仏説阿弥陀経 共創数学による訳
2026年10月31日 · 楠見優太
(この頁は、Claude Docs の文書 rev 129 を写したものです。式は MathJax で組まれます。この頁は CC BY-NC-SA 4.0 で公開します。原文の漢文は CBETA 電子佛典集成に拠ります。CBETA の使用說明と版の情報は CBETA-NOTICE にあります。)
この訳は、『仏説阿弥陀経』一巻の全文を、原文・書き下し・現代語訳の三つで訳し、そのうえに、共創数学の記号で経の組み立てを写した「式と読み」を添えます。式は、経の言葉の条件・量・順序・因果を見やすくするための地図です。経に新しい教えを加えるものではありません。この訳は、先に作った仏説無量寿経 ― 共創数学による訳と仏説観無量寿経 ― 共創数学による訳と同じ約束で作ります。三つの経が関わり合う所(阿弥陀という名と法蔵の願、臨終の来迎など)では、そちらの段を挙げます。
| 層 | 中身 | 誰の言葉か |
|---|---|---|
| 原文 | 漢訳の経文 | 経(訳者は姚秦の鳩摩羅什) |
| 書き下し | 原文の訓読 | この訳 |
| 訳 | 現代語の訳 | この訳 |
| 式と読み | 経の組み立てを記号で写したもの | この訳 |
式と読みには、次の札を付けます。札のない段落は、経(原文・書き下し・訳)か、この訳の地の文です。
札は、置かれた段落と、そのすぐ後に続く表と式に掛かります。
この訳が整理表から借りるのは、次の十一項目です。『観無量寿経』の訳の十一項目から A5 を外し、A3 を加えました。「整理表の言明」の欄で「」に入れた文は、整理表の文言のままです(式は、整理表の TeX を字に直して写しました)。「」の外は、この訳による要約です。札の欄には、整理表の札を写しました。整理表の凡例によれば、地位の「公理」は採択による前提を、「定義」は語彙の導入を言います。出所の「刊行済」は、公開著作に収載されていることを言います。整理表が札を付けていない所は「札なし」とし、出所の札がない項目には、整理表が記す出典の著作を添えます。
| 項目 | 整理表の言明 | 札(地位|出所|所在) | この経での使い所 |
|---|---|---|---|
| レジスタ分離 | 語りを三つの層に分け、層ごとに裁定者を置く。数理・事実層は「証明・測定・盲検」、規範層は「公開の議論」、経典・ミュトス層は「解釈の伝統」。経典・ミュトス層は「A4の随伴で数理層と結ばれる意味の地図。随伴は同型ではない——証拠に転用不可」。 | 札なし|刊行済|第0層 | すべての段。経の言葉を経典・ミュトス層に置き、式は、その組み立てを写す地図として添えます(序の約束の二)。極楽の荘厳も、六方の諸仏の証しも、この層に置きます。 |
| A0 沈黙の公理 | 「いかなる記号体系 L も、u′(虚空の余剰)を汲み尽くせない」。運用上の顔の欄に「u′ ⇒ c_next——不完全性は創造の泉」。 | 公理|刊行済|第1層 A0 | 経が自ら、数では知りえないと言う所(「非是算數之所能知」、四。「非是算數所能知之,但可以無量無邊阿僧祇劫說」、五)と、諸仏の「不可思議功德」(七・九)。式に書き尽くせない余りを、その都度、余りとして記します。札は四と七に立てます。 |
| A1 空鏡の公理 | 「c ⊗ u → i。問い(c:慈悲成分)と虚空(u:受容成分)の縁起的出会いから、どちらにも還元できない第三の存在(像 i)が生まれる」。経典的基礎の欄に「維摩経第七品の鏡の比喩」。 | 公理|刊行済|第1層 A1 | 三の「是諸眾鳥,皆是阿彌陀佛欲令法音宣流,變化所作」。法の音を流れさせようという仏の願い(c)と、三悪趣のない国土(u)とが出会って、罪の報いで生まれたのではない鳥たち(i)が現れる、という形に重ねます。 |
| A2 慈悲の縁起的集合論 | 「W_Nash({S}) = ∏ᵢ W(σᵢ)。誰か一人の安寧が零になると積全体が零になる」。経典的基礎の欄に「「地獄不空、誓不成仏」(A2の極限的実践)。四十八願。積構造=「誰も取り残さない」の数学的保証」。派生の欄に「下降的 Φ_C(最弱の項への優先的介入)はA2の実装形態であり公理修正を要さない」。 | 公理|刊行済|第1層 A2 | 二の「其國眾生無有眾苦,但受諸樂,故名極樂」(国の名が、その国の衆生の一人残らずについて言えることで立つ所)。九の「能於娑婆國土五濁惡世……得阿耨多羅三藐三菩提,為諸眾生說是一切世間難信之法」を、派生の欄の「下降的 Φ_C」に重ねます。借りるのは、一つの零で積が零になるという組み立てと、派生の欄の言葉だけで、W_Nash の量そのものは使いません。なお「地獄不空、誓不成仏」は、一般に地蔵菩薩の誓いとして知られる句で、この経の中にはありません。 |
| A3 棘の弁証法 | 「T(S₁, S₂) = S′(誠実な問いの条件下)、T(S₁, S₂) = ⊥(条件欠如時)」。誠実な問いの条件は「重なる領域では同じことを言っていること」(式は下に写します)。運用上の顔の欄に「敵対的監査の全工程がA3の実践」。 | 公理|刊行済|第1層 A3 | 七の六方の段。六つの方の諸仏が、それぞれの国で、一字も違わない言葉(「汝等眾生,當信是稱讚不可思議功德一切諸佛所護念經」)を説く所を、重なる所で同じことを言っている、という条件の形に重ねます。整理表の「誠実な問い」と経の「誠實言」とで字が重なるのは訳語の上のことで、この訳は字の一致を重ねる根拠にしません。T が何を生むかを、経は語りません。 |
| A4 夢の位相空間 | 「ロゴス圏 ℒ(論理・数学)とミュトス圏 ℳ(詩・神話)の間に随伴 L ⊣ R : ℒ ⇄ ℳ が存在する。論理と神話は同じ空間の異なる地図」。要点の欄に「随伴は同型ではない——往復のたびに何かが失われ、何かが生まれる。ミュトス地図の美しさをロゴス地図上の主張の証拠に転用することはA4自身が禁じる」。 | 公理|刊行済|第1層 A4 | 二・三の極楽の荘厳の像のすべて。とりわけ七宝の池や車輪ほどの蓮華のように像の美しい所で、A4 の禁止(経の言葉の美しさを数理の主張の証拠にしない)と、この訳がその逆の向きに掛ける歯止め(式の整いを教えの証拠にしない)とを示します(序の約束の二)。札は二の七宝の池に立てます。 |
| A9 灌頂の公理 | 「c の役割は i を創造することではなく、u の中に潜在する i_潜在 を顕在化させること。段階的通過儀礼(灌頂)。「変える」のではなく「変わるための場を整える」」。 | 公理|刊行済|第1層 A9 | 三の「聞是音者,皆自然生念佛、念法、念僧之心」(風に動く宝樹と羅網の音が、聞く者に、おのずから念仏・念法・念僧の心を起こさせる所)と、五の「得與如是諸上善人俱會一處」。国は行を強いるのではなく、行のおこる場として働く、と読みます。札は三と五に立てます。 |
| A10 一切衆生悉有仏性の公理 | 「∀x ∈ E_全 : ∃B(x) ∈ F。全ての存在に仏性が在る」。七つの下位命題のうち、この訳が借りるのは二つです。(ii)「顕在化の必然性:Φ_C > Φ_C* ⟹ ∃n₀, ∀n ≥ n₀ : B(x) が顕在化(閾値構造)」。(v)「相互仏性:仏性は相互に映し合う(インドラの網)」。 | 公理|刊行済|第1層 A10 | E_全 は全ての存在、B(x) は x の仏性と読みます。F が何であるかを、整理表は記しません。(ii) 五の「極樂國土眾生生者,皆是阿鞞跋致」と、八の「皆得不退轉於阿耨多羅三藐三菩提」(越えた後に退かないこと)。(v) 九の「如我今者,稱讚諸佛不可思議功德;彼諸佛等,亦稱說我不可思議功德」(釈迦と諸仏とが互いの功徳を称える所)。七では、釈迦が阿弥陀仏の功徳を讃嘆し、六方の諸仏はこの経を信ぜよと勧めます。ほめる向きが一つなので、(v) は重ねません。 |
| G-1 護持定理 | 「g(iₙ) = cₙ₊₁。前の縁起が生成した像を護持する行為が次の縁起への問いとなる(射の合成)」。地位の欄に「定義寄り」、その注に「構造の命名。ただし本コーパスで最も実運用された概念——多者検分の連鎖・回向・供養の再定義はすべてG-1の実装」。 | 定義寄り(整理表の勧告)|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 | 聞いて護り持ち、次へ渡す所。「如是我聞」(一)。「執持名號」(六)。「汝等皆當信受我語及諸佛所說」(八)。流通分の「聞佛所說,歡喜信受,作禮而去」(九)。 |
| Φ_C 慈悲の場 | 第二著作の項に「バランスパラメータ/慈悲の場/情報的ストレス——体系の基本語彙」とある三語(σ・Φ_C・I_stress)のうちの Φ_C。 | 定義|出所札なし(第二著作『ステアリングからウォッチングへ』)|第4層 | A10 (ii) の閾値の式の中で(手引きの式)。また、A2 の派生の「下降的 Φ_C」を、九で、この札を立てて読みます。 |
| 第6層の記帳 | 「華厳経・阿含経・禅録・浄土教典等への共創数学的アプローチの拡大(同上)」。同上は第三著作0-10を指します。 | 札なし(保留の項目)|出所札なし(第三著作0-10)|第6層 | この訳の位置づけ(序の拠り所)。この訳は、その保留に向けた一つの試みで、保留を解くものではありません。 |
整理表の式を、記号のまま抜き出すと次のとおりです。
\[ \begin{aligned} &\text{A0(運用上の顔)} && u' \Rightarrow c_{\mathrm{next}} \\ &\text{A1} && c \otimes u \to i \\ &\text{A2} && W_{\mathrm{Nash}}(\{S\}) = \prod_i W(\sigma_i) \\ &\text{A3} && T(S_1, S_2) = S'\ (\text{誠実な問いの条件下}), \qquad T(S_1, S_2) = \bot\ (\text{条件欠如時}) \\ &\text{A3(誠実な問いの条件)} && s_1|_{U_1 \cap U_2} = s_2|_{U_1 \cap U_2} \\ &\text{A4} && L \dashv R : \mathcal{L} \rightleftarrows \mathcal{M} \\ &\text{A10} && \forall x \in E_{\text{全}} : \exists B(x) \in F \\ &\text{A10 (ii)} && \Phi_C > \Phi_C^{*} \implies \exists n_0,\ \forall n \geq n_0 : B(x)\ \text{が顕在化} \\ &\text{G-1} && g(i_n) = c_{n+1} \end{aligned} \]
