仏説観無量寿経 ― 共創数学による訳

2026年10月30日 · 楠見優太

(この頁は、Claude Docs の文書 rev 162 を写したものです。式は MathJax で組まれます。この頁は CC BY-NC-SA 4.0 で公開します。原文の漢文は CBETA 電子佛典集成に拠ります。CBETA の使用說明と版の情報は CBETA-NOTICE にあります。)

序 この訳の約束

この訳は、『仏説観無量寿経』一巻の全文を、原文・書き下し・現代語訳の三つで訳し、そのうえに、共創数学の記号で経の組み立てを写した「式と読み」を添えます。式は、経の言葉の条件・量・順序・因果を見やすくするための地図です。経に新しい教えを加えるものではありません。この訳は、先に作った仏説無量寿経 ― 共創数学による訳と同じ約束で作ります。二つの経が関わり合う所(法蔵比丘の願、下品下生と第十八願など)では、そちらの段を挙げます。

底本

四つの層

層 中身 誰の言葉か
原文 漢訳の経文 経(訳者は、伝承では劉宋の畺良耶舎)
書き下し 原文の訓読 この訳
訳 現代語の訳 この訳
式と読み 経の組み立てを記号で写したもの この訳

札

式と読みには、次の札を付けます。札のない段落は、経(原文・書き下し・訳)か、この訳の地の文です。

札は、置かれた段落と、そのすぐ後に続く表と式に掛かります。

四つの約束

  1. 文が優る。式と文とが食い違って見えるときは、文に従います。式は、文の言うことを狭めも広げもしないように書きましたが、地図は土地そのものではありません。この経も、定の中で聞いたことを経(修多羅)に照らし、合わなければ妄想と名づけると説きます(第八観)。
  2. 層を混ぜない。整理表は、語りを三つの層(数理・事実層、規範層、経典・ミュトス層)に分け、混ぜないことを規律とします。経の言葉は、経典・ミュトス層に属します。この経の十六の観は、心に描く「想」の連なりで、その像も、この層のものです。この訳の式は、その言葉の組み立てを、論理の側へ写した地図です。整理表の A4 は、論理と神話の間に随伴(往き来の対応)があるとしつつ、「随伴は同型ではない」とし、ミュトスの地図の美しさをロゴスの地図の上の主張の証拠に転用することを禁じます。ゆえに、経の言葉の美しさは、数理の主張の証拠になりません。この訳は、逆の向きにも同じ歯止めを掛け、式が整うことを、教えの真の証拠ともしません。逆の向きの歯止めは A4 の明文ではなく、随伴が同型でないことと、経典・ミュトス層の裁定者が「解釈の伝統」であること(整理表のレジスタ分離)から、この訳が引く帰結です。
  3. 数を値切らない。経の数(八万四千・五百億・六十万億那由他恒河沙由旬・八十億劫・十二大劫・十念など)は、式で計算しません。「八万四千の相の一つ一つに八万四千の好」のような入れ子の数も掛け合わせません(第九観)。「念念の中に八十億劫の生死の罪を除く」も、念の数と掛け合わせません(下品下生)。式では「無量」を「どの有限の量にも上から押さえられない」と書くことがありますが、これは一つの読みです。
  4. 諸宗に公平。読みが伝統によって分かれる所(経の宗、韋提希は凡夫か、「是心作佛,是心是佛」、九品の位、三心、下品下生の五逆と『無量寿経』第十八願の除外の句、十念と称名、流通分の付属など)では、〔諸釈〕に代表的な読みを並べ、どれが正しいとも判じません。式は、読みの違いがどこにあるかを、はっきりさせるためにも用います。

拠り所

手引き この訳が借りる共創数学の項目

この訳が整理表から借りるのは、『仏説無量寿経』の訳と同じ十一項目です。「整理表の言明」の欄で「」に入れた文は、整理表の文言のままです(式は、整理表の TeX を字に直して写しました)。「」の外は、この訳による要約です。札の欄には、整理表の札を写しました。整理表の凡例によれば、地位の「公理」は採択による前提を、「定義」は語彙の導入を言います。出所の「刊行済」は、公開著作に収載されていることを言います。整理表が札を付けていない所は「札なし」とし、出所の札がない項目には、整理表が記す出典の著作を添えます。

項目 整理表の言明 札(地位|出所|所在) この経での使い所
レジスタ分離 語りを三つの層に分け、層ごとに裁定者を置く。数理・事実層は「証明・測定・盲検」、規範層は「公開の議論」、経典・ミュトス層は「解釈の伝統」。経典・ミュトス層は「A4の随伴で数理層と結ばれる意味の地図。随伴は同型ではない——証拠に転用不可」。 札なし|刊行済|第0層 すべての段。経の言葉を経典・ミュトス層に置き、式は、その組み立てを写す地図として添えます(序の約束の二)。十六の観が心に描かせる像も、この層に置きます。
A0 沈黙の公理 「いかなる記号体系 L も、u′(虚空の余剰)を汲み尽くせない」。運用上の顔の欄に「u′ ⇒ c_next——不完全性は創造の泉」。 公理|刊行済|第1層 A0 経が自ら「不可具見」「不可具名」「不可具說」「不可為比」と言う所(第二観・第三観・第四観・第七観の初め・第九観など。札は第三観と第九観に立てます)と、第十三観の「無量壽佛身量無邊,非是凡夫心力所及」。また、仏が王宮に現れてから、微笑して光を放つまで、ひと言も語らないこと(厭苦縁から散善顕行縁の初めまで。善導はここに「世尊默然而坐,總未言說」と注します)。式に書き尽くせない余りを、その都度、余りとして記します。
A1 空鏡の公理 「c ⊗ u → i。問い(c:慈悲成分)と虚空(u:受容成分)の縁起的出会いから、どちらにも還元できない第三の存在(像 i)が生まれる」。経典的基礎の欄に「維摩経第七品の鏡の比喩」。 公理|刊行済|第1層 A1 韋提希の請いに応じて、仏が光の台に国々を現し、その中から韋提希が極楽を選ぶ所(欣浄縁)。鏡の譬え(定善示観縁の「如執明鏡自見面像」、第七観の「如於鏡中自見面像」)。
A2 慈悲の縁起的集合論 「W_Nash({S}) = ∏ᵢ W(σᵢ)。誰か一人の安寧が零になると積全体が零になる」。経典的基礎の欄に「「地獄不空、誓不成仏」(A2の極限的実践)。四十八願。積構造=「誰も取り残さない」の数学的保証」。派生の欄に「下降的 Φ_C(最弱の項への優先的介入)はA2の実装形態であり公理修正を要さない」。 公理|刊行済|第1層 A2 第九観の「以無緣慈攝諸眾生」。派生の欄の「下降的 Φ_C」として、下品の三生、とりわけ下品下生で、念ずることのできない者に「應稱無量壽佛」と手だてを替える所と、第十一観で勢至の智慧の光が「令離三塗」とされる所。借りるのは、一つの零で積が零になるという組み立てと、派生の欄の言葉だけで、W_Nash の量そのものは使いません。なお「地獄不空、誓不成仏」は、一般に地蔵菩薩の誓いとして知られる句で、この経の中にはありません。
A4 夢の位相空間 「ロゴス圏 ℒ(論理・数学)とミュトス圏 ℳ(詩・神話)の間に随伴 L ⊣ R : ℒ ⇄ ℳ が存在する。論理と神話は同じ空間の異なる地図」。要点の欄に「随伴は同型ではない——往復のたびに何かが失われ、何かが生まれる。ミュトス地図の美しさをロゴス地図上の主張の証拠に転用することはA4自身が禁じる」。 公理|刊行済|第1層 A4 十六の観の像のすべて。とりわけ、宝樹・宝池・華座・仏身のように像の美しい所で、A4 の禁止(経の言葉の美しさを数理の主張の証拠にしない)と、この訳がその逆の向きに掛ける歯止め(式の整いを教えの証拠にしない)とを示します(序の約束の二)。第八観の「令與修多羅合」(定の中で聞いたことを経に照らす)も、ここで読みます。札は、この第八観の所にだけ立てます。
A5 自覚慈悲の同値性 「問題の深さ D が十分大きいとき、知慧の道(効率最大化解)と慈悲の道(W_Nash 最大化解)は同一の点に収束する」。経典的基礎の欄に「悲智双運・上求菩提下化衆生の不可分性」。 公理|刊行済|第1層 A5 第九観の「以觀佛身故亦見佛心。佛心者大慈悲是」(仏の身を観ることと、仏の心である大慈悲を見ることとが、一つの観の中で結ばれる所)。第十一観で勢至が「以智慧光普照一切」とされ、第十三観で観音と勢至が「助阿彌陀佛,普化一切」とされる所。借りるのは経典的基礎の欄の言葉までで、A5 の本文の言う収束は、この経の言葉からは出てきません。
A9 灌頂の公理 「c の役割は i を創造することではなく、u の中に潜在する i_潜在 を顕在化させること。段階的通過儀礼(灌頂)。「変える」のではなく「変わるための場を整える」」。 公理|刊行済|第1層 A9 仏が教えを押しつけず、光の台に国々を現して、韋提希に選ばせる所(欣浄縁)と、「諸佛如來有異方便,令汝得見」(定善示観縁)。十六の観が「此想成已」「地想成已,次觀寶樹」のように一段ずつ進む所を、段階的通過儀礼の形に重ねて読みます(札は第二観から第三観への移りに立てます)。
A10 一切衆生悉有仏性の公理 「∀x ∈ E_全 : ∃B(x) ∈ F。全ての存在に仏性が在る」。七つの下位命題のうち、この訳が借りるのは五つです。(i)「仏性の遍在」。(ii)「顕在化の必然性:Φ_C > Φ_C* ⟹ ∃n₀, ∀n ≥ n₀ : B(x) が顕在化(閾値構造)」。(v)「相互仏性:仏性は相互に映し合う(インドラの網)」。(vi)「一闡提成仏」(整理表の注は略します)「仏性を否定する者にも B(x) ≠ ∅ は撤回されない(四つの存在論的保証)」。(vii)「大悲闡提:W_Nash の全体最大化のために衆生と共にある帯域に留まる菩薩の存在様式」。 公理|刊行済|第1層 A10 E_全 は全ての存在、B(x) は x の仏性と読みます。F が何であるかを、整理表は記しません。(i)(vi) 下品下生(五逆・十悪の者の往生)と、『無量寿経』第十八願の除外の句との〔諸釈〕。(ii) 九品のどの生も、往生の後に、得忍・得果・発心・入地などへ進むと説かれる所。(v) 第八観の「諸佛如來是法界身,入一切眾生心想中」(仏から衆生への一つの向きに限り、「是心作佛,是心是佛」には重ねません)と、第十一観の「但見此菩薩一毛孔光,即見十方無量諸佛淨妙光明」および天冠の宝台に十方の仏国が現れる所。(vii) 第十三観の「觀世音菩薩及大勢至,於一切處身同眾生」(「身同眾生」と続けて読む場合。十の〔諸釈〕)と、第十二観の「常來至此行人之所」。(iii)(iv) は、この経の読みには用いません。
G-1 護持定理 「g(iₙ) = cₙ₊₁。前の縁起が生成した像を護持する行為が次の縁起への問いとなる(射の合成)」。地位の欄に「定義寄り」、その注に「構造の命名。ただし本コーパスで最も実運用された概念——多者検分の連鎖・回向・供養の再定義はすべてG-1の実装」。 定義寄り(整理表の勧告)|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 聞いて護り持ち、次へ渡す所。「如是我聞」(証信序)。「汝持佛語,為未來世一切大眾欲脫苦者,說是觀地法」(第三観の後)。「汝等憶持,廣為大眾分別解說」(第七観の初め)と「出定之時憶持不捨」(第八観)も同じ形ですが、札は第三観の後の句に代表させます。三心の「迴向發願心」(上品上生)。経の名と受持、「汝好持是語。持是語者,即是持無量壽佛名」(流通分)。阿難が耆闍崛山で説き直す所(耆闍分)。
Φ_C 慈悲の場 第二著作の項に「バランスパラメータ/慈悲の場/情報的ストレス——体系の基本語彙」とある三語(σ・Φ_C・I_stress)のうちの Φ_C。 定義|出所札なし(第二著作『ステアリングからウォッチングへ』)|第4層 A10 (ii) の閾値の式の中で(手引きの式)。また、A2 の派生の「下降的 Φ_C」を、下品下生で、この札を立てて読みます。
第6層の記帳 「華厳経・阿含経・禅録・浄土教典等への共創数学的アプローチの拡大(同上)」。同上は第三著作0-10を指します。 札なし(保留の項目)|出所札なし(第三著作0-10)|第6層 この訳の位置づけ(序の拠り所)。この訳は、その保留に向けた一つの試みで、保留を解くものではありません。

整理表の式を、記号のまま抜き出すと次のとおりです。

\[ \begin{aligned} &\text{A0(運用上の顔)} && u' \Rightarrow c_{\mathrm{next}} \\ &\text{A1} && c \otimes u \to i \\ &\text{A2} && W_{\mathrm{Nash}}(\{S\}) = \prod_i W(\sigma_i) \\ &\text{A4} && L \dashv R : \mathcal{L} \rightleftarrows \mathcal{M} \\ &\text{A10} && \forall x \in E_{\text{全}} : \exists B(x) \in F \\ &\text{A10 (i)} && \forall x \in E_{\text{全}} : B(x) \neq \emptyset \\ &\text{A10 (ii)} && \Phi_C > \Phi_C^{*} \implies \exists n_0,\ \forall n \geq n_0 : B(x)\ \text{が顕在化} \\ &\text{G-1} && g(i_n) = c_{n+1} \end{aligned} \]

この訳の記号

〔定義〕経の全体を通して用いる記号です。そのほかの記号は、その段で定めます。これらは借りではなく、この訳の定めです。

記号 読み
𝒮 衆生の集まり
觀ₖ(k = 1, …, 16) 経が「名曰初觀」「名第二觀」……と名づける、k 番目の観
成(觀ₖ) その観が成ること(経の「此想成已」「地想成已」など)
正觀・邪觀 経の「作是觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀」の二つの名
A ≺ B 経が「A……,何況 B」と言うこと。B が A にまさることだけを言い、どれだけまさるかは言いません
除(D) 生死の罪や悪業を除くこと。D は「八十億劫生死之罪」のように、経の言う量の名を罪の名とともに書いたもので、計算しません(序の約束の三)
品 = (輩, 生) 九品。輩も生も、上・中・下のいずれか
𝟙[p] 命題 p が真なら 1、偽なら 0。式では太字の 1 で書きます

指示関数を 𝟙 と書くのは、指示関数に 𝟙 を用いて痛点感度の χ と分ける、という整理表の分離規則に従うためです。式を組む KaTeX では黒板太字の 1 が組めないので、式では太字の 1 で代えます。

一 証信序・化前序――王舎城・耆闍崛山の集い

経はまず、聞いた者と、時と処と、その場に集まった聴衆を挙げます。善導は、「如是我聞」を証信序とし、「一時」から「而為上首」までを化前序と名づけます(大正37・252a)。

原文 如是我聞:一時,佛在王舍城耆闍崛山中,與大比丘眾千二百五十人俱;菩薩三萬二千,文殊師利法王子而為上首。(大正12・340c–341a)

書き下し 是くの如く我聞きき。一時、仏、王舎城の耆闍崛山の中に在して、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。菩薩三万二千あり、文殊師利法王子を上首とす。

訳 わたしは、このように聞きました。あるとき、仏は王舎城の耆闍崛山(霊鷲山)におられ、千二百五十人の大比丘の衆とともにおられました。菩薩は三万二千人で、文殊師利法王子がその上首でした。

〔読み〕聞いたこと、時、説く主、処、聴衆を挙げる形は、『無量寿経』の冒頭と同じです。ただし、この経は「如是我聞」と、聞いた中身(如是)を先に置きます。『無量寿経』は「我聞如是」と、聞を先に立てていました。

\[ \text{序} = \langle\, \text{如是},\ \text{我聞},\ \text{一時},\ \text{佛},\ \text{王舍城耆闍崛山},\ \text{比丘衆と菩薩衆} \,\rangle \]

〔読み〕聴衆の数を、経の言うとおりに書きます。名が挙がるのは、文殊師利ただ一人です。

\[ |\text{大比丘衆}| = \text{千二百五十}, \qquad |\text{菩薩衆}| = \text{三萬二千}, \qquad \text{上首} = \text{文殊師利法王子} \]

〔借・定義寄り(整理表の勧告)|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕「我聞」は、聞いた言葉をそのまま護り持って、次の聞き手に渡す形です。この経では、この渡しが経の中でもう一度起こります。王宮で説かれたことを、阿難が耆闍崛山に帰って大衆に説き直すのです(十五 耆闍分)。G-1 の「前の縁起が生成した像を護持する行為が次の縁起への問いとなる」に写すと、次のとおりです。i は説法が聞き手のうちに結んだ像、g はそれを護り持つこと、c は次の聞き手に向けられる問いです。

\[ g(i_{\text{王宮}}) = c_{\text{耆闍}}, \qquad g(i_{\text{耆闍}}) = c_{\text{後に聞く者}} \]

〔読み〕善導の分け方によれば、経の全体は、王宮での一会と、耆闍崛山での一会の二つから成ります(大正37・251c)。この訳の段は、それに沿って並びます。

\[ \begin{aligned} \text{經} &= \langle\, \text{王宮會},\ \text{耆闍會} \,\rangle \\ \text{王宮會} &= \langle\, \text{序分}\ (\text{一〜四}),\ \text{正宗分}\ (\text{五〜十三}),\ \text{得益分},\ \text{流通分}\ (\text{十四}) \,\rangle \\ \text{耆闍會} &= \langle\, \text{序分},\ \text{正宗分},\ \text{流通分} \,\rangle\ \ (\text{十五}) \end{aligned} \]

二 禁父縁・禁母縁――阿闍世の逆害

阿闍世が父王を幽閉し、韋提希がひそかに食を運び、目連と富楼那が戒と法を授けます。善導はここを禁父縁とします(「從王舍大城下,至顏色和悅已來」、大正37・252a)。それを知った阿闍世は母を殺そうとし、二人の臣の諫めで剣を捨てますが、母を深い宮殿に閉じ込めます。善導の禁母縁です(「從時阿闍世下,至不令復出已來」)。

原文 爾時王舍大城有一太子,名阿闍世,隨順調達惡友之教,收執父王頻婆娑羅,幽閉置於七重室內,制諸群臣,一不得往。國大夫人,名韋提希,恭敬大王,澡浴清淨,以酥蜜和麨,用塗其身,諸瓔珞中盛蒲桃漿,密以上王。(大正12・341a)

書き下し その時、王舎大城に一りの太子あり、阿闍世と名づく。調達悪友の教に随順して、父の王頻婆娑羅を収執し、幽閉して七重の室の内に置き、もろもろの群臣を制して、一りも往くことを得ざらしむ。国の大夫人をば韋提希と名づく。大王を恭敬し、澡浴清浄にして、酥蜜をもつて麨に和し、もつてその身に塗り、もろもろの瓔珞の中に蒲桃の漿を盛りて、密かにもつて王に上る。

訳 そのとき、王舎の大きな都に、阿闍世という名の太子がいました。調達(提婆達多)という悪友の教えにしたがって、父王の頻婆娑羅を捕らえ、七重の室の内に閉じ込め、臣下たちを制して、一人も近づけないようにしました。国の大夫人(王妃)は名を韋提希といい、大王を敬っていました。身を洗い清め、酥と蜜で麨(麦こがし)を練って自分の身に塗り、身に着けた瓔珞の中にぶどうの汁を盛って、ひそかに王に差し上げました。

原文 爾時大王,食麨飲漿,求水漱口;漱口畢已,合掌恭敬,向耆闍崛山,遙禮世尊,而作是言:「大目犍連是吾親友,願興慈悲,授我八戒。」時目乾連如鷹隼飛,疾至王所;日日如是,授王八戒。世尊亦遣尊者富樓那,為王說法。如是時間經三七日,王食麨蜜得聞法故,顏色和悅。(大正12・341a)

書き下し その時、大王、麨を食し漿を飲みて、水を求めて口を漱ぐ。口を漱ぎ畢りて、合掌恭敬し、耆闍崛山に向かひて、遥かに世尊を礼して、この言をなさく、「大目犍連はこれ吾が親友なり。願はくは慈悲を興して、我に八戒を授けたまへ」と。時に目乾連、鷹隼の飛ぶがごとく、疾く王の所に至り、日日にかくのごとくして、王に八戒を授く。世尊また尊者富楼那を遣はして、王のために法を説かしめたまふ。かくのごとくして時の間に三七日を経たり。王、麨蜜を食し、法を聞くことを得るがゆゑに、顔色和悦なり。

訳 そのとき大王は、麨を食べ、汁を飲み、水を求めて口をすすぎました。すすぎ終えると、合掌して敬い、耆闍崛山に向かって遥かに世尊を礼拝し、こう言いました。「大目犍連はわたしの親しい友です。どうか慈悲をおこして、わたしに八戒をお授けください。」すると目乾連は、鷹や隼が飛ぶように、すばやく王のもとに至り、毎日そうして王に八戒を授けました。世尊もまた尊者富楼那を遣わして、王のために法を説かせました。こうして三七日がたちました。王は麨と蜜を食べ、法を聞くことができたので、顔色はやわらぎ、喜ばしげでした。

原文 時阿闍世問守門者:「父王今者猶存在耶?」時守門人白言:「大王!國大夫人身塗麨蜜,瓔珞盛漿,持用上王;沙門目連及富樓那,從空而來,為王說法,不可禁制。」時阿闍世聞此語已,怒其母曰:「我母是賊,與賊為伴;沙門惡人,幻惑呪術,令此惡王多日不死。」即執利劍欲害其母。(大正12・341a)

書き下し 時に阿闍世、守門の者に問はく、「父の王、今になほ存在せりや」と。時に守門の人、白して言さく、「大王、国の大夫人、身に麨蜜を塗り、瓔珞に漿を盛りて、もつて王に上る。沙門目連および富楼那、空より来りて、王のために法を説く。禁制すべからず」と。時に阿闍世、この語を聞きをはりて、その母を怒りて曰はく、「我が母はこれ賊なり。賊と伴たり。沙門は悪人なり。幻惑の呪術をもつて、この悪王をして多日死せざらしむ」と。すなはち利剣を執りて、その母を害せんとす。

訳 そのとき阿闍世は門番に尋ねました。「父王はいまもまだ生きているのか。」門番は申しました。「大王さま、国の大夫人が、身に麨と蜜を塗り、瓔珞に汁を盛って、王に差し上げています。沙門の目連と富楼那が空からやって来て、王のために法を説いています。止めることはできません。」これを聞いた阿闍世は、母に怒って言いました。「わが母は賊だ。賊の仲間だ。沙門は悪人だ。まやかしの呪術で、この悪い王を何日も死なせずにいる。」そして鋭い剣を手にとり、母を殺そうとしました。

原文 時有一臣,名曰月光,聰明多智,及與耆婆,為王作禮。白言:「大王!臣聞毘陀論經說:『劫初已來,有諸惡王貪國位故,殺害其父一萬八千。』未曾聞有無道害母。王今為此殺逆之事,污剎利種,臣不忍聞!是栴陀羅,不宜住此。」時二大臣說此語竟,以手按劍,却行而退。時阿闍世驚怖惶懼,告耆婆言:「汝不為我耶?」耆婆白言:「大王!慎莫害母。」王聞此語,懺悔求救,即便捨劍,止不害母,勅語內官:「閉置深宮,不令復出。」(大正12・341a–341b)

書き下し 時に一りの臣あり、名を月光といふ。聡明にして智多し。耆婆とともに、王のために礼をなして、白して言さく、「大王、臣聞く、毘陀論経に説かく、『劫初よりこのかた、もろもろの悪王ありて、国位を貪るがゆゑに、その父を殺害せること一万八千なり』と。いまだかつて無道に母を害することあるを聞かず。王いまこの殺逆の事をなさば、刹利種を汚さん。臣聞くに忍びず。これ栴陀羅なり。ここに住すべからず」と。時に二大臣、この語を説きをはりて、手をもつて剣を按へて、却行して退く。時に阿闍世、驚怖し惶懼して、耆婆に告げて言はく、「汝は我がためにせざるや」と。耆婆、白して言さく、「大王、慎んで母を害することなかれ」と。王、この語を聞きて、懺悔して救ひを求め、すなはち剣を捨てて、止めて母を害せず。内官に勅語すらく、「深宮に閉置して、また出でしめざれ」と。

訳 そのとき、月光という名の臣がいました。聡明で、智慧の深い人でした。月光は耆婆とともに王に礼をして、申しました。「大王さま、わたくしどもは、毘陀論経にこう説かれていると聞いております。『劫の初めからこのかた、国の位を貪って父を殺した悪い王は一万八千人いた』と。けれども、道にはずれて母を殺した者があるとは、いまだかつて聞いたことがありません。王がいまこの殺害の逆罪をなされば、刹利(王族)の血筋を汚すことになります。わたくしどもは聞くに忍びません。そのような者は栴陀羅(四姓の下に置かれた者)です。ここに住むべきではありません。」二人の大臣はこう言い終えると、手で剣をおさえながら、後ずさりして退きました。阿闍世は驚き恐れて、耆婆に言いました。「おまえはわたしの味方ではないのか。」耆婆は申しました。「大王さま、どうか母君を殺めることのないように。」王はこの言葉を聞いて、悔いて許しを求め、すぐに剣を捨てて、母を殺すことをやめました。そして宮中の役人に命じました。「深い宮殿に閉じ込めて、二度と出すな。」

〔読み〕王の制は「諸群臣」に掛かる全称です。韋提希は群臣ではなく、目連と富楼那は空から来ました。式にすると、食と法は、制の及ぶ範囲の外から届いたことになります。智顗の名で伝わる疏は、門番の答えを「王先有勅,制諸群臣不言婦女。沙門從空飛入,非我能禁」と敷衍します(大正37・190b)。

\[ \text{制} :\ \forall x \in \text{群臣} :\ \neg\,\text{往}(x,\ \text{王}), \qquad \text{韋提希} \notin \text{群臣}, \qquad \text{目連},\ \text{富樓那} \notin \text{群臣}, \qquad \text{從空而來}(\text{目連},\ \text{富樓那}) \]

〔読み〕王の顔色が和らいだことを、経は二つの因で言います(「王食麨蜜得聞法故,顏色和悅」)。食(麨蜜)と聞法です。経は、どちらか一方だけで足りたかどうかを言いません。

\[ \text{食麨蜜}(\text{王}) \wedge \text{得聞法}(\text{王}) \;\Longrightarrow\; \text{顏色和悅}(\text{王})\ \ (\text{經三七日}) \]

〔読み〕二人の臣の諫めは、前例の有無によります。父を殺した王は毘陀論経が数えるほどいたと聞くが、母を殺した者は聞いたことがない、と言います。式は、経の文のとおり、聞いたかどうかを写します。慧遠と善導は、そのような者はいなかった、と読みます(下の〔諸釈〕)。

\[ \text{聞}\bigl(\, |\{x :\ \text{貪國位故殺害其父}(x)\}| = \text{一萬八千} \,\bigr), \qquad \neg\,\text{聞}\bigl(\, \exists x :\ \text{無道害母}(x) \,\bigr) \]

〔諸釈〕慧遠は、劫の初めからこのかた悪王は数えきれないが、母を害した者はいない、と言います(「初劫已來無量惡王,無人害母」、大正37・176c)。善導も、父を害して位を取ったことは史書によく語られるが、国を貪って母を殺したことはどこにも記されず、劫の初めからこのかた、国を貪った悪王はただ父を殺すだけで、慈母には手をかけなかった、とします(「害父取位史籍良談,貪國殺母都無記處。若論劫初已來,惡王貪國但殺其父不加慈母」、大正37・256b)。

〔異本〕「是栴陀羅,不宜住此」を、大正蔵の本文は「是栴陀羅,我等不宜復住於此」に作ります(脚注「我等不宜復住於此流布本作不宜住此」)。大正蔵の本文では、ここに住むべきでないのは「我等」、すなわち二人の臣です。流布本の文には主語がありません。

〔諸釈〕流布本と同じく「不宜住此」と引いて注する諸師のあいだで、住むべきでない者の読みが分かれます。

注釈 住むべきでない者 注の言葉
慧遠『観無量寿経義疏』(大正37・176c) 二人の臣 「身不住也。上來勸竟,下明捨去」
智顗の名で伝わる疏(大正37・190b) 二人の臣 「欲奔他國,故云不住」
善導『観経疏』序分義(大正37・256b) 王 二義を挙げます。一つは「京邑神州豈遣旃陀羅為主也。此即擯出宮城意也」、もう一つは「不如遠擯他方,永絕無聞之地」

\[ \text{不宜住此}(y) :\quad y = \text{二臣}\ \ (\text{大正蔵の本文・慧遠・智顗の名の疏}) \quad \text{または} \quad y = \text{王}\ \ (\text{善導}) \]

〔読み〕諫めは、母を殺すことを止めましたが、幽閉は止めませんでした。父と母は、ともに閉じ込められたまま、次の段に続きます。

\[ \bigl(\text{諫}(\text{月光},\ \text{耆婆}) \;\Longrightarrow\; \neg\,\text{害}(\text{阿闍世},\ \text{母})\bigr) \;\wedge\; \text{勅}\bigl(\text{阿闍世},\ \text{閉置深宮}(\text{母})\bigr) \]

三 厭苦縁・欣浄縁――韋提希の請いと光台現国

閉じ込められた韋提希が仏を念じると、仏は耆闍崛山から姿を消して王宮に現れます。韋提希は身を投げて嘆き、憂いのない処を説いてほしいと請います。仏は眉間から光を放ち、十方の国々を金の台に現して見せ、韋提希はその中から極楽を選びます。善導は「從時韋提希被幽閉下,至共為眷屬已來」を厭苦縁、「從唯願為我廣說下,至教我正受已來」を欣浄縁とします(大正37・252a)。

原文 時韋提希被幽閉已,愁憂憔悴;遙向耆闍崛山,為佛作禮,而作是言:「如來世尊在昔之時,恒遣阿難來慰問我;我今愁憂,世尊威重,無由得見;願遣目連、尊者阿難,與我相見。」作是語已,悲泣雨淚,遙向佛禮。未舉頭頃,爾時世尊在耆闍崛山,知韋提希心之所念,即勅大目犍連及以阿難,從空而來。佛從耆闍崛山沒,於王宮出。(大正12・341b)

