、愚癡,欲自厚己、欲貪多有,尊卑、上下心俱同然。破家亡身不顧前後,親屬內外坐之而滅。或時室家、知識、鄉黨、市里、愚民、野人轉共從事,更相利害,忿成怨結。富有慳惜不肯施與,愛寶貪重心勞身苦,如是至竟無所恃怙,獨來獨去無一隨者。(大正12・276a–276b)
書き下し 主上明らかならずして臣下を任用すれば、臣下自在にして機偽多端なり。度を践みよく行じて、その形勢を知る。位にありて正しからざれば、それに欺かれ、妄りに忠良を損じて、天の心に当らず。臣はその君を欺き、子はその父を欺き、兄弟・夫婦・中外の知識、たがひにあひ欺誑し、おのおの貪欲・瞋恚・愚痴を懐きて、みづから己を厚くせんと欲ひ、多く有たんことを貪らんと欲ふ。尊卑・上下、心ともに同じく然り。家を破り身を亡ぼして、前後を顧みず。親属内外、これに坐して滅ぶ。あるいは時に室家・知識・郷党・市里・愚民・野人、うたたともに事に従ひて、たがひにあひ利害し、忿りて怨結を成す。富有なれども慳惜して、あへて施与せず。宝を愛し貪ること重くして、心労し身苦しむ。かくのごとくして竟りに至りて、恃怙するところなし。ひとり来りひとり去りて、一も随ふ者なし。
訳 君主が賢明でないまま臣下を任用すると、臣下は思うままにふるまい、たくらみや偽りが多くなる。規範に通じてうまく立ち回り、その形勢を知りぬいている。位にある者が正しくなければ、その臣下に欺かれ、みだりに忠実で善良な者を損なって、天の心にかなわない。臣下は君主を欺き、子は父を欺き、兄弟、夫婦、親類や知人も互いに欺き合い、それぞれ貪り、怒り、愚かさを抱いて、自分だけを豊かにしようとし、多くを持つことをむさぼる。身分の高い者も低い者も、上の者も下の者も、心はみな同じである。家を滅ぼし身を亡ぼしても、後先を顧みない。親類は内も外も、その巻き添えで滅びる。あるいは家族、知人、郷里の人、町の人、愚かな民や田舎の人が、互いに事を共にしながら、互いに利を争い害し合い、怒って恨みを結ぶ。富んでいても物惜しみして施そうとせず、宝を愛してむさぼる心が重く、心は疲れ身は苦しむ。こうして最後に至ると、頼るものは何もない。ひとりで来て、ひとりで去り、ついて来るものは一つもない。
原文 善惡、禍福追命所生,或在樂處、或入苦毒,然後乃悔,當復何及?世間人民心愚少智,見善憎謗不思慕及,但欲為惡妄作非法,常懷盜心悕望他利,消散糜盡而復求索。邪心不正,懼人有色,不豫思計,事至乃悔。今世現有王法牢獄,隨罪趣向受其殃罰。因其前世不信道德、不修善本,今復為惡,天神剋識別其名籍,壽終神逝下入惡道,故有自然三塗無量苦惱。展轉其中,世世累劫無有出期,難得解脫痛不可言,是為二大惡、二痛、二燒,勤苦如是。(大正12・276b)
書き下し 善悪・禍福、命を追うて生ずるところにして、あるいは楽処にあり、あるいは苦毒に入る。しかして後にすなはち悔ゆとも、まさにまたなんぞ及ばん。世間の人民、心愚かにして智少なく、善を見ては憎謗して、思慕して及ばんことを思はず。ただ悪をなさんと欲ひて、妄りに非法をなし、つねに盗心を懐きて、他の利を悕望し、消散糜尽して、また求索す。邪心にして正しからず、人の色あることを懼る。予め思ひ計らずして、事至りてすなはち悔ゆ。今世にまのあたり王法・牢獄あり。罪に随ひて趣向して、その殃罰を受く。その前世に道徳を信ぜず、善本を修せざるによりて、いままた悪をなせば、天神剋識して、その名籍を別つ。寿終り神逝きて、下りて悪道に入る。ゆゑに自然の三塗無量の苦悩あり。そのなかに展転して、世世累劫に出づる期あることなし。解脱を得がたく、痛み言ふべからず。これを二の大悪・二の痛・二の焼とす。勤苦することかくのごとし。
訳 善と悪、災いと幸いは、命を追って生まれる先についてきて、ある者は楽しみの所にあり、ある者は苦しみの毒の中に入る。そうなってから悔いても、もう取り返しはつかない。世の人々は心が愚かで智慧が少なく、善を見ては憎みそしって、それを慕い及ぼうとは思わない。ただ悪をなそうとして、みだりに法に背くことをし、つねに盗みの心を抱いて他人の利をうらやみ求め、使い果たしてはまた求める。心がよこしまで正しくなく、人に気づかれることを恐れる。前もって考えず、事が起こってから悔いる。この世には現に王の法と牢獄があり、罪に応じて赴き、その災いの罰を受ける。前の世に道と徳を信じず、善の本を修めなかったうえに、いままた悪をなすので、天の神々はそれを刻みつけて記し、その名簿を分ける。命が終わり魂が去ると、下って悪道に入る。それゆえ、おのずからなる三悪道の量りしれない苦悩がある。その中を転々として、世々、劫を重ねても出る時がなく、解き放たれることは難しく、その痛みは言葉にできない。これを第二の大悪・第二の痛・第二の焼という。その苦しみはこのとおりである。
原文 「譬如大火焚燒人身,人能於中一心制意、端身正行,獨作諸善、不為眾惡者,身獨度脫,獲其福德度世上天泥洹之道,是為二大善也。」(大正12・276b)
書き下し 「たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくそのなかにおいて、一心に意を制し、身を端しくし行ひを正しくして、ひとりもろもろの善をなし、衆悪をなさざれば、身ひとり度脱して、その福徳・度世・上天・泥洹の道を獲。これを二の大善とす」と。
訳 「それは大火が人の身を焼くようなものである。人がその中にあって、心を一つにして思いを制し、身を正し行いを正して、ひとりもろもろの善を行い、もろもろの悪をなさなければ、その身ひとりは救われて、福徳と、世を渡ることと、天に昇ることと、涅槃の道とを得る。これを第二の大善という。」
〔読み〕第二の悪の中心は、欺くことです。心と口とが違い(「心口各異」)、臣は君を、子は父を欺き、兄弟や夫婦、内外の知人は互いに欺き合います。欺きは、臣から君へ、子から父へは一つの向きに、兄弟・夫婦・知人のあいだでは互いに向かいます。続いて経は、だれもが貪り・怒り・愚かさを懐き、自らを厚くし多くを持とうとする、と言い、「尊卑、上下心俱同然」、身分の上下を問わず心はみな同じだ、と結びます。同じだとされるのは、この貪りの心です。第五の善の「所語如語、心口不轉」は、この「心口各異」の裏返しになっています。
\[ \text{惡}_2(x) :\ \text{心}(x) \neq \text{口}(x)\ \ (\text{心口各異}), \qquad \text{欺}(\text{臣},\ \text{君}) \wedge \text{欺}(\text{子},\ \text{父}) \wedge \forall R \in \{\text{兄弟},\ \text{夫婦},\ \text{中外知識}\},\ \forall x \neq y \in R :\ \text{欺}(x, y)\ \ (\text{更相欺誑}), \qquad \forall x \in \text{尊卑上下} :\ \text{欲自厚己}(x)\ \ (\text{心俱同然}), \qquad \text{善}_5(x) :\ \text{心}(x) = \text{口}(x)\ \ (\text{心口不轉}) \]
原文 佛言:「其三惡者,世間人民相因寄生,共居天地之間,處年壽命無能幾何。上有賢明長者、尊貴豪富,下有貧窮廝賤、尫劣愚夫,中有不善之人常懷邪惡,但念婬妷,煩滿胸中,愛欲交亂坐起不安,貪意守惜但欲唐得。眄睞細色邪態外逸,自妻厭憎私妄入出,費損家財事為非法,交結聚會興師相伐,攻劫殺戮強奪不道。(大正12・276b)
書き下し 仏ののたまはく、「その三の悪といふは、世間の人民、あひ因りて寄生し、ともに天地のあひだに居す。処年の寿命、よくいくばくもなし。上には賢明・長者・尊貴・豪富あり、下には貧窮・廝賤・尫劣・愚夫あり、中には不善の人あり。つねに邪悪を懐きて、ただ婬妷を念ひ、煩ひ胸中に満ちて、愛欲交乱し、坐起安からず。貪意守惜して、ただいたづらに得んと欲ふ。細色を眄睞して、邪態外に逸れ、自らの妻をば厭ひ憎みて、私かに妄りに入出す。家財を費損して、事、非法をなす。交結し聚会して、師を興してあひ伐ち、攻劫殺戮して、強奪して道ならず。
訳 仏は言われた。「その第三の悪とは、世の人々は互いに頼り合ってこの世に身を寄せ、ともに天地のあいだに住んでいるが、その寿命はいくばくもない、ということである。上には賢明な長者や身分の高い富豪がおり、下には貧しく卑しい者、体が弱く愚かな者がおり、その中ほどに善くない人がいる。つねによこしまな悪を抱き、ただみだらなことばかりを思い、煩悩が胸に満ちて、愛欲が入り乱れ、座っても立っても落ち着かない。むさぼる心で物を守り惜しみ、ただ労せずに得ることばかりを願う。美しい女に流し目を送り、よこしまな態度が外に表れ、自分の妻を嫌い憎んで、ひそかにみだりに他所に出入りする。家の財産を使い減らして、法に背くことをする。徒党を組み集まって、兵を起こして攻め合い、襲い、殺し、力ずくで奪って道に外れたことをする。
原文 惡心在外不自修業,盜竊趣得欲繫成事,恐熱迫愶歸給妻子,恣心快意極身作樂。或於親屬不避尊卑,家室中外患而苦之,亦復不畏王法禁令。如是之惡著於人鬼,日月照見、神明記識,故有自然三塗無量苦惱。展轉其中,世世累劫無有出期,難得解脫痛不可言,是為三大惡、三痛、三燒,勤苦如是。(大正12・276b–276c)
書き下し 悪心外にありて、みづから業を修めず。盗窃して趣かに得て、事を成ずることを繋がんと欲ふ。恐熱迫愶して、妻子に帰し給ふ。心を恣にし意を快くして、身を極めて楽をなす。あるいは親属において尊卑を避けず、家室中外、患ひてこれを苦しむ。またまた王法の禁令を畏れず。かくのごときの悪、人鬼に著れ、日月照見し、神明記識す。ゆゑに自然の三塗無量の苦悩あり。そのなかに展転して、世世累劫に出づる期あることなし。解脱を得がたく、痛み言ふべからず。これを三の大悪・三の痛・三の焼とす。勤苦することかくのごとし。
訳 悪い心が外に向かい、自分では仕事を修めない。盗みをはたらいてかすめ取り、それで事を成し遂げようとする。脅し、迫り、おびやかして奪ったものを、妻子に持ち帰って与える。心のままに思いを快くし、身の限りに楽しみをつくす。あるいは親類のあいだで目上も目下もかまわず、家族や親類の内外の者は、それに悩まされ苦しむ。そのうえ王の法の禁令も恐れない。このような悪は、人にも鬼神にも明らかで、日や月が照らし見、神々が記しとどめている。それゆえ、おのずからなる三悪道の量りしれない苦悩がある。その中を転々として、世々、劫を重ねても出る時がなく、解き放たれることは難しく、その痛みは言葉にできない。これを第三の大悪・第三の痛・第三の焼という。その苦しみはこのとおりである。
原文 「譬如大火焚燒人身,人能於中一心制意、端身正行,獨作諸善、不為眾惡者,身獨度脫,獲其福德度世上天泥洹之道,是為三大善也。」(大正12・276c)
書き下し 「たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくそのなかにおいて、一心に意を制し、身を端しくし行ひを正しくして、ひとりもろもろの善をなし、衆悪をなさざれば、身ひとり度脱して、その福徳・度世・上天・泥洹の道を獲。これを三の大善とす」と。
訳 「それは大火が人の身を焼くようなものである。人がその中にあって、心を一つにして思いを制し、身を正し行いを正して、ひとりもろもろの善を行い、もろもろの悪をなさなければ、その身ひとりは救われて、福徳と、世を渡ることと、天に昇ることと、涅槃の道とを得る。これを第三の大善という。」
原文 佛言:「其四惡者,世間人民不念修善,轉相教令共為眾惡。兩舌、惡口、妄言、綺語、讒賊、鬪亂,憎嫉善人、敗壞賢明,於傍快喜。不孝二親、輕慢師長,朋友無信,難得誠實。尊貴自大謂己有道,橫行威勢侵易於人,不能自知,為惡無恥,自以強健欲人敬難,不畏天地、神明、日月,不肯作善,難可降化。自用偃蹇謂可常爾,無所憂懼,常懷憍慢。如是眾惡,天神記識,賴其前世頗作福德,小善扶接營護助之;今世為惡福德盡滅,諸善鬼神各共離之,身獨空立無所復依。(大正12・276c)
書き下し 仏ののたまはく、「その四の悪といふは、世間の人民、善を修することを念はず、うたたあひ教令してともに衆悪をなす。両舌・悪口・妄言・綺語・讒賊・闘乱して、善人を憎嫉し、賢明を敗壊して、傍らにおいて快喜す。二親に孝せず、師長を軽慢し、朋友に信なくして、誠実を得がたし。尊貴にして自大なり、おのれ道ありと謂ひて、横に威勢を行じて人を侵易す。みづから知ることあたはず、悪をなして恥なし。みづから強健なるをもつて、人の敬難せんことを欲ふ。天地・神明・日月を畏れず、あへて善をなさず、降化すべきこと難し。みづから用ゐて偃蹇にして、つねに爾るべしと謂ひ、憂懼するところなくして、つねに憍慢を懐く。かくのごときの衆悪、天神記識す。その前世にすこぶる福徳をなせるによりて、小善扶接し、営護してこれを助く。今世に悪をなして福徳尽き滅すれば、もろもろの善鬼神おのおのともにこれを離れて、身ひとり空しく立ちて、また依るところなし。