〔定義〕経の全体を通して用いる記号です。そのほかの記号は、その段で定めます。これらは借りではなく、この訳の定めです。
| 記号 | 読み |
|---|---|
| 𝒮 | 衆生の集まり |
| 𝒩 | 極楽の国の衆生(経の「其國眾生」「其土眾生」「極樂國土眾生生者」) |
| 名(x) | 経が x に与える名(「名曰」「號」「名為」) |
| A ≺ B | 経が「A……,何況 B」と言うこと。B が A にまさることだけを言い、どれだけまさるかは言いません |
| P ⇒ Q | 経が「故」「是故」「所以者何」で結ぶ理由と帰結、また「若……者」「……者,皆……」などで結ぶ条件と帰結。経が言う向きにだけ書きます。長い式の中では、⟹ と長く書きます(五・六・八) |
経は、聞いた者の名乗りと、集まった者たちの名から始まります。この経には、誰かが仏に問う場面がありません。
原文 如是我聞:一時,佛在舍衛國祇樹給孤獨園,與大比丘眾千二百五十人俱,皆是大阿羅漢,眾所知識。(大正12・346b–346c)
書き下し かくのごとく我聞きき。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に在して、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。みなこれ大阿羅漢にして、衆に知識せられたり。
訳 このように、私は聞きました。あるとき、仏は舎衛国の祇樹給孤独園におられ、千二百五十人の大比丘の衆とともにおられました。みな大阿羅漢で、人々によく知られた者たちでした。
原文 長老舍利弗、摩訶目犍連、摩訶迦葉、摩訶迦㫋延、摩訶俱絺羅、離婆多、周利槃陀伽、難陀、阿難陀、羅睺羅、憍梵波提、賓頭盧頗羅墮、迦留陀夷、摩訶劫賓那、薄拘羅、阿㝹樓馱,如是等諸大弟子,并諸菩薩摩訶薩——文殊師利法王子、阿逸多菩薩、乾陀訶提菩薩、常精進菩薩——與如是等諸大菩薩,及釋提桓因等無量諸天大眾俱。(大正12・346c)
書き下し 長老舎利弗・摩訶目犍連・摩訶迦葉・摩訶迦旃延・摩訶倶絺羅・離婆多・周利槃陀伽・難陀・阿難陀・羅睺羅・憍梵波提・賓頭盧頗羅堕・迦留陀夷・摩訶劫賓那・薄拘羅・阿㝹楼駄、かくのごときらのもろもろの大弟子、ならびにもろもろの菩薩摩訶薩、文殊師利法王子・阿逸多菩薩・乾陀訶提菩薩・常精進菩薩、かくのごときらのもろもろの大菩薩、および釈提桓因等の無量の諸天大衆と倶なりき。
訳 長老の舎利弗、摩訶目犍連、摩訶迦葉、摩訶迦旃延、摩訶倶絺羅、離婆多、周利槃陀伽、難陀、阿難陀、羅睺羅、憍梵波提、賓頭盧頗羅堕、迦留陀夷、摩訶劫賓那、薄拘羅、阿㝹楼駄など、このような大弟子たち、また菩薩摩訶薩たち、すなわち文殊師利法王子、阿逸多菩薩、乾陀訶提菩薩、常精進菩薩など、このような大菩薩たち、さらに釈提桓因をはじめとする数えきれない天の大衆も、ともにおられました。
〔借・定義寄り(整理表の勧告)|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕「我聞」は、聞いた言葉をそのまま護り持って、次の聞き手に渡す形と読めます。G-1 の「前の縁起が生成した像を護持する行為が次の縁起への問いとなる」に写すと、次のとおりです。i は説法が聞き手のうちに結んだ像、g はそれを護り持つこと、c は次の聞き手に向けられる問いです。この経では、仏が自ら、聞いたことを信じて受けよと求めます(八の「汝等皆當信受我語及諸佛所說」)。経の言葉は「如是我聞」までで、それを g・i・c に置くのは、この訳の重ね方です。
\[ g(i_{\text{祇園}}) = c_{\text{後に聞く者}} \]
〔読み〕集いを、経の言うとおりに書きます。名の挙がる大弟子は十六人、菩薩は四人です。比丘の数は経の言う名のまま置き、天の衆は「無量」とだけ書きます。
\[ \text{會} = \text{大比丘眾} \cup \text{菩薩眾} \cup \text{諸天大眾}, \qquad |\text{大比丘眾}| = \text{千二百五十}, \qquad |\text{諸天大眾}| = \text{無量} \]
〔読み〕この経では、会衆の誰も問わず、答えもしません。問いの形の言葉(「彼土何故名為極樂?」「於汝意云何?」「所以者何?」など)は、すべて仏が自ら立てます。答えのある問いには、仏が自ら答えます(二・三・四・五・八)。「何況有實?」(三)は、答えを求めない問いです。
\[ \forall x \in \text{會} :\ \neg\,\text{問}(x), \qquad \forall q \in \text{経の中の問い} :\ \text{問う者}(q) = \text{佛}, \qquad \forall q \in \text{答えのある問い} :\ \text{答える者}(q) = \text{佛} \]
〔諸釈〕問う者がいないことの意味と、発起序があるかどうかで、読みが分かれます。
| 師(出所) | 発起序 | 読み | 本文 |
|---|---|---|---|
| 元照『阿弥陀経義疏』(大正37・357c) | ない | 浄土は二乗の偏った小さな境ではないので、問う者がなく、仏がひとり説く。また、母が幼子をいつくしむように、問うことのできない者を呼んで教える | 「此經但列證信,獨無發起」「一、表他方淨剎非二乘偏小境界,縱有權行,示同不知,不假因緣,孤然自說,彰其特異」「二、表我佛世尊大慈憫物,如母愛子,憐其小騃,不能請問,召以誨之,彰其深切」 |
| 窺基『阿弥陀経通賛疏』(大正37・330a) | 挙げない | 十二分教のうちの無問自説。法華は請いを待って説き、浄土は自ら説いて慈悲を顕す | 「十二分中無問自說教」「說《法華》而待請,恐生輕慢之情;談淨土以自宣,為顯慈悲之意」 |
| 智円『阿弥陀経疏』(大正37・352c) | 衆の集まりが兼ねる | 衆が集まったことが、法を請う心を示す。新訳はそれを言葉にしている | 「以此眾集,知必請法,是故如來無問自說,應知集眾義兼發起」「新譯則有其詞,故彼經集眾之末乃云:為聞法故俱來會座」 |
| 智旭『阿弥陀経要解』(大正37・366c) | ある | 浄土の法門は深くて誰も問えないので、仏が自ら彼の国の依報と正報の名を唱えて、発起とする | 「別序,發起序也」「淨土妙門甚深不可思議,無人能問,故佛自唱彼土依正名字而為發起」 |
〔異本〕大正蔵の本文は、「大比丘眾」を「大比丘僧」に、「目犍連」を「目乾連」に、「迦㫋延」を「迦栴延」に、「俱絺羅」を「拘絺羅」に、「周利槃陀伽」を「周梨槃陀迦」に、「薄拘羅」を「薄俱羅」に作ります(脚注「僧流布本作眾」「乾=犍【三】,流布本亦同」など)。名の字などの違いで、意味は変わりません。玄奘の訳『称讃浄土仏摂受経』は、名を挙げる大弟子を舎利子・摩訶目犍連・摩訶迦葉・阿泥律陀の四人とし、集いの終わりを「為聞法故,俱來會坐」と結びます(大正12・348b–348c)。智円の言う「新訳」の言葉です。
仏は、誰にも問われないまま、西方の世界の名と、そこにいま法を説く仏の名を告げます。そして「極楽」という名の理由を、自ら問い、自ら答えます。
原文 爾時,佛告長老舍利弗:「從是西方過十萬億佛土,有世界名曰極樂。其土有佛,號阿彌陀,今現在說法。(大正12・346c)
書き下し そのとき、仏、長老舎利弗に告げたまはく、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。
訳 そのとき、仏は長老の舎利弗に告げられました。「ここから西の方へ、十万億の仏の国を過ぎた所に、極楽という名の世界があります。その国には仏がおられ、阿弥陀と号します。いま現に、そこで法を説いておられます。
〔読み〕仏が告げるのは、方角と隔たり、世界の名、仏の名、そして「今現在說法」といういまのことです。隔たりは経の言う量の名のまま、矢印の上に置きます(序の約束の三)。『観無量寿経』は同じ仏を「阿彌陀佛去此不遠」と言います。二つの言い方のかかわりは、『観経』の訳の四の〔諸釈〕で扱いました。
\[ \text{此} \xrightarrow{\ \text{西方過十萬億佛土}\ } \text{極樂}, \qquad \text{名}(\text{其世界}) = \text{極樂}, \qquad \text{名}(\text{其土之佛}) = \text{阿彌陀}, \qquad \text{說法}(\text{阿彌陀},\ \text{今}) \]
〔異本〕玄奘の訳は、隔たりを「去此世界過百千俱胝那庾多佛土」とし、仏の名を「其中世尊名無量壽及無量光」と、初めから二つの名で示します(大正12・348c)。羅什の訳は「阿彌陀」の一語で示し、その名のわけを四で光と寿命の二つに開きます。
原文 舍利弗!彼土何故名為極樂?其國眾生無有眾苦,但受諸樂,故名極樂。(大正12・346c)
書き下し 舎利弗、かの土をなんがゆゑぞ名づけて極楽とする。その国の衆生、もろもろの苦あることなく、ただもろもろの楽を受く。ゆゑに極楽と名づく。
訳 舎利弗よ、かの国を、なぜ極楽と名づけるのでしょうか。その国の衆生には、どの苦しみもなく、ただもろもろの楽しみを受けるだけです。それゆえ極楽と名づけるのです。
〔借・公理|刊行済|第1層 A2 慈悲の縁起的集合論〕〔読み〕国の名は、その国の衆生のすべてについて言えることを理由として立ちます。苦しむ者が一人でもいれば、この理由は成り立ちません。A2 の「誰か一人の安寧が零になると積全体が零になる」という組み立てに、ここを重ねて読めます。借りるのは組み立てだけで、W_Nash の量は使いません。式の 𝟙[p] は、命題 p が真なら 1、偽なら 0 です(式では太字の 1 で書きます)。経が言うのは「故名極樂」の理由までで、積はこの訳の重ね方です。
\[ \Bigl( \forall x \in \mathcal{N} :\ \neg\,\text{有眾苦}(x) \wedge \text{受諸樂}(x) \Bigr) \;\Rightarrow\; \text{名}(\text{其國}) = \text{極樂}, \qquad \text{A2 に重ねて} :\ \prod_{x \in \mathcal{N}} \mathbf{1}\bigl[\neg\,\text{有眾苦}(x)\bigr] = 1 \]