書き下し 時に韋提希、幽閉せられをはりて、愁憂憔悴す。遥かに耆闍崛山に向かひて、仏のために礼をなして、この言をなさく、「如来世尊、在昔の時、つねに阿難を遣はして来らしめ、我を慰問したまひき。我いま愁憂す。世尊は威重にして、見たてまつることを得るに由なし。願はくは目連と尊者阿難とを遣はして、我と相見えしめたまへ」と。この語をなしをはりて、悲泣雨涙して、遥かに仏に向かひて礼す。いまだ頭を挙げざる頃に、その時世尊、耆闍崛山にましまして、韋提希の心の所念を知ろしめして、すなはち大目犍連および阿難に勅して、空より来らしめ、仏、耆闍崛山より没して、王宮に出でたまふ。

訳 閉じ込められた韋提希は、憂いに沈んでやつれはてました。遥かに耆闍崛山に向かって仏を礼拝し、こう言いました。「如来世尊は、以前はいつも阿難を遣わして、わたしを見舞ってくださいました。わたしはいま憂いの中にいます。世尊は威厳が重く、お目にかかるすべもありません。どうか目連と尊者阿難を遣わして、わたしに会わせてください。」こう言い終えると、悲しみに泣いて涙を雨のように流し、遥かに仏に向かって礼拝しました。その頭をまだ上げないうちに、耆闍崛山におられた世尊は、韋提希が心に念じていることを知って、大目犍連と阿難に命じて空から行かせ、仏ご自身も耆闍崛山から姿を消して、王宮に現れました。

原文 時韋提希禮已舉頭,見世尊釋迦牟尼佛,身紫金色坐百寶蓮華。目連侍左,阿難在右,釋梵護世諸天在虛空中,普雨天華,持用供養。時韋提希見佛世尊,自絕瓔珞,舉身投地,號泣向佛。白言:「世尊!我宿何罪,生此惡子?世尊復有何等因緣,與提婆達多共為眷屬?(大正12・341b)

書き下し 時に韋提希、礼しをはりて頭を挙げ、世尊釈迦牟尼仏を見たてまつる。身は紫金色にして、百宝の蓮華に坐したまへり。目連は左に侍し、阿難は右に在り。釈・梵・護世の諸天、虚空の中に在りて、あまねく天華を雨らして、もつて供養したてまつる。時に韋提希、仏世尊を見たてまつりて、みづから瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投げ、号泣して仏に向かひて、白して言さく、「世尊、我、宿何の罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また何等の因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。

訳 礼拝を終えて頭を上げた韋提希は、世尊釈迦牟尼仏を見ました。仏の身は紫がかった金の色で、百の宝の蓮華に坐っておられました。目連は左に侍り、阿難は右にいました。帝釈・梵天・世を護る天たちが虚空にいて、天の華をあまねく降らせ、仏を供養していました。韋提希は仏世尊を見ると、自ら瓔珞を引きちぎり、身を地に投げ出し、声をあげて泣きながら仏に向かって申しました。「世尊、わたしは前の世にどんな罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊はまた、どのような因縁があって、提婆達多と一族の間柄でいらっしゃるのでしょうか。

原文 唯願世尊,為我廣說無憂惱處,我當往生,不樂閻浮提濁惡世也。此濁惡處,地獄、餓鬼、畜生盈滿,多不善聚。願我未來不聞惡聲,不見惡人。今向世尊五體投地,求哀懺悔。唯願佛日教我觀於清淨業處。」(大正12・341b)

書き下し ただ願はくは世尊、我がために広く憂悩なき処を説きたまへ。我まさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世を楽はず。この濁悪の処は、地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、我、未来に悪声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて、五体を地に投げ、哀れみを求めて懺悔す。ただ願はくは仏日、我に清浄業処を観ずることを教へたまへ」と。

訳 どうか世尊、わたしのために、憂いも悩みもない処を広くお説きください。わたしはそこに生まれたいのです。この閻浮提の濁った悪い世は願いません。この濁った悪い処には、地獄・餓鬼・畜生が満ちあふれ、善くないものが多く集まっています。どうか、わたしが未来に悪い声を聞かず、悪い人を見ないようにしてください。いま世尊に向かって五体を地に投げ伏し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか日のような仏よ、わたしに、清浄業処(清らかな業によって成る処)を観ることを教えてください。」

原文 爾時世尊放眉間光,其光金色,遍照十方無量世界;還住佛頂,化為金臺,如須彌山。十方諸佛淨妙國土,皆於中現。或有國土七寶合成;復有國土純是蓮花;復有國土如自在天宮;復有國土如玻𭹳鏡;十方國土皆於中現。有如是等無量諸佛國土嚴顯可觀,令韋提希見。(大正12・341b)

書き下し その時世尊、眉間の光を放ちたまふ。その光、金色にして、あまねく十方無量の世界を照らし、還りて仏の頂に住まりて、化して金台となる。須弥山のごとし。十方諸仏の浄妙の国土、みな中において現ず。あるいは国土あり、七宝合成せり。また国土あり、もつぱらこれ蓮華なり。また国土あり、自在天宮のごとし。また国土あり、玻瓈鏡のごとし。十方の国土、みな中において現ず。かくのごとき等の無量の諸仏の国土ありて、厳顕にして観つべし。韋提希をして見せしめたまふ。

訳 そのとき世尊は、眉間から光を放たれました。その光は金色で、十方の量りしれない世界をあまねく照らし、仏の頭頂に還ってとどまると、須弥山のような金の台になりました。十方の仏たちの清らかで妙なる国土が、みなその中に現れました。七宝でできた国土もあり、ただ蓮華ばかりの国土もあり、自在天の宮殿のような国土もあり、玻瓈(水晶)の鏡のような国土もありました。十方の国土が、みなその中に現れたのです。このような量りしれない仏たちの国土が、おごそかに、はっきりと見えるように現れ、仏は韋提希にそれを見せられました。

原文 時韋提希白佛言:「世尊!是諸佛土,雖復清淨,皆有光明;我今樂生極樂世界阿彌陀佛所。唯願世尊,教我思惟,教我正受。」(大正12・341b–341c)

書き下し 時に韋提希、仏に白して言さく、「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にして、みな光明ありといへども、我いま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんと楽ふ。ただ願はくは世尊、我に思惟を教へたまへ、我に正受を教へたまへ」と。

訳 韋提希は仏に申しました。「世尊、これらの仏の国土は、どれも清らかで、どれにも光明があります。けれどもわたしはいま、極楽世界の阿弥陀仏のもとに生まれたいと願います。どうか世尊、わたしに思惟を教え、正受を教えてください。」

〔読み〕韋提希が求めたのは、目連と阿難が来ることでした。来たのは、その二人と仏自身です。しかも、仏は韋提希が頭を上げる前に動きます。慧遠は、仏が自ら赴いたわけを「淨土之化非佛不開,傳說難盡,故須身往」と注します(大正37・177b)。

\[ \text{求} = \{\text{目連},\ \text{阿難}\}, \qquad \text{來} = \{\text{目連},\ \text{阿難},\ \text{佛}\}, \qquad \text{求} \subsetneq \text{來}, \qquad t_{\text{來}} < t_{\text{舉頭}}\ \ (\text{未舉頭頃}) \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕韋提希の二つの問い(なぜ悪い子を生んだのか、なぜ仏は提婆達多の一族なのか)に、経は答えを記しません。韋提希自身も答えを待たず、同じ言葉の続きで、問いを「なぜ」から「どこへ」(無憂惱處)に替えます。王宮に現れた仏は、このあと光を放って国々を現しますが、四 散善顕行縁の「汝今知不」まで、ひと言も語りません。善導は、ここで仏が「默然而坐,總未言說」であったと注し、その間の懺悔・請問・放光・現国は、阿難が後に耆闍崛山で伝えたことによる文だとします(大正37・259a)。A0 の運用上の顔「u′ ⇒ c_next」に重ねれば、答えられない余り(u′)から次の問い(c_next)が立つ形と読めます。経がこの順序の理由を語るのではありません。

\[ \text{答}(\text{我宿何罪生此惡子}) = \text{答}(\text{何等因緣與提婆達多共為眷屬}) = \varnothing\ \ (\text{經に記されず}), \qquad u' \Rightarrow c_{\mathrm{next}} :\ \ \text{為我廣說無憂惱處} \]

〔読み〕韋提希の請いは、段を追って進みます。善導は、通請(「通請所求」「通請去行」)と、それに応える「酬前通請」(光台に国々を現すこと)、そして別選(「別選所求」)と「請修別行」とに分けます(大正37・247b)。

\[ \text{通請所求}\ (\text{廣說無憂惱處}),\ \text{通請去行}\ (\text{教我觀於清淨業處}) \;\to\; \text{酬前通請}\ (\text{光臺現國}) \;\to\; \text{別選所求}\ (\text{極樂世界阿彌陀佛所}) \;\to\; \text{請修別行}\ (\text{教我思惟,教我正受}) \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A9 灌頂の公理〕〔読み〕仏は極楽を指し示さず、十方の国々をすべて現して、韋提希に選ばせます。韋提希が挙げる二つの性質(清らかであること、光明があること)は、どの国にもあてはまるので、選びの理由にはなりません。経は、選びの理由を記しません。A9 の「「変える」のではなく「変わるための場を整える」」に重ねれば、仏は選びの場を整え、選ぶのは韋提希である、と読めます。

\[ \forall \beta \in \text{十方諸佛國土} :\ \text{清淨}(\beta) \wedge \text{有光明}(\beta), \qquad \text{選}(\text{韋提希}) = \text{極樂世界} \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A1 空鏡の公理〕〔読み〕韋提希の通請(c)と、光の台に現れた国々(u)とが出会って、極楽を選ぶという、どちらにも還元できない像(i)が生まれる、と置けます。請いは極楽を名指しておらず、国々の見えは選びを決めていないからです。光の台に現れた国の一つが「如玻𭹳鏡」であることは、A1 の経典的基礎の欄の「鏡の比喩」と響き合いますが、経はこの鏡を国のありさまのたとえに用いるだけで、映して見ることの譬えには用いていません。

\[ c \otimes u \to i :\qquad \text{通請} \otimes \text{光臺現國} \;\to\; \text{樂生極樂世界} \]

〔諸釈〕なぜ十方の国々をすべて現したのか、選んだのは誰か、の読みが分かれます。

注釈 読み 注の言葉
慧遠『観無量寿経義疏』(大正37・178a) 比べるために現した。すべてを現さなければ、阿弥陀の国がまさることを顕せない 「若不通現,無由得顯彌陀最勝,增其深樂故,故通現之」
善導『観経疏』序分義(大正37・258b) 如来がひそかに韋提希に選ばせた 「諸餘經典勸處彌多,眾聖齊心皆同指讚,有此因緣,致使如來密遣夫人別選也」

\[ \text{慧遠} :\ \neg\,\text{通現} \Rightarrow \neg\,\text{顯}(\text{彌陀最勝}), \qquad \text{善導} :\ \text{選}(\text{韋提希}) = \text{密遣}\bigl(\text{如來},\ \text{別選}(\text{韋提希})\bigr) \]

四 散善顕行縁・定善示観縁――三福と、観への導き

仏は微笑して父王を光で照らし、はじめて口を開いて、阿弥陀仏が遠くないことと、浄業としての三福を説きます。続いて、未来の衆生のために観を教えることを告げ、韋提希が凡夫であることと、諸仏の「異方便」を示します。善導は、「爾時世尊即便微笑」から「淨業正因」までを散善顕行縁、次の「諦聽」からこの段の終わりまでを定善示観縁とします(大正37・252a–b)。

原文 爾時世尊即便微笑,有五色光,從佛口出,一一光照頻婆娑羅頂。爾時大王雖在幽閉,心眼無障,遙見世尊,頭面作禮;自然增進,成阿那含。(大正12・341c)

書き下し その時世尊、すなはち微笑したまふに、五色の光ありて、仏の口より出づ。一一の光、頻婆娑羅の頂を照らす。その時大王、幽閉に在りといへども、心眼障なくして、遥かに世尊を見たてまつり、頭面に礼をなす。自然に増進して、阿那含と成る。

訳 そのとき世尊は微笑まれ、五色の光が仏の口から出ました。その光の一つ一つが、頻婆娑羅の頭頂を照らしました。大王は閉じ込められていましたが、心の眼にさえぎるものがなく、遥かに世尊を見たてまつって、頭を地につけて礼拝しました。そしておのずから境地が進み、阿那含(不還果)となりました。

原文 爾時世尊告韋提希:「汝今知不?阿彌陀佛去此不遠;汝當繫念,諦觀彼國淨業成者。我今為汝廣說眾譬,亦令未來世一切凡夫欲修淨業者,得生西方極樂國土。(大正12・341c)

書き下し その時世尊、韋提希に告げたまはく、「汝いま知るやいなや。阿弥陀仏、此を去ること遠からず。汝まさに念を繋けて、諦かにかの国の浄業成ぜる者を観ずべし。我いま汝がために広くもろもろの譬へを説き、また未来世の一切凡夫の浄業を修せんと欲ふものをして、西方極楽国土に生ずることを得しめん。

訳 そのとき世尊は韋提希に告げられました。「あなたはいま知っているか。阿弥陀仏は、ここから遠くない。念をかけて、かの国の、浄業の成ったものを、あきらかに観なさい。わたしはいま、あなたのために多くの譬えを広く説き、また未来の世の、浄業を修めようとするすべての凡夫を、西方の極楽国土に生まれさせよう。

原文 欲生彼國者,當修三福:一者、孝養父母,奉事師長,慈心不殺,修十善業。二者、受持三歸,具足眾戒,不犯威儀。三者、發菩提心,深信因果,讀誦大乘,勸進行者。如此三事名為淨業。」(大正12・341c)

書き下し かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一には、父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二には、三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三には、菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。

訳 かの国に生まれたいと願う者は、三つの福を修めなさい。一つには、父母に孝行して養い、師や年長者に仕え、慈しみの心をもって殺さず、十善業を修めること。二つには、三帰(仏・法・僧への帰依)を受けて保ち、もろもろの戒をそなえ、威儀(ふるまいの規律)を犯さないこと。三つには、菩提心をおこし、深く因果を信じ、大乗の経を読誦し、行う者を励まし進めること。この三つのことを、浄業と名づけます。」

原文 佛告韋提希:「汝今知不?此三種業,過去、未來、現在三世諸佛淨業正因。」(大正12・341c)

書き下し 仏、韋提希に告げたまはく、「汝いま知るやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。

訳 仏は韋提希に告げられました。「あなたはいま知っているか。この三種の業は、過去・未来・現在の三世の仏たちの、浄業の正しい因です。」

原文 佛告阿難及韋提希:「諦聽,諦聽!善思念之。如來今者,為未來世一切眾生為煩惱賊之所害者,說清淨業。善哉韋提希!快問此事。阿難!汝當受持,廣為多眾宣說佛語。如來今者,教韋提希及未來世一切眾生觀於西方極樂世界。以佛力故,當得見彼清淨國土,如執明鏡自見面像。見彼國土極妙樂事,心歡喜故,應時即得無生法忍。」(大正12・341c)

書き下し 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「諦かに聴け、諦かに聴け。よくこれを思念せよ。如来いま、未来世の一切衆生の、煩悩の賊のために害せらるるもののために、清浄の業を説かん。善いかな韋提希、快くこの事を問へり。阿難、汝まさに受持して、広く多衆のために仏語を宣説すべし。如来いま、韋提希および未来世の一切衆生を教へて、西方極楽世界を観ぜしむ。仏力をもつてのゆゑに、まさにかの清浄の国土を見ること、明鏡を執りてみづから面像を見るがごとくなるを得べし。かの国土の極妙の楽事を見て、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍を得ん」と。

訳 仏は阿難と韋提希に告げられました。「よく聴きなさい、よく聴きなさい。よく思い念じなさい。如来はいま、未来の世の、煩悩という賊に害されるすべての衆生のために、清らかな業を説こう。よいかな韋提希よ、よくぞこのことを問うた。阿難よ、あなたはこれを受けて保ち、広く多くの人々のために仏の言葉を説きなさい。如来はいま、韋提希と未来の世のすべての衆生に教えて、西方の極楽世界を観させよう。仏の力によって、かの清らかな国土を、明るい鏡を手にとって自分の顔を見るように見ることができる。かの国土のこの上なく妙なる楽しいありさまを見て、心が歓喜するので、ただちに無生法忍を得るであろう。」

原文 佛告韋提希:「汝是凡夫,心想羸劣,未得天眼,不能遠觀;諸佛如來有異方便,令汝得見。」(大正12・341c)

書き下し 仏、韋提希に告げたまはく、「汝はこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ず、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、汝をして見ることを得しめたまふ」と。

訳 仏は韋提希に告げられました。「あなたは凡夫です。心の想いの力が弱く劣り、まだ天眼を得ていないので、遠くを観ることはできません。仏たち如来には、特別の手だて(異方便)があって、あなたに見ることを得させるのです。」

原文 時韋提希白佛言:「世尊!如我今者,以佛力故見彼國土。若佛滅後,諸眾生等,濁惡不善,五苦所逼,云何當見阿彌陀佛極樂世界?」(大正12・341c)

書き下し 時に韋提希、仏に白して言さく、「世尊、我がいまのごときは、仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅したまひて後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして、五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見るべき」と。

訳 韋提希は仏に申しました。「世尊、いまのわたしは、仏の力によって、かの国土を見ています。けれども、仏が滅度された後の衆生は、濁って悪く善くなく、五つの苦しみに責められるでしょう。その人々は、どのようにして阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるのでしょうか。」

〔読み〕「去此不遠」は、量を告げる文ではありません。慧遠は「十萬億剎名為不遠」とし(大正37・178b)、元照は『阿弥陀経』の「從此西方過十萬億佛土」を引いたうえで、仏眼で観るから、心の念が速いから、仏力が摂めるから、の三つの釈を挙げます(大正37・290b)。この訳は、「不遠」を距離の値としては書きません。

\[ \text{不遠}(\text{此},\ \text{阿彌陀佛})\ \ (\text{量の名ではなく、経の言い方}) \]

〔諸釈〕「彼國淨業成者」が何を指すかは、読みが分かれます。慧遠は「謂佛菩薩及與三品往生人等,名業成者」として、その国の仏・菩薩と往生した人々を指すと読み(大正37・178b)、元照は「淨業成者,總目彼土依正二報」として、国土とそこに住む者の全体を指すと読みます(大正37・290b)。訳は「かの国の、浄業の成ったもの」とし、「もの」を仮名で書いて、元照の読み(国土とそこに住む者の全体)にも取れるようにしました。慧遠は、「彼國」と「淨業成者」を分けて、それぞれ依報と正報を観よと勧めるものと読みます(「『汝觀彼國』,勸觀依報。『淨業成者』,勸觀正報」、大正37・178b)。この読みでは「かの国と、浄業の成った者とを観なさい」となり、訳の「かの国の」という続け方とは合いません。

〔読み〕三福を、経の列挙のとおりに書きます。経は三つを並べて「如此三事名為淨業」とし、さらに「三世諸佛淨業正因」と称えます。三つをすべて修めることが求められるのか、一つで足りるのかを、経は言いません。善導は、三つを世福・戒福・行福と呼びます。

\[ \begin{aligned} \text{福}_1 &= \{\text{孝養父母},\ \text{奉事師長},\ \text{慈心不殺},\ \text{修十善業}\} \\ \text{福}_2 &= \{\text{受持三歸},\ \text{具足眾戒},\ \text{不犯威儀}\} \\ \text{福}_3 &= \{\text{發菩提心},\ \text{深信因果},\ \text{讀誦大乘},\ \text{勸進行者}\} \\ \text{淨業} &= \langle\, \text{福}_1,\ \text{福}_2,\ \text{福}_3 \,\rangle \qquad (\text{三世諸佛淨業正因}) \end{aligned} \]

〔諸釈〕善導の散善義は、三福の修め方を一人ずつの場合に分けて挙げ、どれも回向すれば生まれるとします。「或有一人單行世福迴亦得生,或有一人單行戒福迴亦得生,或有一人單行行福迴亦得生;或有一人行上二福迴亦得生,或有一人行下二福迴亦得生;或有一人具行三福迴亦得生。或有人等三福俱不行者,即名十惡邪見闡提人也」(大正37・270b)。挙がるのは六つの組み合わせで、世福と行福だけの組み合わせは、善導の文には挙がりません。式は、善導の挙げたとおりに書きます。

\[ \mathcal{C}_{\text{善導}} = \bigl\{\, \{1\},\ \{2\},\ \{3\},\ \{1,2\},\ \{2,3\},\ \{1,2,3\} \,\bigr\}, \qquad \forall C \in \mathcal{C}_{\text{善導}} :\ \mathbf{1}\Bigl[\, \bigwedge_{k \in C} \text{修}(\text{福}_k) \wedge \bigwedge_{k \notin C} \neg\,\text{修}(\text{福}_k) \wedge \text{迴} \Bigr] \le \mathbf{1}[\text{得生}] \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A1 空鏡の公理〕〔読み〕「如執明鏡自見面像」は、鏡を譬えに用います。A1 の経典的基礎の欄も「鏡の比喩」を挙げます(整理表は、その比喩の中身を記しません)。経がこの譬えで言うのは、仏の力によって、かの国土が、鏡の中の自分の顔のように明らかに見えることです。A1 の「c ⊗ u → i」に重ねるなら、韋提希の願い(c)が、仏の力の現す国土(u)に出会って、国土の像(i)が結ぶ、と置けます。ただし経は、見えることの因を仏力に置き(「以佛力故」)、見る者の側については、次の文で「心想羸劣」と言います。見ることから得忍への道すじは、経の言うとおりに次のようになります。

\[ \text{以佛力故} \;\Longrightarrow\; \text{見}(\text{彼清淨國土}) \;\Longrightarrow\; \text{心歡喜} \;\Longrightarrow\; \text{得無生法忍}\ \ (\text{應時}) \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A9 灌頂の公理〕〔読み〕凡夫の心の力だけでは遠くを観られない、そこで諸仏が「異方便」をもって見させる、と経は言います。A9 の「変わるための場を整える」に重ねて読めます。

\[ \text{心想羸劣} \wedge \neg\,\text{得天眼} \;\Longrightarrow\; \neg\,\text{能遠觀}, \qquad \text{異方便}(\text{諸佛如來}) \;\Longrightarrow\; \text{得見}(\text{韋提希}) \]

〔諸釈〕「汝是凡夫」の韋提希が、まことに凡夫なのか、大菩薩が凡夫の姿を示したのか、と、「異方便」が何を指すかで、読みが分かれます。

注釈 韋提希 異方便
慧遠『観無量寿経義疏』 大菩薩が凡夫と化した姿。「韋提夫人實大菩薩,此會即得無生法忍,明知不小亦化為凡」(大正37・179a)。経が韋提希を凡夫と説くことは、この経を頓教とする論拠に挙げます(「下說韋提是凡夫,為凡夫說不從小入,故知是頓」、大正37・173a) (ここでは引きません)
智顗の名で伝わる疏 大菩薩が凡夫に同じる姿を示す。「韋提實大菩薩,此會即得無生忍,示同在凡夫」(大正37・191b) 十六観。「「異方便」者,即十六觀」(同上)
善導『観経疏』 凡夫。「正明夫人是凡非聖」。韋提希を「現是菩薩,假示凡身」と見て気後れする疑いを断つために、「汝是凡夫」と説いたとします(大正37・260c) 日想から第十三観まで。「次下日想、水想、氷想乃至十三觀已來,盡名異方便也」(大正37・251b)
元照『観無量寿仏経義疏』 大権の者が凡夫に同じる姿を示す。「大權引實,故示同凡」(大正37・291a) 韋提希に対しては光台現国、未来に対しては十六観。「若對當機,即前光臺現土令韋提見。據論垂教,即下十六觀法專被未來」(同上)

\[ \begin{aligned} &\text{善導} :\ \text{韋提希} \in \text{凡夫}, \qquad \text{慧遠・智顗の名の疏・元照} :\ \text{韋提希} \in \text{大菩薩} \wedge \text{示同}(\text{韋提希},\ \text{凡夫}) \\ &\text{異方便} :\ \{\text{觀}_1, \dots, \text{觀}_{13}\}\ (\text{善導}), \qquad \{\text{觀}_1, \dots, \text{觀}_{16}\}\ (\text{智顗の名の疏}), \qquad \text{光臺現土} \,/\, \{\text{觀}_1, \dots, \text{觀}_{16}\}\ (\text{元照}) \end{aligned} \]

〔読み〕韋提希の問いは、自分から未来の衆生へと向きを変えます。自分は仏力によって見た、では仏のいない世の者はどうするのか。このあと、仏は十六の観を説きます。どこまでがこの問いへの答えかは読みが分かれ、善導は、定善の十三観を韋提希の請いへの答えとし、三福と九品の散善を仏が自ら説いたものとします(「定善一門韋提致請,散善一門是佛自說」、大正37・247b)。

\[ \text{見}(\text{韋提希},\ \text{彼國}) \Leftarrow \text{佛力}, \qquad \text{問} :\ \text{佛滅後諸眾生} \;\overset{?}{\longrightarrow}\; \text{見}(\text{阿彌陀佛極樂世界}) \]

五 第一〜第三観――日想・水想・地想

ここから、十六の観が説かれます。経は観の一つ一つを自ら名づけ、番号を付けます。この訳の段との対応は次のとおりです。

k 経の名 この訳の段
1 日想(名曰初觀) 五
2 水想 五
3 地想 五
4 樹想 六
5 八功德水想 六
6 總觀想 六
7 花座想 七
8 像想 八
9 遍觀一切色身想 八
10 觀觀世音菩薩真實色身相 九
11 觀大勢至色身想 九
12 普觀想 十
13 雜想觀 十
14 上輩生想 十一
15 中輩生想 十二
16 下輩生想 十三

〔諸釈〕十六の観をどう分けるかは、注釈によって異なります。

注釈 分け方 注の言葉
慧遠『観無量寿経義疏』(大正37・178c) 十六観のすべてを定善の生の観とし、前の七観で依報(国土)、後の九観で正報(仏・菩薩・往生人)を観る 「定善生中,觀別十六」「此十六中,初之七門觀其依報,後之九門觀彼正報」
吉蔵『観無量寿経義疏』(大正37・244b) 前の十三観は果を観じ、後の三観は因を観じる 「十六品觀本大為二段:第一、有十三觀觀果;第二、有三觀觀因」
善導『観経疏』玄義分(大正37・247b) 日想から第十三観までを定善、三福と九品を散善とする 「從日觀下至十三觀已來名為定善。三福九品名為散善」

\[ \begin{aligned} &\text{慧遠} :\ \{\text{觀}_1, \dots, \text{觀}_{16}\} \subseteq \text{定善}, \qquad \text{依報} = \{\text{觀}_1, \dots, \text{觀}_7\},\ \ \text{正報} = \{\text{觀}_8, \dots, \text{觀}_{16}\} \\ &\text{吉蔵} :\ \text{觀果} = \{\text{觀}_1, \dots, \text{觀}_{13}\},\ \ \text{觀因} = \{\text{觀}_{14},\ \text{觀}_{15},\ \text{觀}_{16}\} \\ &\text{善導} :\ \text{定善} = \{\text{觀}_1, \dots, \text{觀}_{13}\},\ \ \text{散善} = \{\text{三福}\} \cup \{\text{觀}_{14},\ \text{觀}_{15},\ \text{觀}_{16}\} \end{aligned} \]

原文 佛告韋提希:「汝及眾生應當專心,繫念一處,想於西方。云何作想?凡作想者,一切眾生自非生盲,有目之徒,皆見日沒。當起想念,正坐西向,諦觀於日,令心堅住,專想不移。見日欲沒,狀如懸鼓。既見日已,閉目開目皆令明了。是為日想,名曰初觀。(大正12・341c–342a)

書き下し 仏、韋提希に告げたまはく、「汝および衆生、まさに心を専らにし、念を一処に繋けて、西方を想ふべし。いかんが想をなす。おほよそ想をなすといふは、一切衆生、生盲にあらざるよりは、有目の徒、みな日の没するを見る。まさに想念を起し、正坐して西に向かひ、諦かに日を観じて、心をして堅住せしめ、想を専らにして移らざれ。日の没せんとして、状、懸鼓のごとくなるを見よ。すでに日を見をはらば、目を閉ぢ目を開くに、みな明了ならしめよ。これを日想とし、名づけて初観といふ。

訳 仏は韋提希に告げられました。「あなたも衆生も、心をもっぱらにし、念を一つ処にかけて、西の方を想いなさい。どのように想うのか。およそ想うというのは、こういうことです。すべての衆生のうち、生まれつき目の見えない者でなければ、目のある者はみな、日の沈むのを見ている。想いをおこし、正しく坐って西に向かい、日をあきらかに観て、心を堅くとどめ、想いをもっぱらにして移らせないようにしなさい。日が沈もうとして、懸けた鼓のような姿をしているのを見なさい。日を見終えたら、目を閉じても開いても、はっきりと見えるようにしなさい。これを日想とし、初観と名づけます。

原文 次作水想。見水澂清,亦令明了,無分散意。既見水已,當起氷想。見氷映徹,作琉璃想。此想成已,見琉璃地,內外映徹。下有金剛七寶金幢,擎琉璃地。其幢八方,八楞具足,一一方面,百寶所成,一一寶珠,有千光明,一一光明,八萬四千色,映琉璃地,如億千日,不可具見。琉璃地上,以黃金繩,雜廁間錯,以七寶界,分齊分明,一一寶中,有五百色光。其光如花,又似星月,懸處虛空,成光明臺。樓閣千萬,百寶合成,於臺兩邊,各有百億花幢,無量樂器,以為莊嚴。八種清風從光明出,鼓此樂器,演說苦、空、無常、無我之音,是為水想,名第二觀。(大正12・342a)

書き下し 次に水想をなせ。水の澄清なるを見て、また明了ならしめ、分散の意なからしめよ。すでに水を見をはらば、まさに氷想を起すべし。氷の映徹するを見て、琉璃の想をなせ。この想成じをはらば、琉璃の地の内外映徹せるを見よ。下に金剛七宝の金幢ありて、琉璃の地を擎ぐ。その幢は八方にして、八楞具足せり。一々の方面は百宝の成ずるところなり。一々の宝珠に千の光明あり、一々の光明は八万四千の色なり。琉璃の地に映ずること、億千の日のごとし。つぶさに見るべからず。琉璃の地の上に、黄金の縄をもつて雑厠間錯し、七宝の界をもつて分斉分明なり。一々の宝の中に五百色の光あり。その光、華のごとく、また星月に似たり。虚空に懸処して、光明台となる。楼閣千万にして、百宝合成せり。台の両辺において、おのおの百億の華幢、無量の楽器ありて、もつて荘厳とす。八種の清風、光明より出でて、この楽器を鼓つに、苦・空・無常・無我の音を演説す。これを水想とし、第二の観と名づく。