訳 仏は言われた。「その第四の悪とは、世の人々が善を修めることを思わず、互いにそそのかし合って、ともにもろもろの悪をなすことである。二枚舌、悪口、うそ、飾り言葉を用い、人を陥れ、争いを起こし、善い人を憎みねたみ、賢明な人をおとしめて、そばで喜んでいる。父母に孝行せず、師や目上の人を軽んじあなどり、友人に対して信義がなく、誠実さがない。身分が高いと思い上がって、自分には道があると言い、ほしいままに威勢をふるって人を侵しあなどる。自分のことがわからず、悪をなしても恥じない。自分が強く丈夫であることをたのんで、人に敬われ恐れられたいと思う。天地も神々も日月も恐れず、善を行おうとせず、教え導くことが難しい。自分の考えばかりを用いておごり高ぶり、いつまでもこのままでいられると思って、憂えも恐れもなく、つねに思い上がっている。このようなもろもろの悪は、天の神々が記しとどめている。前の世にいくらか福徳をなしていたので、その小さな善が支え、守り助けている。しかし今の世で悪をなして福徳が尽きてしまうと、もろもろの善い鬼神もみなその者から離れ、その身はただひとり、むなしく立って、もう頼るところがない。
原文 壽命終盡諸惡所歸,自然迫促共趣頓之。又其名籍記在神明,殃咎牽引當往趣向,罪報自然無從捨離。但得前行入於火鑊,身心摧碎、精神痛苦,當斯之時悔復何及?天道自然,不得蹉跌,故有自然三塗無量苦惱。展轉其中,世世累劫無有出期,難得解脫痛不可言,是為四大惡、四痛、四燒,勤苦如是。(大正12・276c)
書き下し 寿命終り尽きて、諸悪の帰するところ、自然に迫促して、ともに趣きてこれを頓す。またその名籍、記して神明にあり。殃咎牽引して、まさに往きて趣向すべし。罪報自然にして、捨離するに従なし。ただ前に行きて火鑊に入ることを得て、身心摧砕し、精神痛苦す。この時に当りて悔ゆとも、またなんぞ及ばん。天道自然にして、蹉跌することを得ず。ゆゑに自然の三塗無量の苦悩あり。そのなかに展転して、世世累劫に出づる期あることなし。解脱を得がたく、痛み言ふべからず。これを四の大悪・四の痛・四の焼とす。勤苦することかくのごとし。
訳 寿命が尽き果てると、もろもろの悪が帰着するところとして、おのずから迫り立てて、ともにそこへ赴き、その者を打ち倒す。またその名簿は神々のもとに記されていて、災いと咎が引き寄せて、必ずそこへ赴かせる。罪の報いはおのずからのもので、逃れて離れるすべがない。ただ前に進んで火の釜に入るほかなく、身も心も砕かれ、魂は痛み苦しむ。そのときになって悔いても、もはや及ばない。天の道はおのずからのもので、踏み外すことがない。それゆえ、おのずからなる三悪道の量りしれない苦悩がある。その中を転々として、世々、劫を重ねても出る時がなく、解き放たれることは難しく、その痛みは言葉にできない。これを第四の大悪・第四の痛・第四の焼という。その苦しみはこのとおりである。
原文 「譬如大火焚燒人身,人能於中一心制意、端身正行,獨作諸善、不為眾惡者,身獨度脫,獲其福德度世上天泥洹之道,是為四大善也。」(大正12・276c)
書き下し 「たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくそのなかにおいて、一心に意を制し、身を端しくし行ひを正しくして、ひとりもろもろの善をなし、衆悪をなさざれば、身ひとり度脱して、その福徳・度世・上天・泥洹の道を獲。これを四の大善とす」と。
訳 「それは大火が人の身を焼くようなものである。人がその中にあって、心を一つにして思いを制し、身を正し行いを正して、ひとりもろもろの善を行い、もろもろの悪をなさなければ、その身ひとりは救われて、福徳と、世を渡ることと、天に昇ることと、涅槃の道とを得る。これを第四の大善という。」
〔借・札なし|刊行済|第0層 レジスタ分離〕〔読み〕第四の悪の段は、前の世の福徳を、今の身を守る蓄えのように語ります。蓄えがあるうちは小さな善が支えますが、今の世の悪がそれを使い尽くすと、守るものがなくなります。式は、経の語る組み立てを、蓄えが減っていく向きとして写したものです。経は福徳と悪とを同じ物差しで量るとは言わないので、式は引き算をせず、減る向きと、尽きた時とだけを書きます。事実層の法則を言うものではありません。
\[ \text{為惡}(t) \Rightarrow F_{t+1} < F_t, \quad \exists t_1 :\ F_{t_1} = 0\ \ (\text{今世為惡福德盡滅}), \qquad F_t > 0 \Rightarrow \text{扶接營護}, \qquad F_t = 0 \Rightarrow \text{身獨空立無所復依} \]
原文 佛言:「其五惡者,世間人民徙倚懈惰,不肯作善、治身修業,家室眷屬飢寒困苦。父母教誨瞋目怒應,言令不和違戾反逆譬如怨家,不如無子。取與無節,眾共患厭,負恩違義,無有報償之心。貧窮困乏不能復得,辜較縱奪放恣遊散,串數唐得用自賑給。耽酒嗜美、飲食無度,肆心蕩逸、魯扈抵突,不識人情強欲抑制。見人有善憎嫉惡之,無義、無禮,無所顧難。自用職當不可諫曉,六親眷屬所資有無不能憂念。不惟父母之恩、不存師友之義,心常念惡、口常言惡、身常行惡,曾無一善。(大正12・277a)
書き下し 仏ののたまはく、「その五の悪といふは、世間の人民、徙倚懈惰にして、あへて善をなし、身を治め業を修めず。家室眷属、飢寒困苦す。父母教誨すれば、目を瞋らし怒り応へ、言令和せず、違戻反逆して、たとへば怨家のごとし。子なきにしかず。取与に節なくして、衆ともに患ひ厭ふ。恩に負き義に違ひて、報償の心あることなし。貧窮困乏して、また得ることあたはず。辜較縦奪して、放恣遊散し、しばしばいたづらに得ることに串れて、もつてみづから賑給す。酒に耽り美きを嗜み、飲食度なく、心を肆にして蕩逸し、魯扈抵突して、人情を識らず、強ひて抑制せんと欲ふ。人の善あるを見ては、憎嫉してこれを悪む。義なく礼なく、顧難するところなし。みづから用ゐて職当し、諫暁すべからず。六親眷属の資くるところの有無、憂念することあたはず。父母の恩を惟はず、師友の義を存せず。心につねに悪を念ひ、口につねに悪を言ひ、身につねに悪を行じて、かつて一善もなし。
訳 仏は言われた。「その第五の悪とは、世の人々がぐずぐずと怠けて、善を行い、身を治め、仕事を修めようとせず、家族が飢えと寒さに苦しむことである。父母が教え諭すと、目をむいて怒って言い返し、言いつけに従わず、逆らい背いて、まるで仇のようである。これでは子がいない方がましである。取ることと与えることに節度がなく、人々はみなこれを悩み嫌う。恩に背き義にもとって、恩に報いる心がない。貧しく困窮して、もう手に入れることができないと、人の物を独り占めしたり、ほしいままに奪ったりして、気ままに遊び散らし、たびたび労せずに得ることに慣れて、それで自分の暮らしを賄う。酒におぼれ、美食を好み、飲み食いに節度がなく、心をほしいままにして放蕩し、愚かで横柄に人に突き当たり、人の情けを知らず、力ずくで人を押さえつけようとする。人に善いところがあるのを見ると、憎みねたんで嫌う。義もなく礼もなく、はばかるところがない。自分の考えを押し通して、諫めて悟らせることができない。親族や家族の暮らしの有る無しを、気にかけることもできない。父母の恩を思わず、師や友の義を心にとどめない。心はつねに悪を思い、口はつねに悪を言い、身はつねに悪を行って、一つの善もない。
原文 不信先聖諸佛經法、不信行道可得度世、不信死後神明更生、不信作善得善為惡得惡。欲殺真人,鬪亂眾僧,欲害父母、兄弟、眷屬,六親憎惡願令其死。(大正12・277a)
書き下し 先聖・諸仏の経法を信ぜず、道を行じて度世を得べきことを信ぜず、死後に神明さらに生ずることを信ぜず、善をなして善を得、悪をなして悪を得ることを信ぜず。真人を殺さんと欲ひ、衆僧を闘乱し、父母・兄弟・眷属を害せんと欲ふ。六親憎悪して、それをして死なしめんと願ふ。
訳 昔の聖者や仏たちの経と法を信じず、道を行えば迷いの世を渡れることを信じず、死んだのち魂がまた生まれることを信じず、善をなせば善を得、悪をなせば悪を得ることを信じない。聖者を殺そうとし、僧たちのあいだに争いを起こし、父母や兄弟や家族を害そうとする。親族はこの者を憎み嫌い、死んでしまえばよいと願う。
原文 「如是世人心意俱然,愚癡矇昧而自以智慧,不知生所從來、死所趣向。不仁、不順,惡逆天地,而於其中悕望僥倖,欲求長生,會當歸死。慈心教誨令其念善,開示生死善惡之趣自然有是,而不肯信之;苦心與語無益其人,心中閉塞意不開解。大命將終悔懼交至,不豫修善臨窮方悔,悔之於後將何及乎?天地之間五道分明,恢廓窈窕浩浩茫茫,善惡報應禍福相承,身自當之無誰代者。(大正12・277a)
書き下し 「かくのごとき世人は、心意ともに然り。愚痴矇昧にして、しかもみづから智慧ありとす。生の従りて来るところ、死の趣向するところを知らず。不仁・不順にして、天地に悪逆す。しかもそのなかにおいて、僥倖を悕望し、長生を求めんと欲へども、かならずまさに死に帰すべし。慈心をもつて教誨して、それをして善を念ぜしめ、生死・善悪の趣、自然にこれあることを開示すれども、あへてこれを信ぜず。苦心にともに語れども、その人に益なし。心中閉塞して、意開解せず。大命まさに終らんとするに、悔懼こもごも至る。予め善を修せずして、窮まるに臨みてまさに悔ゆ。これを後に悔ゆとも、まさになんぞ及ばんや。天地のあひだに、五道分明なり。恢廓窈窕として、浩浩茫茫たり。善悪報応し、禍福あひ承く。身みづからこれに当りて、誰も代る者なし。
訳 「このような世の人々は、心も思いもみな同じである。愚かで暗いのに、自分では智慧があると思っている。生がどこから来て、死がどこへ向かうのかを知らない。思いやりがなく、道理に従わず、天地に逆らう悪をなしながら、その中で思いがけない幸運を願い、長生きを求めようとするが、結局は死に帰する。慈しみの心で教え諭して善を思わせ、生死と善悪の行き先がおのずからあることを示しても、信じようとしない。心を尽くして語りかけても、その人には益がなく、心は閉ざされて、思いが開けない。命がまさに終わろうとするとき、悔いと恐れがこもごもやって来る。前もって善を修めず、窮まってはじめて悔いる。後になって悔いても、どうして間に合おうか。天地のあいだには、五つの道がはっきりと分かれている。それは広々として奥深く、果てしなく広がっている。善と悪には報いが応じ、災いと幸いが受け継がれていく。その身でみずから受けるのであって、代わってくれる者はだれもいない。
〔読み〕第五の悪には、「欲殺真人,鬪亂眾僧,欲害父母」と、聖者(真人)を殺そうとし、僧たちを争わせ乱し、父母を害そうとすることが挙がります。これらは、第十八願の除外の句「唯除五逆」の五逆(父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏の身から血を出す、僧の和合を破る)のうち、仏の身から血を出すことを除く四つに近いものです。ただし同じではありません。「害」は「殺す」より広い言葉で、「鬪亂」も「破和合」とは言葉が違います。また経法を信じないことも挙がり、除外の句の「誹謗正法」に近い所に立ちます。また経は、「殺真人」と「害父母」の前に「欲」、しようとする、を置き、行いそのものと区別できる書き方をしています(この訳は、「鬪亂眾僧」を「欲」の外に読みました)。式は、近い対応を ↦ で示すだけで、この段を第十八願の除外の解釈に用いるものではありません。
\[ \text{殺真人} \mapsto \text{殺阿羅漢}, \quad \text{鬪亂眾僧} \mapsto \text{破和合僧}, \quad \text{害父母} \mapsto \text{殺父},\ \text{殺母}\ \ (\text{近い対応で、同じではない}), \qquad \{\,\text{欲}(\text{殺真人}),\ \text{鬪亂眾僧},\ \text{欲}(\text{害父母}),\ \neg\,\text{信}(\text{經法})\,\} \subseteq \text{惡}_5 \]
原文 「數之自然應其所行,殃咎追命無得縱捨。善人行善,從樂入樂、從明入明;惡人行惡,從苦入苦、從冥入冥。誰能知者?獨佛知耳。教語開示,信用者少,生死不休,惡道不絕。如是,世人難可具盡,故有自然三塗無量苦惱。展轉其中,世世累劫無有出期,難得解脫,痛不可言,是為五大惡、五痛、五燒,勤苦如是。(大正12・277a–277b)
書き下し 「数の自然、その所行に応じて、殃咎、命を追ひて、縦捨を得ることなし。善人は善を行じて、楽より楽に入り、明より明に入る。悪人は悪を行じて、苦より苦に入り、冥より冥に入る。たれかよく知る者ぞ。ひとり仏のみ知りたまふ。教語開示すれども、信用する者は少なし。生死休まず、悪道絶えず。かくのごとく、世人はつぶさに尽くすべきこと難し。ゆゑに自然の三塗無量の苦悩あり。そのなかに展転して、世世累劫に出づる期あることなし。解脱を得がたく、痛み言ふべからず。これを五の大悪・五の痛・五の焼とす。勤苦することかくのごとし。