原文 又舍利弗!極樂國土,七重欄楯、七重羅網、七重行樹,皆是四寶周匝圍繞,是故彼國名曰極樂。(大正12・346c)
書き下し また舎利弗、極楽国土には、七重の欄楯・七重の羅網・七重の行樹あり。みなこれ四宝もて周匝し囲繞せり。このゆゑにかの国を名づけて極楽といふ。
訳 また舎利弗よ、極楽の国土には、七重の欄楯(てすり)、七重の羅網(宝の網)、七重の並木があり、みな四つの宝でできて、ぐるりと取り巡っています。それゆえ、かの国を極楽と名づけるのです。
〔読み〕経は、名の理由を二度挙げます。一つは、その国の衆生に苦がないこと(「故名極樂」)。もう一つは、七重の荘厳が四宝で取り巡ること(「是故彼國名曰極樂」)です。二つは、どちらも「故」で名へ結ばれ、経は二つの強弱を言いません。七重・四宝は経の言う名のまま置きます。式の 四寶(y) は y が四宝でできていること、周匝圍繞(y) は y が取り巡ることです。何を取り巡るかを経は言わず、式も決めません(下の〔諸釈〕で、窺基は宝樹とする説と国土とする説を挙げます)。
\[ \begin{aligned} &\text{理由}_1 :\ \forall x \in \mathcal{N} :\ \neg\,\text{有眾苦}(x) \wedge \text{受諸樂}(x) \\ &\text{理由}_2 :\ \forall y \in \{\text{欄楯},\ \text{羅網},\ \text{行樹}\} :\ \text{重}(y) = \text{七} \wedge \text{四寶}(y) \wedge \text{周匝圍繞}(y) \\ &\text{理由}_1 \Rightarrow \text{名}(\text{彼國}) = \text{極樂}, \qquad \text{理由}_2 \Rightarrow \text{名}(\text{彼國}) = \text{極樂} \end{aligned} \]
〔諸釈〕「極楽」の楽が、この世の苦に対して言う楽かどうかと、七重・四宝をどう読むかで、読みが分かれます。
| 師(出所) | 読み | 本文 |
|---|---|---|
| 智顗の名で伝わる『阿弥陀経義記』(大正37・306c) | 賢首に比べればなお下品で、娑婆と比べるから極楽と言う。名は三つあり、極楽は苦に対した名 | 「望賢首猶是下品,但比娑婆故言極樂」「彼有三名:極樂對苦,安養從用,無量壽者逐人名國」 |
| 窺基『阿弥陀経通賛疏』(大正37・338b、338c、339a) | ない苦を、生・老・病・死・怨憎会・求不得などと一つずつ挙げる。七重の欄楯は宝の樹のまわりにあり、欄楯・羅網・行樹はみな四宝でできる。取り巡るのは宝樹とも国土とも言う。七重は、七覚支・身口の七支・七聖財を表す | 「處絕三途、人無眾苦」「寶樹周圍有七重欄楯也」「欄楯、羅網、行樹此之三種,咸是四寶所成也」「一云、欄楯圍繞寶樹故云圍繞;二云、欄楯羅網行樹圍繞國土處處莊嚴故」「表生歸彼國得七覺支故,身口七支無諸過故,有七聖財」 |
| 智旭『阿弥陀経要解』(大正37・367b、367c) | 彼の土は三苦を永く離れ、この土の苦に対する楽とは異なる。七重は七科の道品を、四宝は常楽我浄の四徳を表す | 「彼土永離三苦,不同此土對苦之樂,乃名極樂」「各言七重者,表七科道品。皆是四寶者,表常樂我淨四德」 |
原文 「又舍利弗!極樂國土有七寶池,八功德水充滿其中,池底純以金沙布地。四邊階道,金、銀、琉璃、玻瓈合成;上有樓閣,亦以金、銀、琉璃、頗梨、硨磲、赤珠、碼碯而嚴飾之。池中蓮花,大如車輪,青色青光,黃色黃光,赤色赤光,白色白光,微妙香潔。舍利弗!極樂國土成就如是功德莊嚴。(大正12・346c–347a)
書き下し また舎利弗、極楽国土には七宝の池あり。八功徳水その中に充満せり。池の底にはもつぱら金沙をもつて地に布けり。四辺の階道は、金・銀・琉璃・玻瓈合成せり。上に楼閣あり。また金・銀・琉璃・頗梨・硨磲・赤珠・瑪瑙をもつて、これを厳飾す。池の中の蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり。舎利弗、極楽国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。
訳 また舎利弗よ、極楽の国土には七つの宝でできた池があり、八つの功徳をそなえた水が、その中に満ちています。池の底には、一面に金の砂が敷かれています。四方の階段の道は、金・銀・琉璃・玻瓈でできています。その上には楼閣があり、これもまた金・銀・琉璃・頗梨・硨磲・赤珠・瑪瑙で飾られています。池の中の蓮の花は、車輪ほどの大きさで、青い花は青い光を、黄の花は黄の光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、えもいわれず香り高く清らかです。舎利弗よ、極楽の国土は、このような功徳の荘厳を成就しています。
〔借・公理|刊行済|第1層 A4 夢の位相空間〕〔読み〕七宝の池、金の砂、車輪ほどの蓮華、色ごとに同じ色の光。経は、これらを「功德莊嚴」の成就と結びます。式は、花の色と光の色が一つひとつ一致することを、そのまま写します。式の ∼ は、経が「如……」と譬えることで、数の比は言いません。A4 は、要点の欄で「ミュトス地図の美しさをロゴス地図上の主張の証拠に転用することはA4自身が禁じる」とします。ゆえに、像の美しさは、数理の主張の証拠になりません。この訳は、その逆の向きにも歯止めを掛け、像を写す式の整いを、教えが真であることの証拠とはしません(序の約束の二)。
\[ \forall k \in \{\text{青},\ \text{黃},\ \text{赤},\ \text{白}\} :\ \text{光}(\text{蓮花}_k) = k, \qquad \text{大}(\text{蓮花}) \sim \text{車輪}, \qquad \text{成就}(\text{極樂國土},\ \text{功德莊嚴}) \]
〔諸釈〕蓮華の大きさを、窺基は「然今大小亦無定准,此中約小者說也」とし(大正37・339b–339c)、智旭は「蓮華大如車輪者,輪王金輪大四十里,且舉華之最小者言」とします(大正37・368a)。元照も、慈恩(窺基)の言葉として「華有大小,彼據極大,此約最小」を引きます(大正37・360a)。諸師はここでは読みがそろい、経の「車輪」を、蓮華の小さいものについて言うと読みます。式は、譬えを譬えのまま置きます。
〔異本〕大正蔵の本文は、階道の「玻瓈」を「頗梨」に、「硨磲」を「車𤦲」に、「碼碯」を「馬瑙」に作ります(脚注「頗梨=玻瓈【三】*,流布本亦同」など)。この脚注の「*」は、楼閣の「頗梨」にも及びますが、CBETA はそこを宋・元・明の三本の読みとしてだけ符号化しています。この訳は CBETA の符号に従い、楼閣の字は「頗梨」のままとしました(覚え書き)。玄奘の訳は、八功徳水を「一者澄淨,二者清冷,三者甘美,四者輕軟,五者潤澤,六者安和,七者飲時除飢渴等無量過患,八者飲已定能長養諸根四大」と数えて示します(大正12・348c)。羅什の訳は八つの中身を言いません。
極楽の衆生は、朝ごとに他方の仏たちを供養して戻ります。鳥の声と風の音は、聞く者に仏・法・僧を念じる心を起こさせます。経は、その鳥が罪の報いの鳥ではなく、阿弥陀仏の変化であると言います。
原文 「又舍利弗!彼佛國土,常作天樂,黃金為地,晝夜六時,而雨曼陀羅華。其國眾生,常以清旦,各以衣裓盛眾妙華,供養他方十萬億佛;即以食時,還到本國,飯食經行。舍利弗!極樂國土成就如是功德莊嚴。(大正12・347a)
書き下し また舎利弗、かの仏国土には、つねに天の楽をなし、黄金を地とす。昼夜六時に曼陀羅華を雨らす。その国の衆生、つねに清旦をもつて、おのおの衣裓をもつて、もろもろの妙華を盛りて、他方の十万億の仏を供養したてまつる。すなはち食時をもつて本国に還り到りて、飯食し経行す。舎利弗、極楽国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。
訳 また舎利弗よ、かの仏の国土では、いつも天の音楽が奏でられ、黄金が大地となっています。昼と夜の六つの時に、曼陀羅華が降ります。その国の衆生は、いつも朝早く、それぞれ衣裓にたくさんの美しい花を盛って、他方の十万億の仏たちを供養します。そして食事の時には本国に帰り、食事をし、経行をします。舎利弗よ、極楽の国土は、このような功徳の荘厳を成就しています。
〔読み〕経の時の名(昼夜六時・清旦・食時)と、行き先の数(他方十万億仏)を、名のまま置きます。式の「時の名 :」はその時に起こること、→ は経の語る順です(六でも同じに用います)。朝のうちに十万億の仏を巡って戻ることを、式は速さや道のりに直しません(序の約束の三)。
\[ \begin{aligned} &\text{晝夜六時} :\ \text{雨}(\text{曼陀羅華}) \\ &\forall x \in \mathcal{N} :\ \text{清旦} :\ \text{供養}(x,\ \text{他方十萬億佛}) \;\to\; \text{食時} :\ \text{還到}(x,\ \text{本國}) \;\to\; \text{飯食經行}(x) \end{aligned} \]
〔諸釈〕「昼夜」(元照と智旭は、かの国に日月がないとします)、衣裓が何か、十万億という数を、諸師は次のように読みます。
| 事 | 師(出所) | 読み | 本文 |
|---|---|---|---|
| 昼夜六時 | 元照『阿弥陀経義疏』(大正37・360a–360b) | かの国は光が常に照らし、日月がないので昼夜はない。この世の機に従って六時と言う。『大本』によれば、蓮が開き鳥が鳴くのを暁、蓮が閉じ鳥がねぐらに就くのを夜とする | 「彼國光明常照,既無日月則無晝夜,順此方機且言六時」「準《大本》中,彼以蓮開鳥鳴為曉,蓮合鳥棲為夜」 |
| 昼夜六時 | 智旭『阿弥陀経要解』(大正37・368b) | 華が開き鳥が鳴くのを昼、華が閉じ鳥がねぐらに就くのを夜とするか、あるいは、実には昼夜がなくても、この世のならいに従って仮に昼夜と説く、と二つを挙げる | 「或以華開鳥鳴為晝,華合鳥棲為夜。或雖實無晝夜,且順此方常習假說晝夜耳」 |
| 昼夜六時 | 窺基『阿弥陀経通賛疏』(大正37・339c–340a) | 浄土に昏暁がないのに、なぜ昼夜と言うのかと問い、華が開いて化生するのを夜明け、鳥が林に宿るのを夕べのしるしとする | 「西方淨土境勝地殊,人絕無明、國無昏曉,何言晝夜?」「華開金浦化生為天曙之情,鳥宿瓊林菩薩作時昏之相」 |