訳 次に水を想いなさい。水が澄みきっているのを見て、それもはっきりとさせ、心が散らないようにしなさい。水を見終えたら、氷を想いなさい。氷が透きとおって輝くのを見て、琉璃(青い宝石)を想いなさい。この想いが成ったら、内も外も透きとおって輝く琉璃の地を見なさい。その下には、金剛と七宝でできた金の幢(はたほこ)があって、琉璃の地を支えています。幢は八方に面をもち、八つの稜をそなえ、その面の一つ一つは百の宝でできています。宝珠の一つ一つに千の光明があり、光明の一つ一つは八万四千の色をしています。それが琉璃の地に映るさまは、億千の日のようで、くまなく見ることはできません。琉璃の地の上には、黄金の縄が入り交じって張りめぐらされ、七宝の境で、はっきりと区切られています。宝の一つ一つの中に、五百色の光があります。その光は華のようで、また星や月のようでもあり、虚空にかかって光明の台となります。そこには千万の楼閣があって、百の宝でできており、台の両側には、それぞれ百億の華の幢と量りしれない楽器があって、飾りとなっています。八種の清らかな風が光明から出て、これらの楽器を鳴らし、苦・空・無常・無我の音を説いています。これを水想とし、第二の観と名づけます。

原文 此想成時,一一觀之,極令了了。閉目開目,不令散失,唯除睡時,恒憶此事。如此想者,名為粗見極樂國地。若得三昧,見彼國地,了了分明,不可具說。是為地想,名第三觀。」(大正12・342a)

書き下し この想成ずる時、一々にこれを観じて、きはめて了了ならしめよ。目を閉ぢ目を開くに、散失せしめざれ。ただ睡りの時を除きて、つねにこの事を憶へ。かくのごとく想ふものを、名づけて粗く極楽国地を見るとす。もし三昧を得ば、かの国地を見ること了了分明にして、つぶさに説くべからず。これを地想とし、第三の観と名づく」と。

訳 この想いが成ったときには、一つ一つを観て、きわめてはっきりとさせなさい。目を閉じても開いても、見失わないようにしなさい。ただ眠っているときを除いて、いつもこのことを心にとどめなさい。このように想う者を、極楽の国の地をおおまかに見る、と名づけます。もし三昧を得れば、かの国の地を見ることは、はっきりと明らかで、すべてを説きつくすことはできません。これを地想とし、第三の観と名づけます。」

原文 佛告阿難:「汝持佛語,為未來世一切大眾欲脫苦者,說是觀地法。若觀是地者,除八十億劫生死之罪。捨身他世,必生淨國,心得無疑。作是觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀。」(大正12・342a–342b)

書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「汝、仏語を持ちて、未来世の一切大衆の苦を脱れんと欲ふもののために、この観地の法を説け。もしこの地を観ずるものは、八十億劫の生死の罪を除き、身を捨てて他世に、かならず浄国に生じ、心に疑ひなきことを得ん。この観をなすをば名づけて正観とし、もし他観するをば名づけて邪観とす」と。

訳 仏は阿難に告げられました。「あなたは仏の言葉を保って、未来の世の、苦しみから逃れたいと願うすべての人々のために、この地を観る法を説きなさい。この地を観る者は、八十億劫の生死の罪を除き、身を捨てて次の世には、かならず清らかな国に生まれ、心に疑いがなくなるでしょう。このように観ることを正観と名づけ、ほかの観かたをすることを邪観と名づけます。」

〔読み〕日想は、だれもが見たことのあるものから始めます。経は全称に例外を一つだけ置きます(「自非生盲」)。そして、目を閉じても開いても見えるように、と求めます。

\[ \forall x \in \mathcal{S} :\ \neg\,\text{生盲}(x) \;\Longrightarrow\; \text{見}(x,\ \text{日沒}), \qquad \forall s \in \{\text{閉目},\ \text{開目}\} :\ \text{明了}(\text{日想},\ s) \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A9 灌頂の公理〕〔読み〕水から氷へ、氷から琉璃へ、琉璃から琉璃の地へと、想いは一つずつ移されます。前の想いが成ってから、次へ進みます。A9 の「段階的通過儀礼(灌頂)」に重ねて読めます。

\[ \text{水想} \;\to\; \text{氷想} \;\to\; \text{琉璃想} \;\xrightarrow{\ \text{此想成已}\ }\; \text{見琉璃地} \;\xrightarrow{\ \text{此想成時}\ }\; \text{地想} \]

〔読み〕金の幢の飾りは、入れ子の数で描かれます。式は入れ子を入れ子のまま写し、掛け合わせません(序の約束の三)。「不可具見」は、その全体を見尽くせないことを、経自身が言う句です。

\[ \forall f \in \text{面}(\text{幢}) :\ \text{百寶所成}(f), \qquad \forall p \in \text{寶珠} :\ |\text{光明}(p)| = \text{千}, \qquad \forall \ell \in \text{光明} :\ |\text{色}(\ell)| = \text{八萬四千} \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕地想は、見え方を二段に分けます。想いによる見え方は「粗見」と名づけられ、三昧を得れば「了了分明」に見えます。ところが、はっきり見えるところで、経は「不可具說」と言います。A0 の「いかなる記号体系 L も、u′(虚空の余剰)を汲み尽くせない」に重ねれば、見えることと説き尽くせることとが別であることを、経が自ら記した所と読めます。

\[ \text{如此想} \Rightarrow \text{粗見}(\text{極樂國地}), \qquad \text{得三昧} \Rightarrow \text{了了分明見}(\text{彼國地}) \wedge \neg\,\text{可具說} \]

〔異本〕この段には、流布本と大正蔵の本文とで、意味に関わる違いが三つあります。一つ目に、大正蔵の本文は、初観の終わりに「作是觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀。」を置き、改めて「佛告阿難及韋提希:『初觀成已,次作水想。想見西方一切皆是大水。見水澄清……』」と続けます。流布本は、このうち「作是觀者」から「初觀成已」までの二十八字と「想見西方一切皆是大水」とを欠き、日想から水想へ、仏の言葉が途切れずに続きます(脚注「〔作是觀…成已〕二十八字-【三】,流布本亦同」「〔想見西方一切皆是大水〕-【三】,流布本亦同」)。二つ目に、「唯除睡時」を、大正蔵の本文は「唯除食時」に作ります(脚注「食=睡【明】,流布本亦同」)。心にとどめることを免れる時が、眠る時か、食べる時かが違います。三つ目に、「如此想者,名為粗見極樂國地」を、大正蔵の本文は「作此觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀。」佛告阿難及韋提希:「水想成已,名為粗見極樂國地」とします(脚注「((作此觀…成已))二十八字=((如此想者))四字【三】,流布本亦同」)。粗く見ると名づけられるのは、流布本ではこのように想う者、大正蔵の本文では水想が成ったことです。この訳の段の分け目(「此想成時」から地想とすること)は、流布本の文の続き方によります。

\[ \text{流布本} :\ \forall t :\ \neg\,\text{睡}(t) \Rightarrow \text{憶}(\text{此事},\ t), \qquad \text{大正蔵の本文} :\ \forall t :\ \neg\,\text{食}(t) \Rightarrow \text{憶}(\text{此事},\ t) \]

〔借・定義寄り(整理表の勧告)|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕「汝持佛語,為未來世一切大眾欲脫苦者,說是觀地法」は、仏の言葉を持つこと(護持)が、未来の聞き手への説き(次の問い)になる形で、G-1 の「g(iₙ) = cₙ₊₁」に写せます。

\[ g(i_{\text{觀地法}}) = c_{\text{未來世一切大眾欲脫苦者}} \]

〔読み〕地を観ることの益を、経の言う量の名のまま書きます(序の約束の三)。

\[ \text{觀}(x,\ \text{是地}) \;\Longrightarrow\; \text{除}(\text{八十億劫生死之罪}) \;\wedge\; \text{捨身他世必生淨國} \;\wedge\; \text{心得無疑} \]

〔読み〕「作是觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀」は、観を、ここで説かれた観(是觀)と、それ以外(他觀)とに二分して名づけます。二つの名は重ならず、合わせてすべての観を覆います。

\[ \text{正觀} = \{v :\ v = \text{是觀}\}, \qquad \text{邪觀} = \{v :\ v \neq \text{是觀}\}, \qquad \text{正觀} \cap \text{邪觀} = \emptyset \]

〔異本〕この句は、大正蔵の本文では第一から第十五までの観のそれぞれにありますが、流布本では九つの観にしかありません(K は、句のある観の番号の集まり)。第十二観(普観)の末の句について、脚注は「〔作是…邪觀〕十六字-【三】【敦】*,流布本亦同」とし、「*」でほかの所にも及ぶことを示します。CBETA は、その及ぶ所(第十三・第十四・第十五観の末)を、宋・元・明の三本と敦煌本の読みとしてだけ符号化しているので、この訳はそこに流布本の読みを当てていません(覚え書き)。

\[ K_{\text{大正}} = \{1, \dots, 15\}, \qquad K_{\text{流布}} = \{3,\ 6,\ 7,\ 9,\ 10,\ 11,\ 13,\ 14,\ 15\}, \qquad K_{\text{流布}} \subsetneq K_{\text{大正}} \]

六 第四〜第六観――宝樹・宝池・宝楼

地想が成った後、宝の樹(第四観)、八功徳水の池(第五観)、宝の楼閣(第六観、総観)を観ます。流布本では、この三つの観が、仏の一続きの言葉として説かれます(〔異本〕)。

原文 佛告阿難及韋提希:「地想成已,次觀寶樹。觀寶樹者,一一觀之,作七重行樹想。一一樹高八千由旬,其諸寶樹,七寶花葉無不具足。一一華葉,作異寶色。琉璃色中出金色光;頗梨色中出紅色光;碼碯色中出硨磲光;車𤦲色中出綠真珠光;珊瑚琥珀一切眾寶以為映飾。妙真珠網彌覆樹上,一一樹上有七重網,一一網間有五百億妙華宮殿,如梵王宮。諸天童子自然在中,一一童子五百億釋迦毘楞伽摩尼寶以為瓔珞;其摩尼光照百由旬,猶如和合百億日月,不可具名,眾寶間錯色中上者。(大正12・342b)

書き下し 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「地想成じをはらば、次に宝樹を観ぜよ。宝樹を観ずるとは、一々にこれを観じて、七重の行樹の想をなせ。一々の樹の高さ八千由旬なり。そのもろもろの宝樹、七宝の華葉具足せざることなし。一々の華葉、異宝の色をなす。琉璃色の中より金色の光を出し、頗梨色の中より紅色の光を出し、瑪瑙色の中より硨磲の光を出し、硨磲色の中より緑真珠の光を出す。珊瑚・琥珀、一切の衆宝、もつて映飾とす。妙真珠の網、樹上に弥覆し、一々の樹上に七重の網あり、一々の網の間に五百億の妙華の宮殿ありて、梵王の宮のごとし。諸天の童子、自然にその中に在り。一々の童子、五百億の釈迦毘楞伽摩尼宝をもつて瓔珞とす。その摩尼の光、百由旬を照らす。なほ百億の日月を和合せるがごとし。つぶさに名づくべからず。衆宝間錯して、色の中の上なるものなり。

訳 仏は阿難と韋提希に告げられました。「地想が成ったら、次に宝の樹を観なさい。宝の樹を観るとは、一本一本を観て、七重に並ぶ樹の列を想うことです。樹の一本一本は高さ八千由旬で、それらの宝の樹には、七宝の華と葉がすべてそなわっています。華と葉の一つ一つが、それぞれ異なる宝の色をしています。琉璃の色の中からは金色の光が、頗梨(水晶)の色の中からは紅の光が、瑪瑙の色の中からは硨磲の光が、硨磲の色の中からは緑の真珠の光が出ています。珊瑚・琥珀など、あらゆる宝が飾りとなっています。妙なる真珠の網が樹の上をくまなく覆い、樹の一本一本の上には七重の網があり、網の一つ一つの間には、五百億の妙なる華の宮殿があって、梵天の宮殿のようです。天の童子たちが自然にその中にいて、童子の一人一人は、五百億の釈迦毘楞伽摩尼宝を瓔珞としています。その摩尼の光は百由旬を照らし、百億の日と月を合わせたようで、名を挙げ尽くすことはできません。さまざまな宝が入り交じり、あらゆる色の中で最上のものです。

原文 此諸寶樹,行行相當,葉葉相次,於眾葉間生諸妙花,花上自然有七寶果。一一樹葉,縱廣正等二十五由旬;其葉千色有百種畫,如天瓔珞;有眾妙華,作閻浮檀金色;如旋火輪,婉轉葉間,涌生諸果,如帝釋瓶;有大光明,化成幢幡無量寶蓋。是寶蓋中,映現三千大千世界一切佛事;十方佛國亦於中現。見此樹已,亦當次第一一觀之,觀見樹莖、枝葉、華果,皆令分明。是為樹想,名第四觀。(大正12・342b)

書き下し このもろもろの宝樹、行々相当り、葉々相次ぎ、もろもろの葉の間においてもろもろの妙華を生じ、華の上に自然に七宝の果あり。一々の樹葉、縦広正等にして二十五由旬なり。その葉、千色にして百種の画あり、天の瓔珞のごとし。もろもろの妙華ありて、閻浮檀金の色をなし、旋火輪のごとくに、葉の間に婉転して、もろもろの果を涌生すること、帝釈の瓶のごとし。大光明ありて、化して幢幡・無量の宝蓋と成る。この宝蓋の中に、三千大千世界の一切の仏事を映現し、十方の仏国もまた中において現ず。この樹を見をはらば、またまさに次第に一々にこれを観ずべし。樹の茎・枝葉・華果を観見して、みな分明ならしめよ。これを樹想とし、第四の観と名づく。

訳 これらの宝の樹は、列と列とが向かい合い、葉と葉とが並び連なり、葉の間には妙なる華が咲き、華の上には自然に七宝の果実がなっています。樹の葉の一枚一枚は、縦も横も等しく二十五由旬あります。その葉は千の色をして百種の模様があり、天の瓔珞のようです。妙なる華は閻浮檀金の色をして、回る火の輪のように葉の間をめぐり、帝釈天の瓶のように、さまざまな果実を湧き出させます。大きな光明があって、それが幢幡と量りしれない宝の天蓋に変わります。この宝の天蓋の中に、三千大千世界のあらゆる仏のはたらきが映し出され、十方の仏の国もまたその中に現れます。この樹を見終えたら、また順に一つ一つ観て、樹の幹・枝と葉・華と果実を観て、みなはっきりとさせなさい。これを樹想とし、第四の観と名づけます。

原文 次當想水。想水者,極樂國土有八池水。一一池水七寶所成;其寶柔軟從如意珠王生,分為十四支;一一支作七寶色。黃金為渠,渠下皆以雜色金剛以為底沙。一一水中有六十億七寶蓮花,一一蓮華團圓正等十二由旬。其摩尼水流注華間,尋樹上下。其聲微妙,演說苦、空、無常、無我、諸波羅蜜,復有讚歎諸佛相好者。如意珠王踊出金色微妙光明,其光化為百寶色鳥,和鳴哀雅,常讚念佛、念法、念僧,是為八功德水想,名第五觀。(大正12・342b–342c)

書き下し 次にまさに水を想ふべし。水を想ふとは、極楽国土に八つの池水あり。一々の池水、七宝の成ずるところなり。その宝、柔軟にして如意珠王より生じ、分れて十四支となる。一々の支、七宝の色をなす。黄金を渠とし、渠の下はみな雑色の金剛をもつて底の沙とす。一々の水の中に六十億の七宝の蓮華あり。一々の蓮華、団円正等にして十二由旬なり。その摩尼の水、華の間に流注し、樹を尋ねて上下す。その声微妙にして、苦・空・無常・無我・諸波羅蜜を演説し、また諸仏の相好を讃嘆するものあり。如意珠王、金色微妙の光明を踊出す。その光、化して百宝色の鳥となり、和鳴哀雅にして、つねに念仏・念法・念僧を讃ず。これを八功徳水想とし、第五の観と名づく。

訳 次に水を想いなさい。水を想うとは、こういうことです。極楽の国土には八つの池があります。池の一つ一つは七宝でできています。その宝は柔らかく、如意珠王から生じ、分かれて十四の流れとなり、流れの一つ一つが七宝の色をしています。黄金を水路とし、水路の底には、みな色とりどりの金剛が砂として敷かれています。池の一つ一つの水の中には六十億の七宝の蓮華があり、蓮華の一つ一つは、まるく整って十二由旬あります。その摩尼の水は華の間を流れ注ぎ、樹にそって上り下りします。その声は微妙で、苦・空・無常・無我と、もろもろの波羅蜜を説き、また仏たちの相好をほめたたえるものもあります。如意珠王は、金色の微妙な光明をほとばしり出させ、その光は百の宝の色をした鳥に変わり、なごやかに美しく鳴きかわして、いつも念仏・念法・念僧をほめたたえています。これを八功徳水想とし、第五の観と名づけます。

原文 眾寶國土,一一界上有五百億寶樓閣,其樓閣中有無量諸天,作天伎樂。又有樂器懸處虛空,如天寶幢不鼓自鳴。此眾音中,皆說念佛、念法、念比丘僧。此想成已,名為粗見極樂世界寶樹、寶地、寶池,是為總觀想,名第六觀。若見此者,除無量億劫極重惡業,命終之後必生彼國。作是觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀。」(大正12・342c)

書き下し 衆宝の国土の一々の界の上に、五百億の宝楼閣あり。その楼閣の中に無量の諸天ありて、天の伎楽をなす。また楽器ありて虚空に懸処し、天の宝幢のごとく、鼓たざるに自ら鳴る。この衆音の中に、みな念仏・念法・念比丘僧を説く。この想成じをはるを、名づけて粗く極楽世界の宝樹・宝地・宝池を見るとす。これを総観想とし、第六の観と名づく。もしこれを見るものは、無量億劫の極重の悪業を除き、命終の後にかならずかの国に生ず。この観をなすをば名づけて正観とし、もし他観するをば名づけて邪観とす」と。

訳 さまざまな宝でできた国土の、区切りの一つ一つの上に、五百億の宝の楼閣があります。その楼閣の中には量りしれない天人たちがいて、天の音楽を奏でています。また楽器が虚空にかかっていて、天の宝の幢のように、打たなくてもおのずから鳴っています。そのさまざまな音の中で、みな念仏・念法・念比丘僧を説いています。この想いが成ったことを、極楽世界の宝の樹・宝の地・宝の池をおおまかに見る、と名づけます。これを総観想とし、第六の観と名づけます。これを見る者は、量りしれない億劫の、きわめて重い悪業を除き、命が終わった後には、かならずかの国に生まれます。このように観ることを正観と名づけ、ほかの観かたをすることを邪観と名づけます。」

〔異本〕大正蔵の本文では、第四観の末に「作是觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀。」とあり、改めて「佛告阿難及韋提希:『樹想成已,次當想水。……』」と第五観が始まり、第五観の末にも同じ句と「佛告阿難及韋提希」があって第六観が始まります。流布本はこれらを欠きます(脚注「〔作是觀…成已〕二十八字-【三】,流布本亦同」「〔作是觀…韋提希〕二十四字-【三】,流布本亦同」)。そのため流布本では、第四観から第六観までが、一つの言葉の中で続けて説かれます。第一観から第三観まで(五)も同じです。

\[ \text{流布本} :\ \text{告}\bigl(\langle \text{觀}_1, \text{觀}_2, \text{觀}_3 \rangle\bigr),\ \ \text{告}\bigl(\langle \text{觀}_4, \text{觀}_5, \text{觀}_6 \rangle\bigr), \qquad \text{大正蔵の本文} :\ \text{告}(\text{觀}_1), \dots, \text{告}(\text{觀}_6)\ \ \text{を別々に} \]

〔読み〕宝樹の飾りも入れ子の数で描かれます。式は掛け合わせません(序の約束の三)。「不可具名」は、名を挙げ尽くせないことを経自身が言う句です。

\[ \forall t \in \text{寶樹} :\ \text{高}(t) = \text{八千由旬} \wedge |\text{網}(t)| = \text{七重}, \qquad \forall n \in \text{網間} :\ |\text{宮殿}(n)| = \text{五百億}, \qquad \forall d \in \text{童子} :\ |\text{摩尼寶}(d)| = \text{五百億} \wedge \text{瓔珞}(d) = \text{摩尼寶}(d) \]

〔読み〕宝蓋の中に、三千大千世界のあらゆる仏事が映り、十方の仏国もその中に現れます。部分の中に全体が現れる形です。経は、この形を宝蓋について言います。

\[ \text{映現}(\text{寶蓋},\ \text{三千大千世界一切佛事}) \;\wedge\; \forall \beta \in \text{十方佛國} :\ \text{現}(\beta,\ \text{寶蓋}) \]

〔読み〕宝池と宝楼では、水の声、鳥の声、楽器の音が法を説きます。経は、楼閣のさまざまな音について「皆」と言います。式は、量化の範囲をその音に限ります。

\[ \text{說}(\text{水聲},\ \text{苦・空・無常・無我・諸波羅蜜}), \quad \text{常讚}(\text{鳥},\ \text{念佛・念法・念僧}), \quad \forall s \in \text{眾音}(\text{樓閣}) :\ \text{說}(s,\ \text{念佛・念法・念比丘僧}) \]

〔読み〕第六観は「総観」と名づけられ、それが成ることは、宝樹・宝地・宝池を「粗く見る」ことだとされます。地想の「粗見」と同じ言葉で、想いによる見え方であることを示します。益は、経の言う量の名のまま書きます。

\[ \text{成}(\text{觀}_6) \;\Longrightarrow\; \text{粗見}(\text{寶樹} \cup \text{寶地} \cup \text{寶池}), \qquad \text{見}(x,\ \text{此}) \;\Longrightarrow\; \text{除}(\text{無量億劫極重惡業}) \wedge \text{命終之後必生彼國} \]

七 第七観――華座観と住立空中の三尊

仏が「除苦惱法」を説こうと告げたそのとき、無量寿仏が観音・勢至をともなって空中に立ち現れます。韋提希は礼拝して、未来の衆生はどう観ればよいかを問い、仏は、仏の坐す蓮華の座を観ることを説きます(第七観)。

原文 佛告阿難及韋提希:「諦聽,諦聽!善思念之。佛當為汝分別解說除苦惱法,汝等憶持,廣為大眾分別解說。」說是語時,無量壽佛住立空中,觀世音、大勢至,是二大士侍立左右。光明熾盛不可具見,百千閻浮檀金色不可為比。(大正12・342c)

書き下し 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「諦かに聴け、諦かに聴け。よくこれを思念せよ。仏、まさに汝がために苦悩を除く法を分別し解説すべし。汝等憶持して、広く大衆のために分別し解説せよ」と。この語を説きたまふ時、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士、左右に侍立せり。光明熾盛にして、つぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすべからず。

訳 仏は阿難と韋提希に告げられました。「よく聴きなさい、よく聴きなさい。よく思い念じなさい。仏はいま、あなたたちのために、苦しみと悩みを除く法を分けて説き明かそう。あなたたちはそれを心に保ち、広く人々のために分けて説き明かしなさい。」この言葉を説かれたそのとき、無量寿仏が空中に立たれ、観世音と大勢至の二人の大士が左右に侍って立っていました。その光明はあまりに盛んで、くまなく見ることはできず、百千の閻浮檀金の色も、くらべものになりません。

原文 時韋提希見無量壽佛已,接足作禮,白佛言:「世尊!我今因佛力故,得見無量壽佛及二菩薩,未來眾生,當云何觀無量壽佛及二菩薩?」(大正12・342c)

書き下し 時に韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、接足作礼して、仏に白して言さく、「世尊、我いま仏力に因るがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得たり。未来の衆生、まさにいかんしてか無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」と。

訳 韋提希は無量寿仏を見たてまつると、み足をいただいて礼拝し、仏に申しました。「世尊、わたしはいま、仏の力によって、無量寿仏と二菩薩を見たてまつることができました。未来の衆生は、どのようにして無量寿仏と二菩薩を観たてまつればよいのでしょうか。」

原文 佛告韋提希:「欲觀彼佛者,當起想念,於七寶地上作蓮花想,令其蓮花一一葉作百寶色。有八萬四千脈,猶如天畫;脈有八萬四千光,了了分明,皆令得見。華葉小者,縱廣二百五十由旬;如是蓮華有八萬四千葉,一一葉間各有百億摩尼珠王以為映飾。一一摩尼放千光明,其光如蓋,七寶合成,遍覆地上。釋迦毘楞伽寶以為其臺;此蓮花臺,八萬金剛甄叔迦寶,梵摩尼寶,妙真珠網,以為交飾。(大正12・342c–343a)

書き下し 仏、韋提希に告げたまはく、「かの仏を観たてまつらんと欲はんものは、まさに想念を起して、七宝の地の上において蓮華の想をなし、その蓮華の一々の葉をして百宝の色をなさしむべし。八万四千の脈あり、なほ天の画のごとし。脈に八万四千の光あり、了了分明にして、みな見ることを得しめよ。華葉の小さきものも、縦広二百五十由旬なり。かくのごときの蓮華に八万四千の葉あり。一々の葉の間に、おのおの百億の摩尼珠王ありて、もつて映飾とす。一々の摩尼、千の光明を放つ。その光、蓋のごとく、七宝合成して、あまねく地の上を覆ふ。釈迦毘楞伽宝をもつてその台とす。この蓮華の台は、八万の金剛・甄叔迦宝・梵摩尼宝・妙真珠の網をもつて交飾とす。

訳 仏は韋提希に告げられました。「かの仏を観たいと願う者は、想いをおこして、七宝の地の上に蓮華を想い、その蓮華の葉の一枚一枚に百の宝の色をさせなさい。葉には八万四千の葉脈があって、天の絵のようです。葉脈には八万四千の光があり、それをみな、はっきりと明らかに見えるようにしなさい。華の葉の小さなものでも、縦横二百五十由旬あります。このような蓮華に八万四千の葉があり、葉と葉の間には、それぞれ百億の摩尼珠王が飾りとなっています。摩尼の一つ一つは千の光明を放ち、その光は天蓋のようで、七宝でできていて、地の上をあまねく覆います。釈迦毘楞伽宝をその台とし、この蓮華の台は、八万の金剛・甄叔迦宝・梵摩尼宝・妙なる真珠の網で、交えて飾られています。

原文 於其臺上,自然而有四柱寶幢,一一寶幢如百千萬億須彌山;幢上寶幔如夜摩天宮,有五百億微妙寶珠,以為映飾。一一寶珠有八萬四千光,一一光作八萬四千異種金色,一一金色遍其寶土,處處變化,各作異相;或為金剛臺,或作真珠網,或作雜花雲,於十方面隨意變現,施作佛事,是為花座想,名第七觀。」(大正12・343a)

書き下し その台の上に、自然にして四柱の宝幢あり。一々の宝幢は百千万億の須弥山のごとし。幢の上の宝幔は夜摩天宮のごとし。五百億の微妙の宝珠ありて、もつて映飾とす。一々の宝珠に八万四千の光あり。一々の光、八万四千の異種の金色をなす。一々の金色、その宝土にあまねく、処々に変化して、おのおの異相をなす。あるいは金剛台となり、あるいは真珠網となり、あるいは雑花雲となりて、十方面において意に随ひて変現し、仏事を施作す。これを花座想とし、第七の観と名づく」と。

訳 その台の上には、自然に四本の柱の宝の幢があり、宝の幢の一つ一つは百千万億の須弥山のようです。幢の上の宝の幕は夜摩天の宮殿のようで、五百億の微妙な宝珠が飾りとなっています。宝珠の一つ一つに八万四千の光があり、光の一つ一つは八万四千の異なる種類の金色をしています。金色の一つ一つはその宝の国土にあまねく及び、あちこちで変化して、それぞれ異なる姿となります。金剛の台となり、真珠の網となり、色とりどりの華の雲となって、十方に思いのままに変わり現れて、仏のはたらきをなします。これを花座想とし、第七の観と名づけます。」

原文 佛告阿難:「如此妙花,是本法藏比丘願力所成,若欲念彼佛者,當先作此花座想。作此想時不得雜觀;皆應一一觀之,一一葉,一一珠,一一光,一一臺,一一幢,皆令分明,如於鏡中自見面像。此想成者,滅除五萬劫生死之罪,必定當生極樂世界。作是觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀。」(大正12・343a)

書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「かくのごときの妙花は、これもと法蔵比丘の願力の所成なり。もしかの仏を念ぜんと欲はんものは、まさにまづこの花座の想をなすべし。この想をなさん時、雑観することを得ざれ。みなまさに一々にこれを観ずべし。一々の葉、一々の珠、一々の光、一々の台、一々の幢、みな分明ならしめて、鏡の中においてみづから面像を見るがごとくせよ。この想成ずるものは、五万劫の生死の罪を滅除し、必定してまさに極楽世界に生ずべし。この観をなすをば名づけて正観とし、もし他観するをば名づけて邪観とす」と。

訳 仏は阿難に告げられました。「このような妙なる華は、もとは法蔵比丘の願の力によって成ったものです。かの仏を念じたいと願う者は、まずこの花座を想いなさい。この想いをなすときは、ほかのものを交えて観てはなりません。一つ一つを観なさい。一枚一枚の葉、一つ一つの珠、一つ一つの光、一つ一つの台、一つ一つの幢を、みなはっきりとさせて、鏡の中に自分の顔を見るようにしなさい。この想いが成った者は、五万劫の生死の罪を滅し除き、かならず極楽世界に生まれます。このように観ることを正観と名づけ、ほかの観かたをすることを邪観と名づけます。」

〔読み〕仏は「除苦惱法」を説こうと告げ、その言葉のその時に、三尊が現れます(「說是語時」)。法の中身を言葉で説くより前に、です。経は、その光を「不可具見」「不可為比」と言います。

\[ t\bigl(\text{說}(\text{是語})\bigr) = t\bigl(\text{住立空中}(\text{無量壽佛},\ \text{觀世音},\ \text{大勢至})\bigr)\ \ (\text{是語} = \text{佛當為汝分別解說除苦惱法……}), \qquad \neg\,\text{可具見}(\text{光明}) \wedge \neg\,\text{可比}(\text{光明},\ \text{百千閻浮檀金色}) \]

〔諸釈〕三尊が現れたわけ(なぜ坐さずに住立したかを含む)と、韋提希が無生忍を得た時について、次の読みがあります。

注釈 読み 注の言葉
吉蔵『観無量寿経義疏』(大正37・243b) これからの仏・菩薩の観の境(対象)として現れた 「所以佛菩薩現其人前者,為觀之境」
善導『観経疏』定善義(大正37・266a) 苦しむ者を救うために、坐る間もなく立って赴いた 「何故不端坐而赴機也」と問い、「若不舉足以救迷,業繫之牢何由得勉。為斯義故,立撮即行,不及端坐以赴機也」と答える
善導『観経疏』玄義分(大正37・251b) 韋提希が無生忍を得たのは、この第七観の初めで、光台に国を見た時ではない 「韋提得忍,出在第七觀初」「非是光臺中見國時得也」