訳 「定めはおのずから、その人の行いに応じ、災いと咎は命を追いかけて、見逃すことがない。善い人は善を行って、楽しみから楽しみへ、明るみから明るみへと入っていく。悪い人は悪を行って、苦しみから苦しみへ、暗闇から暗闇へと入っていく。だれがこれを知りえようか。ただ仏だけが知っている。教えを語って開き示しても、信じて用いる者は少なく、生死はやむことがなく、悪道は絶えない。このように、世の人々のありさまは、つぶさに言い尽くすことが難しい。それゆえ、おのずからなる三悪道の量りしれない苦悩がある。その中を転々として、世々、劫を重ねても出る時がなく、解き放たれることは難しく、その痛みは言葉にできない。これを第五の大悪・第五の痛・第五の焼という。その苦しみはこのとおりである。
〔読み〕「數之自然」の「數」を、この訳は、数え上げの数ではなく、定め(命数)の意に読みました。前に、神々が名と行いを記しとどめる(「神明記識」「其名籍記在神明」)とあるのを受けて、記された行いの数え合わせ、と読むこともできます。どちらに読んでも、行いに応じて報いが定まる、という組み立ては変わりません。
〔読み〕善人は楽から楽へ、明から明へ、悪人は苦から苦へ、冥から冥へと入ります。行いが、その人の今いる境涯を、そのまま続けさせる形です。式では、時 t の境涯を s_t、行いを a_t とし、行いが境涯を移す写像を T と書きます。楽と明は善の行いの、苦と冥は悪の行いの、動かない点(不動点)です。大火の中にある者が善を行うときの移り行きは、ここでは語られず、すぐ後の大善の句が語ります。また「誰能知者?獨佛知耳」は、往覲偈の「唯佛獨明了」と同じ形です。
\[ s_{t+1} = T_{a_t}(s_t), \qquad T_{\text{善}}(\text{樂}) = \text{樂},\ \ T_{\text{善}}(\text{明}) = \text{明}, \qquad T_{\text{惡}}(\text{苦}) = \text{苦},\ \ T_{\text{惡}}(\text{冥}) = \text{冥}, \qquad \text{知}(y,\ \text{數之自然}) \iff y \in \text{佛} \]
原文 「譬如大火焚燒人身,人能於中一心制意、端身正念,言行相副、所作至誠,所語如語、心口不轉,獨作諸善、不為眾惡者,身獨度脫,獲其福德度世上天泥洹之道,是為五大善也。」(大正12・277b)
書き下し 「たとへば大火の人身を焚焼するがごとし。人よくそのなかにおいて、一心に意を制し、身を端しくし念を正しくして、言行あひ副ひ、なすところ至誠に、語るところ語のごとく、心口転ぜず、ひとりもろもろの善をなし、衆悪をなさざれば、身ひとり度脱して、その福徳・度世・上天・泥洹の道を獲。これを五の大善とす」と。
訳 「それは大火が人の身を焼くようなものである。人がその中にあって、心を一つにして思いを制し、身を正し念いを正して、言葉と行いがそろい、なすことには真心を尽くし、語ることは語ったとおりで、心と口とがくい違わず、ひとりもろもろの善を行い、もろもろの悪をなさなければ、その身ひとりは救われて、福徳と、世を渡ることと、天に昇ることと、涅槃の道とを得る。これを第五の大善という。」
〔読み〕第一から第四の大善は、「一心制意、端身正行,獨作諸善、不為眾惡」の同じ句でした。第五の大善では、「端身正行」が「端身正念」に変わり、「言行相副、所作至誠,所語如語、心口不轉」の四つが加わります。言葉と行いがそろい、なすことに真心があり、語ることが語ったとおりで、心と口がくい違わないことです。これが第二の悪の「心口各異」の裏返しであることは、第二の悪の所で記しました。式の Γ_N は、第 N の大善の条件です(代価を表す C とは別の記号です)。
\[ \begin{aligned} \Gamma_N &= \text{一心制意} \wedge \text{端身正行} \wedge \text{獨作諸善} \wedge \text{不為眾惡} \qquad (N = 1, \ldots, 4) \\ \Gamma_5 &= \text{一心制意} \wedge \text{端身正念} \wedge \text{言行相副} \wedge \text{所作至誠} \wedge \text{所語如語} \wedge \text{心口不轉} \wedge \text{獨作諸善} \wedge \text{不為眾惡} \\ &\text{於中}(x,\ \text{燒}_N) \wedge \Gamma_N(x) \;\Rightarrow\; \text{身獨度脫}(x) \qquad (N = 1, \ldots, 5) \end{aligned} \]
原文 佛告彌勒:「吾語汝等,是世五惡勤苦若此,五痛、五燒展轉相生,但作眾惡不修善本,皆悉自然入諸惡趣。或其今世先被殃病,求死不得、求生不得,罪惡所招示眾見之。身死隨行入三惡道,苦毒無量自相燋然。至其久後共作怨結,從小微起遂成大惡,皆由貪著財色、不能施惠,癡欲所迫、隨心思想,煩惱結縛無有解已,厚己諍利無所省錄。(大正12・277b)
書き下し 仏、弥勒に告げたまはく、「われなんぢらに語る。この世の五悪、勤苦かくのごとし。五痛・五焼、展転してあひ生ず。ただ衆悪をなして善本を修せざれば、みなことごとく自然にもろもろの悪趣に入る。あるいはその今世に、まづ殃病を被りて、死を求むれども得ず、生を求むれども得ず。罪悪の招くところ、衆に示してこれを見しむ。身死して行に随ひて三悪道に入り、苦毒無量にして、みづからあひ燋然す。その久しくして後に至りて、ともに怨結をなし、小微より起こりて、つひに大悪となる。みな財色に貪著して施恵することあたはず、痴欲に迫められて心に随ひて思想するによる。煩悩結縛して、解け已むことあることなし。己を厚くし利を諍ひて、省録するところなし。
訳 仏は弥勒に告げられた。「わたしはおまえたちに語ろう。この世の五悪の苦しみはこのとおりであり、五痛と五焼は、かわるがわる互いを生み出していく。ただもろもろの悪をなして、善の本を修めなければ、だれもがみな、おのずから悪道に入る。あるいはこの世で、まず災いや病を受けて、死を求めても死ねず、生を求めても生きられず、罪と悪が招いたものを、人々に示して見せることになる。死ねば、その行いに従って三悪道に入り、量りしれない苦しみと毒に、みずから焼かれ焦がされる。そうして久しい時がたつと、互いに怨みを結び合い、ごく小さなことから起こって、ついには大きな悪となる。それはみな、財と色欲に貪り執着して恵み施すことができず、愚かな欲に迫られて、心のおもむくままに思いをめぐらすことによる。煩悩に縛られて、ほどけてやむことがなく、自分だけを厚くして利を争い、わが身を省みることがない。
原文 富貴榮華當時快意,不能忍辱不務修善,威勢無幾隨以磨滅,身坐勞苦久後大劇。天道施張自然糺舉,綱紀羅網上下相應,焭焭忪忪當入其中。古今有是,痛哉可傷!」(大正12・277b)
書き下し 富貴栄華、時に当たりて意を快くし、忍辱することあたはず、善を修することを務めず。威勢いくばくもなくして、随ひてもつて磨滅す。身、労苦に坐して、久しくして後に大きに劇し。天道施張して、自然に糺挙し、綱紀羅網、上下あひ応ず。焭焭忪忪として、まさにそのなかに入るべし。古今にこれあり。痛ましきかな、傷むべし」と。
訳 富や地位や栄華に恵まれたときには、心のままに楽しんで、耐え忍ぶことができず、善を修めることにつとめない。しかしその威勢はいくばくもなく、やがてすり減って消えていく。その身は労苦の中に置かれ、時がたつほど、ひどく激しくなる。天の道は張りめぐらされ、おのずから罪をただして明るみに出す。その綱と網の目は、上下に応じ合っている。ひとりぼっちでおびえながら、その中に入っていくことになる。昔も今も、このことがある。なんと痛ましく、悲しいことか。」
〔読み〕釈尊は五悪の段を、三つの動きでまとめます。一つは、痛と焼が「展轉相生」、かわるがわる互いを生むこと。二つは、悪が「從小微起遂成大惡」、ごく小さなところから起こって、ついに大きな悪となること。三つは、苦しみが「久後大劇」、時がたつほど激しくなることです。式の ⇄ は互いを生むことを、↗ は時とともに増すことを写します。増し方の速さを経は言わないので、式もそれを言いません。
\[ \text{痛}_N \rightleftarrows \text{燒}_N\ \ (\text{展轉相生}), \qquad \text{惡}(t_0) = \text{小微} \;\nearrow\; \text{惡}(t_1) = \text{大惡}\ \ (t_0 < t_1), \qquad \text{苦}(t) \nearrow\ \ (\text{久後大劇}) \]
〔異本〕「不能施惠」の「惠」を、大正蔵の本文は「慧」に作ります。また「身坐勞苦」の「坐」を、大正蔵の本文は「生」に作ります(「身生勞苦」)。宋・元・明の三本と流布本は、どちらも「惠」「坐」です。このほか、五悪の段には、意味に関わる次の違いがあります(左が流布本、括弧の中が大正蔵の本文)。第二の悪の「坐之而滅」(坐之滅族)、「更相利害」(更相剝害。三本も「利」)、「愛寶貪重」(愛保貪重)。第三の悪の「恐熱迫愶」(恐勢迫脅)。第四の悪の「共趣頓之」(共趣奪之)。第五の悪の「而不肯信之」(而不信之。三本も「不肯」)。書き下しと訳は、流布本の字に従っています。
原文 佛語彌勒:「世間如是,佛皆哀之。以威神力摧滅眾惡,悉令就善棄捐所思,奉持經戒、受行道法,無所違失,終得度世泥洹之道。」(大正12・277b)
書き下し 仏、弥勒に語りたまはく、「世間かくのごとし。仏みなこれを哀れみたまふ。威神力をもつて衆悪を摧滅し、ことごとく善に就かしめ、思ふところを棄捐し、経戒を奉持し、道法を受行して、違失するところなく、つひに度世・泥洹の道を得しめたまふ」と。
訳 仏は弥勒に語られた。「世間とはこのようなものである。仏はそのすべてをあわれみ、威神の力によってもろもろの悪を打ち砕いて滅ぼし、だれもがみな善に就き、思うところを捨て、経と戒をたもち、道の法を受けて行い、それにそむき失うことなく、ついには世を渡ることと涅槃の道とを得るようにする。」
〔借・公理|刊行済|第1層 A2 慈悲の縁起的集合論〕〔読み〕五悪の段の結びです。経は「佛皆哀之」「悉令」と、「皆」と「悉」を重ねます。仏のあわれみも、仏が人を善に向かわせることも、世間のすべてにかかります。使役の「令」の主語は仏で、善に就き、経戒をたもち、道法を行うのは人です。式の ⟨ ⟩ は、その歩みの順を写します。A2 の「一つの零で積が零になる」組み立てに重ねれば、だれ一人をも、あわれみと教化の外に置かない、という全称の形です。この段の初めでは、最も苦しみの劇しい世に仏が身を置くことを、A2 の派生の「下降的 Φ_C」に重ねて読みました。その慈悲が、ここで世間のすべてへのあわれみとして結ばれます。
\[ \forall x \in \text{世間} :\quad \text{哀}(\text{佛},\ x), \qquad \text{令}\bigl(\text{佛},\ x,\ \langle \text{就善},\ \text{棄捐所思},\ \text{奉持經戒},\ \text{受行道法},\ \text{無所違失},\ \text{終得度世泥洹之道} \rangle\bigr) \]
原文 佛言:「汝今諸天人民及後世人,得佛經語當熟思之,能於其中端心正行,主上為善、率化其下,轉相勅令各自端守,尊聖敬善、仁慈博愛。佛語教誨無敢虧負,當求度世拔斷生死眾惡之本,當離三塗無量憂畏苦痛之道。汝等於是廣植德本,布恩施惠,勿犯道禁,忍辱、精進、一心、智慧轉相教化。(大正12・277b–277c)
書き下し 仏ののたまはく、「なんぢいま諸天・人民および後世の人、仏の経語を得ては、まさに熟くこれを思ふべし。よくそのなかにおいて、心を端しくし行ひを正しくせよ。主上は善をなして、その下を率ゐ化し、うたたあひ勅令して、おのおのみづから端しく守り、聖を尊び善を敬ひ、仁慈にして博く愛せよ。仏語の教誨、あへて虧負することなかれ。まさに度世を求めて、生死・衆悪の本を抜き断つべし。まさに三塗無量の憂畏苦痛の道を離るべし。なんぢら、ここにおいて広く徳本を植ゑ、恩を布き恵を施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱・精進・一心・智慧にして、うたたあひ教化せよ。
訳 仏は言われた。「おまえたち、いまの天や人々、また後の世の人々は、仏の経の言葉を得たならば、よくよくそれを思いめぐらさなければならない。その中にあって、心を正し、行いを正しなさい。上に立つ者は善を行って、下の者を率いて導き、互いに言いつけ合って、それぞれが自ら正しく身を守り、聖者を尊び、善を敬い、慈しみ深く、広く人を愛しなさい。仏の言葉の教えに、決してそむいてはならない。世を渡ることを求めて、生死ともろもろの悪の根本を抜き断ち、三悪道の量りしれない憂いと恐れと苦痛の道を離れなければならない。おまえたちは、ここにおいて広く徳の本を植え、恩を施し恵みを与え、道の戒めを犯さず、耐え忍び、つとめ励み、心を一つにし、智慧をもって、互いに教え導き合いなさい。