| 衣裓 | 智顗の名で伝わる『阿弥陀経義記』(大正37・306c) | 花を盛る器で、箱のような形に一つの足があり、手に捧げて供養する | 「衣裓是盛華器,形如函而有一足,手擎供養」 |
| 衣裓 | 智円『阿弥陀経疏』(大正37・354c) | 古い釈は衣のえりとし、真諦は花を盛る器とする | 「衣裓,古釋云:衣襟也。真諦云:外國盛華器也」 |
| 十万億 | 元照『阿弥陀経義疏』(大正37・360b) | 大きな数を挙げただけ | 「十萬億者,趣舉大數」 |
| 十万億 | 智旭『阿弥陀経要解』(大正37・368b) | 極楽からこの娑婆までの隔たりによって言う。極楽に生まれれば、還って釈迦や弥勒を供養するのも難しくないことを示す | 「僅言十萬億者,且據極樂去此娑婆十萬億土,意顯得生極樂國已,欲還供釋迦彌勒皆不難耳」 |
| 十万億 | 窺基『阿弥陀経通賛疏』(大正37・340a) | 供養する仏の数 | 「他方者,即十萬億佛,顯所供養佛數也」 |
訳は、衣裓を訳さずにそのまま置きました。
〔異本〕流布本の「而雨曼陀羅華」を、大正蔵の本文は「天雨曼陀羅華」に作り、宋・元・明の三本は「雨天曼陀羅華」に作ります(脚注「天雨=雨天【三】,天流布本作而」)。大正蔵の本文は「天が曼陀羅華を降らす」とも「天から曼陀羅華が降る」とも読め、三本は「天の曼陀羅華を降らす」です。流布本では、降らせるものを経は名指しません。また、元・明の二本は「其國眾生」を「其土眾生」に作ります(脚注「國=土【元】【明】」)。
原文 「復次舍利弗!彼國常有種種奇妙雜色之鳥——白鵠、孔雀、鸚鵡、舍利、迦陵頻伽、共命之鳥。是諸眾鳥,晝夜六時出和雅音,其音演暢五根、五力、七菩提分、八聖道分如是等法。其土眾生聞是音已,皆悉念佛、念法、念僧。(大正12・347a)
書き下し また次に舎利弗、かの国には、つねに種々の奇妙なる雑色の鳥あり。白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥なり。このもろもろの衆鳥、昼夜六時に和雅の音を出す。その音、五根・五力・七菩提分・八聖道分、かくのごときらの法を演暢す。その土の衆生、この音を聞きをはりて、みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。
訳 また次に舎利弗よ、かの国には、いつもさまざまな、めずらしく美しい色とりどりの鳥がいます。白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥です。これらの鳥たちは、昼と夜の六つの時に、やわらいだ雅な声を出します。その声は、五根・五力・七菩提分・八聖道分などの法を、のびやかに説き述べます。その国の衆生は、この声を聞き終えると、みな残らず仏を念じ、法を念じ、僧を念じます。
〔読み〕鳥の声が説くものと、それを聞いた衆生に起こることを書きます。経は「如是等法」と言うので、説かれる法を四つに限りません。
\[ \text{演暢}\bigl(\text{音}(\text{眾鳥}),\ \{\text{五根},\ \text{五力},\ \text{七菩提分},\ \text{八聖道分}\} \cup \text{如是等法}\bigr), \qquad \forall x \in \mathcal{N} :\ \text{聞}(x,\ \text{是音}) \Rightarrow \text{念佛}(x) \wedge \text{念法}(x) \wedge \text{念僧}(x) \]
原文 舍利弗!汝勿謂此鳥實是罪報所生。所以者何?彼佛國土無三惡趣。舍利弗!其佛國土尚無三惡道之名,何況有實?是諸眾鳥,皆是阿彌陀佛欲令法音宣流,變化所作。(大正12・347a)
書き下し 舎利弗、なんぢ、この鳥は実にこれ罪報の所生なりと謂ふことなかれ。ゆゑはいかん。かの仏国土には三悪趣なければなり。舎利弗、その仏国土には、なほ三悪道の名すらなし。いかにいはんや実あらんや。このもろもろの衆鳥は、みなこれ阿弥陀仏、法音をして宣流せしめんと欲して、変化してなしたまふところなり。
訳 舎利弗よ、あなたは、この鳥たちが本当に罪の報いによって生まれたものだと思ってはなりません。なぜなら、かの仏の国土には三悪趣がないからです。舎利弗よ、その仏の国土には、三悪道という名さえありません。まして、その実があるはずがありましょうか。これらの鳥たちは、みな阿弥陀仏が、法の声を広く流れさせようとして、変化してつくられたものです。
〔読み〕経は、鳥が罪報によって生まれたという見方を、国土に三悪趣がないことを理由に退けます。続く「尚無……之名,何況有實」は、手引きの ≺ の形です。名がないことよりも、実がないことのほうが、なおさらだと言います。
\[ \text{無三惡趣}(\text{彼國}) \;\Rightarrow\; \forall b \in \text{眾鳥} :\ \neg\,\text{罪報所生}(b), \qquad \neg\,\text{有名}(\text{三惡道}) \;\prec\; \neg\,\text{有實}(\text{三惡道}) \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A1 空鏡の公理〕〔読み〕法の声を流れさせようという仏の願い(c)と、三悪趣のない国土(u)とが出会って、罪報によらない鳥たち(i)が現れる、と置けます。A1 の「どちらにも還元できない」に重ねるのは、鳥(i)が、仏の願い(c)にも国土(u)にも還元されない、という形です。鳥が阿弥陀仏とどう関わるかは、諸師の読みが分かれます(下の〔諸釈〕)。経が言うのは「欲令法音宣流,變化所作」までで、u に国土を置くのは、この訳の重ね方です。
\[ \underbrace{\text{欲令法音宣流}}_{c} \otimes \underbrace{\text{無三惡趣之國}}_{u} \;\to\; \underbrace{\text{眾鳥}}_{i}\ \ (\text{變化所作}) \]
〔諸釈〕浄土になぜ鳥がいるのか、という問いに、諸師は次のように答えます。
| 師(出所) | 読み | 本文 |
|---|---|---|
| 窺基『阿弥陀経通賛疏』(大正37・340b、341b) | 弥陀の変化で霊鳥があり、法音を讃えて国を飾る。仏の身を化して現すのはめずらしくないが、霊鳥を現せば、まれに遇う思いと深い信を起こさせる | 「淨土殊勝尚無凡夫,何故飛禽亦生彼國?」「彌陀變化而有靈禽,讚利法音莊嚴國界」「化身為佛未是希奇,乃現靈禽,令生罕遇」 |
| 元照『阿弥陀経義疏』(大正37・360c) | 濁った世の禽獣は罪業が招くもので、浄土にあるはずがない、という疑いを、経が先に断つ。『観経』によれば鳥は宝珠の光が化したもので、衆鳥は弥陀の化身であり、法音を遠近に行き渡らせるためとする | 「濁世禽畜罪業所招,極樂淨土何緣有此?」「當知眾鳥即是彌陀化身,欲使法音遍布遠近」 |
| 智旭『阿弥陀経要解』(大正37・369b) | 何にでも化せるのに、なぜ鳥か。四悉檀の因縁による。人の情が鳥を喜ぶこと、鳥さえ法を説くこと、鳥を劣ったものと見る心を治めること、鳥が弥陀の法身と異ならないこと | 「佛欲法音宣流,隨所化現皆可,何必化作眾鳥?」「一者、凡情喜此諸鳥,順情而化之,令歡喜故」「四者、鳥即彌陀化作,不異彌陀法身,令悟法身平等」 |
〔異本〕玄奘の訳は、この所を「彼土眾鳥豈是傍生惡趣攝耶?勿作是見」「眾鳥當知皆是無量壽佛變化所作」とします(大正12・349b)。大正蔵の脚注によれば、宋・元・明の三本は「白鵠」を「白鶴」に、「無三惡趣」を「無三惡道」に作ります(「鵠=鶴【三】」「趣=道【三】」)。
原文 舍利弗!彼佛國土微風吹動,諸寶行樹及寶羅網出微妙音,譬如百千種樂同時俱作,聞是音者,皆自然生念佛、念法、念僧之心。舍利弗!其佛國土成就如是功德莊嚴。(大正12・347a)
書き下し 舎利弗、かの仏国土には、微風吹き動きて、もろもろの宝行樹および宝羅網、微妙の音を出す。たとへば百千種の楽の同時に倶になるがごとし。この音を聞くものは、みな自然に仏を念じ、法を念じ、僧を念ずるの心を生ず。舎利弗、その仏国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。
訳 舎利弗よ、かの仏の国土では、そよ風が吹きわたり、宝の並木や宝の網が、えもいわれぬ音を出します。それは、百千種の楽器が同時にいっせいに奏でられるようです。この音を聞く者は、みな、おのずから仏を念じ、法を念じ、僧を念ずる心を起こします。舎利弗よ、その仏の国土は、このような功徳の荘厳を成就しています。
〔借・公理|刊行済|第1層 A9 灌頂の公理〕〔読み〕風の音は、聞く者に念仏・念法・念僧の心を「自然に」起こさせます。国は、念じよと命じるのではなく、念じる心が起こる場として働く、と読めます。A9 の「「変える」のではなく「変わるための場を整える」」に重ねて読めます。ただし窺基は、この「自然」を、慣れ親しんでおのずから運ぶことで、因縁がないことではない、とします(「自然者,慣習任運名曰自然,非無因緣名自然也」、大正37・341c)。式の「自然生」も、因縁なしに生じるとは書きません。量化は「聞是音者」のとおり、聞く者すべてにとります。経が言うのは「皆自然生念佛、念法、念僧之心」までで、場という言い方は、この訳の重ね方です。
\[ \forall x :\ \text{聞}(x,\ \text{是音}) \;\Rightarrow\; \text{自然生}\bigl(x,\ \text{念佛・念法・念僧之心}\bigr), \qquad \text{音}(\text{寶行樹},\ \text{寶羅網}) \sim \text{百千種樂同時俱作} \]
〔異本〕玄奘の訳は「常有妙風吹諸寶樹及寶羅網出微妙音」とし、さらに「妙風吹眾寶樹及寶羅網,擊出種種微妙音聲」と言います(大正12・349b)。風が宝樹と羅網を吹き、打って音を出させる、という言い方です。羅什の文は、CBETA の句読(「微風吹動,諸寶行樹及寶羅網出微妙音」)では、風が吹き動き、宝樹と羅網が音を出すと読め、書き下しはこれに従いました。どちらでも、風が吹いて宝樹と羅網が鳴ることは変わりません。大正蔵の脚注によれば、宋・元・明の三本は「皆自然」を「自然皆」に作ります。
「阿弥陀」という名にも、経は二つの理由を挙げます。光明が無量であることと、仏とその国の人々の寿命が無量であることです。その上で経は、成仏からの時を「十劫」と、数えられる名で言います。