〔読み〕華座の葉は、小さいものでも二百五十由旬といいます。最も小さいもので大きさを下から押さえる言い方です。入れ子の数は、ここでも掛け合わせません。

\[ \forall \phi \in \text{華葉} :\ \text{縱廣}(\phi) \ge \text{二百五十由旬}, \qquad |\text{葉}| = \text{八萬四千}, \quad \forall \phi :\ |\text{脈}(\phi)| = \text{八萬四千}, \quad |\text{光}(\text{脈})| = \text{八萬四千}\ \ (\text{流布本は「一一」を欠く。脚注「〔一一〕-【三】,流布本亦同」}) \]

〔読み〕華座は「本法藏比丘願力所成」と説かれます。法蔵比丘の願は『無量寿経』に説かれるもので(『無量寿経』の訳の上巻 六〜九)、この経はここで、観るべき座の由来をその願力に置きます。そのうえで、仏を念ずるには、まずこの座を想え、と順序を定めます。

\[ \text{妙花} = \text{所成}\bigl(\text{願力}(\text{法藏比丘})\bigr), \qquad \text{念}(\text{彼佛}) :\ \text{花座想} \;\to\; \text{念}(\text{彼佛})\ \ (\text{當先作此花座想}) \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A1 空鏡の公理〕〔読み〕「如於鏡中自見面像」は、定善示観縁の「如執明鏡自見面像」と同じ鏡の譬えです。ここで経が求めるのは、一つ一つを交えずに観て、それを鏡の中の自分の顔のように明らかにすることです。A1 の経典的基礎の欄が「鏡の比喩」を挙げるのと同じく、鏡を譬えに用いる所として、ここに札を立てます(整理表は、その比喩の中身を記しません)。経はこの譬えで、像がどこから生まれるかを語ってはいません。式の ∼ は、経が「如……」と譬えることで、数の比は言いません。

\[ \neg\,\text{雜觀}, \qquad \forall y \in \{\text{葉},\ \text{珠},\ \text{光},\ \text{臺},\ \text{幢}\} :\ \text{分明}(y) \sim \text{於鏡中自見面像} \]

〔異本〕「滅除五萬劫生死之罪」の「五萬」を、大正蔵の本文は「五百億」に、宋・元・明の三本は「五萬億」に作ります(脚注「五百億=五萬億【三】,五百億流布本作五萬」)。この訳は、三つの量の名の大小を比べません(序の約束の三)。

\[ \text{成}(\text{觀}_7) \Longrightarrow \text{除}(D) \wedge \text{必定當生極樂世界}, \qquad D = \text{五萬劫}\ (\text{流布本}),\ \ \text{五百億劫}\ (\text{大正蔵の本文}),\ \ \text{五萬億劫}\ (\text{三本}) \]

八 第八・第九観――像想観・真身観

華座を想い終えたら、その座に坐す仏の像を想い(第八観)、さらに無量寿仏の真の身相と光明を観ます(第九観)。第八観の「是心作佛,是心是佛」と、第九観の「念佛眾生攝取不捨」「佛心者大慈悲是」は、この経の中でも読みが大きく分かれる所です。

原文 佛告阿難及韋提希:「見此事已,次當想佛。所以者何?諸佛如來是法界身,入一切眾生心想中;是故汝等心想佛時,是心即是三十二相、八十隨形好。是心作佛,是心是佛。諸佛正遍知海,從心想生,是故應當一心繫念,諦觀彼佛、多陀阿伽度、阿羅訶、三藐三佛陀。(大正12・343a)

書き下し 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想の中に入りたまふ。このゆゑに汝等、心に仏を想ふ時、この心すなはちこれ三十二相・八十随形好なり。この心作仏す。この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に念を繋けて、諦かにかの仏、多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀を観ずべし。

訳 仏は阿難と韋提希に告げられました。「このことを見終えたら、次に仏を想いなさい。なぜなら、仏たち如来は法界を身とする方で、すべての衆生の心の想いの中に入っておられるからです。それゆえ、あなたたちが心に仏を想うとき、その心がそのまま三十二相・八十随形好です。この心が仏と作り(あるいは、仏を作り)、この心がそのまま仏です。仏たちの正しくあまねく知る智慧の海は、心の想いから生じます。それゆえ、一心に念をかけて、かの仏、多陀阿伽度(如来)・阿羅訶(応供)・三藐三仏陀(正遍知)を、あきらかに観なさい。

原文 想彼佛者,先當想像。閉目開目,見一寶像,如閻浮檀金色,坐彼華上。見像坐已,心眼得開,了了分明,見極樂國七寶莊嚴,寶地、寶池、寶樹行列,諸天寶幔彌覆其上,眾寶羅網滿虛空中。見如此事,極令明了,如觀掌中。見此事已,復當更作一大蓮華在佛左邊,如前蓮華等無有異。復作一大蓮華在佛右邊,想一觀世音菩薩像坐左華座,亦放金光如前無異。想一大勢至菩薩像坐右華座。(大正12・343a–343b)

書き下し かの仏を想はんものは、まづまさに像を想ふべし。目を閉ぢ目を開くに、一つの宝像の閻浮檀金色のごとくにして、かの華の上に坐せるを見よ。像の坐せるを見をはらば、心眼開くることを得て、了了分明に、極楽国の七宝荘厳、宝地・宝池・宝樹の行列し、諸天の宝幔その上に弥覆し、衆宝の羅網虚空の中に満てるを見ん。かくのごときの事を見て、きはめて明了ならしめて、掌の中を観るがごとくせよ。この事を見をはらば、またまさにさらに一つの大蓮華を作りて、仏の左辺に在らしむべし。前の蓮華のごとく、等しくして異なることなし。また一つの大蓮華を作りて、仏の右辺に在らしめよ。一つの観世音菩薩の像の左の華座に坐せるを想へ。また金光を放つこと、前のごとくにして異なることなし。一つの大勢至菩薩の像の右の華座に坐せるを想へ。

訳 かの仏を想う者は、まず像を想いなさい。目を閉じても開いても、閻浮檀金の色をした一つの宝の像が、かの華の上に坐っているのを見なさい。像が坐っているのを見たら、心の眼が開けて、極楽の国の七宝の飾り、宝の地・宝の池・宝の樹の並び、天の宝の幕がその上を覆い、さまざまな宝の網が虚空に満ちているのを、はっきりと明らかに見るでしょう。このようなことを見たら、手のひらの中を見るように、きわめて明らかにしなさい。このことを見終えたら、さらにもう一つ大きな蓮華を作って、仏の左側に置きなさい。前の蓮華と等しく、違いはありません。またもう一つ大きな蓮華を作って、仏の右側に置きなさい。一体の観世音菩薩の像が左の華の座に坐っているのを想いなさい。前と同じく金色の光を放っています。一体の大勢至菩薩の像が右の華の座に坐っているのを想いなさい。

原文 此想成時,佛菩薩像皆放光明;其光金色,照諸寶樹。一一樹下亦有三蓮華,諸蓮華上各有一佛二菩薩像,遍滿彼國。此想成時,行者當聞水流、光明及諸寶樹、鳧鴈、鴛鴦皆說妙法。出定、入定恒聞妙法。行者所聞,出定之時憶持不捨,令與修多羅合。若不合者,名為妄想,若有合者,名為麁想見極樂世界。是為像想,名第八觀。作是觀者,除無量億劫生死之罪,於現身中得念佛三昧。」(大正12・343b)

書き下し この想成ずる時、仏・菩薩の像、みな光明を放つ。その光金色にして、もろもろの宝樹を照らす。一々の樹の下にまた三つの蓮華あり。もろもろの蓮華の上に、おのおの一仏二菩薩の像ありて、かの国に遍満す。この想成ずる時、行者まさに、水流・光明およびもろもろの宝樹・鳧雁・鴛鴦の、みな妙法を説くを聞くべし。出定・入定につねに妙法を聞かん。行者の聞くところ、出定の時、憶持して捨てず、修多羅と合せしめよ。もし合せざるをば名づけて妄想とし、もし合することあるをば名づけて粗想に極楽世界を見るとす。これを像想とし、第八の観と名づく。この観をなすものは、無量億劫の生死の罪を除き、現身の中において念仏三昧を得」と。

訳 この想いが成ったときには、仏と菩薩の像がみな光明を放ちます。その光は金色で、もろもろの宝の樹を照らします。樹の一本一本の下にも三つの蓮華があり、それぞれの蓮華の上に一仏二菩薩の像があって、かの国に満ちわたります。この想いが成ったときには、行者は、水の流れ・光明・宝の樹・鴨や雁・鴛鴦が、みな妙なる法を説くのを聞くでしょう。定から出ているときも、定に入っているときも、いつも妙なる法を聞きます。行者は、聞いたことを、定から出たときに心に保って捨てず、修多羅(経)と照らし合わせなさい。合わないものを妄想と名づけ、合うものを、粗い想いで極楽世界を見る、と名づけます。これを像想とし、第八の観と名づけます。このように観る者は、量りしれない億劫の生死の罪を除き、この身のうちに念仏三昧を得ます。」

〔読み〕第八観は、なぜ仏を想うのかの理由から始まります(「次當想佛。所以者何」)。法界身である仏は、すべての衆生の心の想いに入っている。だから、心に仏を想うとき、その心が三十二相・八十随形好である、という組み立てです。式は、経の言う「是」を、そのまま「是」と写します。それが同一を言うのか、それ以外の何かを言うのかが、次の〔諸釈〕で分かれる所だからです。

\[ \forall x \in \mathcal{S} :\ \text{入}\bigl(\text{法界身},\ \text{心想}(x)\bigr), \qquad \text{心想佛}(x) \;\Longrightarrow\; \text{是}\bigl(\text{心}(x),\ \text{三十二相八十隨形好}\bigr) \wedge \text{作佛}\bigl(\text{心}(x)\bigr) \wedge \text{是}\bigl(\text{心}(x),\ \text{佛}\bigr) \]

〔諸釈〕「是心作佛,是心是佛」の「作」と「是」をどう読むかで、諸師は分かれます。

注釈 読み 注の言葉
慧遠『観無量寿経義疏』(大正37・180a) 観の始めを「作」、終わりを「是」とする読みと、仏の法身と自己が同体で、観るとき心に現れるのが法身の体(是)、観によってかの国に生まれ、当来に仏と成るのが「作」とする読みの二つを挙げる 「始學名作、終成即是」「諸佛法身與己同體,現觀佛時心中現者,即是諸佛法身之體,名心是佛。望己當果,由觀生彼,名心作佛」
智顗の名で伝わる疏(大正37・192b) 仏はもと無く、心が浄いので有る。この三昧によって、心がついに仏と成る(慧遠と同じ二つの読みも挙げます) 「佛本是無、心淨故有。亦因此三昧,心終成作佛也」
吉蔵『観無量寿経義疏』(大正37・243c) 三つの「是」を、応身・法身・二身の因に当てる 「是心即是三十二相,即是應身。是心是佛,即是法身。是心作佛,即明二身因也」
善導『観経疏』定善義(大正37・267a–b) 自らの信心が相を縁じて、作るがごとく現れる(作)。心が仏を想えば、その想いによって仏身が現れる(是)。これを唯識法身の観や自性清浄仏性の観とするのは誤りとする 「言是心作佛者,依自信心緣相如作也。言是心是佛者,心能想佛,依想佛身而現,即是心佛也」「或作自性清淨佛性觀者,其意甚錯」
元照『観無量寿仏経義疏』(大正37・295c) 教えによって因を修め果を感じるのがこの心に始まるので「作」、修して成る仏が外から得られるのでなく、この心がそのまま仏であるので「是」 「眾生依教修因感果,始於此心,故云是心作佛。恐謂修成佛從外得,祇由此心當體是佛,故使建修無不果滿,故云是心是佛」

\[ \begin{aligned} &\text{慧遠} :\ \text{是心是佛} \leftrightarrow \text{法身與己同體}\ (\text{現}), \quad \text{是心作佛} \leftrightarrow \text{由觀生彼}\ (\text{當果}) \\ &\text{智顗の名の疏} :\ \text{作佛} = \text{心終成作佛} \\ &\text{吉蔵} :\ \text{是心即是三十二相} = \text{應身}, \quad \text{是心是佛} = \text{法身}, \quad \text{是心作佛} = \text{二身因} \\ &\text{善導} :\ \text{作佛} = \text{依自信心緣相如作}, \quad \text{是佛} = \text{依想佛身而現}, \quad \neg\,(\text{唯識法身之觀} \vee \text{自性清淨佛性觀}) \\ &\text{元照} :\ \text{作佛} = \text{始於此心}\ (\text{修因感果}), \quad \text{是佛} = \text{此心當體是佛} \end{aligned} \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕A10 をここに重ねることは、上の〔諸釈〕の一つの側に立つことになりかねません。善導は、この一文を自性清浄仏性の観とすることを、はっきり退けるからです。そこでこの訳は、A10 の (v)「相互仏性:仏性は相互に映し合う(インドラの網)」を、経の「諸佛如來是法界身,入一切眾生心想中」にだけ、しかも仏から衆生への一つの向きに限って重ねます。経は、衆生が互いに映し合うとは言いません。「是心是佛」が仏性について言う文かどうかは、この訳は判じません(序の約束の四)。

\[ \text{経} :\ \forall x \in \mathcal{S} :\ \text{入}(\text{法界身},\ \text{心想}(x)), \qquad \text{経にない向き} :\ \text{映}(x \leftrightarrow y)\ \ (x, y \in \mathcal{S}) \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A4 夢の位相空間〕〔読み〕定の中で聞いたことを、定を出たときに経(修多羅)と照らし合わせ、合わなければ「妄想」と名づけます。定の中で聞いたこと(所聞)と経の言葉とは同じものではなく、照らし合わせるべき二つです。所聞がどれほど妙でも、それだけでは確かさの証しになりません。この歯止めは、A4 の要点の欄の「ミュトス地図の美しさをロゴス地図上の主張の証拠に転用することはA4自身が禁じる」と同じ向きです。ただし所聞も修多羅も経の語る世界の内のもので、A4 の二つの圏(ロゴス圏 ℒ とミュトス圏 ℳ)にそのままあてるのではありません。序の約束の一(文が優る)は、この文と同じ向きです。

\[ \text{合}(\text{所聞},\ \text{修多羅}) \;\Longrightarrow\; \text{麁想見極樂世界}, \qquad \neg\,\text{合}(\text{所聞},\ \text{修多羅}) \;\Longrightarrow\; \text{妄想} \]

〔読み〕像想の進み方と益を、経の言うとおりに書きます。

\[ \text{像}(\text{佛}) \to \text{心眼得開} \to \text{見極樂國七寶莊嚴} \to \text{像}(\text{觀世音}),\ \text{像}(\text{大勢至}) \to \text{聞妙法}, \qquad \text{觀}(x,\ \text{像想}) \Rightarrow \text{除}(\text{無量億劫生死之罪}) \wedge \text{現身得念佛三昧} \]

原文 佛告阿難及韋提希:「此想成已,次當更觀無量壽佛身相光明。阿難當知!無量壽佛身,如百千萬億夜摩天閻浮檀金色。佛身高六十萬億那由他恒河沙由旬;眉間白毫右旋宛轉,如五須彌山。佛眼如四大海水,清白分明。身諸毛孔演出光明,如須彌山。彼佛圓光如百億三千大千世界;於圓光中,有百萬億那由他恒河沙化佛;一一化佛,亦有眾多無數化菩薩,以為侍者。(大正12・343b)

書き下し 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この想成じをはらば、次にまさにさらに無量寿仏の身相と光明とを観ずべし。阿難まさに知るべし。無量寿仏の身は、百千万億の夜摩天の閻浮檀金色のごとし。仏身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬なり。眉間の白毫、右に旋りて宛転し、五つの須弥山のごとし。仏眼は四大海水のごとく、清白分明なり。身のもろもろの毛孔より光明を演出す。須弥山のごとし。かの仏の円光は、百億の三千大千世界のごとし。円光の中において、百万億那由他恒河沙の化仏あり。一々の化仏にまた衆多無数の化菩薩ありて、もつて侍者とす。

訳 仏は阿難と韋提希に告げられました。「この想いが成ったら、次に、さらに無量寿仏の身の相と光明を観なさい。阿難よ、知りなさい。無量寿仏の身は、百千万億の夜摩天の閻浮檀金の色のようです。仏の身の高さは六十万億那由他恒河沙由旬です。眉間の白毫は右に巡って渦をなし、五つの須弥山のようです。仏の眼は四つの大海の水のようで、清らかに白く、はっきりとしています。身のもろもろの毛穴から光明を出し、それは須弥山のようです。かの仏の円光は、百億の三千大千世界のようで、その円光の中には、百万億那由他恒河沙の化仏がおられ、化仏の一人一人にも、数えきれない多くの化菩薩が侍者としています。

原文 無量壽佛有八萬四千相;一一相,各有八萬四千隨形好;一一好復有八萬四千光明;一一光明遍照十方世界,念佛眾生攝取不捨。其光明相好及與化佛,不可具說;但當憶想令心眼見。見此事者,即見十方一切諸佛,以見諸佛故名念佛三昧。作是觀者,名觀一切佛身,以觀佛身故亦見佛心。佛心者大慈悲是,以無緣慈攝諸眾生。作此觀者,捨身他世,生諸佛前,得無生忍。(大正12・343b–343c)

書き下し 無量寿仏に八万四千の相あり。一々の相に、おのおの八万四千の随形好あり。一々の好に、また八万四千の光明あり。一々の光明、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。その光明・相好および化仏、つぶさに説くべからず。ただまさに憶想して、心眼をして見しむべし。この事を見るものは、すなはち十方一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもつてのゆゑに、念仏三昧と名づく。この観をなすをば、一切の仏身を観ずと名づく。仏身を観ずるをもつてのゆゑに、また仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂したまふ。この観をなすものは、身を捨てて他世に、諸仏の前に生じて無生忍を得ん。

訳 無量寿仏には八万四千の相があり、相の一つ一つに、それぞれ八万四千の随形好があり、好の一つ一つに、また八万四千の光明があります。光明の一つ一つは十方の世界をあまねく照らし、念仏する衆生を摂め取って捨てません。その光明と相好と化仏とは、説きつくすことができません。ただ心に想い、心の眼に見えるようにしなさい。このことを見る者は、十方のすべての仏たちを見たてまつります。仏たちを見たてまつるので、念仏三昧と名づけます。このように観ることを、すべての仏身を観る、と名づけます。仏身を観るので、仏の心も見ます。仏の心とは大慈悲のことで、無縁の慈しみ(特定の縁によらない慈しみ)によって、もろもろの衆生を摂めます。このように観る者は、身を捨てて次の世に、仏たちの前に生まれて、無生忍を得ます。

原文 是故智者應當繫心諦觀無量壽佛。觀無量壽佛者,從一相好入,但觀眉間白毫,極令明了。見眉間白毫者,八萬四千相好自然當現。見無量壽佛者,即見十方無量諸佛;得見無量諸佛故,諸佛現前授記。是為遍觀一切色身想,名第九觀。作此觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀。」(大正12・343c)

書き下し このゆゑに智者は、まさに心を繋けて、諦かに無量寿仏を観ずべし。無量寿仏を観ずるものは、一つの相好より入れ。ただ眉間の白毫を観じて、きはめて明了ならしめよ。眉間の白毫を見るものは、八万四千の相好、自然にまさに現ずべし。無量寿仏を見たてまつるものは、すなはち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏、現前に記を授けたまふ。これを遍く一切の色身を観ずる想とし、第九の観と名づく。この観をなすをば名づけて正観とし、もし他観するをば名づけて邪観とす」と。

訳 それゆえ、智慧ある者は、心をかけて、無量寿仏をあきらかに観なさい。無量寿仏を観る者は、一つの相好から入りなさい。ただ眉間の白毫だけを観て、きわめて明らかにしなさい。眉間の白毫を見る者には、八万四千の相好が、おのずから現れるでしょう。無量寿仏を見たてまつる者は、十方の量りしれない仏たちを見たてまつります。量りしれない仏たちを見たてまつることができるので、仏たちが目の前で記(成仏の予言)を授けられます。これを、あまねくすべての色身を観る想とし、第九の観と名づけます。このように観ることを正観と名づけ、ほかの観かたをすることを邪観と名づけます。」

〔読み〕仏身の大きさは、経の言う量の名と譬えのまま書きます(∼ は、七で定めた譬えの記号です)。相・好・光明の入れ子の数も、掛け合わせて一つの数にはしません(序の約束の三)。元照もここを「今彌陀身相好光明三量八萬四千,則其數無量不可算矣」と注します(大正37・297a)。

\[ \begin{aligned} &\text{高}(\text{佛身}) = \text{六十萬億那由他恒河沙由旬}, \quad \text{白毫} \sim \text{五須彌山}, \quad \text{佛眼} \sim \text{四大海水}, \quad \text{圓光} \sim \text{百億三千大千世界} \\ &|\text{相}| = \text{八萬四千}, \qquad \forall s \in \text{相} :\ |\text{好}(s)| = \text{八萬四千}, \qquad \forall h \in \text{好} :\ |\text{光明}(h)| = \text{八萬四千} \end{aligned} \]

〔読み〕経は、光明が照らす範囲と、摂め取って捨てない者と、無縁の慈で摂める者とを、三つの句で言います。照らすのは十方の世界、摂取不捨は「念佛眾生」、無縁の慈で摂めるのは「諸眾生」です。式は、この範囲の違いをそのまま写します。

\[ \forall \ell \in \text{光明} :\ \text{遍照}(\ell,\ \text{十方世界}), \qquad \forall x \in \text{念佛眾生} :\ \text{攝取不捨}(x), \qquad \forall x \in \text{諸眾生} :\ \text{攝}(\text{無緣慈},\ x) \]

〔諸釈〕光はあまねく照らすのに、なぜ摂取が「念佛眾生」について言われるのか、また「無緣慈」をどう読むか、で読みが分かれます。

注釈 読み 注の言葉
善導『観経疏』定善義(大正37・268a) 光はあまねく照らすが、摂め取るのは念仏の者。そのわけを親縁・近縁・増上縁の三義で説く 「何以佛光普照唯攝念佛者,有何意也」「此有三義。一明親緣。……二明近緣。……三明增上緣」
元照『観無量寿仏経義疏』(大正37・297a) 念ずる者にも念じない者にも、光の摂めない所はない。念仏の者は光と相応して、摂め取られて往生する。日は盲人も照らすが、盲人は見ない、と譬える 「問:不念佛人佛光攝否?答:念與不念光無不攝,但念佛者與光相應,攝取往生定無退墮」
智顗の名で伝わる疏(大正37・192c) 「無緣慈」を、慈の三種のうち、平等の第一義におのずから安住する慈と読む 「三者無緣,無心觀理,而於平等第一義中自然安住,以無緣慈攝諸眾生」

\[ \text{善導} :\ \text{照} = \text{十方},\ \ \text{攝} = \text{念佛者}\ \ (\text{親緣・近緣・增上緣}), \qquad \text{元照} :\ \forall x :\ \text{攝}(\text{光},\ x),\ \ \text{念佛}(x) \Rightarrow \text{相應}(x,\ \text{光}) \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A2 慈悲の縁起的集合論〕〔読み〕「以無緣慈攝諸眾生」は、摂める者の中から外される衆生を立てません。A2 の経典的基礎の欄の「積構造=「誰も取り残さない」」に重ねて読めるのは、この一句です。ただし経は、摂められた者がどうなるかをここでは言わず、「攝取不捨」の句は「念佛眾生」について言います。二つの句を一つにまとめることは、上の〔諸釈〕のどちらかに寄ることになるので、しません。

\[ \{\, x \in \text{諸眾生} :\ \neg\,\text{攝}(\text{無緣慈},\ x) \,\} = \emptyset \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A5 自覚慈悲の同値性〕〔読み〕仏の身を観ることが、仏の心を見ることに至り、その心は大慈悲だと言われます。観ることと大悲とが、一つの観の中で結ばれます。A5 の経典的基礎の欄の「悲智双運」に重ねて読めます。ただし、A5 の本文の言う収束(問題の深さが十分大きいとき、二つの道が一点に至る)を、経は語りません。

\[ \text{觀}(\text{佛身}) \;\Longrightarrow\; \text{見}(\text{佛心}), \qquad \text{佛心} = \text{大慈悲} \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕「其光明相好及與化佛,不可具說;但當憶想令心眼見」。説きつくせないものを、経は言葉で埋めず、想いによって心の眼に見せよ、と向きを変えます。A0 の運用上の顔「u′ ⇒ c_next」に重ねて読めます。

\[ \neg\,\text{可具說}(\text{光明相好及化佛}) \;\Longrightarrow\; \text{但當憶想令心眼見}, \qquad u' \Rightarrow c_{\mathrm{next}} \]

〔読み〕一つの相好から入って、すべてに及ぶ道すじです。善導も「相好眾多不得總雜而觀,唯觀白毫一相,但得見白毫者,一切眾相自然而現也」と注します(大正37・268b)。また経はここで、十方の一切の仏を見ることを「念佛三昧」と名づけます。

\[ \text{見}(\text{眉間白毫}) \Rightarrow \text{自然當現}(\text{八萬四千相好}), \qquad \text{見}(\text{無量壽佛}) \Rightarrow \text{見}(\text{十方無量諸佛}) \Rightarrow \text{諸佛現前授記}, \qquad \text{念佛三昧} := \text{見}(\text{十方一切諸佛}) \]

〔異本〕「八萬四千相好自然當現」の「現」を、大正蔵の本文は「見」に作り(脚注「見=現【三】,流布本亦同」)、「諸佛現前授記」の「授」を「受」に作ります(脚注「受=授【三】,流布本亦同*」)。流布本では、相好が「現れる」、諸仏が記を「授ける」。大正蔵の本文では、行者が相好を「見る」、行者が記を「受ける」と読めます。そのほか、「但當憶想令心眼見」の「眼」を、大正蔵の本文は「明」に作ります。

\[ \text{流布本} :\ \text{現}(\text{相好}),\ \ \text{授}(\text{諸佛} \to \text{行者},\ \text{記}), \qquad \text{大正蔵の本文} :\ \text{見}(\text{行者},\ \text{相好}),\ \ \text{受}(\text{行者},\ \text{記}) \]

九 第十・第十一観――観音観・勢至観

仏を観た後に、左右の二菩薩を観ます。第十観は観世音菩薩、第十一観は大勢至菩薩です。流布本では、観音観の後の「佛告阿難」の言葉が、勢至観を通って次の普観(十)まで続きます(〔異本〕)。

原文 佛告阿難及韋提希:「見無量壽佛了了分明已,次亦應觀觀世音菩薩。此菩薩身長八十萬億那由他由旬,身紫金色,頂有肉髻,項有圓光,面各百千由旬。其圓光中有五百化佛,如釋迦牟尼佛。一一化佛,有五百化菩薩,無量諸天,以為侍者。舉身光中五道眾生,一切色相皆於中現。頂上毘楞伽摩尼寶,以為天冠。其天冠中有一立化佛,高二十五由旬。觀世音菩薩面如閻浮檀金色;眉間毫相備七寶色,流出八萬四千種光明;一一光明,有無量無數百千化佛;一一化佛,無數化菩薩以為侍者,變現自在滿十方世界。(大正12・343c)

書き下し 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「無量寿仏を見たてまつること了了分明なることを已りて、次にまたまさに観世音菩薩を観ずべし。この菩薩の身長は八十万億那由他由旬なり。身は紫金色にして、頂に肉髻あり、項に円光あり、面おのおの百千由旬なり。その円光の中に五百の化仏ましまして、釈迦牟尼仏のごとし。一々の化仏に、五百の化菩薩・無量の諸天ありて、もつて侍者とす。挙身の光の中に、五道の衆生の一切の色相、みな中において現ず。頂上の毘楞伽摩尼宝をもつて天冠とす。その天冠の中に一の立化仏ましまして、高さ二十五由旬なり。観世音菩薩の面は閻浮檀金色のごとし。眉間の毫相は七宝の色を備へ、八万四千種の光明を流出す。一々の光明に、無量無数百千の化仏ましまし、一々の化仏に、無数の化菩薩ありて、もつて侍者とし、変現自在にして十方世界に満つ。

訳 仏は阿難と韋提希に告げられました。「無量寿仏をはっきりと明らかに見たてまつったら、次に観世音菩薩を観なさい。この菩薩の身の丈は八十万億那由他由旬で、身は紫がかった金色です。頭頂には肉髻があり、首の後ろには円光があって、その円光はどの面でも百千由旬あります。その円光の中には五百の化仏がおられ、釈迦牟尼仏のようです。化仏の一人一人には、五百の化菩薩と量りしれない天人たちが侍者としています。全身の光の中に、五道の衆生のあらゆる姿が現れています。頭上には毘楞伽摩尼宝の天冠をいただき、その天冠の中に一体の立った化仏がおられて、高さは二十五由旬です。観世音菩薩の顔は閻浮檀金の色のようで、眉間の毫相は七宝の色をそなえ、八万四千種の光明を流れ出させています。光明の一つ一つに、量りしれない数の百千の化仏がおられ、化仏の一人一人には、数えきれない化菩薩が侍者としていて、自在に姿を変えて現れ、十方の世界に満ちています。

原文 譬如紅蓮花色,有八十億光明,以為瓔珞;其瓔珞中,普現一切諸莊嚴事。手掌作五百億雜蓮華色;手十指端,一一指端有八萬四千畫,猶如印文。一一畫有八萬四千色;一一色有八萬四千光,其光柔軟普照一切,以此寶手接引眾生。舉足時,足下有千輻輪相,自然化成五百億光明臺。下足時,有金剛摩尼花,布散一切莫不彌滿。其餘身相,眾好具足,如佛無異,唯頂上肉髻及無見頂相,不及世尊。是為觀觀世音菩薩真實色身相,名第十觀。」(大正12・343c–344a)

書き下し 譬へば紅蓮華の色のごとし。八十億の光明ありて、もつて瓔珞とす。その瓔珞の中に、あまねく一切のもろもろの荘厳の事を現ず。手掌に五百億の雑蓮華の色をなす。手の十の指の端、一々の指の端に八万四千の画あり、なほ印文のごとし。一々の画に八万四千の色あり。一々の色に八万四千の光あり。その光柔軟にして、あまねく一切を照らす。この宝手をもつて衆生を接引したまふ。足を挙ぐる時、足の下に千輻輪の相あり、自然に化して五百億の光明台と成る。足を下ろす時、金剛摩尼の華ありて、一切に布散して弥満せざることなし。その余の身相は、衆好具足して仏のごとくにして異なることなし。ただ頂上の肉髻および無見頂の相のみ、世尊に及ばず。これを観世音菩薩の真実の色身を観ずる相とし、第十の観と名づく」と。