〔諸釈〕慧遠は『無量寿経義疏』で、「布恩」以下を六波羅蜜に当てて読みます。「「布恩」檀度、「勿犯」戒度、「忍辱」忍度、「精進」進度、「一心」禪度、「智慧」慧度,「轉相教化」,是利他行」(大正37・115a)。六つの行いは自らを利する行い(自利)で、互いに教え導くことは他を利する行い(利他)だ、と言います。憬興も「施等六度,即自利得」と、同じく読みます(大正37・168b)。いずれも CBETA の本文で確かめました。式は、経の六つの句と六波羅蜜とを、順に一つずつ対応させる慧遠の読みを写します。
\[ f :\ \langle \text{布恩施惠},\ \text{勿犯道禁},\ \text{忍辱},\ \text{精進},\ \text{一心},\ \text{智慧} \rangle \longmapsto \langle \text{檀},\ \text{戒},\ \text{忍},\ \text{進},\ \text{禪},\ \text{慧} \rangle = \text{六波羅蜜}\ \ (\text{自利}), \qquad \text{轉相教化}\ \ (\text{利他}) \]
〔異本〕「當離三塗」の「當」を、大正蔵の本文は「永」に作ります(「永離三塗」)。また「廣植德本」の「植」を「殖」に、「布恩施惠」の「惠」を「慧」に作ります。宋・元・明の三本と流布本は「當」「惠」、明本と流布本は「植」です。
原文 「為德立善,正心正意,齋戒清淨一日一夜,勝在無量壽國為善百歲。所以者何?彼佛國土無為自然,皆積眾善,無毛髮之惡,於此修善十日十夜,勝於他方諸佛國土為善千歲。所以者何?他方佛國為善者多、為惡者少,福德自然,無造惡之地。唯此間多惡無有自然,勤苦求欲轉相欺紿,心勞形困飲苦食毒,如是怱務未甞寧息。(大正12・277c)
書き下し 「徳をなし善を立て、心を正しくし意を正しくして、斎戒清浄なること一日一夜すれば、無量寿国にありて善をなすこと百歳するに勝れり。ゆゑはいかん。かの仏の国土は無為自然にして、みな衆善を積みて、毛髪の悪もなし。ここにおいて善を修すること十日十夜すれば、他方の諸仏の国土において善をなすこと千歳するに勝れり。ゆゑはいかん。他方の仏国は、善をなす者は多く、悪をなす者は少なし。福徳自然にして、悪を造る地なし。ただこの間のみ悪多くして、自然あることなし。勤苦して求欲し、うたたあひ欺紿し、心労し形困しみて、苦を飲み毒を食らふ。かくのごとく怱務して、いまだかつて寧息せず。
訳 「徳を行い善を立て、心を正し思いを正して、一日一夜、斎戒を清らかにたもつなら、それは無量寿国で百年のあいだ善を行うことにまさる。なぜかといえば、かの仏の国土は、はからいのない、おのずからなる所で、みなが多くの善を積み、毛ひとすじほどの悪もないからである。ここで十日十夜、善を修めるなら、それは他方の仏たちの国土で千年のあいだ善を行うことにまさる。なぜかといえば、他方の仏の国では、善を行う者が多く、悪を行う者は少なく、福徳がおのずからそなわり、悪をつくる余地がないからである。ただこの世だけは悪が多く、おのずからそなわるものがない。苦労して欲しいものを求め、互いに欺き合い、心は疲れ、体は苦しみ、苦を飲み毒を食らうようにして、このようにあわただしく立ち働き、少しも安らぐことがない。
原文 吾哀汝等天人之類,苦心誨喻教令修善,隨器開導授與經法,莫不承用,在意所願皆令得道。佛所遊履,國邑丘聚靡不蒙化,天下和順,日月清明,風雨以時,災厲不起,國豐民安,兵戈無用,崇德興仁,務修禮讓。」(大正12・277c)
書き下し われなんぢら天人の類を哀れみて、苦心に誨喩して、教へて善を修せしめ、器に随ひて開導し、経法を授与す。承用せざることなく、意の所願にありて、みな道を得しむ。仏の遊履したまふところ、国邑丘聚、化を蒙らざることなし。天下和順し、日月清明にして、風雨時をもつてし、災厲起こらず、国豊かに民安くして、兵戈用ゐることなし。徳を崇め仁を興し、務めて礼譲を修む」と。
訳 わたしは、おまえたち天と人のたぐいをあわれんで、心を尽くして教え諭し、善を修めるよう教え、それぞれの器に応じて導き開いて、経と法を授ける。それを受けて用いない者はなく、心に願うところに従って、みな道を得させる。仏が歩みめぐる所は、国も町も村里も、その教化を受けない所はない。天下はやわらぎ従い、日も月も清らかに明るく、風も雨も時にかない、災いも疫病も起こらず、国は豊かに民は安らかで、武器を用いることもない。人々は徳を崇め、仁を興し、つとめて礼と譲り合いを修める。」
〔読み〕この世での善は、浄土での善よりも重い、と経は言います。一日一夜の斎戒は、無量寿国での百年の善にまさり、この世での十日十夜の善は、他方の仏国での千年の善にまさります。理由はどちらも同じ形で、かの国々では悪がほとんどなく善がおのずから成るのに、この世は悪が多いから、です。下巻 十九の初めの、この世で悪をなさないことは諸仏の国でのそれより尊い、という言葉と同じ組み立てです。式の V(善 | 場所, 時間) は、その場所でその時間だけ善を行うことの重さで、経は重さの単位を言わないので、式も不等号だけを写します。経の挙げる日数と年数は、量の名として写し、式で割ったり掛けたりしません(序の約束の三)。
\[ V(\text{善} \mid \text{此間},\ \text{一日一夜}) > V(\text{善} \mid \text{無量壽國},\ \text{百歲}), \qquad V(\text{善} \mid \text{此間},\ \text{十日十夜}) > V(\text{善} \mid \text{他方佛國},\ \text{千歲}), \qquad \text{惡}(\text{此間}) > \text{惡}(\text{他方佛國}) > \text{惡}(\text{無量壽國}) = 0 \]
〔諸釈〕慧遠と憬興は、この重さの違いを、この世で善を修めることの難しさで説きます。慧遠は「以此修難,故於一日,勝無量壽為善百歲」(大正37・115a)、憬興は「此修難成,故於一日勝西方國百年之善」と言います。憬興はさらに、問いを一つ立てて答えます。この世の一日が西方の百年にまさるのなら、なぜ、かの国に生まれれば速やかに無上菩提を得る、と讃えるのか。答えは「彼無時不修故。此修善時少,故不相違也」、かの国では修めない時がなく、この世では善を修める時が少ないので、矛盾しない、です(『無量寿経連義述文賛』、大正37・168b)。いずれも CBETA の本文で確かめました。憬興の答えは、時あたりの重さ r と、修める時の長さとを分け、その積み重ねで比べる形をしています。式はその形を写したもので、経の言葉ではありません。式の 處 は此間か彼國、H は比べる時の長さです。
\[ \text{積}(\text{處}) = \int_{0}^{H} r_{\text{處}} \cdot \mathbf{1}\bigl[\text{修}_{\text{處}}(t)\bigr]\, dt\ \ (\text{處} \in \{\text{此間},\ \text{彼國}\}), \qquad r_{\text{此間}} > r_{\text{彼國}}\ \ (\text{此修難成}), \qquad \mathbf{1}\bigl[\text{修}_{\text{彼國}}(t)\bigr] = 1\ \ (\text{彼無時不修}), \qquad \int_{0}^{H} \mathbf{1}\bigl[\text{修}_{\text{此間}}(t)\bigr]\, dt \ll H\ \ (\text{此修善時少}) \]
原文 佛言:「我哀愍汝等諸天人民,甚於父母念子。今我於此世作佛,降化五惡、消除五痛、絕滅五燒,以善攻惡,拔生死之苦,令獲五德,昇無為之安。吾去世後經道漸滅,人民諂偽復為眾惡,五燒、五痛還如前法,久後轉劇不可悉說,我但為汝略言之耳。」(大正12・277c)
書き下し 仏ののたまはく、「われなんぢら諸天・人民を哀愍すること、父母の子を念ふよりも甚だし。いまわれこの世において仏となりて、五悪を降化し、五痛を消除し、五焼を絶滅して、善をもつて悪を攻め、生死の苦を抜きて、五徳を獲しめ、無為の安きに昇らしむ。われ世を去りて後、経道やうやく滅し、人民諂偽にして、また衆悪をなし、五焼・五痛、還りて前の法のごとくならん。久しくして後、うたた劇しくして、ことごとく説くべからず。われただなんぢがために、略してこれを言ふのみ」と。
訳 仏は言われた。「わたしがおまえたち天と人々をあわれむ心は、父母が子を思う心よりも深い。いまわたしはこの世で仏となって、五悪を降して教え導き、五痛を除き去り、五焼を絶ち滅ぼし、善をもって悪を攻め、生死の苦しみを抜いて、五つの徳を得させ、はからいのない安らぎへと昇らせる。わたしが世を去ったのちには、経の道はしだいに滅び、人々はへつらい偽って、またもろもろの悪をなし、五焼と五痛は、元のありさまに戻るであろう。時がたつにつれて、ますます激しくなり、すべてを説き尽くすことはできない。わたしはただ、おまえたちのために、あらましを言ったにすぎない。」
〔読み〕釈尊は、仏のあわれみを、父母が子を思う心より深いと言います。そして、自らが世にある時と、世を去ったのちとを分けて語ります。仏が世にある間は、五悪は降され、五痛は除かれ、五焼は滅ぼされます。仏が世を去ると、経の道がしだいに滅び、五焼・五痛は「還如前法」、元に戻り、さらに「久後轉劇」、時とともに激しくなります。式は、この二つの時を分けて写します。t_去世 は、仏が世を去る時です。経の道が滅び尽きる世については、流通の段(下巻 二十一)で、この経だけを百年とどめる、と経は言います。
\[ \text{哀愍}(\text{佛},\ x) > \text{念}(\text{父母},\ \text{子}), \qquad \begin{cases} t < t_{\text{去世}} : & \text{降化五惡},\ \ \text{消除五痛},\ \ \text{絕滅五燒} \\ t > t_{\text{去世}} : & \text{經道}(t) \searrow,\ \ \text{五燒・五痛} \to \text{前法},\ \ \text{久後轉劇} \end{cases} \]
原文 佛語彌勒:「汝等各善思之,轉相教誡,如佛經法,無得犯也。」(大正12・277c)
書き下し 仏、弥勒に語りたまはく、「なんぢら、おのおのよくこれを思ひ、うたたあひ教誡して、仏の経法のごとくし、犯すことを得ることなかれ」と。
訳 仏は弥勒に語られた。「おまえたちは、それぞれよくこれを思い、互いに教え戒め合って、仏の経の法のとおりにし、決してそれを犯してはならない。」
原文 於是,彌勒菩薩合掌白言:「佛所說甚苦。世人實爾,如來普慈哀愍悉令度脫,受佛重誨不敢違失。」(大正12・277c)
書き下し ここに弥勒菩薩、合掌して白してまうさく、「仏の所説、はなはだ苦なり。世人まことに爾なり。如来あまねく慈しみ哀愍して、ことごとく度脱せしめたまふ。仏の重誨を受けて、あへて違失せじ」と。
訳 そこで弥勒菩薩は合掌して申し上げた。「仏が説かれたことは、まことに苦しいことです。世の人々は、本当にそのとおりです。如来はあまねく慈しみ、あわれんで、ことごとく救ってくださいます。仏の重ねての教えを受けて、決してそむき失うことはいたしません。」
〔異本〕この段の終わりの字句には、大正蔵の本文と流布本とで、次の違いがあります(左が流布本、括弧の中が大正蔵の本文)。「他方諸佛國土」(國中)、「轉相欺紿」(欺殆)、「今我於此世作佛」(今吾)、「汝等各善思之」の前の「佛語彌勒」(佛告彌勒)、「佛所說甚苦」(甚善)。「欺紿」の「紿」は、あざむく意の字です。大正蔵の本文の「殆」について、憬興は「殆者,危也盡也。今此中意,存其俗語,言欺之也」と注し、ここでは俗語の用い方で「欺く」の意だとします(大正37・168b)。どちらの字でも、互いに欺き合う、という意味は変わりません。弥勒の答えの「甚苦」と「甚善」は、注釈書の引く本文でも分かれます。慧遠は「所說甚善世人實爾」と引き(大正37・115a)、憬興は「甚苦實爾者,領解」と記します(大正37・168b)。この訳は流布本に従って「甚苦」と読み、仏の説いた世のありさまがまことに苦しいものだ、と弥勒が受けとめる言葉と訳しました。大正蔵の本文に従えば、「仏の説かれたことは、まことに善い」となります。
釈尊は阿難に、無量寿仏を礼拝するよう告げます。阿難が西に向かって礼拝し、かの仏と国を見たいと願うと、無量寿仏が光明を放ち、この会座の人々は、かの仏と国を目の当たりに見ます。続いて釈尊は弥勒(慈氏)に、かの国に「胎生」と「化生」の二つの生まれ方があることを示し、その因を説きます。
原文 佛告阿難:「汝起更整衣服,合掌恭敬,禮無量壽佛。十方國土諸佛如來,常共稱揚讚歎彼佛,無著無礙。」(大正12・277c)
書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ起ちて、さらに衣服を整へ、合掌恭敬して、無量寿仏を礼したてまつれ。十方国土の諸仏如来は、つねにともに、かの仏の無著無礙なるを称揚讃歎したまふ」と。
訳 仏は阿難に告げられた。「おまえは立ち上がって、あらためて衣を整え、合掌し敬って、無量寿仏を礼拝しなさい。十方の国々の仏たちは、いつもともに、何ものにもとらわれず、さえぎられることのないかの仏を、ほめたたえておられる。」