原文 「舍利弗!於汝意云何?彼佛何故號阿彌陀?舍利弗!彼佛光明無量,照十方國無所障礙,是故號為阿彌陀。又舍利弗!彼佛壽命及其人民,無量無邊阿僧祇劫,故名阿彌陀。(大正12・347a)
書き下し 舎利弗、なんぢが意においていかん。かの仏をなんがゆゑぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民も、無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。
訳 舎利弗よ、あなたはどう思いますか。かの仏は、なぜ阿弥陀と号するのでしょうか。舎利弗よ、かの仏の光明は量りしれず、十方の国々を照らして、さえぎられるところがありません。それゆえ阿弥陀と号するのです。また舎利弗よ、かの仏の寿命も、その国の人々の寿命も、量りしれず果てしない阿僧祇劫です。それゆえ阿弥陀と名づけるのです。
〔読み〕名の理由は二つで、どちらも「是故」「故」で名へ結ばれます。光の理由には、無量であることに加えて、十方のどの国もさえぎられずに照らすことが言われます。寿命の理由は、仏だけでなくその国の人々にも及びます。大正蔵の脚注は、問いの「阿彌陀」に「Amitābha.」を、寿命の段の「阿彌陀」に「Amitāyuṣ.」を添えます。
\[ \begin{aligned} &\Bigl(\text{光明}(\text{彼佛}) = \text{無量} \;\wedge\; \forall \beta \in \text{十方國} :\ \text{照}(\text{光明},\ \beta) \wedge \neg\,\text{障礙}\Bigr) \;\Rightarrow\; \text{名}(\text{彼佛}) = \text{阿彌陀} \\ &\text{壽命}(\text{彼佛}) = \text{無量無邊阿僧祇劫} \;\wedge\; \text{壽命}(\text{其人民}) = \text{無量無邊阿僧祇劫} \;\Rightarrow\; \text{名}(\text{彼佛}) = \text{阿彌陀} \end{aligned} \]
式の等号は、寿命を経の言う量の名で置くもので、二つの寿命が数として等しいとは言いません。
〔諸釈〕「無量」をどう読むかで、序の約束の三が言う「一つの読み」の外に、もう一つの読みがあります。智顗の名で伝わる『阿弥陀経義記』は、阿弥陀の寿命は実は量があり、ほかの者が数えられないので無量と説く、とします(「其實有量,以餘人不能稱數,既云觀音補處,下地不知,說無量耳」、大正37・306c)。智旭は、法身と報身の寿命は無量だが(「法身壽命無始無終故無量,報身壽命有始無終故無量」)、応身としての寿命は「此則實有限量,特以人天莫數,名無量耳」としたうえで、三身は一でも異でもないから、応身もまた無量の無量と言える、と続けます(「然三身既不一異,則應身亦可即是無量之無量矣」、大正37・370a)。二つの読みを式で並べると、次のとおりです。一つめは、どの有限の量にも上から押さえられないという読み、二つめは、限りはあるが人や天が数えられないという読みです。
\[ \text{読み}_1 :\ \forall n :\ \text{壽命} > n, \qquad\qquad \text{読み}_2 :\ \exists N :\ \text{壽命} \le N \;\wedge\; \neg\,\text{可數}(\text{人天},\ \text{壽命}) \]
〔諸釈〕光と寿命の二つを、元照は仏の智と福とし(「光表佛智,壽表佛福」、大正37・357c)、「阿彌陀」を「無量」と訳して、無量を共通、光と寿を別とします(「阿彌陀此翻無量,一者、光明,二者、壽命。無量是通,光壽為別」、大正37・360c–361a)。智旭は、光明を「心性寂而常照」、寿命を「心性照而常寂」と読みます(大正37・369c、370a)。窺基は、光に内の光(智)と外の光(身光)とがあり、ここは身光を言うとします(「光有二種:一、內光,即智內照理;二、外光,即身光外照也。此即身光也」、大正37・342a)。
〔異本〕玄奘の訳は、寿命を先に、光を後に説き、二つを別の名として立てます。「佛有何緣名無量壽」「何緣彼佛名無量光」と問い、光については「恒放無量無邊妙光,遍照一切十方佛土,施作佛事無有障礙」と答えます(大正12・349b–349c)。
原文 舍利弗!阿彌陀佛成佛已來,於今十劫。又舍利弗!彼佛有無量無邊聲聞弟子,皆阿羅漢,非是算數之所能知;諸菩薩眾,亦復如是。舍利弗!彼佛國土成就如是功德莊嚴。(大正12・347a–347b)
書き下し 舎利弗、阿弥陀仏、成仏よりこのかた、いまに十劫なり。また舎利弗、かの仏に無量無辺の声聞の弟子あり。みな阿羅漢なり。これ算数のよく知るところにあらず。もろもろの菩薩衆も、またまたかくのごとし。舎利弗、かの仏国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。
訳 舎利弗よ、阿弥陀仏が仏と成られてから、いままでに十劫になります。また舎利弗よ、かの仏には、量りしれず果てしない声聞の弟子たちがいて、みな阿羅漢です。その数は、算数で知ることのできるものではありません。菩薩たちもまた同じです。舎利弗よ、かの仏の国土は、このような功徳の荘厳を成就しています。
〔読み〕無量の寿命を言ったすぐ後に、経は成仏からの時を「十劫」という有限の名で言います。『無量寿経』も「成佛已來凡歷十劫」と言います(『無量寿経』の訳の上巻 十二)。
\[ t_{\text{今}} - t_{\text{成佛}} = \text{十劫}, \qquad \text{壽命}(\text{阿彌陀佛}) = \text{無量無邊阿僧祇劫} \]
〔諸釈〕十劫を、諸師は次のように読みます。元暁は、疑いを除くための言葉と読みます。寿命が無量でも始めと終わりがあるなら、いまが始めか終わりか分からない、と疑う者に、過ぎたのは十劫だけだから、この先に無量劫とどまる、と示すのだというのです(「有人疑言:壽雖無量,要有始終,未知今者為始為末?」「今既所過唯經十劫,當知今後無量劫住故」、大正37・349c)。元照は、『法華経』で阿弥陀が大通智勝仏の十六王子の一人であったことなどを挙げ、十劫を一期の機に赴いた説とします(「今經大本皆言十劫,乃是一期赴機之說,不足疑矣」、大正37・361a)。智旭は、諸仏の成道には本と迹があり、十劫は極楽で成仏を示した迹について言うとします(「然諸佛成道各有本迹,本地並不可測,且約西方極樂示成之迹則成佛十劫」、大正37・370a)。
〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕声聞の弟子の数を、経は自ら「非是算數之所能知」と言い、菩薩も同じだとします。数えるための記号では知り尽くせない、と経が言う所を、A0 の「いかなる記号体系 L も、u′(虚空の余剰)を汲み尽くせない」に重ねて読めます。式も、その数を数えず、数えられないということだけを書きます。経が言うのは数え上げが及ばないことまでで、虚空の余剰については語りません。
\[ |\text{聲聞弟子}(\text{彼佛})| = \text{無量無邊} \;\notin\; \text{算數之所能知}, \qquad |\text{諸菩薩眾}| \;\notin\; \text{算數之所能知}\ \ (\text{亦復如是}) \]
〔読み〕経は、仏とその弟子たちを語り終えた所でも、国土の荘厳と同じ「成就如是功德莊嚴」で結びます。この結びは、二の七宝の池からここまで、四度あります。経の主語は、四度とも国土です(「極樂國土」「其佛國土」「彼佛國土」)。
\[ \text{成就}\bigl(\text{國土},\ \text{如是功德莊嚴}\bigr)\ \text{の結び} :\ \text{七寶池}\ (\text{二}) \;\to\; \text{天樂・花雨}\ (\text{三}) \;\to\; \text{眾鳥・微風}\ (\text{三}) \;\to\; \text{光壽・聲聞・菩薩}\ (\text{四}) \]
〔諸釈〕四度目の結びを、元照は、前と同じく国の荘厳と読みます(「為國莊嚴,義同前釋」、大正37・361b)。智円は、前の荘厳は極楽を飾り、ここの荘厳は無量(阿弥陀の名)を飾るもので、言葉は同じで意味が別とし、弟子と生まれる者がともに無量であることも、仏が無量と名づけられるわけに数えます(「前言莊嚴則莊嚴極樂,此言莊嚴則莊嚴無量,語同意別也」「既二皆無量,故使法王名無量也」、大正37・355b)。
〔異本〕流布本の「諸菩薩眾」を、大正蔵の本文は「諸菩薩」に作ります(脚注「薩+(眾)【三】,流布本亦同」)。玄奘の訳は、成仏からの時を「證得阿耨多羅三藐三菩提已來經十大劫」とします(大正12・349c)。
極楽に生まれる者は、みな退かない者(阿鞞跋致)です。経はここで初めて、聞く者に願いを起こせと勧め、その理由を、すぐれた人々と一つ所で会うこととします。
原文 「又舍利弗!極樂國土眾生生者,皆是阿鞞跋致。其中多有一生補處,其數甚多,非是算數所能知之,但可以無量無邊阿僧祇劫說。(大正12・347b)
書き下し また舎利弗、極楽国土に衆生の生ずるものは、みなこれ阿鞞跋致なり。その中に多く一生補処あり。その数はなはだ多くして、これ算数のよくこれを知るところにあらず。ただ無量無辺阿僧祇劫をもつて説くべし。
訳 また舎利弗よ、極楽の国土に生まれる衆生は、みな阿鞞跋致(退かない者)です。その中には、一生補処(この一生を終えれば仏と成る位)の者が多くいます。その数はたいへん多く、算数で知ることのできるものではありません。ただ、量りしれず果てしない阿僧祇劫をもって説くほかありません。
〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕極楽に生まれる者は、一人の例外もなく阿鞞跋致、すなわちもはや退かない者です。A10 (ii) の「Φ_C > Φ_C* ⟹ ∃n₀, ∀n ≥ n₀ : B(x) が顕在化(閾値構造)」に重ねれば、極楽に生まれることが閾値を越えることに、阿鞞跋致が「∀n ≥ n₀」の側、つまり越えた後は退かないことにあたる、と読めます。経は、閾値や Φ_C の量を語りません。A10 (ii) の「B(x) が顕在化」にあたる語も、経はここで言いません。経が言うのは退かないことで、仏性ではありません。閾値をどこに置くかは、八でも見ます。また、一生補処の者の数を、経は算数では知りえないとし、「無量無邊阿僧祇劫」をもって説くほかないと言います。この句の読みは分かれます(下の〔諸釈〕と〔異本〕)。式は、四と同じく、数えられないということだけを書きます。