訳 そのさまは、たとえば紅の蓮華の色のようです。八十億の光明があって瓔珞となり、その瓔珞の中に、あらゆる飾りのありさまが現れています。手のひらは五百億の色とりどりの蓮華の色をしています。手の十本の指の先の一つ一つには、八万四千の筋があって、印の文様のようです。筋の一つ一つに八万四千の色があり、色の一つ一つに八万四千の光があります。その光は柔らかで、あまねくすべてを照らし、この宝の手で衆生を導き迎えます。足を上げるときには、足の裏に千の輻をもつ輪の相があって、自然に五百億の光明の台に変わります。足を下ろすときには、金剛と摩尼の華があって、あらゆる所に散り敷いて、満ちないところはありません。そのほかの身の相は、さまざまな好をそなえて仏と違いがありません。ただ頭頂の肉髻と、見ることのできない頂の相だけが、世尊に及びません。これを観世音菩薩の真実の色身を観る相とし、第十の観と名づけます。」

原文 佛告阿難:「若有欲觀觀世音菩薩者當作是觀。作是觀者不遇諸禍,淨除業障,除無數劫生死之罪。如此菩薩,但聞其名,獲無量福,何況諦觀!若有欲觀觀世音菩薩者,先觀頂上肉髻,次觀天冠。其餘眾相亦次第觀之,亦令明了,如觀掌中。作是觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀。(大正12・344a)

書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「もし観世音菩薩を観ぜんと欲ふことあらんものは、まさにこの観をなすべし。この観をなすものは諸禍に遇はず、業障を浄除し、無数劫の生死の罪を除く。かくのごときの菩薩は、ただその名を聞くだに無量の福を獲。いかにいはんや諦かに観ぜんをや。もし観世音菩薩を観ぜんと欲ふことあらんものは、まづ頂上の肉髻を観じ、次に天冠を観ぜよ。その余の衆相もまた次第にこれを観じて、また明了ならしむること、掌の中を観るがごとくせよ。この観をなすをば名づけて正観とし、もし他観するをば名づけて邪観とす。

訳 仏は阿難に告げられました。「観世音菩薩を観たいと願う者は、このように観なさい。このように観る者は、さまざまな災いにあわず、業の障りを清め除き、数えきれない劫の生死の罪を除きます。このような菩薩の名を、ただ聞くだけでも、量りしれない福を得ます。ましてあきらかに観る者は、なおさらです。観世音菩薩を観たいと願う者は、まず頭頂の肉髻を観て、次に天冠を観なさい。そのほかのさまざまな相も、順に観て、手のひらの中を見るように明らかにしなさい。このように観ることを正観と名づけ、ほかの観かたをすることを邪観と名づけます。

〔読み〕観音の指の先の飾りも入れ子の数で描かれます。掛け合わせません(序の約束の三)。その光は「普照一切」、その手は衆生を「接引」します。

\[ \forall f \in \text{指端} :\ |\text{畫}(f)| = \text{八萬四千}, \quad \forall g \in \text{畫} :\ |\text{色}(g)| = \text{八萬四千}, \quad \forall c \in \text{色} :\ |\text{光}(c)| = \text{八萬四千}, \qquad \text{普照}(\text{光},\ \text{一切}) \wedge \text{接引}(\text{寶手},\ \text{眾生}) \]

〔読み〕観音の身相は仏と異ならず、例外は二つだけです。経は、その二つを名指しで挙げます。

\[ \forall s \in \text{身相} \setminus \{\text{頂上肉髻},\ \text{無見頂相}\} :\ s(\text{觀世音}) = s(\text{佛}), \qquad \forall s \in \{\text{頂上肉髻},\ \text{無見頂相}\} :\ \text{不及}(\text{觀世音},\ \text{世尊},\ s) \]

〔読み〕「但聞其名,獲無量福,何況諦觀」。手引きで定めた ≺ を、ここではじめて使います。経は、名を聞くことで得る福を「無量」と言いながら、諦かに観ることをそれにまさるとします。式は二つを量として比べず、経の言う「何況」の順序だけを写します(序の約束の三)。同じ形は、第十三観と流通分にも現れます。

\[ \text{聞名}(\text{觀世音}) \Rightarrow \text{獲無量福}, \qquad \text{聞名}(\text{觀世音}) \prec \text{諦觀}(\text{觀世音}) \]

〔読み〕観る順序と、観ることの益を、経の言うとおりに書きます。

\[ \text{觀頂上肉髻} \to \text{觀天冠} \to \text{其餘眾相次第觀之}, \qquad \text{觀}(\text{觀世音}) \Rightarrow \neg\,\text{遇諸禍} \wedge \text{淨除業障} \wedge \text{除}(\text{無數劫生死之罪}) \]

〔異本〕「此菩薩身長八十萬億那由他由旬」を、大正蔵の本文は「八十億那由他恒河沙由旬」に作ります(脚注「十+(萬)【三】,流布本亦同」「〔恒河沙〕-【三】【敦】,流布本亦同」)。量の名が違いますが、この訳は比べません。また「次亦應觀觀世音菩薩」の「亦應」について、脚注は「明註曰亦應宋藏作復當,流布本亦同」と記します。流布本は「次復當觀」であったかもしれませんが、CBETA はこれを流布本の読みとして符号化していないので、この訳は大正蔵のままとしました(覚え書き)。また「譬如紅蓮花色」の「譬」を、大正蔵の本文は「臂」に作ります(脚注「臂=譬【敦】,流布本亦同」)。大正蔵の本文では、紅蓮華の色であるのは観音の臂(腕)ですが、流布本では、何がその色なのかを経は名指しません。

原文 次復應觀大勢至菩薩。此菩薩身量大小亦如觀世音,圓光面各百二十五由旬,照二百五十由旬。舉身光明照十方國,作紫金色。有緣眾生皆悉得見。但見此菩薩一毛孔光,即見十方無量諸佛淨妙光明,是故號此菩薩名無邊光。以智慧光普照一切,令離三塗,得無上力,是故號此菩薩名大勢至。(大正12・344a)

書き下し 次にまたまさに大勢至菩薩を観ずべし。この菩薩の身量の大小は、また観世音のごとし。円光の面おのおの百二十五由旬にして、二百五十由旬を照らす。挙身の光明、十方の国を照らして、紫金色をなす。有縁の衆生、みなことごとく見ることを得。ただこの菩薩の一毛孔の光を見れば、すなはち十方無量の諸仏の浄妙の光明を見る。このゆゑにこの菩薩を号して無辺光と名づく。智慧の光をもつてあまねく一切を照らし、三塗を離れて無上力を得しむ。このゆゑにこの菩薩を号して大勢至と名づく。

訳 次に大勢至菩薩を観なさい。この菩薩の身の大きさは、観世音と同じです。円光はどの面も百二十五由旬あり、二百五十由旬を照らします。全身の光明は十方の国々を照らし、紫がかった金色をしています。縁のある衆生は、みなそれを見ることができます。この菩薩の毛穴一つの光を見るだけで、十方の量りしれない仏たちの清らかで妙なる光明を見ます。それゆえ、この菩薩を無辺光と名づけます。智慧の光であまねくすべてを照らし、三塗(地獄・餓鬼・畜生)を離れさせ、無上の力を得させます。それゆえ、この菩薩を大勢至と名づけます。

原文 此菩薩天冠有五百寶華;一一寶華有五百寶臺。一一臺中,十方諸佛淨妙國土廣長之相,皆於中現。頂上肉髻如盋頭摩花。於肉髻上有一寶瓶,盛諸光明,普現佛事。餘諸身相如觀世音,等無有異。此菩薩行時,十方世界一切震動,當地動處有五百億寶花。一一寶花莊嚴高顯,如極樂世界。此菩薩坐時,七寶國土一時動搖。從下方金光佛剎,乃至上方光明王佛剎,於其中間無量塵數分身無量壽佛,分身觀世音、大勢至,皆悉雲集極樂國土,側塞空中坐蓮華座,演說妙法,度苦眾生。(大正12・344a–344b)

書き下し この菩薩の天冠に五百の宝華あり。一々の宝華に五百の宝台あり。一々の台の中に、十方諸仏の浄妙の国土の広長の相、みな中において現ず。頂上の肉髻は鉢頭摩華のごとし。肉髻の上に一の宝瓶あり、もろもろの光明を盛れて、あまねく仏事を現ず。余のもろもろの身相は観世音のごとく、等しくして異なることなし。この菩薩の行く時、十方世界一切震動す。地の動ずる処に当たりて五百億の宝華あり。一々の宝華、荘厳高顕にして極楽世界のごとし。この菩薩の坐する時、七宝の国土、一時に動揺す。下方の金光仏の刹より、乃至上方の光明王仏の刹まで、その中間において、無量塵数の分身の無量寿仏、分身の観世音・大勢至、みなことごとく極楽国土に雲集し、空中に側塞して蓮華座に坐し、妙法を演説して苦の衆生を度す。

訳 この菩薩の天冠には五百の宝の華があり、宝の華の一つ一つに五百の宝の台があります。台の一つ一つの中に、十方の仏たちの清らかで妙なる国土の広く大きなありさまが、みな現れています。頭頂の肉髻は鉢頭摩華(紅蓮華)のようで、肉髻の上には一つの宝の瓶があって、さまざまな光明を盛り、あまねく仏のはたらきを現しています。そのほかの身の相は観世音と等しく、違いはありません。この菩薩が歩むときには、十方の世界がことごとく震え動き、地の動く所に五百億の宝の華があって、宝の華の一つ一つは、高くおごそかに飾られて極楽世界のようです。この菩薩が坐るときには、七宝の国土が一時に揺れ動きます。下方の金光仏の国土から上方の光明王仏の国土まで、その間にいる、塵の数ほどの量りしれない分身の無量寿仏と、分身の観世音・大勢至が、みな極楽の国土に雲のように集まり、空中をびっしりと埋めて蓮華の座に坐り、妙なる法を説いて、苦しむ衆生を救います。

原文 作此觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀。見大勢至菩薩;是為觀大勢至色身想,名第十一觀。觀此菩薩者,除無量劫阿僧祇生死之罪;作是觀者不處胞胎,常遊諸佛淨妙國土。此觀成已,名為具足觀觀世音、大勢至。(大正12・344b)

書き下し この観をなすをば名づけて正観とし、もし他観するをば名づけて邪観とす。大勢至菩薩を見る、これを大勢至の色身を観ずる想とし、第十一の観と名づく。この菩薩を観ずるものは、無量劫阿僧祇の生死の罪を除く。この観をなすものは胞胎に処せず、つねに諸仏の浄妙の国土に遊ぶ。この観成じをはるを、名づけて具足して観世音・大勢至を観ずとす。

訳 このように観ることを正観と名づけ、ほかの観かたをすることを邪観と名づけます。大勢至菩薩を見ること、これを大勢至の色身を観る想とし、第十一の観と名づけます。この菩薩を観る者は、量りしれない阿僧祇劫の生死の罪を除きます。このように観る者は、母胎に宿ることなく、いつも仏たちの清らかで妙なる国土に遊びます。この観が成ったことを、観世音と大勢至とを欠けるところなく観た(具足観)、と名づけます。

〔読み〕勢至の光を見ることができると経が言うのは「有緣眾生」です(「有緣眾生皆悉得見」)。式も量化の範囲をそこにとどめ、ほかの者が見られないとは書きません。円光の二つの量は、経の言う名を並べるだけで、その間の関係は計算しません。

\[ \forall x \in \text{有緣眾生} :\ \text{得見}(x,\ \text{舉身光明}), \qquad \text{圓光面} = \text{百二十五由旬}, \quad \text{照} = \text{二百五十由旬} \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕毛穴一つの光を見れば、十方の無量の仏の光を見る。天冠の台の一つ一つに、十方の仏の国土が現れる。部分の中に全体が映るこの形を、A10 の (v)「相互仏性:仏性は相互に映し合う(インドラの網)」に重ねて読めます。ただし経が言うのは、一つの光から諸仏の光への一つの向きの見え方で、互いに映し合うとまでは言いません。仏性という語も、経はここで用いません。

\[ \text{見}(\text{一毛孔光}) \;\Longrightarrow\; \text{見}(\text{十方無量諸佛淨妙光明}), \qquad \forall t \in \text{天冠寶臺} :\ \text{現}(\text{十方諸佛淨妙國土},\ t) \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A2 慈悲の縁起的集合論〕〔読み〕智慧の光はあまねくすべてを照らし、三塗を離れさせます。三塗は、五道のうち最も苦しい所です。A2 の派生の欄の「下降的 Φ_C(最弱の項への優先的介入)」に、最も苦しい所に届くという点で重ねて読めます。ただし経は、三塗の者を先にするとまでは言いません。「優先的」にあたる所は、経の文にはありません。

\[ \forall x :\ \text{照}(\text{智慧光},\ x), \qquad \text{令}\bigl(\text{離}(\text{三塗}) \wedge \text{得}(\text{無上力})\bigr) \]

〔読み〕勢至の二つの名は、それぞれのはたらきから名づけられます(「是故號此菩薩名……」)。歩むとき、坐るときのありさまも、経の言うとおりに書きます。

\[ \begin{aligned} &\text{見一毛孔光即見十方諸佛光明} \;\Rightarrow\; \text{號} = \text{無邊光}, \qquad \text{智慧光普照} \wedge \text{令離三塗得無上力} \;\Rightarrow\; \text{號} = \text{大勢至} \\ &\text{行}(\text{勢至}) \Rightarrow \text{震動}(\text{十方世界}), \qquad \text{坐}(\text{勢至}) \Rightarrow \text{動搖}(\text{七寶國土}) \wedge \text{雲集}(\text{分身無量壽佛・觀世音・大勢至}) \end{aligned} \]

〔読み〕勢至観の益と、この観が成ったことの名を書きます。第十と第十一の二つの観が成って、二菩薩を「具足して」観たと名づけられます。

\[ \text{觀}(\text{大勢至}) \Rightarrow \text{除}(\text{無量劫阿僧祇生死之罪}) \wedge \text{不處胞胎} \wedge \text{常遊諸佛淨妙國土}, \qquad \text{成}(\text{觀}_{11}) \Rightarrow \text{具足觀}(\text{觀世音},\ \text{大勢至}) \]

〔異本〕この観の終わりは、流布本と大正蔵の本文とで組み立てが違います。大正蔵の本文は、勢至観の初めに「佛告阿難及韋提希」を置き(脚注「〔佛告…韋提希〕-【三】【敦】,流布本亦同」)、終わりを「作此觀者,名為觀見大勢至菩薩;是為觀大勢至色身相。觀此菩薩者名第十一觀,除無數劫阿僧祇生死之罪;……此觀成已,名為具足觀觀世音及大勢至。作是觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀。」として、次の「佛告阿難及韋提希」で普観に入ります。流布本は、「名為觀見」の「為觀」を「為正觀若他觀者名為邪觀」に作り(脚注「為觀流布本作為正觀若他觀者名為邪觀十一字」)、「相」を「想」に作って「觀此菩薩者」の位置を移し(脚注「相流布本作想,及相下無觀此菩薩者五字」「觀下流布本有觀此菩薩者五字」)、末尾の正観・邪観の句と次の「佛告阿難及韋提希」を欠きます(脚注「〔作是…韋提希〕二十四字-【三】【敦】,流布本亦同」)。そのため流布本では、観音観の後の「佛告阿難」の言葉が、勢至観を通って普観の終わりまで続きます。また「圓光面各百二十五由旬」を、大正蔵の本文は「圓光面各二百二十五由旬」に作ります(脚注「〔二〕-【三】,流布本亦同」)。量の名が違いますが、この訳は比べません。

\[ \text{流布本} :\ \text{告}_{\text{阿難}}\bigl(\langle \text{觀音觀の益},\ \text{觀}_{11},\ \text{觀}_{12} \rangle\bigr), \qquad \text{大正蔵の本文} :\ \text{告}_{\text{阿難}}(\text{觀音觀の益}),\ \ \text{告}_{\text{阿難・韋提希}}(\text{觀}_{11}),\ \ \text{告}_{\text{阿難・韋提希}}(\text{觀}_{12}) \]

十 第十二・第十三観――普観・雑想観

第十二観(普観)では、行者が自ら極楽に生まれ、蓮華の中に坐して、その蓮華が開き、仏・菩薩を見て法を聞くところまでを想います。第十三観(雑想観)では、凡夫の心の力では及ばない仏身に代えて、池の上の丈六の像を観ることが説かれます。

原文 見此事時當起自心,生於西方極樂世界,於蓮華中結跏趺坐,作蓮華合想,作蓮華開想。蓮華開時,有五百色光來照身想;眼目開想,見佛菩薩滿虛空中,水、鳥、樹林及與諸佛,所出音聲,皆演妙法,與十二部經合。出定之時憶持不失。見此事已,名見無量壽佛極樂世界。是為普觀想,名第十二觀。無量壽佛化身無數,與觀世音、大勢至,常來至此行人之所。」(大正12・344b)

書き下し この事を見る時、まさに自心を起して、西方極楽世界に生じて、蓮華の中において結跏趺坐し、蓮華の合する想をなし、蓮華の開くる想をなすべし。蓮華の開くる時、五百色の光ありて来りて身を照らす想、眼目の開くる想をなして、仏・菩薩の虚空の中に満ちたまへるを見よ。水・鳥・樹林および諸仏の出したまふところの音声、みな妙法を演べて、十二部経と合す。出定の時、憶持して失はざれ。この事を見をはるを、無量寿仏の極楽世界を見ると名づく。これを普観想とし、第十二の観と名づく。無量寿仏の化身無数にして、観世音・大勢至とともに、つねにこの行人の所に来至したまふ」と。

訳 このことを見るときには、自らの心をおこして、西方の極楽世界に生まれ、蓮華の中で結跏趺坐していると想い、蓮華が閉じていると想い、蓮華が開くと想いなさい。蓮華が開くとき、五百色の光が来て身を照らすと想い、眼が開くと想って、仏と菩薩が虚空に満ちておられるのを見なさい。水と鳥と樹林、そして仏たちの出される声が、みな妙なる法を説き、それは十二部経と合っています。定から出たときにも、それを心に保って失わないようにしなさい。このことを見終えたことを、無量寿仏の極楽世界を見る、と名づけます。これを普観想とし、第十二の観と名づけます。無量寿仏の化身は数えきれず、観世音・大勢至とともに、いつもこの行者のもとに来られます。」

原文 佛告阿難及韋提希:「若欲至心生西方者,先當觀於一丈六像在池水上。如先所說,無量壽佛身量無邊,非是凡夫心力所及。然彼如來宿願力故,有憶想者必得成就。但想佛像得無量福,何況觀佛具足身相!阿彌陀佛神通如意,於十方國變現自在。或現大身滿虛空中;或現小身丈六八尺。所現之形皆真金色,圓光化佛及寶蓮花,如上所說。觀世音菩薩及大勢至,於一切處身同眾生,但觀首相,知是觀世音,知是大勢至,此二菩薩助阿彌陀佛,普化一切。是為雜想觀,名第十三觀。作是觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀。」(大正12・344b–344c)

書き下し 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「もし至心に西方に生ぜんと欲はんものは、まづまさに一の丈六の像の池水の上に在すを観ずべし。先に説くところのごとく、無量寿仏の身量は無辺にして、これ凡夫の心力の及ぶところにあらず。しかるにかの如来の宿願力のゆゑに、憶想することあらんものは、かならず成就することを得。ただ仏像を想ふだに無量の福を得。いかにいはんや仏の具足せる身相を観ぜんをや。阿弥陀仏は神通如意にして、十方の国において変現自在なり。あるいは大身を現じて虚空の中に満ち、あるいは小身を現じて丈六・八尺なり。現ずるところの形は、みな真金色なり。円光の化仏および宝蓮華は、上に説くところのごとし。観世音菩薩および大勢至は、一切処において身、衆生に同じ。ただ首の相を観じて、これ観世音と知り、これ大勢至と知る。この二菩薩、阿弥陀仏を助けて、あまねく一切を化す。これを雑想観とし、第十三の観と名づく。この観をなすをば名づけて正観とし、もし他観するをば名づけて邪観とす」と。

訳 仏は阿難と韋提希に告げられました。「心から西方に生まれたいと願う者は、まず、池の水の上におられる一丈六尺の像を観なさい。先に説いたように、無量寿仏の身の大きさは限りがなく、凡夫の心の力の及ぶところではありません。けれども、かの如来の宿願の力によって、心に想う者は、かならず成就することができます。ただ仏の像を想うだけでも量りしれない福を得ます。まして仏の具わった身の相を観る者は、なおさらです。阿弥陀仏は神通が思いのままで、十方の国々で自在に姿を変えて現れます。大きな身を現して虚空に満ちることもあり、小さな身を現して一丈六尺や八尺であることもあります。現れる姿は、みな真の金色で、円光の化仏と宝の蓮華は、上に説いたとおりです。観世音菩薩と大勢至は、あらゆる所で、衆生と同じ身をしています。ただ頭の相を観て、これは観世音、これは大勢至と知るのです。この二菩薩は阿弥陀仏を助けて、あまねくすべてを教え導きます。これを雑想観とし、第十三の観と名づけます。このように観ることを正観と名づけ、ほかの観かたをすることを邪観と名づけます。」

〔読み〕普観は、行者自身の往生を、蓮華の中に坐するところから、蓮華が開き、仏と菩薩を見、法を聞くところまで、順に想い描く観です。聞こえる声は「與十二部經合」とされます。第八観が照らし合わせを命じる(「令與修多羅合」)のに対し、ここでは合うことが述べられます。

\[ \text{生}(\text{自},\ \text{西方}) \to \text{蓮華合} \to \text{蓮華開} \to \text{光照身} \to \text{眼目開} \to \text{見}(\text{佛菩薩}) \to \text{聞}(\text{妙法}), \qquad \text{合}(\text{所聞音聲},\ \text{十二部經}) \]

〔異本〕「當起自心,生於西方極樂世界」を、大正蔵の本文は「當起想作心,自見生於西方極樂世界」に作ります(脚注「想作心自見=自心【三】【敦】*,流布本亦同」)。大正蔵の本文では、想いをおこして「自らが生まれるのを見る」、流布本では「自らの心をおこして生まれる」となります。また、この段のもう一つの観である雑想観の末の正観・邪観の句を、宋・元・明の三本と敦煌本は欠き、脚注は「*,流布本亦同」としますが、CBETA がこの位置を三本と敦煌本の読みとしてだけ符号化しているので、この訳は句を残しています(五の〔異本〕)。

\[ \text{流布本} :\ \text{起}(\text{自心}) \to \text{生}(\text{西方}), \qquad \text{大正蔵の本文} :\ \text{起}(\text{想}) \to \text{作心} \to \text{自見}\bigl(\text{生}(\text{西方})\bigr) \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕「無量壽佛身量無邊,非是凡夫心力所及」。仏身には、凡夫の心の力が及びません。A0 の「いかなる記号体系 L も、u′(虚空の余剰)を汲み尽くせない」に重ねて読めます。経はまず、池の上の丈六の像を観よと説き、その理由として、この及ばなさを挙げます。そして「然」の一字で続けて、この及ばなさを、行者の力ではなく如来の宿願力によって越えさせます。

\[ \neg\,\text{及}(\text{凡夫心力},\ \text{無量壽佛身量}), \qquad \text{宿願力}(\text{彼如來}) \;\Longrightarrow\; \forall x :\ \text{憶想}(x) \Rightarrow \text{必得成就}(x), \qquad \text{觀}(\text{一丈六像在池水上}) \]

〔読み〕「但想佛像得無量福,何況觀佛具足身相」。第十観と同じく、経の言う順序だけを ≺ で写します。また阿弥陀仏は、大きな身にも小さな身にも現れます。

\[ \text{想}(\text{佛像}) \Rightarrow \text{得無量福}, \qquad \text{想}(\text{佛像}) \prec \text{觀}(\text{佛具足身相}), \qquad \{\text{大身滿虛空中},\ \text{小身丈六八尺}\} \subseteq \text{現}(\text{阿彌陀佛}) \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕観音と勢至は「於一切處身同眾生」、あらゆる所で衆生と同じ身でいて、ただ頭の相でだけ見分けられます。第十二観では、化身の仏と二菩薩が「常來至此行人之所」と言われました。この二つを、A10 の (vii)「大悲闡提:W_Nash の全体最大化のために衆生と共にある帯域に留まる菩薩の存在様式」に重ねて読めます。ただし経が言うのは、衆生と同じ身で現れることと、行者のもとに来ることまでで、成仏を自ら後ろにとどめること(闡提)は言いません。なお「於一切處身同眾生」の区切りと「眾生」の指すものは、下の〔諸釈〕のとおり読みが分かれます。この重ね方のうち「身同眾生」の側は、訳のように続けて読み、「眾生」を広く衆生と取る場合のものです。善導の区切りでも、「眾生」をかの国の徒衆とする元照の読みでも、あてはまりません(「常來至此行人之所」の側は、区切りに左右されません)。式の ≈ は、首の相を除いて同じ身であることです。

\[ \forall b \in \{\text{觀世音},\ \text{大勢至}\}\ \forall p \in \text{一切處} :\ \text{身}(b,\ p) \approx \text{身}(\text{眾生},\ p)\ \ (\text{首相を除いて。「身同眾生」と続けて読む場合}), \qquad \forall t :\ \text{來至}(\text{化身・觀世音・大勢至},\ \text{行人},\ t)\ \ (\text{常}) \]

〔諸釈〕「於一切處身同眾生,但觀首相」をどこで区切るか、また「眾生」が何を指すかで、読みが分かれます。慧遠は「但觀」から次の段とし(「「但觀」已下,教人別之」)、その前の段は「觀音勢至於一切處身同眾生難以取別」を明かす、とします(大正37・182a)。この句は、身が衆生と同じなので見分けがたい、とも、身が同じなので衆生には見分けがたい、とも読めます。元照は「身同眾生」と続けて読み、「眾生」を、かの国の徒衆とします。観音・勢至の姿は、中・下の二輩とはまったく違うが、大菩薩たちとは紛れる、と言います(「身同眾生,即彼徒眾中下二輩形相全乖,諸大菩薩則有相濫」、大正37・299b)。善導は「眾生」から次の段とし、「身同」を、前の観に説いたとおりであることとして、仏が大きければ侍者も大きく、仏が小さければ侍者も小さい、と言います(「八、從觀世音菩薩已下,正明指同前觀。佛大侍者亦大,佛小侍者亦小。九、從眾生但觀首相已下,正明勸觀二別」、大正37・270a)。善導の区切りでは、「眾生」は「但觀首相」の主語です。

〔借・公理|刊行済|第1層 A5 自覚慈悲の同値性〕〔読み〕「此二菩薩助阿彌陀佛,普化一切」。経は勢至について「以智慧光普照一切」と言い(第十一観)、観音を「大悲觀世音菩薩」と呼びます(下品上生)。大悲と智慧の二菩薩が並んで一仏を助ける形を、A5 の経典的基礎の欄の「悲智双運」に重ねて読めます。A5 の本文の言う収束を、経は語りません。

\[ \text{助}(\text{觀世音}_{\text{大悲}},\ \text{阿彌陀佛}) \wedge \text{助}(\text{大勢至}_{\text{智慧光}},\ \text{阿彌陀佛}) \;\Longrightarrow\; \text{普化}(\text{一切}) \]

十一 第十四観――上輩(上品の三生)

ここから第十六観までの三つの観は、往生する者を上・中・下の三輩に分け、それぞれをさらに上生・中生・下生に分けて説きます。経は、九つのそれぞれについて、この世での行と往生の後の歩みを語り、中品下生を除く八つについて臨終の迎えを語ります。全体を表にすると次のとおりです(「」は経の言葉、そのほかはこの訳の要約)。

品 この世の行 臨終の迎え 蓮華の開くまで 往生の後
上品上生 三心を発す。また、慈心不殺・具諸戒行、読誦大乗方等経典、修行六念・回向発願の三種の衆生(回向発願のかかり方は下の〔読み〕) 阿弥陀如来・観音・勢至・無数の化仏ら。観音が金剛台を執る 記述なし(「如彈指頃,往生彼國」) 「聞已即悟無生法忍」
上品中生 「善解義趣,於第一義心不驚動,深信因果,不謗大乘」 阿弥陀仏・観音・勢至・千の化仏。紫金台 「經宿則開」 七日で不退転。「經一小劫得無生忍」
上品下生 「亦信因果,不謗大乘,但發無上道心」 阿弥陀仏・観音・勢至。金蓮華、五百の化仏 「一日一夜蓮花乃開」 「經三小劫得百法明門,住歡喜地」
中品上生 五戒・八戒斎・諸戒を保ち、「不造五逆,無眾過患」 阿弥陀仏と比丘たち。金色の光 「蓮花尋開」 「應時即得阿羅漢道」
中品中生 一日一夜、八戒斎・沙弥戒・具足戒のいずれかを保つ 阿弥陀仏と眷属。七宝の蓮華 「經於七日蓮花乃敷」 須陀洹を得、「經半劫已成阿羅漢」
中品下生 「孝養父母,行世仁慈」。臨終に、阿弥陀仏の国土と法蔵比丘の四十八願を聞く 記述なし 記述なし(「生經七日,遇觀世音及大勢至」) 「經一小劫,成阿羅漢」
下品上生 衆悪を造るが方等経典を謗らない。臨終に経の題名を聞き、合掌して「南無阿彌陀佛」と称える 化仏・化観音・化勢至 「經七七日蓮花乃敷」 「經十小劫,具百法明門,得入初地」
下品中生 戒を毀り、僧物を盗み、不浄説法。臨終に阿弥陀仏の十力威徳などを聞く 天華の上の化仏・菩薩 「經於六劫,蓮花乃敷」 「應時即發無上道心」
下品下生 「五逆、十惡,具諸不善」。臨終に「具足十念,稱南無阿彌陀佛」 日輪のような金蓮華 「滿十二大劫,蓮花方開」 「應時即發菩提之心」

〔読み〕蓮華の開くまでの時を、品の順に並べても、一つの物差しの上の順にはなりません。単位が宿・日・劫と異なり、記述のない品もあり、中品上生の「尋開」(ほどなく開く)は、上品下生の「一日一夜」より早いと読めます。この訳は、時を一つの数の列に直しません(序の約束の三)。慧遠も、中品上生について「中上生者,至即花開,與上上同。何故如是?此小乘中聖人往生,餘業雖劣,無漏淨心,故往即生」と注します(大正37・184a)。

\[ \tau(\text{品}) :\ \tau(\text{上中}) = \text{經宿},\ \ \tau(\text{上下}) = \text{一日一夜},\ \ \tau(\text{中上}) = \text{尋},\ \ \tau(\text{中中}) = \text{七日},\ \ \tau(\text{下上}) = \text{七七日},\ \ \tau(\text{下中}) = \text{六劫},\ \ \tau(\text{下下}) = \text{十二大劫} \]