〔読み〕十方の仏たちが無量寿仏をほめたたえることは、第十七願(P₁₇)で誓われ、本願成就文で成就が告げられたことです(下巻 十四)。釈尊はそれを、阿難に礼拝を勧める理由として、ここでもう一度告げます。「常共」、いつも、ともにであって、時を限りません。
\[ \forall b \in \mathfrak{B},\ \forall t :\ \text{稱揚讚歎}_t(b,\ \text{無量壽佛}) \qquad (P_{17}\ \text{の成就の再説}) \]
原文 於是,阿難起整衣服,正身西面,恭敬合掌,五體投地禮無量壽佛。白言:「世尊!願見彼佛安樂國土及諸菩薩聲聞大眾。」(大正12・277c–278a)
書き下し ここに阿難、起ちて衣服を整へ、身を正しくし西に面ひて、恭敬合掌し、五体を地に投げて、無量寿仏を礼したてまつる。白してまうさく、「世尊、願はくは、かの仏の安楽国土およびもろもろの菩薩・声聞の大衆を見たてまつらん」と。
訳 そこで阿難は立ち上がって衣を整え、身を正して西に向かい、敬って合掌し、五体を地に投げて、無量寿仏を礼拝した。そして申し上げた。「世尊よ、どうか、かの仏の安楽の国土と、菩薩や声聞の大いなる人々とを見させてください。」
原文 說是語已,即時無量壽佛放大光明,普照一切諸佛世界,金剛圍山、須彌山王、大小諸山,一切所有皆同一色。譬如劫水彌滿世界,其中萬物沈沒不現,滉瀁浩汗唯見大水;彼佛光明亦復如是,聲聞、菩薩一切光明皆悉隱蔽,唯見佛光明耀顯赫。(大正12・278a)
書き下し この語を説きをはるに、即時に無量寿仏、大光明を放ちて、あまねく一切の諸仏の世界を照らしたまふ。金剛囲山・須弥山王・大小の諸山、一切の所有、みな同じく一色なり。たとへば劫水の世界に弥満して、そのなかの万物、沈没して現ぜず、滉瀁浩汗として、ただ大水を見るがごとし。かの仏の光明も、またかくのごとし。声聞・菩薩の一切の光明、みなことごとく隠蔽して、ただ仏の光明の明耀顕赫なるを見たてまつる。
訳 阿難がこう言い終えると、たちまち無量寿仏は大いなる光明を放ち、あらゆる仏たちの世界をあまねく照らされた。金剛囲山も、須弥山王も、大小の山々も、そこにあるすべてのものが、みな同じ一つの色となった。それはちょうど、劫の終わりの大水が世界に満ちて、その中の万物が沈んで見えなくなり、果てしなく広がって、ただ大水だけが見えるようなものである。かの仏の光明もまたそのとおりで、声聞や菩薩のあらゆる光明はすべて隠れて、ただ仏の光明だけが、明るく輝いて、あらわに見えた。
原文 爾時,阿難即見無量壽佛,威德巍巍如須彌山王,高出一切諸世界上,相好光明靡不照耀。此會四眾一時悉見,彼見此土亦復如是。(大正12・278a)
書き下し そのとき阿難、すなはち無量寿仏を見たてまつるに、威徳巍巍として須弥山王のごとく、高く一切の諸世界の上に出でて、相好光明、照耀せざることなし。この会の四衆、一時にことごとく見たてまつる。かしこにしてこの土を見ることも、またかくのごとし。
訳 そのとき阿難は、ただちに無量寿仏を見たてまつった。その威徳は高くそびえて須弥山王のようであり、あらゆる世界の上に高く抜け出て、仏の相好と光明が照らさない所はなかった。この会座の四衆は、同時にみなこれを見た。かの国からこの国土を見ることも、またそのとおりであった。
〔読み〕劫水の譬えは、見えるものが一つに集まる形をしています。大水が満ちれば、万物は沈んでただ大水だけが見え、仏の光明が満ちれば、声聞や菩薩の光明は隠れてただ仏の光明だけが見えます。経の言葉は「隱蔽」、隠れることで、光が無くなることではありません。続く「彼見此土亦復如是」は、見ることが両方向に成り立つことを言います。この会座の人々がかの国を見、かの国の人々もこの国土を見ます。式の ∼ は「譬如……亦復如是」の写しです。
\[ \text{所見}(\text{劫水の世}) = \{\text{大水}\} \;\sim\; \text{所見}(\text{此會}) = \{\text{佛光}\}\ \ (\text{唯見佛光明耀顯赫}), \qquad \text{見}(\text{此會},\ \text{彼國}) \wedge \text{見}(\text{彼國},\ \text{此土}) \]
| 問答 | 原文 | 書き下し | 訳 |
|---|---|---|---|
| 問 | 爾時,佛告阿難及慈氏菩薩:「汝見彼國,從地已上至淨居天,其中所有微妙嚴淨自然之物,為悉見不?」 | そのとき仏、阿難および慈氏菩薩に告げたまはく、「なんぢ、かの国の、地より已上、浄居天に至るまで、そのなかの所有の微妙厳浄なる自然の物を見て、ことごとく見たりや、いなや」と。 | そのとき仏は阿難と慈氏菩薩に告げられた。「おまえは、かの国の、地面から上、浄居天に至るまでの、そこにあるすばらしく厳かで清らかな、おのずからなる物を、すべて見たか。」 |
| 答 | 阿難對曰:「唯然,已見。」 | 阿難対へてまうさく、「唯然。すでに見たてまつる」と。 | 阿難は答えた。「はい、もう見ました。」 |
| 問 | 「汝寧復聞無量壽佛大音宣布一切世界化眾生不?」 | 「なんぢ、むしろまた、無量寿仏の大音の、一切世界に宣布して衆生を化したまふを聞くや、いなや」と。 | 「おまえはまた、無量寿仏の大いなる声が、あらゆる世界に広く行きわたって、生きとし生けるものを教え導くのを聞いたか。」 |
| 答 | 阿難對曰:「唯然,已聞。」 | 阿難対へてまうさく、「唯然。すでに聞きたてまつる」と。 | 阿難は答えた。「はい、もう聞きました。」 |
| 問 | 「彼國人民乘百千由旬七寶宮殿無所障礙,遍至十方供養諸佛,汝復見不?」 | 「かの国の人民、百千由旬の七宝の宮殿に乗じて、障礙するところなく、あまねく十方に至りて諸仏を供養す。なんぢまた見るや、いなや」と。 | 「かの国の人々が、百千由旬もある七宝の宮殿に乗って、さえぎられることなく、十方のすみずみに至って仏たちを供養している。おまえはそれも見たか。」 |
| 答 | 對曰:「已見。」 | 対へてまうさく、「すでに見たてまつる」と。 | 答えた。「もう見ました。」 |
| 問 | 「彼國人民有胎生者,汝復見不?」 | 「かの国の人民に胎生の者あり。なんぢまた見るや、いなや」と。 | 「かの国の人々の中には、胎生の者がいる。おまえはそれも見たか。」 |
| 答 | 對曰:「已見。」 | 対へてまうさく、「すでに見たてまつる」と。 | 答えた。「もう見ました。」 |
| 説 | 「其胎生者所處宮殿,或百由旬或五百由旬,各於其中受諸快樂,如忉利天上,亦皆自然。」(大正12・278a) | 「その胎生の者の処するところの宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにおいて、もろもろの快楽を受くること、忉利天上のごとし。またみな自然なり」と。 | 「その胎生の者たちが住む宮殿は、百由旬のものも五百由旬のものもある。それぞれその中で、さまざまな楽しみを受けることは、忉利天の上のようで、それもみなおのずからそなわっている。」 |
〔読み〕釈尊は四たび、見たか、聞いたかと問い、阿難は四たび「已見」「已聞」と答えます。問いは、国土の荘厳(見る)、仏の声(聞く)、人々が十方に至って仏を供養すること(見る)、胎生の者(見る)と進みます。胎生の者の宮殿は百由旬・五百由旬で、楽しみは忉利天のようだ、と経は言います。この楽しみが、なぜ楽しみにならないのかを、経はこのあと転輪王の譬えで説きます。
原文 爾時,慈氏菩薩白佛言:「世尊!何因何緣彼國人民胎生化生?」(大正12・278a)
書き下し そのとき慈氏菩薩、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。
訳 そのとき慈氏菩薩は仏に申し上げた。「世尊よ、どのような因、どのような縁によって、かの国の人々に、胎生と化生とがあるのでしょうか。」
原文 佛告慈氏:「若有眾生以疑惑心修諸功德,願生彼國,不了佛智、不思議智、不可稱智、大乘廣智、無等無倫最上勝智,於此諸智疑惑不信;然猶信罪福,修習善本,願生其國。此諸眾生生彼宮殿,壽五百歲,常不見佛、不聞經法、不見菩薩聲聞聖眾,是故於彼國土謂之胎生。(大正12・278a)
書き下し 仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見ず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。
訳 仏は慈氏に告げられた。「もし人々が、疑い惑う心でさまざまな功徳を修め、かの国に生まれたいと願うとしよう。仏の智慧と、思いはかることのできない智慧、量りえない智慧、大乗の広い智慧、等しいものも並ぶものもない最上のすぐれた智慧とを明らかに知らず、これらの智慧を疑い惑って信じない。それでもなお、罪と福の報いは信じて、善の本を修め習い、その国に生まれたいと願う。このような人々は、かの国の宮殿に生まれて、五百年のあいだ、いつも仏を見たてまつらず、経の法を聞かず、菩薩や声聞の聖なる人々を見ない。それゆえ、かの国土では、これを胎生という。
原文 若有眾生明信佛智乃至勝智,作諸功德信心迴向,此諸眾生於七寶華中自然化生,跏趺而坐,須臾之頃,身相光明,智慧功德如諸菩薩具足成就。(大正12・278a–278b)
書き下し もし衆生ありて、仏智ないし勝智を明信して、もろもろの功徳をなして信心回向せん。このもろもろの衆生は、七宝の華のなかにおいて自然に化生し、跏趺して坐す。須臾のあひだに、身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就す。
訳 もし人々が、仏の智慧から最上のすぐれた智慧までを明らかに信じて、さまざまな功徳をなし、信心をもって振り向けるなら、このような人々は、七宝の花の中におのずから化生し、足を組んで坐る。たちまちのうちに、身のすがたも光明も、智慧も功徳も、菩薩たちと同じようにすべてそなわる。
〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕疑われる五つの智慧の名のうち、「不思議智」と「不可稱智」は、思いはかることも、称え量ることも、その智慧を尽くせない、という名です。A0 の「いかなる記号体系 L も、u′(虚空の余剰)を汲み尽くせない」の形です。式は、その智慧を何かで書き尽くすことはせず、尽くせないことだけを書きます。
\[ \neg\,\exists L :\ \text{思議}_L(\text{佛智}) = \text{佛智}\ \ (\text{不思議智}), \qquad \neg\,\exists L :\ \text{稱}_L(\text{佛智}) = \text{佛智}\ \ (\text{不可稱智}) \]
〔読み〕胎生と化生を分けるのは、仏の智慧を疑うか、明らかに信じるか、の一点です。胎生の者も、功徳を修め、罪と福の報いを信じ、善の本を修め、かの国に生まれたいと願います。そして、かの国には生まれます。ただ宮殿にとどまり、五百年のあいだ仏・法・聖衆にまみえません。化生の者は、生まれるとたちまち(「須臾之頃」)、菩薩と同じ身となります。式の τ(x) は、胎生の者 x が生まれてから仏にまみえるまでの時、τ_成(x) は、化生の者 x が生まれてから、身の相・光明・智慧・功徳が菩薩たちのようにそなわるまでの時です。経は、化生の者が仏にまみえる時を言わないので、式も τ を化生の者には当てません。
\[ \begin{aligned} \text{胎生} &= \{\, x :\ \text{疑惑}(x,\ \text{佛智}) \wedge \text{信}(x,\ \text{罪福}) \wedge \text{修習善本}(x) \wedge \text{願生}(x) \,\} \\ \text{化生} &= \{\, x :\ \text{明信}(x,\ \text{佛智}) \wedge \text{作諸功德}(x) \wedge \text{信心迴向}(x) \,\} \\ &\text{胎生} \cap \text{化生} = \emptyset, \qquad \forall x \in \text{胎生} :\ \tau(x) = \text{五百歲}, \qquad \forall x \in \text{化生} :\ \tau_{\text{成}}(x) = \text{須臾} \end{aligned} \]
〔借・定義寄り|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕化生の者は、もろもろの功徳を作り、信心をもって振り向けます(「作諸功德信心迴向」)。胎生の者にも「修諸功德,願生彼國」とあり、功徳を修めることと、かの国に生まれたいと願うこととが並びます。ただし、こちらには「迴向」の語はありません。第二十願や三輩の所で g(徳本) = 欲生我國 と書いた、G-1 の形に重ねて読めます。経は、疑いがともなうか、信心がともなうかで、生まれ方が分かれると言います。だれが振り向けるのかについては、本願成就文の「至心迴向」の所(下巻 十四の〔諸釈〕)で記した読みの違いが、ここにも及びます。