\[ \forall x :\ \underbrace{\text{生}(x,\ \text{極樂})}_{\text{閾値を越える}} \;\Longrightarrow\; \underbrace{\text{阿鞞跋致}(x)}_{\exists n_0\ \forall n \ge n_0\ :\ \text{退かない}}, \qquad |\{x \in \mathcal{N} :\ \text{一生補處}(x)\}| = \text{甚多} \;\notin\; \text{算數所能知} \]
〔諸釈〕声聞もいる国で、なぜ「皆是阿鞞跋致」と言えるのか、また、なぜ退かないのかで、諸師の説き方が分かれます。
| 師(出所) | 読み | 本文 |
|---|---|---|
| 智顗の名で伝わる『阿弥陀経義記』(大正37・307a) | かの国の二乗もみな退かない。二乗の不退は凡夫に戻らないこと、菩薩の不退は小乗に戻らないこと | 「前云有無數聲聞,後何得云眾生生彼國者皆是阿鞞跋致?解云:彼土二乘亦皆不退,二乘不退為凡夫,菩薩不退為小乘也」 |
| 元照『阿弥陀経義疏』(大正37・361b) | 生まれた者は、下は凡夫から仏と成るまで退いて堕ちることがない。『十疑論』の五つの因縁を引く | 「生彼國者,下至凡夫直至成佛更無退墮」「彼國有五因緣故不退:一、彌陀願力攝持,二、佛光常照,三、水鳥樹林常說法,四、純諸菩薩為友無諸惡緣,五、壽命永劫」 |
| 窺基『阿弥陀経通賛疏』(大正37・342c) | 退かせる五つの縁がないから退かない | 「無五退緣故」 |
| 智旭『阿弥陀経要解』(大正37・370c) | 位・行・念の三つの不退。五逆・十悪の者が十念で往生して下品下生にいても、三つの不退を得る。浄土には退かせる縁がないから | 「阿鞞跋致此云不退,而有三義」「今淨土中則雖五逆、十惡,十念成就帶業往生居下下品者,例皆得三不退,以淨土無退緣故」 |
〔諸釈〕元照は、一生補処を等覚の菩薩(観音・勢至など)とし、その数は算数の及ぶ所ではなく、阿僧祇と言うほかないとします(「一生補處,即等覺菩薩,如觀音、勢至等,眾類既多,非算所及,止可但言阿僧祇耳」、大正37・361b)。元照と智円は、阿僧祇を「無數」と訳し、数の名とします(「阿僧祇此云無數」、大正37・361a。「阿僧祇,翻無數」、大正37・355b)。智旭の引く経文には「劫」の字がありません(「但可以無量無邊阿僧祇說」、大正37・370c)。
〔異本〕明本は「阿僧祇劫」の「劫」の字を欠きます(脚注「〔劫〕-【明】」)。玄奘の訳は、菩薩の弟子が「一切皆是一生所繫」であるとし(羅什の訳は「其中多有一生補處」)、その功徳を「假使經於無數量劫讚其功德終不能盡」と、ほめ尽くすのにかかる劫の長さで言います。不退転の中身は「必不復墮諸險惡趣、邊地下賤蔑戾車中,常遊諸佛清淨國土,殊勝行願念念增進,決定當證阿耨多羅三藐三菩提」と述べます(大正12・349c)。
原文 舍利弗!眾生聞者,應當發願,願生彼國。所以者何?得與如是諸上善人俱會一處。(大正12・347b)
書き下し 舎利弗、衆生聞かんものは、まさに願を発して、かの国に生ぜんと願ふべし。ゆゑはいかん。かくのごときの諸上善人と、倶に一処に会することを得ればなり。
訳 舎利弗よ、これを聞く衆生は、願いを起こして、かの国に生まれたいと願うべきです。なぜなら、このような、すぐれた善き人々と、ともに一つの所で会うことができるからです。
〔借・公理|刊行済|第1層 A9 灌頂の公理〕〔読み〕経はここで、聞く者に「應當發願」、願うべきだと勧めます。その理由として経が挙げるのは、宝の池でも鳥の声でもなく、すぐれた善き人々と一つ所で会うことです。A9 の「「変える」のではなく「変わるための場を整える」」に重ねれば、国は、すぐれた人々と倶にいる場として示される、と読めます。経は、変えることと場を整えることの別を語りません。式の「應當」は、経の勧めを勧めのまま置くもので、含意(⇒)ではありません。式の ⇒ は、「所以者何」が結ぶ、理由から勧めへの向きです。
\[ \forall x \in \text{聞者} :\ \Bigl(\underbrace{\text{得}\bigl(x,\ \text{俱會一處}(\text{諸上善人})\bigr)}_{\text{所以者何}} \;\Rightarrow\; \text{應當}\bigl(\text{發願}(x,\ \text{生彼國})\bigr)\Bigr) \]
〔諸釈〕智円は、「諸上善人」と同じくなることを正報に、「俱會一處」を依報にあてます(「與諸上善人是同彼正,俱會一處是同彼依」、大正37・355b)。智旭は、ここの発願を、前の依報・正報を聞いて信じた者に勧める「願」とし、信と願を往生の要とします(「信願二種即是往生淨土之要領也」、大正37・370c)。
〔異本〕玄奘の訳は、理由を「若生彼土,得與如是無量功德眾所莊嚴諸大士等同一集會」とし、さらに「大乘法樂常無退轉,無量行願念念增進,速證無上正等菩提」と続けます(大正12・349c–350a)。
経は、わずかな善根では極楽に生まれられないと言い、名号を執り持って一心に乱れない者には、臨終に仏が聖衆とともに現れ、心が顛倒せずに往生すると言います。仏がこれを説く理由は、「この利を見る」からです。
原文 「舍利弗!不可以少善根福德因緣得生彼國。(大正12・347b)
書き下し 舎利弗、少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず。
訳 舎利弗よ、わずかな善根や福徳の因縁によって、かの国に生まれることはできません。
〔読み〕「不可以 A 得 B」は、A によっては B を得られない、つまり A が B に足りないことを言います。式の ⇏ は、左が右に足りないことです。何が多善根にあたるかを、流布本の文は名指しません。続く文が名号の執持を説くため、二つの文のつながりをどう読むかが、諸師の分かれ目になります。
\[ \text{少善根福德因緣}(x) \;\nRightarrow\; \text{得生彼國}(x) \]
〔諸釈〕何を少善根とし、何を多善根とするかで、読みが分かれます。
| 師(出所) | 読み | 本文 |
|---|---|---|
| 元照『阿弥陀経義疏』(大正37・361c) | 布施・持戒などのあらゆる福業も、正しい信と回向の願いがなければ少善。名を称えることが多善根・多福徳 | 「先貶餘善為少善根,所謂布施、持戒、立寺、造像、禮誦、坐禪、懺念、苦行一切福業,若無正信迴向願求,皆為少善,非往生因」「即知稱名是多善根、多福德也」 |
| 善導『法事讃』(大正47・433b) | 縁にまかせた雑善では生まれがたいので、如来が要法を選んで、弥陀を専ら念じさせる | 「極樂無為涅槃界,隨緣雜善恐難生,故使如來選要法,教念彌陀專復專」 |
| 智円『阿弥陀経疏』(大正37・355b) | 小善はなおざりの発願と散乱した称名、多善は日限を定めた名号の執持 | 「小善謂等閑發願散亂善稱名,多善謂執持名號要期日限」 |
| 元暁『阿弥陀経疏』(大正37・350a) | 正因は、多くの善根を摂める大菩提心。名号の執持は助因 | 「正因中言不可以少善根福德因緣得生彼國者,顯示大菩提心攝多善根以為因緣乃得生故」「第二明助因者,執持名號一心不亂故」 |
| 智旭『阿弥陀経要解』(大正37・371a) | 信と願をもって名号を執持すれば、一声ごとに多くの善根福徳がそなわる。散心の称名でも量りしれない | 「唯以信願執持名號,則一一聲中皆悉具多善根福德,縱令散心稱名善根福德亦不可量,況一心不亂哉」 |
〔異本〕元照は、襄陽の石碑に刻まれた経の本文を引きます。「善男子、善女人聞說阿彌陀佛,一心不亂專持名號,以稱名故諸罪消滅,即是多功德、多善根、多福德因緣」。そして、その石経は梁・陳の人の書で、元照のときまで六百余年を経ており、いまの本は伝えるうちに脱落したのではないか、と疑います(「近得襄陽石碑經本,文理冥符,始懷深信」「彼石經本梁陳人書,至今六百餘載,竊疑今本相傳訛脫」、大正37・361c)。この本文では、名を称えることが多善根だと、経自らが言うことになります。大正蔵の本文と校注に、この句はありません。玄奘の訳は、少善根の句を「非少善根諸有情類當得往生無量壽佛極樂世界清淨佛土」とします(大正12・350a)。
原文 舍利弗!若有善男子、善女人,聞說阿彌陀佛,執持名號,若一日、若二日、若三日、若四日、若五日、若六日、若七日,一心不亂。其人臨命終時,阿彌陀佛與諸聖眾,現在其前。是人終時,心不顛倒,即得往生阿彌陀佛極樂國土。(大正12・347b)
書き下し 舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らん時、心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん。
訳 舎利弗よ、もし善男子・善女人が、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、その名号を執り持ち、一日、二日、三日、四日、五日、六日、あるいは七日のあいだ、一心で乱れなければ、その人が命を終えようとする時、阿弥陀仏は聖者たちとともに、その人の前に現れてくださいます。この人は命の終わる時に、心が顛倒することなく、ただちに阿弥陀仏の極楽国土に往生することができます。
〔借・定義寄り(整理表の勧告)|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕「執持名號」は、聞いた名を執り持ち続けることです。智円は、執を「執受」、持を「任持」とし、信の力で心に受け取り、念の力で保って忘れないことと読みます(「執持名號者,執謂執受,持謂任持,信力故執受在心,念力故任持不忘」、大正37・355c)。G-1 の「前の縁起が生成した像を護持する行為が次の縁起への問いとなる」に重ねれば、i は「聞說阿彌陀佛」によって聞く者のうちに結んだ名、g はその執持、c は臨終の出会いに向かう問いです。経は、執持と臨終の出会いとのあいだを、「若……」の条件として言うだけで、問いという言葉は用いません。
\[ g\bigl(i_{\text{聞}}\bigr) = c_{\text{臨命終}} \]