〔異本〕大正蔵の本文は、上品上生の前に「凡生西方有九品人」の一句を置きますが、流布本はこれを欠きます(脚注「〔凡生西方有九品人〕-【三】【敦】,流布本亦同」)。そのため流布本の本文には、「九品」という語が一度も出てきません。九つは、「上品上生者」などの名と、「上輩生想」などの三つの観の名とで示されます。

\[ \text{品} = (\text{輩},\ \text{生}) \in \{\text{上},\ \text{中},\ \text{下}\}^2, \qquad \text{觀}_{14} = \text{上輩}\ (\text{輩} = \text{上}),\ \ \text{觀}_{15} = \text{中輩},\ \ \text{觀}_{16} = \text{下輩} \]

〔諸釈〕九品の人がどういう位の者かで、諸師の読みは大きく分かれます。

注釈 読み 注の言葉
慧遠『観無量寿経義疏』(大正37・182a) 上品は大乗の種性以上、中品は小乗の凡から聖まで戒を保つ者、下品は大乗の外凡で罪ある者。上上は四地以上の菩薩とする 「大乘人中,種性已上說為上品;小乘人中,從凡至聖持戒無犯說為中品;大乘人中,外凡有罪說為下品」「大乘人中,四地已上說為上上」
吉蔵『観無量寿経義疏』(大正37・244c) 上品上生の得る無生法忍を、七地の無生とする 「此是七地無生」
善導『観経疏』玄義分(大正37・247c–249b) 諸師の位の当て方を挙げて破り、九品はみな仏滅後の五濁の凡夫で、遇う縁の違いによって九品に分かれるとする 「總是佛去世後,五濁凡夫,但以遇緣有異,致令九品差別」「上品三人,是遇大凡夫。中品三人,是遇小凡夫。下品三人,是遇惡凡夫」
元照『観無量寿仏経義疏』(大正37・299c) 上の三品は、補処・不退・初心の大菩薩を摂める 「故上三品即攝補處不退初心諸大菩薩也」

\[ \begin{aligned} &\text{慧遠} :\ \text{上品} \subseteq \text{大乘・種性已上},\ \ \text{中品} \subseteq \text{小乘・從凡至聖持戒無犯},\ \ \text{下品} \subseteq \text{大乘・外凡有罪} \\ &\text{善導} :\ \forall q \in \text{九品} :\ q \subseteq \text{佛去世後五濁凡夫}, \qquad \text{差}(q) = \text{遇緣}\ (\text{大・小・惡}) \end{aligned} \]

原文 佛告阿難及韋提希:「上品上生者,若有眾生願生彼國者,發三種心,即便往生。何等為三?一者、至誠心。二者、深心。三者、迴向發願心。具三心者必生彼國。復有三種眾生,當得往生。何等為三?一者、慈心不殺,具諸戒行。二者、讀誦大乘方等經典。三者、修行六念,迴向發願願生彼國。具此功德,一日乃至七日,即得往生。(大正12・344c)

書き下し 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「上品上生といふは、もし衆生ありて、かの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して、すなはち往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。また三種の衆生ありて、まさに往生を得べし。なんらをか三つとする。一つには慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗方等経典を読誦す。三つには六念を修行し、回向発願して、かの国に生ぜんと願ず。この功徳を具すること、一日乃至七日にして、すなはち往生を得。

訳 仏は阿難と韋提希に告げられました。「上品上生とは、こうです。かの国に生まれたいと願う衆生が、三種の心をおこせば、すぐに往生します。三つとは何か。一つは至誠心、二つは深心、三つは回向発願心です。三つの心を具えた者は、かならずかの国に生まれます。また、三種の衆生が往生することができます。三つとは何か。一つは、慈しみの心で殺さず、もろもろの戒の行を具える者。二つは、大乗の方等経典を読誦する者。三つは、六念を修め行い、回向発願して、かの国に生まれたいと願う者です。この功徳を一日から七日のあいだ具えれば、すぐに往生することができます。

〔読み〕「具三心者必生彼國」。三心を具えることは、かならず生まれるための十分な条件として説かれます。手引きの 𝟙 で書けば、左が 1 なら右も 1 です。経は、三心が必要条件であること(三心を具えなければ生まれない)は言いません。

\[ \text{三心} = \{\text{至誠心},\ \text{深心},\ \text{迴向發願心}\}, \qquad \mathbf{1}\bigl[\forall h \in \text{三心} :\ \text{具}(x,\ h)\bigr] \;\le\; \mathbf{1}\bigl[\text{必生彼國}(x)\bigr] \]

〔諸釈〕三心のそれぞれが何であるかを、経は名を挙げるだけで説きません。諸師の読みは次のとおりです。

注釈 至誠心 深心 迴向發願心
慧遠(大正37・184c) 「是其實心,起行不虛名為誠心,又實求往亦名誠心」 「慇至心也,起行慇至名曰深心,求去慇至亦曰深心」 「謂迴己善向大菩提,又迴己善向彼國生,故名迴向」
善導(大正37・270c–272b) 「至者真,誠者實」。身口意の行は「必須真實心中作,不得外現賢善精進之相,內懷虛假」 「言深心者,即是深信之心也」。わが身が「罪惡生死凡夫」であることと、阿弥陀仏の四十八願が衆生を摂め受けることとを、ともに「決定深信」する(二種深信) 「以此自他所修善根,悉皆真實深信心中迴向願生彼國,故名迴向發願心也」

〔諸釈〕〔未照合〕親鸞は『教行信証』信巻で、善導のこの至誠心の文を訓み替え、内に虚仮を懐いているのだから、外に賢善精進の相を現してはならない、という意味に読んだことが広く知られています。上の表の善導の文の通常の読みでは、内を真実にして、外と内とを違えるな、という誡めです。この訳は親鸞の本文を照らし合わせていないので、〔未照合〕の札を付けます。

〔諸釈〕経が三心を説くのは、上品上生の段だけです(「發三種心」「具三心者」)。慧遠は、上品中生と上品下生にも三心を及ぼします(「上中生者,亦須先起三種之心,與上初同故更不論」「上下生者,亦復先起三種之心,與前相似」、大正37・183b)。善導は、九品の一つ一つに十一門を立て、その四つめを「辨定三心以為正因」とします(「就一一品中皆有此十一」、大正37・270c。中輩・下輩でも同じです、275a・276a)。そのうえで「三心既具,無行不成。願行既成若不生者,無有是處也。又此三心亦通攝定善之義,應知」と言い、定善にも通わせます(大正37・273b)。善導の言う定善は、日観から第十三観までです(「從日觀下至十三觀已來名為定善」、大正37・247b)。式の 說_經 は経が三心を説く所、及_慧遠・及_善導 は、それぞれの師が三心を及ぼす所です。

\[ \text{說}_{\text{經}}(\text{三心}) = \{(\text{上},\ \text{上})\}, \qquad \text{及}_{\text{慧遠}}(\text{三心}) \supseteq \{(\text{上},\ \text{上}),\ (\text{上},\ \text{中}),\ (\text{上},\ \text{下})\}, \qquad \text{及}_{\text{善導}}(\text{三心}) \supseteq \text{九品} \cup \{\text{觀}_1,\ \dots,\ \text{觀}_{13}\} \]

〔読み〕「復有三種眾生,當得往生」。三つめの「修行六念,迴向發願願生彼國」の「迴向發願」が、三つめにだけかかるのか、三つのすべてにかかるのかは、句読の置き方で変わります(原文の句読は CBETA のものです)。善導は「正明各各迴前所修之業,向所求處」と、三つのそれぞれが前に修めた業を振り向けると読みます(大正37・273c)。慧遠も「『迴向』已下,通用前三,願生彼國」と、回向は前の三つに通じるとします(大正37・184c)。ただし慧遠は、三つを上上生の一人が修める三業とし(「次修三業」)、そのあとに「後迴此善,欲生即生」と言います(大正37・183b)。

\[ \begin{aligned} &\text{種}_1 = \text{慈心不殺} \wedge \text{具諸戒行}, \qquad \text{種}_2 = \text{讀誦大乘方等經典}, \qquad \text{種}_3 = \text{修行六念} \\ &\text{CBETA の句読のままに} :\ \bigl(\text{種}_1(x) \vee \text{種}_2(x) \vee (\text{種}_3(x) \wedge \text{迴向發願}(x))\bigr) \Rightarrow \text{當得往生}(x) \\ &\text{善導} :\ \bigl((\text{種}_1(x) \vee \text{種}_2(x) \vee \text{種}_3(x)) \wedge \text{迴向發願}(x)\bigr) \Rightarrow \text{當得往生}(x) \\ &\text{慧遠} :\ \bigl(\text{慈心不殺} \wedge \text{具諸戒} \wedge \text{讀誦大乘修行六念}\bigr)(x) \wedge \text{迴此善}(x) \Rightarrow \text{欲生即生}(x) \end{aligned} \]

〔諸釈〕善導は、三つを一人が兼ねることについて、「或一人具上二,或一人具下二,或一人三種盡具。或有人三種無分者,名作著人皮畜生,非名人也。又不問具三不具三,迴盡得往生」と言います(大正37・274a)。三つのどれも持たない者をきびしく退けつつ、三つを具えるか否かは問わず、振り向ければみな往生する、と読みます。慧遠は、この三つを散善顕行縁の三福(三種の浄業)にあて(「此三猶上三種淨業」)、そのあて方を「具諸戒行是前文中第二業也;讀誦大乘乃至發願是前文中第三業也」と、経とは違う区切りで示します(大正37・184c)。九品を総じて論ずる所でも、「一者慈心不殺,是上初業;二具諸戒,是第二業;三讀誦大乘修行六念,是第三業」と、同じ区切りで数えます(大正37・183b)。

\[ \begin{aligned} &\text{善導} :\ \text{具}(x) \subseteq \{\text{種}_1,\ \text{種}_2,\ \text{種}_3\}, \qquad |\text{具}(x)| \ge 1 \wedge \text{迴向}(x) \;\Longrightarrow\; \text{得往生}(x) \\ &\text{慧遠} :\ \text{慈心不殺} \;\mid\; \text{具諸戒} \;\mid\; \text{讀誦大乘修行六念} \qquad (\text{此三猶上三種淨業}) \end{aligned} \]

〔諸釈〕「具此功德,一日乃至七日,即得往生」の一日から七日を、善導は修める時の長短と読み、「正明修行時節延促。上盡一形,下至一日、一時、一念等」と注します(大正37・273c)。式の d は、功徳を具える時の長さです。

\[ \text{經} :\ \text{一日} \le d \le \text{七日}, \qquad \text{善導} :\ \text{一念} \le d \le \text{一形}\ \ (\text{上盡一形,下至一日、一時、一念}) \]

〔借・定義寄り(整理表の勧告)|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕三心の三つめ、迴向發願心。整理表は、G-1 の地位の欄の注に「多者検分の連鎖・回向・供養の再定義はすべてG-1の実装」と記します。前に修めた功徳(前の縁起が結んだ像)を振り向けることが、かの国に生まれたいという願い(次の縁起への問い)になる、と重ねて読めます。善導は、もう一つの回向も挙げます。「又言迴向者,生彼國已還起大悲,迴入生死教化眾生,亦名迴向也」(大正37・273b)。生まれた後のこの振り向けまで含めれば、G-1 の射の合成が二段つながります。経がこの句で言うのは一つめの振り向けまでで、二つめは善導の読みです。

\[ \begin{aligned} &g(i_n) = c_{n+1} :\quad i_n = \text{此功德}(x), \quad g = \text{迴向}, \quad c_{n+1} = \text{願生彼國}(x) \\ &\text{善導の二つめの迴向} :\quad i_{n+1} = \text{生彼國}(x), \quad g(i_{n+1}) = c_{n+2} = \text{還起大悲,迴入生死教化眾生} \end{aligned} \]

原文 生彼國時,此人精進勇猛故,阿彌陀如來與觀世音、大勢至,無數化佛,百千比丘,聲聞大眾,無數諸天,七寶宮殿,觀世音菩薩執金剛臺,與大勢至菩薩至行者前。阿彌陀佛放大光明,照行者身,與諸菩薩授手迎接。觀世音、大勢至與無數菩薩,讚歎行者,勸進其心。行者見已,歡喜踊躍。自見其身乘金剛臺,隨從佛後,如彈指頃,往生彼國。生彼國已,見佛色身眾相具足,見諸菩薩色相具足。光明寶林,演說妙法。聞已即悟無生法忍。經須臾間歷事諸佛,遍十方界,於諸佛前次第授記。還到本國,得無量百千陀羅尼門,是名上品上生者。(大正12・344c–345a)

書き下し かの国に生ずる時、この人は精進勇猛なるがゆゑに、阿弥陀如来は、観世音・大勢至、無数の化仏、百千の比丘、声聞の大衆、無数の諸天、七宝の宮殿とともにして、観世音菩薩は金剛台を執り、大勢至菩薩とともに行者の前に至りたまふ。阿弥陀仏は大光明を放ちて行者の身を照らし、もろもろの菩薩とともに手を授けて迎接したまふ。観世音・大勢至は無数の菩薩とともに行者を讃歎して、その心を勧進したまふ。行者見をはりて歓喜踊躍す。みづからその身を見れば、金剛台に乗じて、仏の後に随従し、弾指のあひだのごとくに、かの国に往生す。かの国に生じをはりて、仏の色身の衆相具足したまへるを見たてまつり、もろもろの菩薩の色相具足せるを見る。光明の宝林、妙法を演説す。聞きをはりて、すなはち無生法忍を悟る。須臾のあひだを経て諸仏に歴事し、十方界に遍して、諸仏の前において次第に授記せらる。本国に還り到りて、無量百千の陀羅尼門を得。これを上品上生のものと名づく。

訳 かの国に生まれるときには、この人は精進が勇猛であるので、阿弥陀如来が、観世音と大勢至、数えきれない化仏、百千の比丘と声聞の大衆、数えきれない天たち、そして七宝の宮殿とともに来られ、観世音菩薩は金剛の台を手に執って、大勢至菩薩とともに行者の前に至ります。阿弥陀仏は大いなる光明を放って行者の身を照らし、菩薩たちとともに手をさしのべて迎えられます。観世音と大勢至は、数えきれない菩薩たちとともに行者をほめたたえ、その心を励まします。行者はこれを見て、躍りあがって喜びます。見ると、自分の身は金剛の台に乗っていて、仏の後に従い、指をはじくほどの間に、かの国に往生します。かの国に生まれると、仏の色身がもろもろの相をすべて具えておられるのを見、菩薩たちの色相もすべて具わっているのを見ます。光明の宝の林が、妙なる法を説いています。それを聞くと、すぐに無生法忍を悟ります。わずかの間に仏たちに次々と仕え、十方の世界をめぐって、仏たちの前で順に授記を受けます。本国に帰り着いて、量りしれない百千の陀羅尼門を得ます。これを上品上生の者と名づけます。

〔読み〕上品上生の者の臨終から得益までを、経の順に並べます。迎えの大きさの理由を、経は「此人精進勇猛故」と言い、善導はここを「重顯其行指出決定精勤者,亦是校量功德強弱」と注します(大正37・274a)。

\[ \begin{aligned} &\text{精進勇猛}(x) \Rightarrow \text{來迎}(x) \to \text{乘}(\text{金剛臺}) \to \text{往生}\ (\text{如彈指頃}) \\ &\quad \to \text{見}(\text{佛色身眾相具足}) \to \text{聞}(\text{妙法}) \to \text{悟}(\text{無生法忍}) \to \text{歷事諸佛} \to \text{授記} \to \text{得}(\text{無量百千陀羅尼門}) \end{aligned} \]

〔異本〕「迴向發願願生彼國」を、大正蔵の本文は「迴向發願生彼佛國」に作ります(脚注「願+(願)【元】【明】【敦】,流布本亦同」「〔佛〕-【元】【明】【敦】,流布本亦同」)。大正蔵の本文は、回向発願してかの仏国に生ずる、と生まれることを言い、流布本は、回向発願してかの国に生ぜんと願ず、と願うことを言います。このほか、字の違いだけのものが四つあります。大正蔵の本文は、「與觀世音、大勢至」の間に「及」を置き(脚注「〔及〕-【元】【明】【敦】,流布本亦同*」)、「無數諸天」を「無量諸天」に(「量流布本作數」)、「次第授記」を「次第受記」に(八の〔異本〕に挙げた脚注「受=授【三】,流布本亦同*」の「*」の及ぶ所)、「還到本國」を「還至本國」に(「至流布本作到」)作ります。

原文 「上品中生者,不必受持讀誦方等經典。善解義趣,於第一義心不驚動,深信因果,不謗大乘;以此功德,迴向願求生極樂國。行此行者命欲終時,阿彌陀佛與觀世音、大勢至,無量大眾,眷屬圍繞,持紫金臺至行者前,讚言:『法子!汝行大乘,解第一義,是故我今來迎接汝。』與千化佛一時授手。行者自見坐紫金臺,合掌叉手,讚歎諸佛,如一念頃,即生彼國七寶池中。此紫金臺如大寶花,經宿則開。行者身作紫磨金色,足下亦有七寶蓮華。佛及菩薩俱時放光明,照行者身,目即開明。因前宿習,普聞眾聲,純說甚深第一義諦。即下金臺,禮佛合掌讚歎世尊。經於七日,應時即於阿耨多羅三藐三菩提,得不退轉。應時即能飛行遍至十方,歷事諸佛,於諸佛所修諸三昧。經一小劫得無生忍,現前授記,是名上品中生者。(大正12・345a)

書き下し 「上品中生といふは、かならずしも方等経典を受持し読誦せず。よく義趣を解り、第一義において心驚動せず、深く因果を信じて、大乗を謗らず。この功徳をもつて、回向して極楽国に生ぜんと願求す。この行を行ずるもの、命終らんと欲する時、阿弥陀仏は、観世音・大勢至、無量の大衆とともに、眷属に囲繞せられ、紫金の台を持ちて行者の前に至りて、讃めてのたまはく、『法子、なんぢ大乗を行じて第一義を解る。このゆゑに、われいま来りてなんぢを迎接す』と。千の化仏とともに一時に手を授けたまふ。行者みづから見れば紫金の台に坐せり。合掌叉手して諸仏を讃歎す。一念のあひだのごとくに、すなはちかの国の七宝の池の中に生ず。この紫金の台は大宝花のごとし。宿を経てすなはち開く。行者の身は紫磨金色となり、足の下にもまた七宝の蓮華あり。仏および菩薩、倶時に光明を放ちて行者の身を照らしたまふに、目すなはち開けて明らかなり。前の宿習によりて、あまねく衆の声を聞くに、もつぱら甚深の第一義諦を説く。すなはち金台より下りて、仏を礼し、合掌して世尊を讃歎す。七日を経て、時に応じてすなはち阿耨多羅三藐三菩提において不退転を得。時に応じてすなはちよく飛行して遍く十方に至り、諸仏に歴事して、諸仏の所においてもろもろの三昧を修す。一小劫を経て無生忍を得、現前に授記せらる。これを上品中生のものと名づく。

訳 「上品中生とは、こうです。この者は、かならずしも方等経典を受持し読誦するわけではありませんが、その教えの意味をよく理解し、第一義に対して心が驚き揺らぐことがなく、因果を深く信じて、大乗を謗りません。この功徳を振り向けて、極楽の国に生まれたいと願い求めます。この行を行う者の命が終わろうとするとき、阿弥陀仏は、観世音・大勢至と、量りしれない大衆とともに、眷属に囲まれ、紫金の台を持って行者の前に来られ、ほめて言われます。『法の子よ、あなたは大乗を行い、第一義を理解した。それゆえ、私はいま来てあなたを迎えるのだ。』そして千の化仏とともに、一斉に手をさしのべられます。行者が見ると、自分は紫金の台に坐っています。合掌し手を組んで、仏たちをほめたたえ、一念ほどの間に、かの国の七宝の池の中に生まれます。この紫金の台は大きな宝の花のようで、一夜を経て開きます。行者の身は紫磨金の色となり、足の下にも七宝の蓮華があります。仏と菩薩がともに光明を放って行者の身を照らすと、目が開いて明らかに見えるようになります。以前からの習いによって、あまねくもろもろの声を聞くと、それはひたすら甚だ深い第一義諦を説いています。そこで金の台から下りて、仏を礼拝し、合掌して世尊をほめたたえます。七日を経て、そのときただちに阿耨多羅三藐三菩提において不退転を得ます。そのときただちに飛んで十方のすみずみに至り、仏たちに次々と仕え、仏たちのもとでもろもろの三昧を修めます。一小劫を経て無生忍を得、目の前で授記を受けます。これを上品中生の者と名づけます。

原文 「上品下生者,亦信因果,不謗大乘,但發無上道心,以此功德,迴向願求生極樂國。行者命欲終時,阿彌陀佛及觀世音、大勢至,與諸眷屬持金蓮華,化作五百化佛,來迎此人。五百化佛一時授手,讚言:『法子!汝今清淨,發無上道心,我來迎汝。』見此事時,即自見身坐金蓮花。坐已華合,隨世尊後,即得往生七寶池中。一日一夜蓮花乃開,七日之中乃得見佛。雖見佛身,於眾相好心不明了,於三七日後乃了了見。聞眾音聲,皆演妙法。遊歷十方,供養諸佛。於諸佛前聞甚深法,經三小劫得百法明門,住歡喜地。是名上品下生者。是名上輩生想,名第十四觀。作是觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀。」(大正12・345a–345b)

書き下し 「上品下生といふは、また因果を信じ、大乗を謗らず、ただ無上道心を発す。この功徳をもつて、回向して極楽国に生ぜんと願求す。行者命終らんと欲する時、阿弥陀仏および観世音・大勢至、もろもろの眷属とともに金蓮華を持ち、五百の化仏を化作して、来りてこの人を迎へたまふ。五百の化仏、一時に手を授けて、讃めてのたまはく、『法子、なんぢいま清浄にして、無上道心を発せり。われ来りてなんぢを迎ふ』と。この事を見る時、すなはちみづから身を見れば、金蓮花に坐せり。坐しをはりて華合し、世尊の後に随ひて、すなはち七宝の池の中に往生することを得。一日一夜にして蓮花すなはち開く。七日のうちにすなはち仏を見たてまつることを得。仏身を見たてまつるといへども、もろもろの相好において心明了ならず。三七日の後において、すなはち了了に見たてまつる。もろもろの音声を聞くに、みな妙法を演ぶ。十方に遊歴して諸仏を供養す。諸仏の前において甚深の法を聞き、三小劫を経て百法明門を得、歓喜地に住す。これを上品下生のものと名づく。これを上輩生想と名づけ、第十四の観と名づく。この観をなすをば名づけて正観とし、もし他観するをば名づけて邪観とす」と。

訳 「上品下生とは、こうです。この者もまた因果を信じ、大乗を謗らず、ただ無上道心をおこします。この功徳を振り向けて、極楽の国に生まれたいと願い求めます。行者の命が終わろうとするとき、阿弥陀仏と観世音・大勢至は、眷属たちとともに金の蓮華を持ち、五百の化仏を現し出して、この人を迎えに来られます。五百の化仏は一斉に手をさしのべ、ほめて言われます。『法の子よ、あなたはいま清らかで、無上道心をおこした。私は来てあなたを迎えるのだ。』このことを見たとき、見ると、自分の身は金の蓮華に坐っています。坐り終えると華は閉じ、世尊の後に従って、七宝の池の中に往生することができます。一日一夜して、蓮華はようやく開きます。七日のうちに、ようやく仏を見ることができます。仏の身を見ても、もろもろの相好は心にはっきりしません。三七日の後に、ようやくはっきりと見ます。もろもろの音声を聞くと、みな妙なる法を説いています。十方をめぐって、仏たちを供養します。仏たちの前で甚だ深い法を聞き、三小劫を経て百法明門を得、歓喜地に住します。これを上品下生の者と名づけます。これを上輩生想と名づけ、第十四の観と名づけます。このように観ることを正観と名づけ、ほかの観かたをすることを邪観と名づけます。」

〔読み〕上輩の三生の、この世の行を並べます。上品中生は「不必受持讀誦方等經典」と、上品上生の行の一つをかならずしも求めず、上品下生は「亦信因果,不謗大乘,但發無上道心」と言います。上品中生と上品下生の行は、一方が他方を含む形になっていません。重なるのは「不謗大乘」と、功徳を振り向けて極楽国に生まれたいと願い求めること(「以此功德,迴向願求生極樂國」)で、因果の信は、上品中生では「深信」、上品下生では「亦信」です。また上品下生には、上品中生に言われない「發無上道心」があります。この三生をまとめて、経は「上輩生想」と名づけ、第十四の観とします。

\[ \begin{aligned} &\text{行}_{(\text{上},\,\text{中})} = \text{善解義趣} \wedge \text{於第一義心不驚動} \wedge \text{深信因果} \wedge \text{不謗大乘} \\ &\text{行}_{(\text{上},\,\text{下})} = \text{信因果} \wedge \text{不謗大乘} \wedge \text{發無上道心} \\ &\text{行}_q(x) \wedge \text{迴向願求生極樂國}(x) \;\Longrightarrow\; \text{來迎}(x) \qquad \bigl(q = (\text{上},\ \text{中}),\ (\text{上},\ \text{下})\bigr) \\ &\text{觀}_{14} = \text{上輩生想} :\ \{(\text{上},\ \text{上}),\ (\text{上},\ \text{中}),\ (\text{上},\ \text{下})\}, \qquad 14 \in K_{\text{流布}} \end{aligned} \]

〔読み〕上輩の三生のどれでも、迎えは行者の行を挙げてなされます。上品上生では経の地の文が「此人精進勇猛故」と言い、上品中生では仏が「汝行大乘,解第一義,是故我今來迎接汝」と言い、上品下生では化仏が「汝今清淨,發無上道心,我來迎汝」と言います。

\[ (\text{上},\ \text{上}) :\ \text{精進勇猛} \xrightarrow{\ \text{故}\ } \text{來迎}, \qquad (\text{上},\ \text{中}) :\ \text{行大乘} \wedge \text{解第一義} \xrightarrow{\ \text{是故}\ } \text{來迎}, \qquad (\text{上},\ \text{下}) :\ \text{今清淨} \wedge \text{發無上道心} \to \text{來迎} \]

〔読み〕上品下生の者は、往生してすぐには仏をはっきりとは見ません。経は、見えかたを段階に分けて語ります。

\[ \text{蓮花乃開}\ (\text{一日一夜}) \to \text{得見佛}\ (\text{七日之中}) \to \text{見佛身} \wedge \neg\,\text{明了}(\text{眾相好}) \to \text{了了見}\ (\text{三七日後}) \]

〔諸釈〕上輩の三生がどの位の菩薩かについて、善導が挙げる諸師の説と、慧遠の説は次のとおりです(善導の説は十一の初めの〔諸釈〕の表)。どちらも、往生の後に得るもの(経の言葉)から、往生の前の位を推して知ります。

品 諸師(善導の引くところ、大正37・247c) 慧遠(大正37・182a–b)
上品上生 「四地至七地已來菩薩」。理由は「由到彼即得無生忍故」 「四地已上說為上上,生彼即得無生忍」
上品中生 「初地至四地已來菩薩」。理由は「由到彼經一小劫得無生忍故」 「初二三地信忍菩薩說為上中,經說生彼過一小劫得無生故」
上品下生 「種性以上至初地已來菩薩」。理由は「由到彼經三小劫始入初地故」 「種性、解行說為上下,經說此人過三小劫得百法明,到初地故」

善導は、華厳経などを引いて、初地から七地の菩薩には分段の苦がなく、韋提希に請うてもらって安楽国に生まれることを求める理由がない、と論じ、「以斯文證,諸師所說,豈非錯也」と退けます(大正37・248a)。式の ⊢ は、左から右を推して知ること(この段だけの記号)です。

\[ \text{諸師・慧遠} :\ \text{得益}(q) \vdash \text{位}(q), \qquad \text{善導} :\ \forall q \in \text{九品} :\ q \subseteq \text{佛去世後五濁凡夫} \]

〔諸釈〕慧遠は、『地持』が初地から八地まで「一大阿僧祇劫」を要すると説くのに、この経が「一小劫」で無生忍を得ると説く食い違いを、三つの義で会通します。その一つめ「時劫不同」では、華厳経を引いて「娑婆一劫當無量壽一日一夜,彼中一劫當此娑婆無量無邊阿僧祇劫」と言い、「《觀經》就彼彌陀國界長劫為言,故說一劫得無生忍」とします(大正37・182a)。劫という単位の長さが国によって違う、という読みです。この訳が十一の初めで、蓮華の開くまでの時を一つの物差しに並べなかったことと、向きを同じくします。

\[ \text{慧遠の引く華嚴} :\ \text{一劫}_{\text{娑婆}} = \text{一日一夜}_{\text{無量壽}}, \qquad \text{一劫}_{\text{彼}} = \text{無量無邊阿僧祇劫}_{\text{娑婆}} \]

〔異本〕上品中生では、大正蔵の本文は、「與觀世音、大勢至」の間に「及」を置き(上の〔異本〕に挙げた脚注「〔及〕-【元】【明】【敦】,流布本亦同*」の「*」の及ぶ所)、「經宿則開」を「經宿即開」に(「即=則【三】,流布本亦同」)、「俱時放光明」を「俱放光明」に(「俱放=俱時【三】,俱時放【敦】,流布本亦同」)、「飛行遍至十方」を「飛至十方」に(「飛+(行遍)【三】,流布本亦同」)、「得無生忍」を「得無生法忍」に(「〔法〕-【三】【敦】,流布本亦同」)、「現前授記」を「現前受記」に(八の〔異本〕の脚注の「*」の及ぶ所)作ります。上品下生では、「行者命欲終時」を「彼行者命欲終時」に(「〔彼〕-【三】【敦】,流布本亦同」)、「及觀世音、大勢至」を「及觀世音并大勢至」に(「〔并〕-【元】【明】【敦】,流布本亦同」)作ります。いずれも意味は変わりません。第十四観の末の正観・邪観の句を残す理由は、五の〔異本〕に記しました。

十二 第十五観――中輩(中品の三生)