\[ g(\text{諸功德}) = \text{願生彼國}\ \ (\text{化生は「信心迴向」、胎生は「修諸功德,願生彼國」で「迴向」の語はない}), \qquad (g,\ \text{疑惑}) \mapsto \text{胎生}, \qquad (g,\ \text{明信}) \mapsto \text{化生} \]
原文 「復次,慈氏!他方佛國諸大菩薩發心欲見無量壽佛,恭敬供養及諸菩薩聲聞之眾。彼菩薩等命終得生無量壽國,於七寶華中自然化生。彌勒當知,彼化生者智慧勝故。其胎生者皆無智慧,於五百歲中常不見佛、不聞經法、不見菩薩諸聲聞眾,無由供養於佛、不知菩薩法式、不得修習功德,當知此人宿世之時無有智慧,疑惑所致。」(大正12・278b)
書き下し 「また次に慈氏、他方の仏国の諸大菩薩、発心して、無量寿仏を見たてまつり恭敬し供養し、およびもろもろの菩薩・声聞の衆を見んと欲はん。かの菩薩等、命終りて無量寿国に生ずることを得て、七宝の華のなかにおいて自然に化生す。弥勒、まさに知るべし、かの化生の者は、智慧勝れたるがゆゑなり。その胎生の者は、みな智慧なし。五百歳のなかにおいて、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・もろもろの声聞衆を見ず。仏を供養するに由なく、菩薩の法式を知らず、功徳を修習することを得ず。まさに知るべし、この人は宿世の時に智慧あることなくして、疑惑せしが致すところなり」と。
訳 「さらにまた、慈氏よ。他方の仏の国の大菩薩たちが、無量寿仏を見たてまつって敬い供養し、また菩薩や声聞の人々にも会いたいと、心をおこすとしよう。その菩薩たちは、命が終わると無量寿国に生まれることができ、七宝の花の中におのずから化生する。弥勒よ、知るがよい。かの化生する者は、智慧がすぐれているからである。胎生の者は、みな智慧がない。五百年のあいだ、いつも仏を見たてまつらず、経の法を聞かず、菩薩や声聞の人々を見ず、仏を供養するすべもなく、菩薩の作法も知らず、功徳を修め習うこともできない。知るがよい。この人々は、前の世に智慧がなく、疑い惑ったことによって、こうなったのである。」
原文 佛告彌勒:「譬如轉輪聖王別有七寶宮室種種莊嚴,張設床帳,懸諸繒幡。若有諸小王子得罪於王,輒內彼宮中,繫以金鎖,供給飲食、衣服、床褥、華香、伎樂,如轉輪王無所乏少。於意云何?此諸王子寧樂彼處不?」(大正12・278b)
書き下し 仏、弥勒に告げたまはく、「たとへば転輪聖王に、別に七宝の宮室ありて、種種に荘厳し、床帳を張設し、もろもろの繒幡を懸けたるがごとし。もしもろもろの小王子ありて、罪を王に得れば、すなはちかの宮中に内れて、繋ぐに金鎖をもつてし、飲食・衣服・床褥・華香・伎楽を供給すること、転輪王のごとくにして、乏少するところなし。意においていかん。このもろもろの王子、むしろかの処を楽しむや、いなや」と。
訳 仏は弥勒に告げられた。「たとえば転輪聖王が、別に七宝の宮殿をもっていて、さまざまに飾りたて、寝台と帳をととのえ、色とりどりの旗を懸けているとしよう。もし幼い王子たちが王に対して罪を犯すと、すぐにその宮殿の中に入れて、金の鎖でつなぎ、飲み物や食べ物、衣服、寝具、花や香、音楽を、転輪王と同じように与えて、何ひとつ欠けることがない。おまえはどう思うか。この王子たちは、そこを楽しいと思うだろうか。」
原文 對曰:「不也,但種種方便求諸大力欲自免出。」(大正12・278b)
書き下し 対へてまうさく、「いな。ただ種種の方便をもつて、もろもろの大力を求めて、みづから免れ出でんと欲はん」と。
訳 弥勒は答えた。「いいえ。ただあらゆる手だてを尽くし、力のある者たちの助けを求めて、自分からそこを免れ出ようとするでしょう。」
原文 佛告彌勒:「此諸眾生亦復如是。以疑惑佛智故生彼宮殿,無有刑罰乃至一念惡事,但於五百歲中不見三寶,不得供養修諸善本。以此為苦,雖有餘樂猶不樂彼處。(大正12・278b)
書き下し 仏、弥勒に告げたまはく、「このもろもろの衆生も、またかくのごとし。仏智を疑惑せしをもつてのゆゑに、かの宮殿に生じて、刑罰ないし一念の悪事もあることなし。ただ五百歳のなかにおいて三宝を見たてまつらず、供養してもろもろの善本を修することを得ず。これをもつて苦となす。余の楽しみありといへども、なほかの処を楽しまず。
訳 仏は弥勒に告げられた。「この人々もまた同じである。仏の智慧を疑ったために、かの宮殿に生まれたのであって、刑罰もなく、ほんのわずかな悪いこともない。ただ五百年のあいだ、仏・法・僧の三宝を見たてまつらず、供養してさまざまな善の本を修めることができない。これを苦しみとする。ほかの楽しみはあっても、なおそこを楽しいとは思わない。
原文 若此眾生識其本罪,深自悔責求離彼處,即得如意,往詣無量壽佛所恭敬供養,亦得遍至無量無數諸餘佛所修諸功德。彌勒當知,其有菩薩生疑惑者,為失大利。是故,應當明信諸佛無上智慧。」(大正12・278b)
書き下し もしこの衆生、その本の罪を識りて、深くみづから悔い責めて、かの処を離れんと求むれば、すなはち意のごとくなることを得て、無量寿仏の所に往詣して恭敬供養し、またあまねく無量無数の諸余の仏の所に至りて、もろもろの功徳を修することを得。弥勒、まさに知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ずる者は、大利を失すとす。このゆゑに、まさに諸仏無上の智慧を明信すべし」と。
訳 もしこの人々が、自分のもとの罪を知って、深くみずから悔い責め、そこを離れたいと求めるなら、すぐに思いのとおりになって、無量寿仏のみもとに参って敬い供養し、またあまねく、量りしれない数のほかの仏たちのみもとに至って、さまざまな功徳を修めることができる。弥勒よ、知るがよい。菩薩でありながら疑い惑う者は、大きな利益を失うのである。それゆえ、仏たちのこの上ない智慧を、明らかに信じなければならない。」
〔読み〕転輪王の譬えは、楽しみがあっても楽しめない、という形をしています。宮殿の楽しみは転輪王と同じで、欠けるものがありません。それでも王子たちは、そこを出ようとします。胎生の者も、刑罰も悪いことも受けませんが、五百年のあいだ三宝にまみえないことを苦しみとし、「雖有餘樂猶不樂彼處」、ほかの楽しみがあってもそこを楽しみません。どれほど楽しみがあっても、三宝にまみえないことの埋め合わせにならない、という形です。これは、まず第一の成分で比べ、それが等しいときだけ第二の成分で比べる、辞書式の順序の形です。慧遠も「以此苦故,雖樂不樂」と読みます(大正37・115c)。
\[ \forall x \in \text{胎生} :\ \neg\,\text{見三寶}(x) \;\Rightarrow\; \neg\,\text{樂}(x,\ \text{彼處})\ \ (\text{雖有餘樂猶不樂彼處。餘樂の多少によらない}), \qquad (\text{見三寶},\ \text{餘樂})\ \text{を辞書式に比べる} \]
〔諸釈〕吉蔵は、譬えの一つ一つを読み解きます。「「轉輪王」,喻無量壽佛。「七寶宮室」,喻其淨土。「王子得罪」,喻疑心之人過。「金鎖」,喻花不開」。そして「深自悔責」について、「明不必一種,若能悔即出,不悔必滿五百歲」、悔いればすぐに出られ、悔いなければ五百年を満たす、と言います(『無量寿経義疏』、大正37・125a)。CBETA の本文で確かめました。式の φ は、譬えから譬えられるものへの対応、t_悔 は、本の罪を知って悔い、離れを求める時です。上の式の τ(x) = 五百歲 は、悔いのないときの値になります。
\[ \varphi :\ \text{轉輪王} \mapsto \text{無量壽佛},\ \ \text{七寶宮室} \mapsto \text{淨土},\ \ \text{王子得罪} \mapsto \text{疑心之人過},\ \ \text{金鎖} \mapsto \text{花不開}, \qquad \tau_{\text{出}}(x) = \min\bigl(t_{\text{悔}}(x),\ \text{五百歲}\bigr) \]
〔諸釈〕胎生と化生の読みです。慧遠・吉蔵・憬興の句と、善導の『往生礼讃』に収められた彦琮の偈の句は、CBETA の本文で確かめました。親鸞の欄は、この訳者の知識による要約で、和文の原典には当たっていません(英訳の Collected Works of Shinran の Hymns of the Dharma Ages で、その一連の和讃に borderland(辺地)、womb-palace(胎宮)の語があることだけを確かめました)。
| 読み | 胎生の因 | 五つの智 | 拠り所 |
|---|---|---|---|
| 慧遠 | 疑惑は失、功徳を修して生まれを願うことは得。胎生の者は、失と得をあわせもつ | 「不了佛智」が総、「不思」以下の四つが別 | 『無量寿経義疏』「「若有眾生以疑惑心」,略明其失。「修諸功德願生彼國」,略明其得」「於中初言「不了佛智」,此句是總;「不思」等,別」(大正37・115b) |
| 吉蔵 | 生まれは願いにより、胎は疑いによる | 仏の五種の智を疑って信じない | 『無量寿経義疏』「願生故往生、由疑受胎」「於佛五種智懷疑不信,故見佛奢」(大正37・125a) |
| 憬興 | 仏智を疑う者は、かの国に生まれても辺地にとどまり、聖の教化を受けない | 五つの智を、『仏地経』の五法(清浄法界と四智)に順に当てる。仏智を清浄法界とする。仏智を総の名とし、ほかの四つをその別とする説は退ける(四つを四智に当てる所は同じ。「此亦不然」) | 『無量寿経連義述文賛』「故此五智如其次第,彼《佛地經》中五法是也。清淨法界名為佛智」「由此疑佛智,雖生彼國而在邊地不被聖化,事若胎生」(大正37・169b–c) |
| 彦琮(善導『往生礼讃』所収) | 疑いが多ければ、辺地にとどまることが久しい | (ここでは論じない) | 善導『往生礼讃』の晨朝の礼に収める彦琮の偈(「第五謹依彥琮法師願往生禮讚偈」、大正47・444a)。「疑多邊地久,德少上生難」(大正47・445a) |
| 親鸞 | 仏智を疑い、罪福を信じて自らの善本をたのむ者、自力で念仏する者は、辺地・胎宮にとどまる | (この訳では確かめていない) | 『正像末和讃』の、仏智を疑う罪を詠む一連の和讃(要約) |
\[ \text{吉藏} :\ \text{願生} \Rightarrow \text{往生},\ \ \text{疑} \Rightarrow \text{受胎}, \qquad \text{憬興} :\ \langle \text{佛智},\ \text{不思議智},\ \text{不可稱智},\ \text{大乘廣智},\ \text{最上勝智} \rangle \longmapsto \langle \text{清淨法界},\ \text{大圓鏡智},\ \text{平等性智},\ \text{妙觀察智},\ \text{成所作智} \rangle \]
〔異本〕この段の字句には、大正蔵の本文と流布本とで、次の違いがあります(左が流布本、括弧の中が大正蔵の本文)。「無著無礙」「無所障礙」の「礙」(閡)、「正身西面」(西向)、「如忉利天上」(忉利天)、「跏趺而坐」(加趺)、「他方佛國諸大菩薩」(他方諸大菩薩)、「別有七寶宮室種種莊嚴」(別有宮室,七寶莊飾)、「床褥」(床蓐)、「欲自免出」(勉出)、「以疑惑佛智故」(以疑惑佛智)、「諸餘佛所」(諸如來所)。譬えの宮室を、宋・元・明の三本は「有七寶牢獄種種莊嚴」と、はっきり「牢獄」に作ります。
弥勒が、この世界からどれほどの不退の菩薩がかの国に生まれるかを問い、釈尊は、この世界と他方の十三の仏国から、数えきれない菩薩が往生すると答えます。続いて釈尊は、この経を聞くことの利益と難しさを説き、経の道が滅び尽きる世にもこの経をとどめると告げて、経を弥勒たちに託します(流通)。説法の利益と、大衆の歓喜で、経は終わります。
原文 彌勒菩薩白佛言:「世尊!於此世界有幾所不退菩薩生彼佛國?」(大正12・278b)
書き下し 弥勒菩薩、仏にまうしてまうさく、「世尊、この世界において、いくばくの不退の菩薩ありてか、かの仏国に生ずる」と。
訳 弥勒菩薩は仏に申し上げた。「世尊よ、この世界から、どれほどの不退転の菩薩が、かの仏の国に生まれるのでしょうか。」
原文 佛告彌勒:「於此世界有六十七億不退菩薩往生彼國。一一菩薩已曾供養無數諸佛,次如彌勒者也;諸小行菩薩及修習少功德者不可稱計,皆當往生。」(大正12・278b–278c)
書き下し 仏、弥勒に告げたまはく、「この世界において、六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一一の菩薩は、すでにかつて無数の諸仏を供養せること、弥勒に次ぐがごとき者なり。もろもろの小行の菩薩、および少功徳を修習せる者は、称計すべからず。みなまさに往生すべし」と。