〔読み〕経の条件と、その後に起こることの順を写します。⟹ は「若……」の条件と帰結、→ は経の語る順です。日数は「若一日……若七日」のどれか一つで足り、日数を足しも掛けもしません。仏が前に現れることが心不顛倒の因かどうかを、羅什の文は言いません(下の〔諸釈〕と〔異本〕)。ゆえに、ここも → でつなぎます。
\[ \begin{aligned} &\text{聞說}(x,\ \text{阿彌陀佛}) \;\wedge\; \bigl(\exists d \in \{\text{一日},\ \text{二日},\ \ldots,\ \text{七日}\} :\ \text{執持名號}(x,\ d) \wedge \text{一心不亂}(x,\ d)\bigr) \\ &\quad \Longrightarrow\; \text{現在其前}\bigl(\text{阿彌陀佛},\ \text{諸聖眾};\ x,\ t_{\text{臨命終}}\bigr) \;\to\; \text{心不顛倒}(x,\ t_{\text{終}}) \;\to\; \text{即得往生}(x,\ \text{極樂國土}) \end{aligned} \]
〔諸釈〕日数と「一心不亂」の読みは、次のように分かれます。
| 師(出所) | 読み | 本文 |
|---|---|---|
| 智顗の名で伝わる『阿弥陀経義記』(大正37・307a) | 日数の多少ではなく、心の用い方の厚薄による | 「今不以時日多少,特由用心厚薄耳」 |
| 元暁『阿弥陀経疏』(大正37・350b) | すぐれた人は速く成り、劣った人は遅く熟する | 「一日乃至七日者,勝人速成、劣者遲熟故」 |
| 元照『阿弥陀経義疏』(大正37・361c) | 日限は人の約束による。『無量寿経』『観経』によれば日限はなく、下は十念(十声)まで | 「一日七日隨人要約」「若準《大本》、《觀經》則無日限,下至十念皆得往生,十念即十聲也」 |
| 窺基『阿弥陀経通賛疏』(大正37・331a) | 一心不乱・十念専精でただちに浄土へ往く。この経は頓教 | 「一心不亂十念專精,便往淨土頓拋濁世,即頓教所收」 |
| 智旭『阿弥陀経要解』(大正37・365a) | 事の一心不乱と理の一心不乱を分け、執持の深さによって生まれる土が分かれる | 「若執持名號至於事一心不亂,見思任運先落者,則生方便有餘淨土。若執持名號至於理一心不亂」 |
| 善導『往生礼讃』『観経疏』(大正47・447c、大正37・250a) | この経を引くとき、一心を「一心稱佛不亂」「一心願生」と引く | 「即應執持名號,若一日若二日乃至七日,一心稱佛不亂」「即應執持名號,一日乃至七日,一心願生」 |
〔諸釈〕臨終に仏が現れることと、心が顛倒しないことのかかわりを、智顗の名で伝わる『義記』は、仏が宿願の力で化仏を遣わして迎え、臨終の一念の心の懇切さで往生すると読みます(「阿彌陀佛以宿願力化佛迎接,心不顛倒即得往生。何以故?臨終一念用心懇切即當得去也」、大正37・307a)。窺基は、不顛倒を「不移正念」とします(大正37・343c)。智旭は、感応が交わって、弥陀と聖衆は来ずして来り、行者の心は往かずして往く、と読みます(「故使感應道交文成印壞,彌陀聖眾不來而來親承接引,行人心識不往而往托質寶蓮也」、大正37・371a–371b)。
〔異本〕玄奘の訳は、この段を「聞已思惟,若一日夜,或二、或三、或四、或五、或六、或七,繫念不亂」とし、名号を聞くことは言いますが(「得聞如是無量壽佛無量無邊不可思議功德名號」)、執持は言わず、「思惟」と「繫念」を言います。臨終については、仏が前に来て「慈悲加祐,令心不亂」とし、仏の加祐が心を乱れさせないと、因をはっきり言います(大正12・350a)。
\[ \text{羅什の訳} :\ \text{現在其前} \to \text{心不顛倒} \to \text{往生}\ \ (\text{順}), \qquad \text{玄奘の訳} :\ \text{慈悲加祐} \xrightarrow{\ \text{令}\ } \text{心不亂}\ \ (\text{因}) \]
原文 舍利弗!我見是利,故說此言。若有眾生聞是說者,應當發願生彼國土。(大正12・347b)
書き下し 舎利弗、我この利を見るがゆゑに、この言を説く。もし衆生ありて、この説を聞かんものは、まさに願を発して、かの国土に生ずべし。
訳 舎利弗よ、私はこの利益を見るので、この言葉を説くのです。もしこの説を聞く衆生があれば、願いを起こして、かの国土に生まれるべきです。
〔読み〕仏は、説く理由を、この利を見ることだと言います。ここで二度目の発願の勧めがあり、三度目は八にあります(一度目は五)。どれも「應當發願」で、聞く者(五・六)と信ずる者(八)に向けられます。
\[ \text{見}(\text{佛},\ \text{是利}) \;\Rightarrow\; \text{說}(\text{佛},\ \text{此言}), \qquad \forall x \in \mathcal{S} :\ \Bigl(\text{聞}(x,\ \text{是說}) \;\Rightarrow\; \text{應當}\bigl(\text{發願}(x) \wedge \text{生}(x,\ \text{彼國土})\bigr)\Bigr) \]
六方の諸仏は、それぞれの国で広長の舌相を現し、一字も違わない言葉で、この経を信ぜよと証します。六つの段は同じ形をとるので、式と読みは六方の後にまとめます。
原文 「舍利弗!如我今者,讚歎阿彌陀佛不可思議功德;東方亦有阿閦鞞佛、須彌相佛、大須彌佛、須彌光佛、妙音佛,如是等恒河沙數諸佛,各於其國出廣長舌相,遍覆三千大千世界,說誠實言:『汝等眾生,當信是稱讚不可思議功德一切諸佛所護念經。』(大正12・347b)
書き下し 舎利弗、我いま阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃嘆するがごとく、東方にもまた阿閦鞞仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国において広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、『なんぢら衆生、まさにこの称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべし』と。
訳 舎利弗よ、私がいま阿弥陀仏の思いはかることのできない功徳をほめたたえているように、東方にもまた、阿閦鞞仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏など、ガンジス河の砂の数ほどの仏たちがおられて、それぞれ自分の国で、広く長い舌の相を出し、三千大千世界をあまねく覆って、まことの言葉を説かれます。『あなたがた衆生よ、この「称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経」を信じなさい』と。
原文 「舍利弗!南方世界有日月燈佛、名聞光佛、大焰肩佛、須彌燈佛、無量精進佛,如是等恒河沙數諸佛,各於其國出廣長舌相,遍覆三千大千世界,說誠實言:『汝等眾生,當信是稱讚不可思議功德一切諸佛所護念經。』(大正12・347b)
書き下し 舎利弗、南方の世界に日月灯仏・名聞光仏・大焔肩仏・須弥灯仏・無量精進仏、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国において広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、『なんぢら衆生、まさにこの称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべし』と。
訳 舎利弗よ、南方の世界には、日月灯仏・名聞光仏・大焔肩仏・須弥灯仏・無量精進仏など、ガンジス河の砂の数ほどの仏たちがおられて、それぞれ自分の国で、広く長い舌の相を出し、三千大千世界をあまねく覆って、まことの言葉を説かれます。『あなたがた衆生よ、この「称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経」を信じなさい』と。
原文 「舍利弗!西方世界有無量壽佛、無量相佛、無量幢佛、大光佛、大明佛、寶相佛、淨光佛,如是等恒河沙數諸佛,各於其國出廣長舌相,遍覆三千大千世界,說誠實言:『汝等眾生,當信是稱讚不可思議功德一切諸佛所護念經。』(大正12・347b–347c)
書き下し 舎利弗、西方の世界に無量寿仏・無量相仏・無量幢仏・大光仏・大明仏・宝相仏・浄光仏、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国において広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、『なんぢら衆生、まさにこの称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべし』と。
訳 舎利弗よ、西方の世界には、無量寿仏・無量相仏・無量幢仏・大光仏・大明仏・宝相仏・浄光仏など、ガンジス河の砂の数ほどの仏たちがおられて、それぞれ自分の国で、広く長い舌の相を出し、三千大千世界をあまねく覆って、まことの言葉を説かれます。『あなたがた衆生よ、この「称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経」を信じなさい』と。
原文 「舍利弗!北方世界有焰肩佛、最勝音佛、難沮佛、日生佛、網明佛,如是等恒河沙數諸佛,各於其國出廣長舌相,遍覆三千大千世界,說誠實言:『汝等眾生,當信是稱讚不可思議功德一切諸佛所護念經。』(大正12・347c)
書き下し 舎利弗、北方の世界に焔肩仏・最勝音仏・難沮仏・日生仏・網明仏、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国において広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、『なんぢら衆生、まさにこの称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべし』と。
訳 舎利弗よ、北方の世界には、焔肩仏・最勝音仏・難沮仏・日生仏・網明仏など、ガンジス河の砂の数ほどの仏たちがおられて、それぞれ自分の国で、広く長い舌の相を出し、三千大千世界をあまねく覆って、まことの言葉を説かれます。『あなたがた衆生よ、この「称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経」を信じなさい』と。