中輩の三生の行は、戒を保つこと(中品上生・中品中生)と、父母への孝養と世の仁慈(中品下生)です。往生の後には、四諦などの法を聞いて、阿羅漢の果に至ります。

原文 佛告阿難及韋提希:「中品上生者,若有眾生受持五戒,持八戒齋,修行諸戒,不造五逆,無眾過患;以此善根,迴向願求生於西方極樂世界。臨命終時,阿彌陀佛與諸比丘,眷屬圍繞,放金色光至其人所,演說苦、空、無常、無我,讚歎出家得離眾苦。行者見已,心大歡喜。自見己身坐蓮花臺,長跪合掌為佛作禮。未舉頭頃即得往生極樂世界,蓮花尋開。當華敷時,聞眾音聲讚歎四諦,應時即得阿羅漢道,三明、六通、具八解脫;是名中品上生者。(大正12・345b)

書き下し 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「中品上生といふは、もし衆生ありて、五戒を受持し、八戒斎を持ち、諸戒を修行して、五逆を造らず、もろもろの過患なし。この善根をもつて、回向して西方極楽世界に生ぜんと願求す。命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの比丘とともに、眷属に囲繞せられて、金色の光を放ちて、その人の所に至りて、苦・空・無常・無我を演説し、出家して衆苦を離るることを得るを讃歎したまふ。行者見をはりて、心大きに歓喜す。みづから己が身を見れば、蓮花の台に坐せり。長跪合掌して仏のために礼をなす。いまだ頭を挙げざるあひだに、すなはち極楽世界に往生することを得て、蓮花尋いで開く。華の敷くる時に当りて、もろもろの音声の四諦を讃歎するを聞き、時に応じてすなはち阿羅漢道を得、三明・六通ありて、八解脱を具す。これを中品上生のものと名づく。

訳 仏は阿難と韋提希に告げられました。「中品上生とは、こうです。五戒を受け保ち、八戒斎を保ち、もろもろの戒を修め行って、五逆の罪を造らず、もろもろの過ちのない衆生が、この善根を振り向けて、西方の極楽世界に生まれたいと願い求めます。命が終わろうとするとき、阿弥陀仏が、比丘たちとともに、眷属に囲まれて、金色の光を放ってその人のもとに来られ、苦・空・無常・無我を説き、出家してもろもろの苦しみを離れることをほめたたえられます。行者はこれを見て、心から大いに喜びます。見ると、自分の身は蓮華の台に坐っています。ひざまずいて合掌し、仏に礼拝します。頭を上げないうちに、極楽世界に往生し、蓮華はほどなく開きます。華が開くとき、もろもろの声が四諦をほめたたえるのを聞き、そのときただちに阿羅漢の道を得て、三明と六通があり、八解脱を具えます。これを中品上生の者と名づけます。

原文 「中品中生者,若有眾生,若一日一夜受持八戒齋,若一日一夜持沙彌戒,若一日一夜持具足戒,威儀無缺。以此功德,迴向願求生極樂國。戒香薰修,如此行者命欲終時,見阿彌陀佛與諸眷屬放金色光,持七寶蓮花至行者前,行者自聞空中有聲,讚言:『善男子!如汝善人,隨順三世諸佛教故,我來迎汝。』行者自見坐蓮花上,蓮花即合,生於西方極樂世界。在寶池中,經於七日蓮花乃敷。花既敷已,開目合掌,讚歎世尊。聞法歡喜,得須陀洹,經半劫已成阿羅漢;是名中品中生者。(大正12・345b–345c)

書き下し 「中品中生といふは、もし衆生ありて、もしは一日一夜八戒斎を受持し、もしは一日一夜沙弥戒を持ち、もしは一日一夜具足戒を持ちて、威儀欠くることなし。この功徳をもつて、回向して極楽国に生ぜんと願求す。戒香に薫修せる、かくのごとき行者は、命終らんと欲する時、阿弥陀仏の、もろもろの眷属とともに金色の光を放ち、七宝の蓮花を持ちて行者の前に至りたまふを見る。行者みづから聞けば、空中に声ありて、讃めていはく、『善男子、なんぢがごとき善人は、三世の諸仏の教に随順するがゆゑに、われ来りてなんぢを迎ふ』と。行者みづから見れば蓮花の上に坐せり。蓮花すなはち合して、西方極楽世界に生ず。宝池の中にありて、七日を経て蓮花すなはち敷く。花すでに敷けをはりて、目を開き合掌して世尊を讃歎す。法を聞きて歓喜し、須陀洹を得、半劫を経をはりて阿羅漢と成る。これを中品中生のものと名づく。

訳 「中品中生とは、こうです。一日一夜のあいだ八戒斎を受け保つか、一日一夜のあいだ沙弥戒を保つか、一日一夜のあいだ具足戒を保つかして、ふるまいに欠けるところのない衆生が、この功徳を振り向けて、極楽の国に生まれたいと願い求めます。戒の香りに薫じられて修めた、このような行者は、命が終わろうとするとき、阿弥陀仏が眷属たちとともに金色の光を放ち、七宝の蓮華を持って行者の前に来られるのを見ます。行者は、空中に声があって、こうほめるのを聞きます。『善き男子よ、あなたのような善い人は、三世の仏たちの教えに従ったので、私は来てあなたを迎えるのだ。』行者が見ると、自分は蓮華の上に坐っています。蓮華はすぐに閉じて、西方の極楽世界に生まれます。宝の池の中にあって、七日を経て蓮華はようやく開きます。華が開くと、目を開き合掌して、世尊をほめたたえます。法を聞いて喜び、須陀洹を得て、半劫を経て阿羅漢と成ります。これを中品中生の者と名づけます。

原文 「中品下生者,若有善男子、善女人,孝養父母,行世仁慈,此人命欲終時,遇善知識為其廣說阿彌陀佛國土樂事,亦說法藏比丘四十八願。聞此事已,尋即命終。譬如壯士屈伸臂頃,即生西方極樂世界。生經七日,遇觀世音及大勢至,聞法歡喜。經一小劫,成阿羅漢。是名中品下生者。是名中輩生想,名第十五觀。作是觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀。」(大正12・345c)

書き下し 「中品下生といふは、もし善男子・善女人ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ぜん。この人、命終らんと欲する時、善知識の、それがために広く阿弥陀仏の国土の楽事を説き、また法蔵比丘の四十八願を説くに遇ふ。この事を聞きをはりて、尋いですなはち命終る。たとへば壮士の臂を屈伸するあひだのごとくに、すなはち西方極楽世界に生ず。生じて七日を経て、観世音および大勢至に遇ひたてまつり、法を聞きて歓喜す。一小劫を経て阿羅漢と成る。これを中品下生のものと名づく。これを中輩生想と名づけ、第十五の観と名づく。この観をなすをば名づけて正観とし、もし他観するをば名づけて邪観とす」と。

訳 「中品下生とは、こうです。善男子・善女人が、父母に孝養を尽くし、世の仁慈を行うとします。この人の命が終わろうとするとき、善知識に出会い、その人のために阿弥陀仏の国土の楽しいありさまを広く説き、また法蔵比丘の四十八願を説いてもらいます。これを聞き終えると、ほどなく命が終わります。力の強い者が臂を曲げ伸ばすほどの間に、西方の極楽世界に生まれます。生まれて七日を経て、観世音と大勢至に出会い、法を聞いて喜びます。一小劫を経て、阿羅漢と成ります。これを中品下生の者と名づけます。これを中輩生想と名づけ、第十五の観と名づけます。このように観ることを正観と名づけ、ほかの観かたをすることを邪観と名づけます。」

〔読み〕中輩の三生の、この世の行と、生まれるまでを並べます。中品上生と中品中生は、上輩の三生と同じく、功徳(善根)を振り向けて生まれたいと願い求め、仏の迎えを受けます。中品下生の段には、その二つがどちらもありません。この段で、臨終から往生までの間に語られるのは、善知識の説く言葉と、それを聞くことです。

\[ \begin{aligned} &\text{行}_{(\text{中},\,\text{上})} = \text{受持五戒} \wedge \text{持八戒齋} \wedge \text{修行諸戒} \wedge \text{不造五逆} \wedge \text{無眾過患} \\ &\text{行}_{(\text{中},\,\text{中})} = \bigl(\text{受持八戒齋} \vee \text{持沙彌戒} \vee \text{持具足戒}\bigr)_{\text{一日一夜}} \wedge \text{威儀無缺} \\ &\text{行}_{(\text{中},\,\text{下})} = \text{孝養父母} \wedge \text{行世仁慈} \\ &q = (\text{中},\ \text{上}),\ (\text{中},\ \text{中}) :\quad \text{行}_q(x) \wedge \text{迴向願求}(x) \;\Longrightarrow\; \text{來迎}(x) \\ &q = (\text{中},\ \text{下}) :\quad \text{行}_q(x) \wedge \text{遇善知識}(x) \wedge \text{聞}(x,\ \text{阿彌陀佛國土樂事} \wedge \text{法藏比丘四十八願}) \;\Longrightarrow\; \text{生}(x) \end{aligned} \]

〔諸釈〕中品下生に仏の迎えが語られないことを、慧遠は「中輩三人有見不見,中上、中中二人見佛,中下不見,以行劣故」と注します(大正37・184a)。善導は、この人が往生を願っていなかったと読み、「但是不遇佛法之人,雖行孝養,亦未有心希求出離。直是臨終遇善,勸令往生。此人因勸迴心,即得往生」と言います(大正37・249a)。散善義でも「此品之人不曾見聞佛法,亦不解悕求,但自行孝養也」とし(大正37・276a)、讃では「孝養父母教迴向」と、振り向けることを善知識が教えると詠みます(同)。

\[ \begin{aligned} &\text{慧遠} :\ \mathbf{1}\bigl[\text{見佛}(\text{中},\ \text{下})\bigr] = 0\ \ (\text{以行劣故}) \\ &\text{善導} :\ \neg\,\text{希求出離}(x) \to \text{臨終遇善} \to \text{勸令往生} \to \text{因勸迴心} \to \text{即得往生} \end{aligned} \]

〔読み〕迎えの言葉は、ここでも行を挙げます。中品中生では、空中の声が「如汝善人,隨順三世諸佛教故,我來迎汝」と言います。中品上生では、仏は迎えに来て、苦・空・無常・無我を説き、出家して苦を離れることをほめます。

\[ (\text{中},\ \text{上}) :\ \text{來迎} \wedge \text{演說}(\text{苦},\ \text{空},\ \text{無常},\ \text{無我}) \wedge \text{讚歎}(\text{出家得離眾苦}), \qquad (\text{中},\ \text{中}) :\ \text{隨順三世諸佛教} \xrightarrow{\ \text{故}\ } \text{來迎} \]

〔読み〕往生の後、中輩の三生は、いずれも法を聞いて阿羅漢と成ります。上輩の三生が、無生法忍・不退転・初地(歓喜地)へと進んだのとは、得るものの種類が違います。

\[ \begin{aligned} &(\text{中},\ \text{上}) :\ \text{蓮花尋開} \to \text{聞}(\text{讚歎四諦}) \to \text{應時即得阿羅漢道} \\ &(\text{中},\ \text{中}) :\ \text{蓮花乃敷}\ (\text{七日}) \to \text{聞法歡喜} \to \text{得須陀洹} \to \text{成阿羅漢}\ (\text{經半劫}) \\ &(\text{中},\ \text{下}) :\ \text{遇觀世音及大勢至}\ (\text{生經七日}) \to \text{聞法歡喜} \to \text{成阿羅漢}\ (\text{經一小劫}) \end{aligned} \]

〔諸釈〕中輩の三生の位について、善導が挙げる諸師の説と、慧遠の説は次のとおりです。ここでも、往生の後に得るものから位を推します(十一)。善導自身は、中品の三人を「遇小凡夫」とし(十一の初めの〔諸釈〕の表)、中品中生については「但是佛去世後,無善凡夫,命延日夜,逢遇小緣,授其小戒,迴願往生。以佛願力,即得生也」(大正37・248c)、中品下生については「即是世善上福凡夫人也」と言います(大正37・276a)。

品 諸師(善導の引くところ、大正37・247c–248a) 慧遠(大正37・182b–c)
中品上生 「中上是三果人」。理由は「由到彼即得羅漢故」 「小乘人中前三果人說為中上,生彼即得阿羅漢故」
中品中生 「中中者是內凡」。理由は「由到彼得須陀洹故」 「精持淨戒求出離者說為中中」
中品下生 「中下者是世善凡夫,厭苦求生」。理由は「由到彼經一小劫得羅漢果故」 「見道已前世俗凡夫,修餘世福求出離者,說為中下」

〔異本〕中品下生の「聞法歡喜。經一小劫,成阿羅漢」を、大正蔵の本文は「聞法歡喜得須陀洹。過一小劫,成阿羅漢」に作ります(脚注「〔得須陀洹〕-【敦】,流布本亦同」「過流布本作經」)。大正蔵の本文では、中品下生の者も、中品中生と同じく須陀洹を経て阿羅漢に至ります。流布本は、その途中の果を言いません。

\[ \text{流布本} :\ \text{聞法歡喜} \to \text{成阿羅漢}\ (\text{經一小劫}), \qquad \text{大正蔵の本文} :\ \text{聞法歡喜} \to \text{得須陀洹} \to \text{成阿羅漢}\ (\text{過一小劫}) \]

このほか、字の違いだけのものが五つあります。大正蔵の本文は、中品上生の「無眾過患」を「無眾過惡」に(「惡=患【三】,流布本亦同」)、「臨命終時」を「行者臨命終時」に(「〔行者〕-【三】【敦】,流布本亦同」)、中品中生の「若一日一夜受持八戒齋」を「若一日一夜持八戒齋」に(「持=受持【敦】,流布本亦同」)、中品下生の「行世仁慈」を「行世仁義」に(「義=慈【三】【敦】,流布本亦同」)、「法藏比丘四十八願」を「法藏比丘四十八大願」に(「〔大〕-【元】【明】,流布本亦同」)作ります。第十五観の末の正観・邪観の句を残す理由は、五の〔異本〕に記しました。

十三 第十六観――下輩(下品の三生)

下輩の三生は、悪を造った者たちです。三生とも、善い行は語られず、臨終に善知識に出会い、その教えによって往生します。善導の引く諸師の説も慧遠も、下輩の三品を「隨過輕重分為三品」とします(大正37・248a、182c)。経の語る悪は、下品上生の「作眾惡業」から、下品中生の、戒を破り僧の物を盗む者、下品下生の「五逆、十惡,具諸不善」へと重くなり、臨終の手だても、それに応じて替わります。

原文 佛告阿難及韋提希:「下品上生者,或有眾生作眾惡業,雖不誹謗方等經典,如此愚人,多造眾惡,無有慚愧,命欲終時遇善知識,為讚大乘十二部經首題名字。以聞如是諸經名故,除却千劫極重惡業。智者復教合掌叉手,稱南無阿彌陀佛。稱佛名故,除五十億劫生死之罪。爾時彼佛,即遣化佛,化觀世音,化大勢至,至行者前,讚言:『善男子!汝稱佛名故諸罪消滅,我來迎汝。』作是語已,行者即見化佛光明,遍滿其室,見已歡喜,即便命終。乘寶蓮花,隨化佛後,生寶池中,經七七日蓮花乃敷。當花敷時,大悲觀世音菩薩,及大勢至菩薩,放大光明,住其人前,為說甚深十二部經。聞已信解,發無上道心。經十小劫,具百法明門,得入初地;是名下品上生者;得聞佛名、法名及聞僧名,聞三寶名即得往生。」(大正12・345c)

書き下し 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品上生といふは、あるいは衆生ありて、もろもろの悪業を作る。方等経典を誹謗せずといへども、かくのごときの愚人、多くもろもろの悪を造りて、慚愧あることなし。命終らんと欲する時、善知識に遇ふ。ために大乗十二部経の首題の名字を讃ず。かくのごときの諸経の名を聞くをもつてのゆゑに、千劫の極重の悪業を除却す。智者また教へて、合掌叉手して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、五十億劫の生死の罪を除く。その時、かの仏、すなはち化仏・化観世音・化大勢至を遣はして、行者の前に至らしむ。讃めてのたまはく、『善男子、なんぢ仏名を称するがゆゑに、もろもろの罪消滅す。われ来りてなんぢを迎ふ』と。この語をなしをはりて、行者すなはち化仏の光明の、その室に遍満せるを見る。見をはりて歓喜して、すなはち命終る。宝蓮花に乗じ、化仏の後に随ひて、宝池の中に生ず。七七日を経て蓮花すなはち敷く。花の敷くる時に当りて、大悲の観世音菩薩および大勢至菩薩、大光明を放ちて、その人の前に住して、ために甚深の十二部経を説きたまふ。聞きをはりて信解し、無上道心を発す。十小劫を経て、百法明門を具し、初地に入ることを得。これを下品上生のものと名づく。仏名・法名を聞き、および僧名を聞くことを得。三宝の名を聞きて、すなはち往生を得」と。

訳 仏は阿難と韋提希に告げられました。「下品上生とは、こうです。もろもろの悪業を作る衆生がいるとします。方等経典を謗りはしないものの、このような愚かな人は、多くの悪を造って、恥じることがありません。命が終わろうとするとき、善知識に出会い、その人のために大乗の十二部経の題名をほめたたえてもらいます。このような経の名を聞いたことによって、千劫の極めて重い悪業が除かれます。智者はさらに教えて、合掌し手を組んで、南無阿弥陀仏と称えさせます。仏の名を称えたことによって、五十億劫の生死の罪が除かれます。そのとき、かの仏は、化仏と化観世音と化大勢至を遣わして、行者の前に至らせます。化仏たちは、こうほめます。『善き男子よ、あなたは仏の名を称えたので、もろもろの罪が消えた。私は来てあなたを迎えるのだ。』この言葉が終わると、行者は、化仏の光明がその部屋に満ちわたっているのを見ます。見て喜び、そのまま命が終わります。宝の蓮華に乗り、化仏の後に従って、宝の池の中に生まれます。七七日を経て、蓮華はようやく開きます。華が開くとき、大悲の観世音菩薩と大勢至菩薩が、大いなる光明を放ってその人の前に立ち、その人のために甚だ深い十二部経を説かれます。聞いて信じ理解し、無上道心をおこします。十小劫を経て、百法明門を具え、初地に入ることができます。これを下品上生の者と名づけます。仏の名と法の名を聞き、また僧の名を聞くことができる。三宝の名を聞けば、すぐに往生することができるのです。」

〔読み〕この人は、臨終に二つのことをして、二つの罪を除かれます。経の題名を聞くことと、仏の名を称えることです。ところが迎えに来た化仏は、理由として、仏の名を称えたことだけを挙げます(「汝稱佛名故諸罪消滅,我來迎汝」)。除かれる量は、経の言う量の名のまま置きます(手引きの 除(D))。段の終わりの一句は、この人が聞いたものを、仏・法・僧の三宝の名としてまとめます。

\[ \begin{aligned} &\text{聞}(\text{大乘十二部經首題名字}) \;\Longrightarrow\; \text{除}(\text{千劫極重惡業}) \\ &\text{稱}(\text{南無阿彌陀佛}) \;\Longrightarrow\; \text{除}(\text{五十億劫生死之罪}) \\ &\text{讚言} :\ \text{稱佛名} \xrightarrow{\ \text{故}\ } \text{諸罪消滅} \wedge \text{來迎} \\ &\text{聞}(\text{佛名}) \wedge \text{聞}(\text{法名}) \wedge \text{聞}(\text{僧名}) \;\Longrightarrow\; \text{即得往生} \end{aligned} \]

〔諸釈〕善導は、化仏の言葉について「但述稱佛之功;我來迎汝,不論聞經之事。然望佛願意者,唯勸正念稱名往生義疾」と注します(大正37・276c)。また、経を聞くことと名を称えることとで、除かれる罪の量が違う理由を問い、「造罪之人障重,加以死苦來逼,善人雖說多經,食受之心浮散。由心散故,除罪稍輕。又佛名是一,即能攝散以住心,復教令正念稱名,由心重故,即能除罪多劫也」と答えます(大正37・276b)。なお、善導はこの問いの中で、称名で除かれる量を「稱佛一聲即除罪五百萬劫」と記します。経の本文は、大正蔵の本文も流布本も「五十億劫」で、大正蔵の脚注にも、この量の異読はありません。この訳は、二つの量の名をそれぞれのまま置きます。

\[ \text{善導} :\ \text{聞經}\ (\text{食受之心浮散}) \Rightarrow \text{除罪稍輕}, \qquad \text{稱名}\ (\text{攝散以住心}) \Rightarrow \text{除罪多劫} \]

〔異本〕「多造眾惡」を、大正蔵の本文は「多造惡法」に作り(脚注「惡法=眾惡【敦】,流布本亦同」)、化仏の言葉の初めに「善哉」を置きます(「〔善哉〕-【三】【敦】,流布本亦同」)。また、段の終わりの「得聞佛名、法名及聞僧名,聞三寶名即得往生」を、宋・元・明の三本は欠きます(「〔得聞…徃生〕十八字-【三】」)。流布本は、大正蔵の本文と同じく、この一句を持ちます。

原文 佛告阿難及韋提希:「下品中生者,或有眾生,毀犯五戒、八戒及具足戒,如此愚人,偷僧祇物,盜現前僧物,不淨說法,無有慚愧,以諸惡業而自莊嚴。如此罪人,以惡業故應墮地獄。命欲終時,地獄眾火一時俱至,遇善知識以大慈悲,為說阿彌陀佛十力威德,廣說彼佛光明神力,亦讚戒、定、慧、解脫、解脫知見。此人聞已,除八十億劫生死之罪。地獄猛火化為清涼風,吹諸天華。華上皆有化佛菩薩,迎接此人。如一念頃,即得往生七寶池中蓮花之內,經於六劫,蓮花乃敷。當華敷時,觀世音、大勢至,以梵音聲安慰彼人,為說大乘甚深經典。聞此法已,應時即發無上道心。是名下品中生者。」(大正12・345c–346a)

書き下し 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品中生といふは、あるいは衆生ありて、五戒・八戒および具足戒を毀犯す。かくのごときの愚人は、僧祇物をぬすみ、現前僧物を盗み、不浄説法して、慚愧あることなく、もろもろの悪業をもつてみづから荘厳す。かくのごときの罪人は、悪業をもつてのゆゑに地獄に堕すべし。命終らんと欲する時、地獄の衆火、一時にともに至る。善知識の、大慈悲をもつて、ために阿弥陀仏の十力威徳を説き、広くかの仏の光明神力を説き、また戒・定・慧・解脱・解脱知見を讃ずるに遇ふ。この人聞きをはりて、八十億劫の生死の罪を除く。地獄の猛火、化して清涼の風となり、もろもろの天華を吹く。華の上にみな化仏・菩薩ましまして、この人を迎接す。一念のあひだのごとくに、すなはち七宝の池の中の蓮花の内に往生することを得。六劫を経て、蓮花すなはち敷く。華の敷くる時に当りて、観世音・大勢至、梵音声をもつてかの人を安慰し、ために大乗甚深の経典を説きたまふ。この法を聞きをはりて、時に応じてすなはち無上道心を発す。これを下品中生のものと名づく」と。

訳 仏は阿難と韋提希に告げられました。「下品中生とは、こうです。五戒・八戒・具足戒を破る衆生がいるとします。このような愚かな人は、僧団全体の物(僧祇物)を盗み、いまそこにいる僧の物を盗み、不浄な説法をして、恥じることがなく、もろもろの悪業でみずからを飾ります。このような罪人は、悪業のために地獄に堕ちるはずです。命が終わろうとするとき、地獄のもろもろの火が一度に押し寄せます。そのとき善知識に出会い、善知識は大いなる慈悲をもって、その人のために阿弥陀仏の十力の威徳を説き、かの仏の光明と神力を広く説き、また戒・定・慧・解脱・解脱知見をほめたたえます。この人はそれを聞いて、八十億劫の生死の罪が除かれます。地獄の猛火は清らかで涼しい風に変わり、もろもろの天の華を吹き寄せます。華の上にはみな化仏と菩薩がおられて、この人を迎えます。一念ほどの間に、七宝の池の中の蓮華の内に往生することができます。六劫を経て、蓮華はようやく開きます。華が開くとき、観世音と大勢至が、梵音の声でその人を安らがせ慰め、その人のために大乗の甚だ深い経典を説かれます。この法を聞いて、そのときただちに無上道心をおこします。これを下品中生の者と名づけます。」

〔読み〕この人の臨終には、地獄の火がすでに迫っています。善知識は、名を称えさせるのではなく、阿弥陀仏の徳を説いて聞かせます。聞くことで罪が除かれ、地獄の火が涼しい風に変わり、その風が吹き寄せる天の華の上に、迎えの化仏と菩薩がいます。式の ↦ は、左のものが右のものに変わること(経の「化為」)です。

\[ \begin{aligned} &\text{地獄眾火一時俱至} \to \text{遇善知識} \to \text{聞}(\text{十力威德},\ \text{光明神力},\ \text{戒定慧解脫解脫知見}) \to \text{除}(\text{八十億劫生死之罪}) \\ &\quad \to \bigl(\text{地獄猛火} \mapsto \text{清涼風}\bigr) \to \text{吹}(\text{諸天華}) \to \text{華上化佛菩薩迎接} \to \text{往生}\ (\text{如一念頃}) \end{aligned} \]

〔諸釈〕善導は、ここで罪人が聞くものを、阿弥陀仏の名号と読み、「五明罪人既聞彌陀名號即除罪多劫」と注します(大正37・277a)。この人の位は「即是破戒次罪凡夫人也」とします(大正37・276c)。

〔読み〕「以諸惡業而自莊嚴」。経はこれまで、「莊嚴」を、宝による国の飾りに用いてきました(「各有百億花幢,無量樂器,以為莊嚴」「見極樂國七寶莊嚴」など)。ここでは同じ語が、悪業でみずからを飾ることに用いられます。式の ← は、右のもので左を飾ることです。

\[ \text{莊嚴} :\quad \text{極樂國} \leftarrow \text{七寶}, \qquad \text{自}\ (\text{下品中生の罪人}) \leftarrow \text{諸惡業} \]

〔異本〕「以諸惡業而自莊嚴」を、大正蔵の本文は「以諸惡法而自莊嚴」に作ります(脚注「法=業【三】【敦】,流布本亦同」)。善知識が仏の徳を「説く」所を、大正蔵の本文は「即為讚說阿彌陀佛十力威德,廣讚彼佛光明神力」と、ほめる語で記します(「即為讚=為【敦】,流布本亦同」「讚=為【敦】,流布本作說」)。また「化為清涼風」を「化為涼風」に作ります(「(清)+涼【元】【明】【敦】,流布本亦同」)。

原文 佛告阿難及韋提希:「下品下生者,或有眾生作不善業,五逆、十惡,具諸不善。如此愚人以惡業故,應墮惡道,經歷多劫,受苦無窮。如此愚人臨命終時,遇善知識,種種安慰,為說妙法,教令念佛,此人苦逼不遑念佛。善友告言:『汝若不能念者,應稱無量壽佛。』如是至心令聲不絕,具足十念,稱南無阿彌陀佛。稱佛名故,於念念中,除八十億劫生死之罪。命終之時見金蓮花,猶如日輪,住其人前,如一念頃,即得往生極樂世界。於蓮花中滿十二大劫,蓮花方開。觀世音、大勢至以大悲音聲,為其廣說諸法實相,除滅罪法。聞已歡喜,應時即發菩提之心;是名下品下生者。是名下輩生想,名第十六觀。」(大正12・346a)

書き下し 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。かくのごときの愚人は、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終の時に臨みて、善知識の、種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇ふ。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げていはく、『なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏を称すべし』と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称す。仏名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終る時、金蓮花の、なほ日輪のごとくにして、その人の前に住するを見る。一念のあひだのごとくに、すなはち極楽世界に往生することを得。蓮花の中において十二大劫を満てて、蓮花まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもつて、それがために広く諸法の実相と罪を除滅するの法とを説きたまふ。聞きをはりて歓喜し、時に応じてすなはち菩提の心を発す。これを下品下生のものと名づく。これを下輩生想と名づけ、第十六の観と名づく」と。

訳 仏は阿難と韋提希に告げられました。「下品下生とは、こうです。不善の業である五逆と十悪を作り、もろもろの不善を具えた衆生がいるとします。このような愚かな人は、悪業のために悪道に堕ち、多くの劫を経めぐって、限りなく苦しみを受けるはずです。このような愚かな人が、命の終わるときに臨んで善知識に出会い、善知識はさまざまに安らがせ慰めて、その人のために妙なる法を説き、仏を念じるように教えます。けれどもこの人は、苦しみに迫られて、仏を念じるいとまがありません。善友は告げます。『あなたがもし念じることができないなら、無量寿仏と称えなさい。』このように心をこめて、声を絶やさず、十念を具えて、南無阿弥陀仏と称えます。仏の名を称えたことによって、一念一念のうちに、八十億劫の生死の罪が除かれます。命の終わるとき、日輪のような金の蓮華がその人の前にとどまるのを見て、一念ほどの間に、極楽世界に往生することができます。蓮華の中で十二大劫を満たして、蓮華はようやく開きます。観世音と大勢至が、大悲の声で、その人のために、諸法の実相と罪を除き滅する法とを広く説かれます。聞いて喜び、そのときただちに菩提の心をおこします。これを下品下生の者と名づけます。これを下輩生想と名づけ、第十六の観と名づけます。」

〔借・公理|刊行済|第1層 A2 慈悲の縁起的集合論〕〔借・定義|出所札なし(第二著作『ステアリングからウォッチングへ』)|第4層 Φ_C 慈悲の場〕〔読み〕善知識は、まず「教令念佛」と、仏を念じることを教えます。けれどもこの人は「苦逼不遑念佛」、苦しみに迫られて念じるいとまがありません。そこで善友は「汝若不能念者,應稱無量壽佛」と、手だてを、この人にできることへ替えます。A2 の派生の欄の「下降的 Φ_C(最弱の項への優先的介入)」に重ねて読めます。九品の最後の、最も重い罪を負い、苦しみに迫られて念じるいとまのない者のところへ、手だてのほうが降りてゆく形です。ただし経は、この者をほかの者より先にするとまでは言いません。「優先的」にあたる所は、ここでも経の文にはありません(九の A2 の札と同じ注意です)。また A2 の「誰か一人の安寧が零になると積全体が零になる」という組み立てに重ねれば、経は九品のどの項も、往生のない項として残しません。W_Nash の量そのものは用いません(手引き)。

\[ \begin{aligned} &\text{手だて}(x) = \begin{cases} \text{念佛} & \text{能念}(x) \\ \text{稱無量壽佛} & \neg\,\text{能念}(x)\ \ (\text{苦逼不遑念佛}) \end{cases} \\ &\{\, q \in \text{九品} :\ \neg\,\text{往生}_q \,\} = \emptyset \end{aligned} \]