訳 仏は弥勒に告げられた。「この世界からは、六十七億の不退転の菩薩が、かの国に往生する。その菩薩の一人ひとりは、すでに数えきれない仏たちを供養してきた者で、弥勒に次ぐほどの者たちである。また、小さな行の菩薩たちや、わずかな功徳を修めた者たちは、数えあげることができない。みな往生するであろう。」
| 仏 | 原文 | 書き下し | 訳 |
|---|---|---|---|
| 序 | 佛告彌勒:「不但我剎諸菩薩等往生彼國,他方佛土亦復如是。 | 仏、弥勒に告げたまはく、「ただわが刹の諸菩薩等の、かの国に往生するのみにあらず。他方の仏土も、またかくのごとし。 | 仏は弥勒に告げられた。「わたしの国土の菩薩たちが、かの国に往生するだけではない。他方の仏の国土もまた同じである。 |
| 一 | 其第一佛名曰遠照,彼有百八十億菩薩皆當往生。 | その第一の仏を名づけて遠照といふ。かしこに百八十億の菩薩ありて、みなまさに往生すべし。 | 第一の仏は遠照という。そこには百八十億の菩薩がいて、みな往生するであろう。 |
| 二 | 其第二佛名曰寶藏,彼有九十億菩薩皆當往生。 | その第二の仏を名づけて宝蔵といふ。かしこに九十億の菩薩ありて、みなまさに往生すべし。 | 第二の仏は宝蔵という。そこには九十億の菩薩がいて、みな往生するであろう。 |
| 三 | 其第三佛名曰無量音,彼有二百二十億菩薩皆當往生。 | その第三の仏を名づけて無量音といふ。かしこに二百二十億の菩薩ありて、みなまさに往生すべし。 | 第三の仏は無量音という。そこには二百二十億の菩薩がいて、みな往生するであろう。 |
| 四 | 其第四佛名曰甘露味,彼有二百五十億菩薩皆當往生。 | その第四の仏を名づけて甘露味といふ。かしこに二百五十億の菩薩ありて、みなまさに往生すべし。 | 第四の仏は甘露味という。そこには二百五十億の菩薩がいて、みな往生するであろう。 |
| 五 | 其第五佛名曰龍勝,彼有十四億菩薩皆當往生。 | その第五の仏を名づけて竜勝といふ。かしこに十四億の菩薩ありて、みなまさに往生すべし。 | 第五の仏は竜勝という。そこには十四億の菩薩がいて、みな往生するであろう。 |
| 六 | 其第六佛名曰勝力,彼有萬四千菩薩皆當往生。 | その第六の仏を名づけて勝力といふ。かしこに万四千の菩薩ありて、みなまさに往生すべし。 | 第六の仏は勝力という。そこには一万四千の菩薩がいて、みな往生するであろう。 |
| 七 | 其第七佛名曰師子,彼有五百億菩薩皆當往生。 | その第七の仏を名づけて師子といふ。かしこに五百億の菩薩ありて、みなまさに往生すべし。 | 第七の仏は師子という。そこには五百億の菩薩がいて、みな往生するであろう。 |
| 八 | 其第八佛名曰離垢光,彼有八十億菩薩皆當往生。 | その第八の仏を名づけて離垢光といふ。かしこに八十億の菩薩ありて、みなまさに往生すべし。 | 第八の仏は離垢光という。そこには八十億の菩薩がいて、みな往生するであろう。 |
| 九 | 其第九佛名曰德首,彼有六十億菩薩皆當往生。 | その第九の仏を名づけて徳首といふ。かしこに六十億の菩薩ありて、みなまさに往生すべし。 | 第九の仏は徳首という。そこには六十億の菩薩がいて、みな往生するであろう。 |
| 十 | 其第十佛名曰妙德山,彼有六十億菩薩皆當往生。 | その第十の仏を名づけて妙徳山といふ。かしこに六十億の菩薩ありて、みなまさに往生すべし。 | 第十の仏は妙徳山という。そこには六十億の菩薩がいて、みな往生するであろう。 |
| 十一 | 其第十一佛名曰人王,彼有十億菩薩皆當往生。 | その第十一の仏を名づけて人王といふ。かしこに十億の菩薩ありて、みなまさに往生すべし。 | 第十一の仏は人王という。そこには十億の菩薩がいて、みな往生するであろう。 |
| 十二 | 其第十二佛名曰無上華,彼有無數不可稱計諸菩薩眾——皆不退轉,智慧勇猛,已曾供養無量諸佛,於七日中即能攝取百千億劫大士所修堅固之法——斯等菩薩皆當往生。 | その第十二の仏を名づけて無上華といふ。かしこに無数不可称計の諸菩薩衆あり。みな不退転にして、智慧勇猛なり。すでにかつて無量の諸仏を供養し、七日のなかにおいて、すなはちよく百千億劫に大士の修するところの堅固の法を摂取す。これらの菩薩、みなまさに往生すべし。 | 第十二の仏は無上華という。そこには、数えきれず、数えあげることもできない菩薩たちがいる。みな不退転で、智慧は勇ましく力強く、すでに量りしれない仏たちを供養してきた。大士たちが百千億劫かけて修める堅固な法を、七日のうちに、たちまち身に収めることができる。この菩薩たちも、みな往生するであろう。 |
| 十三 | 其第十三佛名曰無畏,彼有七百九十億大菩薩眾、諸小菩薩及比丘等不可稱計皆當往生。」(大正12・278c) | その第十三の仏を名づけて無畏といふ。かしこに七百九十億の大菩薩衆、もろもろの小菩薩および比丘等の称計すべからざるものありて、みなまさに往生すべし」と。 | 第十三の仏は無畏という。そこには七百九十億の大菩薩たちと、数えあげることのできない小さな菩薩たちや比丘たちがいて、みな往生するであろう。」 |
原文 佛語彌勒:「不但此十四佛國中諸菩薩等當往生也,十方世界無量佛國其往生者亦復如是,甚多無數。我但說十方諸佛名號及菩薩、比丘生彼國者,晝夜一劫尚未能竟,我今為汝略說之耳。」(大正12・278c)
書き下し 仏、弥勒に語りたまはく、「ただこの十四の仏国のなかの諸菩薩等の、まさに往生すべきのみにあらず。十方世界の無量の仏国より、その往生する者も、またかくのごとく、はなはだ多く無数なり。われただ十方の諸仏の名号、および菩薩・比丘の、かの国に生ずる者を説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ竟ることあたはず。われいまなんぢがために、略してこれを説くのみ」と。
訳 仏は弥勒に語られた。「この十四の仏の国の菩薩たちが往生するだけではない。十方の世界の量りしれない仏の国から往生する者も、また同じように、はなはだ多く、数えきれない。わたしが、十方の仏たちの名と、かの国に生まれる菩薩や比丘たちとを説くだけでも、昼も夜も一劫かけて、なお説き終えることができない。わたしはいま、おまえのために、あらましを説いたにすぎない。」
〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕往生する菩薩の数は、この世界から六十七億、他方の十三の仏国からもそれぞれの数が挙がります。けれども、この世界の小行の菩薩、第十二の無上華仏の国の菩薩、第十三の無畏仏の国の小菩薩や比丘は、「不可稱計」です。さらに十方の無量の仏国からも往生する者があり、名を説くだけで、昼夜一劫かけても尽きません。この訳は、経が挙げる数を足し合わせません(序の約束の三)。足し合わせる項の中に、すでに称計できないものが含まれていて、全体は称計の外にあるからです。上巻 十二の「晝夜一劫尚未能盡」と同じ形です。式の 𝒜 は、この段で往生すると言われる者の全体です。菩薩のほかに、少ない功徳を修めた者や比丘も含むので、上巻 七の 𝒯(他方から来て生まれる菩薩たち)より広く取り、𝒯 ⊆ 𝒜 とします。
\[ \mathcal{A} = \mathcal{A}_{\text{此世界}} \cup \bigcup_{k=1}^{13} \mathcal{A}_k \cup \mathcal{A}_{\text{十方}},\ \ \mathcal{T} \subseteq \mathcal{A}, \qquad |\mathcal{A}_{12}| = \text{不可稱計} \;\Rightarrow\; |\mathcal{A}| \notin \{\, n : n\ \text{を稱計しうる} \,\}, \qquad \text{說}(\text{晝夜一劫}) \subsetneq \text{全體}\ \ (\text{尚未能竟}) \]
原文 佛語彌勒:「其有得聞彼佛名號,歡喜踊躍,乃至一念,當知此人為得大利,則是具足無上功德。是故,彌勒!設有大火充滿三千大千世界,要當過此。聞是經法,歡喜信樂,受持讀誦,如說修行。(大正12・279a)
書き下し 仏、弥勒に語りたまはく、「それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して、乃至一念することあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり。このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぐべし。この経法を聞きて、歓喜信楽し、受持読誦して、説のごとく修行せよ。
訳 仏は弥勒に語られた。「かの仏の名を聞くことができて、喜びにおどりあがること、たとえ一念であっても、知るがよい、この人は大きな利益を得るのであり、この上ない功徳をそなえるのである。それゆえ弥勒よ、たとえ大火が三千大千世界に満ちていても、必ずそれを通り抜けなければならない。この経の法を聞いて、喜び、信じ願い、受けたもち、読み誦え、説かれたとおりに修行しなさい。
原文 所以者何?多有菩薩欲聞此經而不能得。若有眾生聞此經者,於無上道終不退轉,是故應當專心信受持誦說行。(大正12・279a)
書き下し ゆゑはいかん。多く菩薩ありて、この経を聞かんと欲へども、得ることあたはず。もし衆生ありて、この経を聞く者は、無上道においてつひに退転せず。このゆゑに、まさに専心に信受し、持誦し、説行すべし。
訳 なぜかといえば、この経を聞きたいと願っても聞くことのできない菩薩が、多くいるからである。この経を聞く者は、この上ない道において、決して退くことがない。それゆえ、心をもっぱらにして、信じ受け、たもち誦え、説き行いなさい。
原文 佛言吾今為諸眾生說此經法,令見無量壽佛及其國土一切所有,所當為者皆可求之,無得以我滅度之後復生疑惑。當來之世經道滅盡,我以慈悲哀愍特留此經止住百歲,其有眾生值斯經者,隨意所願皆可得度。」(大正12・279a)
書き下し 仏ののたまはく、われいまもろもろの衆生のために、この経法を説きて、無量寿仏およびその国土の一切の所有を見せしむ。まさになすべきところの者は、みなこれを求むべし。わが滅度の後をもつて、また疑惑を生ずることを得ることなかれ。当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲哀愍をもつて、特にこの経を留めて止住すること百歳ならしめん。それ衆生ありてこの経に値ふ者は、意の所願に随ひて、みな得度すべし」と。
訳 仏は言われた。「わたしはいま、人々のためにこの経の法を説いて、無量寿仏とその国土のすべてのありさまを見させた。なすべきことは、みな求めなさい。わたしが滅度したのちに、また疑い惑うことがあってはならない。来たるべき世に、経の道が滅び尽きても、わたしは慈悲と哀れみによって、とくにこの経をとどめて、百年のあいだ住させる。この経に出会う者は、その心に願うところに従って、みな救われることができる。」
〔読み〕名を聞いて喜びにおどりあがる者は、たとえ一念であっても「為得大利」、大きな利益を得ます。前の段の終わりでは、仏の智慧を疑う菩薩は「為失大利」、大きな利益を失う、と言われました。経は、同じ「大利」を、得る側と失う側の両方から語ります。名を聞いて一念する者の条件は、本願成就文の「聞其名號信心歡喜,乃至一念」と同じ形です(下巻 十四)。また「設有大火充滿三千大千世界,要當過此」は、往覲偈の第三十の偈と同じく、法を聞くことの重さを、それを上回る代価がないことで示します。
\[ \text{聞名}(x) \wedge \text{歡喜踊躍}(x) \wedge \text{念}(x) \ge 1 \;\Rightarrow\; \text{得大利}(x) \wedge \text{具足無上功德}(x), \qquad \forall x \in \text{菩薩} :\ \text{疑惑}(x,\ \text{佛智}) \;\Rightarrow\; \text{失大利}(x)\ \ (\text{其有菩薩生疑惑者}), \qquad V(\text{聞是經法}) > C(\text{過大火}) \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A2 慈悲の縁起的集合論〕〔読み〕下巻 十九で釈尊は、自らが世を去ったのち、経の道がしだいに滅びると言いました。ここではその先、経の道が滅び尽きる世にも、「慈悲哀愍」によってこの経だけを百年とどめ、出会う者はみな救われうる(「皆可得度」)、と言います。教えが最も届きにくくなる時に向けて、とくに手だてを残す形です。A2 の派生の欄の「下降的 Φ_C(最弱の項への優先的介入)」の「最弱の項」は、積の一つの項、すなわち一人ひとりの衆生ですが、ここではそれを時に移して重ねて読みます。経は「優先」とは言わず、「慈悲哀愍」によって「特留」すると言います。式の t_滅盡 は、経の道が滅び尽きる時です。経は百年という長さを言うだけで、式もそれを計算しません。