〔読み〕「具足十念,稱南無阿彌陀佛。稱佛名故,於念念中,除八十億劫生死之罪」。称えることと念とが、この文で結ばれます。罪は「於念念中」、つまり一念ごとに除かれると説かれます。けれどもこの訳は、八十億劫を十倍するような足し算をしません。経は合計を言わず、除(D) の D は量の名だからです(序の約束の三)。また、十念を十という数として数えるかどうかは、下の〔諸釈〕のとおり読みが分かれるので、式は念の数を定めません。

\[ \text{具足十念}, \qquad \forall\, \text{念} \in \text{念念} :\ \text{稱}(\text{南無阿彌陀佛})\ \text{於念} \;\Longrightarrow\; \text{除}(\text{八十億劫生死之罪}), \qquad \textstyle\sum\ \text{は立てない} \]

〔諸釈〕十念の読みです。曇鸞は、念を時の長さとせず「但言憶念阿彌陀佛若總相若別相,隨所觀緣心無他想,十念相續名為十念。但稱名號亦復如是」とし、「經言十念者,明業事成辨耳,不必須知頭數也」と、十という数を数える必要はないとします(『往生論註』、大正40・834c)。善導は、善友が「知苦失念,轉教口稱彌陀名號」、すなわち念を失った者に口に称えることを教えたと読み、続けて「念數多少聲聲無間」と注します(大正37・277b)。『往生礼讃』では、『無量寿経』の第十八願を「若我成佛,十方眾生稱我名號,下至十聲,若不生者,不取正覺」と引き(大正47・447c)、「今信知彌陀本弘誓願及稱名號,下至十聲一聲等定得往生」とも言います(大正47・438c)。

\[ \begin{aligned} &\text{曇鸞} :\ \text{十念} = \text{憶念相續}\ (\text{心無他想}),\ \ \text{稱名號亦復如是}, \qquad \text{十} :\ \text{業事成辨}\ (\text{不必須知頭數}) \\ &\text{善導} :\ \text{念} \to \text{聲}\ (\text{口稱彌陀名號}), \qquad \text{乃至十念}\ \text{を}\ \text{下至十聲}\ \text{と引く}\ (\text{往生禮讚}) \end{aligned} \]

〔諸釈〕この人は「五逆、十惡,具諸不善」の者で、しかも往生します。『無量寿経』の第十八願は「唯除五逆、誹謗正法」と、五逆の者を除くように読めます。二つの経のこの食い違いを、諸師は次のように会通します(『無量寿経』の側からの表は、『無量寿経』の訳の上巻 七にあります)。

注釈 会通のしかた 注の言葉
曇鸞『往生論註』(大正40・834a) 『無量寿経』は五逆と謗法の二つを具える者を除き、この経は謗法を言わない。謗法は、それだけで生まれない 「一經以具二種重罪,一者五逆、二者誹謗正法。以此二種罪故,所以不得往生。一經但言作十惡五逆等罪,不言誹謗正法,以不謗正法故是故得生」「但令誹謗正法,雖更無餘罪,必不得生」
慧遠『観無量寿経義疏』(大正37・184c) 人で分ける義(重く悔いる上の人は生まれうる)と、行で分ける義(観の定善は逆罪を消しうるが、散善は消さない) 「如世王等上人造逆,必有重悔令罪消薄,容便得生」「散善力微,不能滅除五逆重罪,不得往生,《大經》就此故說不生。定善力強能消逆罪,容得往,此經明觀所以說生」
善導『観経疏』散善義(大正37・277a–b) 抑止門。除外の句は、二つの過ちを造らせないための制止の言葉で、摂め取らないのではない。この経は、すでに造った五逆を摂め、まだ造っていない謗法をとどめる 「但如來恐其造斯二過,方便止言不得往生,亦不是不攝也」「其五逆已作,不可捨令流轉,還發大悲攝取往生;然謗法之罪未為,又止言若起謗法即不得生」「若造,還攝得生,雖得生彼,華合逕於多劫」

式の E は第十八願で除かれる者で、『無量寿経』の訳と同じ記号です。x_下下 は、この段の下品下生の者です。この訳は、どの読みが正しいとも判じません(序の約束の四)。

\[ \begin{aligned} &x_{\text{下下}} \in \text{五逆} \cap \text{十惡}, \qquad \text{具足十念}(x_{\text{下下}}) \wedge \text{稱南無阿彌陀佛}(x_{\text{下下}}) \;\Longrightarrow\; \text{得往生}(x_{\text{下下}}) \\ &E_{\text{字義}} = \text{五逆} \cup \text{謗法} \;\ni\; x_{\text{下下}} \qquad (\text{二經が食い違って見える所}) \\ &E_{\text{曇鸞}} = \text{謗法}, \qquad x_{\text{下下}} \notin \text{謗法}\ \ (\text{不言誹謗正法}) \\ &\text{慧遠} :\ \text{五逆}(x) \wedge \text{上人}(x) \wedge \text{重悔}(x) \Rightarrow \text{容便得生}\ (\text{約人}), \qquad \text{五逆}(x) \wedge \text{定善}(x) \Rightarrow \text{容得往},\ \ \text{五逆}(x) \wedge \text{散善}(x) \Rightarrow \text{不得往生}\ (\text{約行}) \\ &E_{\text{善導}} = \emptyset, \qquad \text{謗法}(x) \Rightarrow \text{華合逕於多劫}\ \ (\text{若造,還攝得生}) \end{aligned} \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕(i)・(vi)。A10 (i) は仏性の遍在(すべての x について B(x) ≠ ∅)を言い、(vi) は「仏性を否定する者にも B(x) ≠ ∅ は撤回されない」とします。経は、最も重い罪の者にも、往生の後に「應時即發菩提之心」と、菩提の心のおこることを説きます。(i) を重ねれば、この者の B(x) も空ではなく、それが十二大劫の後に菩提心として現れる、と読めます(下の (ii) の形)。除外の句の「誹謗正法」が仏性を否定することを含む、と仮に置いて (vi) を重ねても、上に引いた注の文は、往生するか否か(善導では、華の開くまでの長さ)を論じ、仏性については語りません。生(往生)と B(仏性)は別の述語なので、E をどの読みでとっても、B(x) ≠ ∅ と食い違うことはありません(『無量寿経』の訳の上巻 七と同じ読みです)。

\[ \forall x \in \mathcal{S} :\ B(x) \neq \emptyset \quad (\text{A10 (i)・(vi)}), \qquad x \in E \;\nRightarrow\; B(x) = \emptyset, \qquad \text{發菩提之心}(x_{\text{下下}}) \]

〔読み〕下輩の三生で、善知識が臨終に授ける手だてを並べます。罪が重くなるにつれて、手だては、経の名を聞いて仏の名を称えること(下品上生)、仏の徳を聞くこと(下品中生)、念じられない者が名を称えること(下品下生)へと替わります。善導は三生の位を、それぞれ「即是造十惡輕罪凡夫人也」「即是破戒次罪凡夫人也」「即是具造五逆等重罪凡夫人也」とします(大正37・276b、276c、277a)。

\[ \begin{aligned} &\text{手だて}(\text{下},\ \text{上}) = \text{聞}(\text{經名}) \wedge \text{稱}(\text{佛名}) \\ &\text{手だて}(\text{下},\ \text{中}) = \text{聞}(\text{十力威德},\ \text{光明神力},\ \ldots) \\ &\text{手だて}(\text{下},\ \text{下}) = \text{稱}(\text{南無阿彌陀佛})\ \ (\text{具足十念},\ \neg\,\text{能念}) \end{aligned} \]

〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕(ii)。九品のどの生も、往生の後に、得忍・得果・入地・発心へと進むと説かれます(十一の初めの表の「往生の後」の欄)。A10 (ii) の「顕在化の必然性:Φ_C > Φ_C* ⟹ ∃n₀, ∀n ≥ n₀ : B(x) が顕在化(閾値構造)」に重ねれば、往生して国という場に入ることを、閾値を越えることに、蓮華の開くまでの時や「經一小劫」などを n₀ に、得るものを顕在化にあてて読めます。このあてかたはこの訳による重ね合わせで、n₀ は経の言う時の名です。計算はしません(序の約束の三)。

\[ \forall q \in \text{九品} :\ \text{往生}_q(x) \;\Longrightarrow\; \exists\, n_0(q)\ \forall n \ge n_0(q) :\ \text{得益}_q(x), \qquad n_0(\text{下},\ \text{下}) = \text{滿十二大劫},\ \ \text{得益}_{(\text{下},\,\text{下})} = \text{發菩提之心} \]

〔異本〕善友の言葉「汝若不能念者,應稱無量壽佛」を、大正蔵の本文は「汝若不能念彼佛者,應稱歸命無量壽佛」に作ります(脚注「〔彼佛〕-【敦】,流布本亦同」「〔歸命〕-【元】【明】【敦】,流布本亦同」)。大正蔵の本文では、念ずるべきものが「彼佛」と示され、称えるべき言葉が「歸命無量壽佛」で、すぐ後の「稱南無阿彌陀佛」と、訳語と音写との違いだけで対応します。善導は『観経疏』玄義分で「言南無者即是歸命,亦是發願迴向之義。言阿彌陀佛者即是其行」と言います(大正37・250a–b)。流布本では、善友は「無量壽佛」と称えよと言い、行者は「南無阿彌陀佛」と称えます。

\[ \text{大正蔵の本文} :\ \text{教} = \text{稱}(\text{歸命無量壽佛}),\ \ \text{行} = \text{稱}(\text{南無阿彌陀佛}), \qquad \text{流布本} :\ \text{教} = \text{稱}(\text{無量壽佛}),\ \ \text{行} = \text{稱}(\text{南無阿彌陀佛}) \]

このほか、大正蔵の本文は、「此人苦逼不遑念佛」を「彼人苦逼不遑念佛」に(「彼流布本作此」)、「蓮花方開。觀世音、大勢至」の間に「當花敷時」を置き(「〔當花敷〕-【宋】,〔當花敷時〕-【元】【明】【敦】,流布本亦同」)、「為其廣說諸法實相」を「即為其人廣說實相」に(「即為其人廣說=為其廣說諸法【元】【明】【敦】,流布本亦同」)作ります。第十六観の末には、正観・邪観の句がありません。大正蔵の本文でも同じです(五の〔異本〕の K)。

\[ 16 \notin K_{\text{大正}} \cup K_{\text{流布}} \]

十四 得益分と流通分――韋提希の得忍、経の名、名を持つこと

十六の観を説き終えると、聞いていた者たちが得たものが語られ(得益分)、阿難の問いに応えて、仏は経の名を示し、これを持つように命じます(流通分)。この区切りは善導の分けかたによります(「三、從說是語時下,至諸天發心已來,明得益分。四、從爾時阿難下,至韋提等歡喜已來,明王宮流通分」、大正37・278b)。

原文 說是語時,韋提希與五百侍女,聞佛所說,應時即見極樂世界廣長之相,得見佛身及二菩薩。心生歡喜,歎未曾有,廓然大悟,得無生忍。五百侍女發阿耨多羅三藐三菩提心,願生彼國。世尊悉記,皆當往生,生彼國已,得諸佛現前三昧。無量諸天,發無上道心。(大正12・346a–346b)

書き下し この語を説きたまふ時、韋提希、五百の侍女とともに、仏の所説を聞きて、時に応じてすなはち極楽世界の広長の相を見、仏身および二菩薩を見たてまつることを得たり。心に歓喜を生じ、未曽有なりと歎じ、廓然として大悟して、無生忍を得たり。五百の侍女は阿耨多羅三藐三菩提心を発して、かの国に生ぜんと願ず。世尊ことごとく、みなまさに往生すべく、かの国に生じをはりて諸仏現前三昧を得べしと記したまふ。無量の諸天、無上道心を発せり。

訳 この言葉が説かれたとき、韋提希は五百人の侍女とともに、仏の説かれたことを聞いて、そのときただちに極楽世界の広く長いありさまを見、仏の身と二菩薩とを見ることができました。心に喜びが生じ、かつてないことだと感嘆し、からりと大いに悟って、無生忍を得ました。五百人の侍女は阿耨多羅三藐三菩提の心をおこして、かの国に生まれたいと願いました。世尊は、彼女たちがみな往生し、かの国に生まれたのちに諸仏現前三昧を得るであろうと、ことごとく記別を授けられました。量りしれない天たちが、無上道心をおこしました。

〔読み〕聞いていた者たちが得たものを、者ごとに並べます。韋提希は、見ること、喜ぶこと、悟ることを経て無生忍を得ます。五百人の侍女は、心をおこして願い、往生とその後の三昧の記別を受けます。天たちは、心をおこします。

\[ \begin{aligned} &\text{韋提希} :\ \text{見}(\text{極樂世界廣長之相}) \wedge \text{見}(\text{佛身及二菩薩}) \to \text{歡喜} \to \text{廓然大悟} \to \text{得無生忍} \\ &\text{五百侍女} :\ \text{發阿耨多羅三藐三菩提心} \wedge \text{願生彼國} \to \text{記}(\text{皆當往生},\ \text{生彼國已得諸佛現前三昧}) \\ &\text{無量諸天} :\ \text{發無上道心} \end{aligned} \]

〔諸釈〕韋提希が無生忍を得たのはいつか。七の〔諸釈〕に挙げたとおり、善導は第七観の初め、無量寿仏が空中に住立したときとします。その証として善導が挙げるのが、この段の文です。「何以得知?如下利益分中說言:『得見佛身及二菩薩,心生歡喜,歎未曾有。廓然大悟得無生忍。』非是光臺中見國時得也」(大正37・251b)。光台の中に見たのは国々で、仏の身と二菩薩を見たのは第七観の初めである、という推しかたです。式の t は、出来事の起こる時です(十一の τ とは別の記号です)。

\[ \text{善導} :\ \text{得無生忍} \Leftarrow \text{得見}(\text{佛身及二菩薩}), \qquad t\bigl(\text{得見}(\text{佛身及二菩薩})\bigr) = \text{第七觀初}, \qquad \text{光臺} :\ \text{見}(\text{諸佛國}) \wedge \neg\,\text{見}(\text{佛身及二菩薩}) \;\Longrightarrow\; t(\text{得忍}) \neq \text{光臺時}, \qquad \therefore\ t(\text{得忍}) = \text{第七觀初} \]

原文 爾時阿難,即從座起,前白佛言:「世尊!當何名此經?此法之要,當云何受持?」佛告阿難:「此經名『觀極樂國土無量壽佛觀世音菩薩大勢至菩薩』,亦名『淨除業障生諸佛前』。汝當受持,無令忘失!(大正12・346b)

書き下し その時、阿難、すなはち座より起ちて、前みて仏にまうしてまうさく、「世尊、まさになにとかこの経を名づくべき。この法の要をば、まさにいかんが受持すべき」と。仏、阿難に告げたまはく、「この経をば『観極楽国土無量寿仏観世音菩薩大勢至菩薩』と名づく。また『浄除業障生諸仏前』と名づく。なんぢまさに受持して、忘失せしむることなかれ。

訳 そのとき阿難は、座から立ち上がり、進み出て仏に申し上げました。「世尊、この経を何と名づければよいのでしょうか。この法の要を、どのように受持すればよいのでしょうか。」仏は阿難に告げられました。「この経を『観極楽国土無量寿仏観世音菩薩大勢至菩薩』と名づけ、また『浄除業障生諸仏前』と名づけます。あなたはこれを受持して、忘れ失うことのないようにしなさい。

〔読み〕経の二つの名です。一つめは、観の対象を並べます。善導の分けかたでは、日観から華座観までが依報(国土)、像観から雑想観までが正報(仏・菩薩)で(「初、從日觀下,至華座觀已來,總明依報。二、從像觀下,至雜想觀已來,總明正報」、大正37・270b)、一つめの名の「極樂國土」と「無量壽佛觀世音菩薩大勢至菩薩」が、この二つにあたります。第十四から第十六の観(九品)は、この名には挙がりません。二つめの名の二つの句は、観の利益として、すでに経に出ています(第十観の「淨除業障」、第九観の「生諸佛前」)。

\[ \begin{aligned} &\text{名}_1 = \text{觀}(\text{極樂國土}) \wedge \text{觀}(\text{無量壽佛},\ \text{觀世音菩薩},\ \text{大勢至菩薩}), \qquad \text{極樂國土} \leftrightarrow \{\text{觀}_1,\ \dots,\ \text{觀}_7\},\ \ \text{佛・菩薩} \leftrightarrow \{\text{觀}_8,\ \dots,\ \text{觀}_{13}\} \\ &\text{名}_2 = \text{淨除業障}\ (\text{觀}_{10}\ \text{の益}) \wedge \text{生諸佛前}\ (\text{觀}_9\ \text{の益}) \end{aligned} \]

原文 行此三昧者,現身得見無量壽佛及二大士。若善男子、善女人,但聞佛名、二菩薩名,除無量劫生死之罪,何況憶念!若念佛者,當知此人是人中分陀利花,觀世音菩薩、大勢至菩薩為其勝友,當坐道場,生諸佛家。」(大正12・346b)

書き下し この三昧を行ずるものは、現身に無量寿仏および二大士を見たてまつることを得。もし善男子・善女人、ただ仏名・二菩薩の名を聞くだに、無量劫の生死の罪を除く。いかにいはんや憶念せんをや。もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利花なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し、諸仏の家に生ずべし」と。

訳 この三昧を行う者は、この身のままで無量寿仏と二人の大士を見ることができます。善男子・善女人が、ただ仏の名と二菩薩の名を聞くだけでも、量りしれない劫の生死の罪が除かれます。まして心に念じ続ける者は、なおさらです。仏を念じる者は、人々の中の分陀利華(白い蓮華)であると知りなさい。観世音菩薩と大勢至菩薩がその人のすぐれた友となり、その人はやがて道場に坐し、諸仏の家に生まれるでしょう。」

〔読み〕「但聞佛名、二菩薩名,除無量劫生死之罪,何況憶念」。手引きの ≺ で写します。経は、名を聞くだけでも罪が除かれると言い、心に念じることがそれにまさると言いますが、どれだけまさるかは言いません。念仏する者については、その人が何であるか(分陀利花)、誰が友となるか(観音・勢至)、どうなるか(道場に坐し、諸仏の家に生まれる)を挙げます。

\[ \begin{aligned} &\text{行此三昧} \Rightarrow \text{現身得見}(\text{無量壽佛},\ \text{二大士}) \\ &\text{聞}(\text{佛名},\ \text{二菩薩名}) \Rightarrow \text{除}(\text{無量劫生死之罪}), \qquad \text{聞名} \prec \text{憶念} \\ &\text{念佛者} :\ \text{是人中分陀利花}, \qquad \text{勝友} = \{\text{觀世音菩薩},\ \text{大勢至菩薩}\}, \qquad \text{當坐道場} \wedge \text{生諸佛家} \end{aligned} \]

〔諸釈〕この「何況」の言いかたを、慧遠と、智顗の名で伝わる疏は、ともに「舉劣況勝」と呼び(大正37・186b、194c)、元照は「舉聞況念,其勝可知」と注します(大正37・305a)。劣ったものを挙げて、まさるものを推し量らせる形で、手引きの ≺ は、この形にあたります。善導は「但聞三身之號,尚滅多劫罪愆,何況正念歸依,而不獲證也」と注します(大正37・278a)。分陀利花について、慧遠は「分陀利花,花中殊好,此人同彼,名分陀利」と言い(大正37・186b)、元照は「分陀利,此云白蓮花,一人間奇瑞、二性潔無染,故以比焉」と言い(大正37・305a)、善導は「若念佛者,即是人中好人,人中妙好人,人中上上人,人中希有人,人中最勝人也」と言います(大正37・278a)。

\[ \text{舉劣況勝} :\ \text{劣} \prec \text{勝}, \qquad \text{劣} = \text{聞名},\ \ \text{勝} = \text{憶念}\ (\text{善導では正念歸依}) \]

原文 佛告阿難:「汝好持是語。持是語者,即是持無量壽佛名。」(大正12・346b)

書き下し 仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。

訳 仏は阿難に告げられました。「あなたは、この言葉をよく持ちなさい。この言葉を持つとは、無量寿仏の名を持つことです。」

〔借・定義寄り(整理表の勧告)|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕「汝當受持,無令忘失」と「汝好持是語。持是語者,即是持無量壽佛名」。仏は、説き終えた経を阿難に持たせ、この語を持つことは、すなわち無量寿仏の名を持つことだ、と言います。G-1 の「前の縁起が生成した像を護持する行為が次の縁起への問いとなる(射の合成)」に重ねれば、説かれた経(この縁起が結んだ像)を護り持つことが、一つの名を持つことに集まり、それが次の縁起へ渡されます。次の段(十五)で、阿難は耆闍崛山に帰って、大衆にこれを説き直します。

\[ \text{持}(\text{是語}) \equiv \text{持}(\text{無量壽佛名}), \qquad g(i_n) = c_{n+1} :\ \ i_n = \text{是語}\ (\text{王宮會の此經}),\ \ g = \text{持}\ (\text{受持,無令忘失}),\ \ c_{n+1} = \text{阿難廣為大眾說}\ (\text{十五}) \]

〔諸釈〕この付属の句の読みです。

注釈 読み 注の言葉
善導『観経疏』散善義(大正37・278a) 弥陀の名号を付属して、後の世に流通させる。定善と散善の二門の利益を説いてきたが、仏の本願から見れば、意は衆生がひたすら弥陀の名を称えることにある 「正明付屬彌陀名號,流通於遐代。上來雖說定散兩門之益,望佛本願,意在眾生一向專稱彌陀佛名」
元照『観無量寿仏経義疏』(大正37・305b) 名を持つことと経を持つこととを対にして説く。名を持つ功は大きく、経を持つこともまた同じ 「意令對說,持名功大,持經亦然」

\[ \text{善導} :\ \text{望佛本願} \;\Longrightarrow\; \text{意}(\text{此經}) = \text{一向專稱彌陀佛名}, \qquad \text{元照} :\ \text{功}(\text{持名}) = \text{大},\ \ \text{功}(\text{持經})\ \text{亦然} \]

原文 佛說此語時,尊者目犍連、阿難及韋提希等,聞佛所說,皆大歡喜。(大正12・346b)

書き下し 仏、この語を説きたまふ時、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きて、みな大きに歓喜す。

訳 仏がこの言葉を説かれたとき、尊者目犍連・阿難・韋提希たちは、仏の説かれたことを聞いて、みな大いに喜びました。

〔異本〕この段の流布本の読みは、次のとおりです。大正蔵の本文は、「說是語時」の前に「爾時世尊」を置き(脚注「〔爾時世尊〕-【三】【敦】,流布本亦同」)、「廓然大悟」を「豁然大悟」に(「豁=廓【敦】,流布本亦同」)、「得諸佛現前三昧」を「獲得諸佛現前三昧」に(「〔獲〕-【敦】,流布本亦同」)、「若善男子、善女人」を「若善男子及善女人」に(「〔及〕-【敦】,流布本亦同」)、「當知此人是人中分陀利花」を「當知此人即是人中芬陀利花」に(「流布本無即」「芬=分【三】【敦】,流布本亦同」)、「尊者目犍連、阿難及韋提希等」を「尊者目連、尊者阿難及韋提希等」に(「目連=目犍連【三】【敦】,流布本亦同」「〔尊者〕-【敦】,流布本亦同」)作ります。いずれも意味は変わりません。善導が得忍の証として引く経文も、「廓然大悟」です(上の〔諸釈〕)。

十五 耆闍分――阿難が耆闍崛山で説き直す

王宮での説法が終わると、世尊は耆闍崛山に帰り、阿難がそこにいた大衆に、王宮でのことを説き直します。経はここで終わります。

原文 爾時世尊,足步虛空,還耆闍崛山。爾時,阿難廣為大眾說如上事。無量諸天及龍、夜叉,聞佛所說,皆大歡喜,禮佛而退。(大正12・346b)

書き下し その時、世尊、足虚空を歩みて、耆闍崛山に還りたまふ。その時、阿難、広く大衆のために上のごときの事を説く。無量の諸天および竜・夜叉、仏の所説を聞きて、みな大きに歓喜し、仏を礼して退きぬ。

訳 そのとき世尊は、虚空を歩んで、耆闍崛山に帰られました。そのとき阿難は、大衆のために、以上のことを広く説きました。量りしれない天たちと竜・夜叉は、仏の説かれたことを聞いて、みな大いに喜び、仏を礼拝して退きました。

〔読み〕耆闍崛山で語るのは阿難ですが、聞いた者たちについて、経は「聞佛所說」と言います。阿難の説き直しは、仏の説いたこととして受け取られます。善導は、経の全体を五つに分け、その五つめの耆闍分を、さらに序・正宗・流通の三つに分けます(「五、就耆闍會中,亦有其三。一、從爾時世尊已下,明耆闍序分。二、從爾時阿難已下,明耆闍正宗分。三、從無量諸天已下,明耆闍流通分」、大正37・278b)。阿難の説き直しが、耆闍会の「正宗分」にあたります。元照はこの段を「轉說流通」とし、「初、佛還本處;二、阿難轉說;三、眾聞禮散」と分けます(大正37・305b)。

\[ \begin{aligned} &\text{說}(\text{阿難},\ \text{如上事}) \;\Longrightarrow\; \text{聞}(\text{無量諸天及龍、夜叉},\ \text{佛所說}) \\ &\text{善導} :\ \text{經} = (\text{序分},\ \text{正宗分},\ \text{得益分},\ \text{王宮流通分},\ \text{耆闍分}), \qquad \text{耆闍分} = (\text{耆闍序分},\ \text{耆闍正宗分},\ \text{耆闍流通分}) \end{aligned} \]

〔借・定義寄り(整理表の勧告)|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕十四で仏は阿難に「汝好持是語」と命じ、この段で阿難は、持ったものを耆闍崛山の大衆に説きます。G-1 の「前の縁起が生成した像を護持する行為が次の縁起への問いとなる(射の合成)」に重ねれば、王宮の説法から耆闍崛山の説き直しへ、射が一つつながります。経の初めの「如是我聞」は、伝統的には、阿難が結集の場で、聞いたとおりを説き出す言葉と読まれます。そう読めば、訳の初め(証信序)に置いた G-1 の読みと、こことが、同じ持ち渡しの連なりの上に並びます。これはこの訳による重ね合わせです。

\[ \text{佛說}\ (\text{王宮會}) \xrightarrow{\ \text{持}\ } \text{阿難廣為大眾說}\ (\text{耆闍會}) \xrightarrow{\ \text{持}\ } \text{如是我聞}\ (\text{經の初め}) \to \cdots, \qquad g(i_n) = c_{n+1}\ \ (n = 1,\ 2,\ \dots) \]

〔異本〕「無量諸天及龍、夜叉」を、大正蔵の本文は「無量人、天、龍、神、夜叉」に作ります(脚注「人天=諸天【元】【明】【敦】,流布本亦同」「龍神=龍【元】【明】【敦】,流布本作及龍」)。大正蔵の本文では、聞いて喜んだ者に人と神が挙がりますが、流布本では、天と竜と夜叉が挙がり、人の名は挙がりません。

\[ \text{流布本} :\ \{\text{諸天},\ \text{龍},\ \text{夜叉}\}, \qquad \text{大正蔵の本文} :\ \{\text{人},\ \text{天},\ \text{龍},\ \text{神},\ \text{夜叉}\} \]

覚え書き 借りた項目の表、記号の一覧、底本と検分の記録

借りた項目の表

共創数学から借りた項目について、札を置いた段を並べます。括弧の数は、同じ段に置いた札の数です。整理表の言明と札の写しは、手引きの表にあります。

項目 札の数 札を置いた段
レジスタ分離 0 札は置かず、すべての段に掛かる約束として、序の約束の二で述べます
A0 沈黙の公理 4 三・五・八・十
A1 空鏡の公理 3 三・四・七
A2 慈悲の縁起的集合論 3 八・九・十三
A4 夢の位相空間 1 八
A5 自覚慈悲の同値性 2 八・十
A9 灌頂の公理 3 三・四・五
A10 一切衆生悉有仏性の公理 5 八・九・十・十三(2)
G-1 護持定理 5 一・五・十一・十四・十五
Φ_C 慈悲の場 1 十三
第6層の記帳 0 札は置かず、序の拠り所で触れるだけです

記号の一覧

記号 意味 初めて用いる所
𝒮 衆生の集まり 手引き
觀ₖ(k = 1, …, 16) 経が「名曰初觀」「名第二觀」……と名づける、k 番目の観 手引き
成(觀ₖ) その観が成ること 手引き
正觀・邪觀 「作是觀者,名為正觀。若他觀者,名為邪觀」の二つの名 手引き
A ≺ B 経が「A……,何況 B」と言うこと。B が A にまさることだけを言い、どれだけまさるかは言わない 手引き
除(D) 生死の罪や悪業を除くこと。D は経の言う量の名(罪の名とともに書く)で、計算しない 手引き
品 = (輩, 生) 九品。輩も生も、上・中・下のいずれか 手引き
𝟙[p] 命題 p が真なら 1、偽なら 0。式では太字の 1 で書く 手引き
g, i, c G-1 の護持(g)、縁起が結んだ像(i)、次の縁起への問い(c) 手引き、一
B(x) x の仏性(A10) 手引き
u′, c_next A0 の、記号体系が汲み尽くせない余りと、そこから立つ次の問い 手引き、三
⟨ ⟩ 順序のある並び 一
→ 経の語る順や、歩みの順。論理の含意(⇒)とは分ける。A1 の式 c ⊗ u → i では、像が生まれること 三
矢印の上の句 矢印の上に置いた経の句(「此想成已」「故」「是故」「持」など)によって次へ移ること 五
福₁, 福₂, 福₃, 𝒞_善導 三福と、善導の挙げる修め方の組み合わせ 四
K_大正, K_流布 正観・邪観の句のある観の番号の集まり 五
∼ 「如……」の譬え。数の比を言わない 七
↔︎ 読みによる対応。八では、互いに映し合う向きにも用いる 八
≈ 首の相を除いて同じ身であること 十
τ(品) 蓮華の開くまでの時。経の言う時の名のまま置く 十一
三心, 具(x, h) 至誠心・深心・迴向發願心と、x がその一つ h を具えること 十一
說_經, 及_師 経が三心を説く所と、その師が三心を及ぼす所 十一
種₁, 種₂, 種₃ 上品上生の三種の衆生の行 十一
d 功徳を具える時の長さ 十一
行_q 品 q の、この世の行 十一
⊢ 左から右を推して知ること 十一
↦ 「化為」。左のものが右のものに変わる 十三
← 「莊嚴」。右のもので左を飾る 十三
E, x_下下 第十八願で除かれる者(『無量寿経』の訳と同じ記号)と、下品下生の者 十三
手だて(x) 臨終の善知識が x に授ける手だて 十三
n₀(q), 得益_q A10 (ii) に重ねたときの、経の言う時の名と、品 q の者が往生の後に得るもの 十三
名₁, 名₂ 経の二つの名 十四
≡ 経の「即是」で結ばれる二つが同じであること 十四

底本の記録

検分の記録