\[ t \in [\,t_{\text{滅盡}},\ t_{\text{滅盡}} + \text{百歲}\,] :\ \text{經道}(t) = \{\text{此經}\}\ \ (\text{特留此經止住百歲}), \qquad \forall x :\ \text{值}(x,\ \text{此經}) \Rightarrow \text{隨意所願皆可得度}(x) \]
〔諸釈〕大正蔵の脚注は、明本の註を引きます。「明註曰恭讀無量清淨平等覺經云般泥洹去後經道留止千歲千歲後留是經法止住百歲詳繹慈旨百歲前尚有千歲經在後百歲中留止經法」。平等覚経の大正蔵の本文は「我般泥洹去後,經道留止千歲,千歲後經道斷絕,在心所願皆可得道」で(大正12・299c)、元本と明本は「斷絕」の「絕」の後に「我皆慈哀特留是經法止住百歲百歲中竟乃休止絕」を加えます(同所の校注)。いずれも CBETA の本文と校注で確かめました。明註は、この加わった句によって、経の道が千年とどまったのちに、この経がさらに百年とどまる、と読みます。
\[ \text{明註} :\ t_{\text{滅盡}} = t_{\text{泥洹}} + \text{千歲}, \qquad \bigl(t_{\text{泥洹}},\ t_{\text{滅盡}}\bigr] :\ \text{經道留止}, \qquad \bigl(t_{\text{滅盡}},\ t_{\text{滅盡}} + \text{百歲}\bigr] :\ \text{留是經法} \]
原文 佛語彌勒:「如來興世難值難見、諸佛經道難得難聞;菩薩勝法諸波羅蜜得聞亦難;遇善知識、聞法能行此亦為難;若聞斯經信樂受持,難中之難無過此難。是故我法,如是作、如是說、如是教,應當信順,如法修行。」(大正12・279a)
書き下し 仏、弥勒に語りたまはく、「如来の興世には値ひがたく、見たてまつりがたし。諸仏の経道は得がたく、聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることもまた難し。善知識に遇ひ、法を聞きてよく行ずること、これもまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなし。このゆゑにわが法は、かくのごとくなし、かくのごとく説き、かくのごとく教ふ。まさに信順して、法のごとく修行すべし」と。
訳 仏は弥勒に語られた。「如来が世に出られることには、会いがたく、見たてまつりがたい。仏たちの経の道は、得がたく、聞きがたい。菩薩のすぐれた法、もろもろの波羅蜜を聞くことも、また難しい。善き師に会い、法を聞いてよく行うことも、また難しい。もしこの経を聞いて、信じ願い、受けたもつなら、それは難しいことの中でも難しいことで、これにまさる難しさはない。それゆえ、わたしの法は、このようになし、このように説き、このように教える。信じ従って、法のとおりに修行しなさい。」
〔読み〕経は、難しいことを五つ挙げ、最後の一つを「難中之難無過此難」、これにまさる難しさはない、とします。「無過此難」は、挙げた四つに限らず、どの難しさもこれを超えない、という言い方です。式は、難しいことの全体を 難事 と書き、挙げた四つをその一部とします。経は、ほかの四つを互いに比べてはいません。言うのは、この経を聞いて信じ受けたもつことが、どれにも劣らず難しい、ということだけです。
\[ \forall e \in \text{難事} :\ \text{難}(e) \le \text{難}(\text{聞斯經信樂受持})\ \ (\text{難中之難無過此難}), \qquad \{\text{值如來興世},\ \text{聞諸佛經道},\ \text{聞諸波羅蜜},\ \text{遇善知識聞法能行}\} \subseteq \text{難事} \]
〔借・定義寄り|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕経の初めの「我聞如是」は、聞いた言葉をそのとおりに護り持って、次の聞き手に渡す形でした(上巻 一)。経の終わりに、釈尊は「如是作、如是說、如是教」と「如是」を三たび重ね、「應當信順,如法修行」と弥勒たちに託します。少し前の「應當專心信受持誦說行」も、聞いた経を受けたもち、誦え、説き、行うことを求めます。経を聞いて結んだ像(i)が、護り持たれて(g)、次に聞く者への問い(c)となる、G-1 の形が、経の入口と出口で向かい合います。
\[ \underbrace{g(i_0) = c_1}_{\text{我聞如是(入口)}} \qquad \cdots \qquad \underbrace{g(i_{\text{此經}}) = c_{\text{彌勒・後世}}}_{\text{如是作・如是說・如是教(出口)}}, \qquad \text{信受} \to \text{持誦} \to \text{說} \to \text{行} \]
原文 爾時,世尊說此經法,無量眾生皆發無上正覺之心,萬二千那由他人得清淨法眼,二十二億諸天人民得阿那含果,八十萬比丘漏盡意解,四十億菩薩得不退轉,以弘誓功德而自莊嚴,於將來世當成正覺。爾時,三千大千世界六種震動,大光普照十方國土,百千音樂自然而作,無量妙華紛紛而降。(大正12・279a)
書き下し そのとき世尊、この経法を説きたまふに、無量の衆生、みな無上正覚の心を発す。万二千那由他の人、清浄の法眼を得、二十二億の諸天・人民、阿那含果を得、八十万の比丘、漏尽き意解け、四十億の菩薩、不退転を得て、弘誓の功徳をもつてみづから荘厳し、将来の世においてまさに正覚を成ずべし。そのとき三千大千世界、六種に震動し、大光あまねく十方の国土を照らし、百千の音楽、自然にして作り、無量の妙華、紛紛として降る。
訳 そのとき世尊がこの経の法を説かれると、量りしれない人々が、みなこの上ない正しい覚りを求める心をおこした。一万二千那由他の人々が清らかな法の眼を得、二十二億の天と人々が阿那含の果を得、八十万の比丘が、煩悩の漏れが尽きて心が解き放たれ、四十億の菩薩が不退転を得て、広大な誓いの功徳でみずからを飾り、来たるべき世に正しい覚りを成就するであろう。そのとき三千大千世界は六種に震動し、大いなる光があまねく十方の国土を照らし、百千の音楽がおのずから奏でられ、量りしれない美しい花が、ひらひらと降りそそいだ。
原文 佛說經已,彌勒菩薩及十方來諸菩薩眾,長老阿難、諸大聲聞,一切大眾,聞佛所說靡不歡喜。(大正12・279a)
書き下し 仏、経を説きたまふこと已りて、弥勒菩薩および十方より来れるもろもろの菩薩衆、長老阿難、もろもろの大声聞、一切の大衆、仏の所説を聞きたてまつりて、歓喜せざるはなかりき。
訳 仏がこの経を説き終えられると、弥勒菩薩と、十方から来た菩薩たち、長老の阿難、大いなる声聞たち、そしてすべての大衆は、仏の説かれたことを聞いて、喜ばない者はなかった。
〔読み〕説法の利益は、聞いた者の段階に応じて挙げられます。発心、法眼、阿那含果、漏尽、不退転です。数は経の言うままに写し、足し合わせません。経は「靡不歡喜」、喜ばない者はなかった、で終わります。「靡不」は「……しない者はない」という二重の否定で、すべての者が喜んだ、という全称と同じです。経の初め(上巻 一)に集った大衆が、終わりに一人残らず喜ぶ形です。
\[ \neg\,\exists x \in \text{一切大眾} :\ \neg\,\text{歡喜}(x) \;\equiv\; \forall x \in \text{一切大眾} :\ \text{歡喜}(x) \qquad (\text{聞佛所說靡不歡喜}) \]
〔異本〕この段の字句には、大正蔵の本文と流布本とで、次の違いがあります(左が流布本、括弧の中が大正蔵の本文)。「佛言吾今為諸眾生說此經法」(吾今為諸眾生說此經法。「佛言」の二字がない)、「得阿那含果」(阿那含)、「紛紛而降」(芬芬)。流布本の「佛言」は、弥勒に語る言葉の中にもう一度置かれています。この訳の書き下しと訳では、そこから仏の言葉が改めて始まるように読みました。また、経の終わりの題を、明本と流布本は「佛說無量壽經」とし、大正蔵の本文は「無量壽經」とします。
共創数学から借りた項目について、札を置いた段を並べます。括弧の数は、同じ段に置いた札の数です。整理表の言明と札の写しは、手引きの表にあります。
| 項目 | 札の数 | 札を置いた段 |
|---|---|---|
| レジスタ分離 | 5 | 上巻 十・十三、下巻 十八・十九(2) |
| A0 沈黙の公理 | 10 | 上巻 一・七・八・十一・十二(2)、下巻 十六・十七・二十・二十一 |
| A1 空鏡の公理 | 4 | 上巻 二・八・九・十二 |
| A2 慈悲の縁起的集合論 | 8 | 上巻 一・六(2)・十一・十二、下巻 十九(2)・二十一 |
| A4 夢の位相空間 | 1 | 上巻 十三 |
| A5 自覚慈悲の同値性 | 4 | 上巻 一・四、下巻 十六・十七 |
| A9 灌頂の公理 | 7 | 上巻 五・六・八・九・十三(2)、下巻 十四 |
| A10 一切衆生悉有仏性の公理 | 9 | 上巻 一・二・六・七(3)・八、下巻 十六・十七 |
| G-1 護持定理 | 8 | 上巻 一・五・七・十二、下巻 十五・十八・二十・二十一 |
| Φ_C 慈悲の場 | 1 | 上巻 十二 |
| 第6層の記帳 | 0 | 札は置かず、序の拠り所で触れるだけです |
| 記号 | 意味 | 定める所 |
|---|---|---|
| 正覚 | 法蔵が仏と成る(正覚を取る)という命題 | 上巻 六 |
| Pₙ | 第 n 願で、満たされないなら正覚を取らない、とされる条件 | 上巻 六 |
| Qₙ(x) | Pₙ が一人ひとりについての条件の全称であるときの、その条件 | 上巻 六 |
| 𝟙[p] | 命題 p が真なら 1、偽なら 0。式では太字の 1 で書く | 上巻 六 |
| N₀ | 「百千億那由他」。量の名として用い、値を計算しない | 上巻 六 |
| 𝒩 | 法蔵の国の天と人(「國中人天」) | 上巻 六 |
| ℬ | 法蔵の国の菩薩(「國中菩薩」) | 上巻 七 |
| 𝒮 | 十方の衆生(「十方眾生」) | 上巻 七 |
| 𝔅 | 十方世界の無量の諸仏 | 上巻 七 |
| 𝔅_恒沙, 𝔅_N₀ | 供養される恒沙の仏たち(上巻 四)と、第七願の N₀ の仏たち | 上巻 四・六 |
| 𝒯 | 他方の仏土から来て、法蔵の国に生まれる菩薩たち | 上巻 七 |
| 𝒜 | 下巻 二十一で往生すると言われる者の全体(菩薩のほか、少ない功徳を修めた者や比丘も含む)。𝒜ₖ は第 k の仏国から往生する者。𝒯 ⊆ 𝒜 | 下巻 二十一 |
| E | 第十八願で除かれる者(「唯除五逆、誹謗正法」) | 上巻 七 |
| K, k* | 数え上げの手だての全体と、極端な例として挙がる数え上げ | 上巻 七 |
| 𝒰 | 十方の諸仏世界の衆生。𝒰_女 はそのうちの女人 | 上巻 八 |
| 𝒱 | 他方の国土の菩薩たち(その国にいながら名を聞く者) | 上巻 九 |
| 往覲菩薩 | 十方から詣でて来た菩薩たち(「十方來正士」)。𝒱 とは別 | 下巻 十六 |
| P₁₈^成就 | 本願成就文の条件 | 下巻 十四 |
| 迴向(a, b) | a が b に向けて振り向けること。だれが振り向けるかの違いを引数に写す | 下巻 十四 |
| V(…), C(…) | 重さ(値)と代価。単位を持たず、大小だけを比べる | 上巻 四ほか |
| g, i, c | G-1 の護持(g)、縁起が結んだ像(i)、次の縁起への問い(c) | 手引き、上巻 一 |
| L | A0 の言う記号体系 | 手引き |
| B(x) | x の仏性(A10)。B の字は、この意味にだけ用いる | 手引き |
| ∼ | 「なほ……のごとし」「譬如……亦復如是」の写し。数の比を言わない | 上巻 十二 |
| → | 文の続く順や、歩みの順。論理の含意(⇒)とは分ける | 下巻 十四 |
| ⇝ | 経の語る次の生への移り。事実層の因果法則を言わない | 上巻 十三 |
| ⟨ ⟩ | 順序のある並び | 上巻 三ほか |
| ⇄、↗、↘ | 互いに生むこと、時とともに増すこと、減ること | 下巻 十九 |
| s_t, a_t, T_a | 時 t の境涯、行い、行いが境涯を移す写像 | 下巻 十九 |
| Γ_N | 第 N の大善の条件 | 下巻 十九 |
| F_t | 前の世の福徳の蓄え | 下巻 十九 |
| 處, r_處, H | 憬興の読みを写す式で、場所(此間か彼國)、時あたりの重さ、比べる時の長さ | 下巻 十九 |
| t_去世, t_滅盡, t_泥洹 | 仏が世を去る時、経の道が滅び尽きる時、般泥洹の時 | 下巻 十九・二十一 |
| τ, τ_成, τ_出, t_悔 | 胎生の者が生まれてから仏にまみえるまでの時、化生の者が菩薩たちのような身をそなえるまでの時、宮殿を出る時、悔いて離れを求める時 | 下巻 二十 |
| φ | 譬えから譬えられるものへの対応 | 下巻 二十 |