原文 「舍利弗!下方世界有師子佛、名聞佛、名光佛、達摩佛、法幢佛、持法佛,如是等恒河沙數諸佛,各於其國出廣長舌相,遍覆三千大千世界,說誠實言:『汝等眾生,當信是稱讚不可思議功德一切諸佛所護念經。』(大正12・347c)
書き下し 舎利弗、下方の世界に師子仏・名聞仏・名光仏・達摩仏・法幢仏・持法仏、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国において広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、『なんぢら衆生、まさにこの称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべし』と。
訳 舎利弗よ、下方の世界には、師子仏・名聞仏・名光仏・達摩仏・法幢仏・持法仏など、ガンジス河の砂の数ほどの仏たちがおられて、それぞれ自分の国で、広く長い舌の相を出し、三千大千世界をあまねく覆って、まことの言葉を説かれます。『あなたがた衆生よ、この「称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経」を信じなさい』と。
原文 「舍利弗!上方世界有梵音佛、宿王佛、香上佛、香光佛、大焰肩佛、雜色寶華嚴身佛、娑羅樹王佛、寶華德佛、見一切義佛、如須彌山佛,如是等恒河沙數諸佛,各於其國出廣長舌相,遍覆三千大千世界,說誠實言:『汝等眾生,當信是稱讚不可思議功德一切諸佛所護念經。』(大正12・347c–348a)
書き下し 舎利弗、上方の世界に梵音仏・宿王仏・香上仏・香光仏・大焔肩仏・雑色宝華厳身仏・娑羅樹王仏・宝華徳仏・見一切義仏・如須弥山仏、かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国において広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、『なんぢら衆生、まさにこの称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経を信ずべし』と。
訳 舎利弗よ、上方の世界には、梵音仏・宿王仏・香上仏・香光仏・大焔肩仏・雑色宝華厳身仏・娑羅樹王仏・宝華徳仏・見一切義仏・如須弥山仏など、ガンジス河の砂の数ほどの仏たちがおられて、それぞれ自分の国で、広く長い舌の相を出し、三千大千世界をあまねく覆って、まことの言葉を説かれます。『あなたがた衆生よ、この「称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経」を信じなさい』と。
〔定義〕𝒟 は六方の集まり {東, 南, 西, 北, 下, 上}、佛(d) は、方 d に経が名を挙げる仏と、「如是等恒河沙數諸佛」です。経が名を挙げる仏は次のとおりです。名の数は、経の挙げる名をこの訳が数えたものです。大焔肩仏の名は、南方と上方の二つに見えます。
| 方 | 経が名を挙げる仏 | 名の数 |
|---|---|---|
| 東 | 阿閦鞞・須弥相・大須弥・須弥光・妙音 | 五 |
| 南 | 日月灯・名聞光・大焔肩・須弥灯・無量精進 | 五 |
| 西 | 無量寿・無量相・無量幢・大光・大明・宝相・浄光 | 七 |
| 北 | 焔肩・最勝音・難沮・日生・網明 | 五 |
| 下 | 師子・名聞・名光・達摩・法幢・持法 | 六 |
| 上 | 梵音・宿王・香上・香光・大焔肩・雑色宝華厳身・娑羅樹王・宝華徳・見一切義・如須弥山 | 十 |
〔借・公理|刊行済|第1層 A3 棘の弁証法〕〔読み〕六つの方の諸仏は、それぞれ自分の国にいて、それぞれ三千大千世界を覆い、同じ言葉 S を説きます。A3 の「誠実な問いの条件」、すなわち「重なる領域では同じことを言っていること」に重ねれば、各方の言葉 s_d は、どの二つをとっても、重なる所(この経について言う所。式の U_d ∩ U_d′)で同じです。U_d は、方 d の言葉が言い及ぶ所です。ここでは重なりだけでなく、言葉そのものが一字も違いません。A3 の T が何を生むかを、経は語りません。経が言うのは、六方の言葉が一つであることと、その言葉が「誠實言」であることまでです。
\[ \begin{aligned} &\forall d \in \mathcal{D}\ \ \forall b \in \text{佛}(d) :\ \text{出廣長舌相}(b) \wedge \text{遍覆}(b,\ \text{三千大千世界}) \wedge \text{說誠實言}(b,\ S) \\ &S = \text{「汝等眾生,當信是稱讚不可思議功德一切諸佛所護念經」} \\ &\forall d, d' \in \mathcal{D} :\ s_d\big|_{U_d \cap U_{d'}} = s_{d'}\big|_{U_d \cap U_{d'}}, \qquad s_d = s_{d'} = S \end{aligned} \]
〔借・公理|刊行済|第1層 A0 沈黙の公理〕〔読み〕経は、阿弥陀仏の功徳を「不可思議」、思いはかることも言い表すこともできないものと言います。六方の諸仏は、その功徳を数え上げも説き明かしもせず、「當信」と勧めます。経が「不可思議」と言う所を、A0 の「いかなる記号体系 L も、u′(虚空の余剰)を汲み尽くせない」に重ねて読めます。経は、記号のことも虚空の余剰のことも語りません。ただし A0 の運用上の顔の「u′ ⇒ c_next」の c_next は整理表では問いで、経の「當信」は勧めです。この訳は、二つを同じものとはしません。
\[ \text{功德}(\text{阿彌陀佛}) \notin \text{可思議}, \qquad \forall d \in \mathcal{D}\ \ \forall b \in \text{佛}(d) :\ \text{勸}\bigl(b,\ \text{信}(\text{眾生},\ \text{是經})\bigr) \]
〔諸釈〕六方の段をめぐって、諸師は次のように読みます。
| 事 | 師(出所) | 読み | 本文 |
|---|---|---|---|
| 六方と十方 | 窺基『阿弥陀経通賛疏』(大正37・344a) | 玄奘の訳は十方を言い、ここは略して六方を挙げる。東を先にするのは、西域では東を上とするから | 「《稱讚淨土經》云十方諸佛,此略舉六方」「先引東方者,西域以東為上,所以先舉」 |
| 六方と十方 | 智円『阿弥陀経疏』(大正37・355c) | 秦の本(羅什の訳)は略し、唐の訳は十方をそなえる | 「而但列六合者,秦本略也,唐譯則十方備矣」 |
| 広長の舌 | 智円(大正37・355c) | 広長の舌を出すのは、虚妄がないことを表す | 「出廣長舌表無虛妄故」 |
| 西方の無量寿仏 | 窺基(大正37・345a) | 西方の無量寿仏は西方の本尊。弥陀が自らをほめるのかという問いに、文の勢いからは諸仏の称讃であり、たとえ自讃でも理に違わないと答える | 「無量壽者,即西方本尊」「儒宗尚無自伐其善,何故彌陀自讚難思?」「據其文勢即是諸佛稱讚。又設若彌陀自讚,於理何違,引轉眾生令生勝意」 |
| 経の名 | 智円(大正37・355c) | 「称讃不可思議功徳」と「一切諸仏所護念」を経の別名とし、前を釈迦が弥陀の依報・正報を説くこと、後を十方の諸仏がともに喜んで護ることとする | 「稱讚至佛所護念,是此經別名也」「稱讚不可思議功德。釋迦說彌陀之依正,一切諸佛所護念,顯十方諸佛咸隨喜護」 |
経の名の区切りについて、大正蔵の脚注は、名を「稱讚不可思議功德」と「一切諸佛所護念」の二つに分け、それぞれに梵語を添えます(「稱讚不可思議功德。Acintya-guṇa-parikīrtana. 一切諸佛所護念。Sarvabuddha-parigraha.」)。書き下しと訳は、名を一つの経名として音で読み、どこで区切るかを決めませんでした。
〔異本〕玄奘の訳は、六方に東南・西南・西北・東北を加えて十方とし、諸仏の言葉を「汝等有情皆應信受如是稱讚不可思議佛土功德一切諸佛攝受法門」とします(大正12・350a–351a)。玄奘の訳でも、十方の言葉は一字も違いません。大正蔵の脚注によれば、宋・元・明の三本は、東方の段の「讚歎阿彌陀佛不可思議功德」を「……功德之利」に作ります(「德+(之利)【三】」)。また、宋本は「難沮佛」の「沮」を「爼」に作ります。
仏は、経の名のわけを自ら問い、名を聞く者は諸仏に護念され、退かない者となる、と答えます。さらに、過去・現在・未来に願いを起こす者はみな退かず、かの国に生まれると説き、三度目の発願の勧めで結びます。
原文 「舍利弗!於汝意云何?何故名為『一切諸佛所護念經』?舍利弗!若有善男子、善女人,聞是諸佛所說名及經名者;是諸善男子、善女人,皆為一切諸佛共所護念,皆得不退轉於阿耨多羅三藐三菩提。是故舍利弗!汝等皆當信受我語及諸佛所說。(大正12・348a)
書き下し 舎利弗、なんぢが意においていかん。なんがゆゑぞ名づけて一切諸仏所護念経とする。舎利弗、もし善男子・善女人ありて、この諸仏の説きたまふところの名および経の名を聞かんもの、このもろもろの善男子・善女人は、みな一切諸仏のためにともに護念せられて、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得ん。このゆゑに舎利弗、なんぢらみなまさに我が語および諸仏の説きたまふところを信受すべし。
訳 舎利弗よ、あなたはどう思いますか。なぜこの経を「一切諸仏所護念経」と名づけるのでしょうか。舎利弗よ、もし善男子・善女人が、これらの仏たちの説かれる名と、この経の名とを聞くならば、その善男子・善女人たちは、みな、すべての仏たちにともに護られ念じられ、みな阿耨多羅三藐三菩提から退くことがなくなります。それゆえ舎利弗よ、あなたがたはみな、私の言葉と仏たちの説かれることを、信じて受けるべきです。
〔読み〕名のわけは、名を聞く者に起こることで示されます。聞く者は、すべての仏にともに護念され、退かない者となります。そのゆえに(「是故」)、仏は「信受」を勧めます。「諸佛所說名」がどの名を指すかは、流布本の文だけでは決まりません(下の〔異本〕)。
\[ \forall x \in \text{善男子・善女人} :\ \Bigl(\text{聞}(x,\ \text{是諸佛所說名}) \wedge \text{聞}(x,\ \text{經名}) \;\Rightarrow\; \text{共所護念}(\text{一切諸佛},\ x) \;\wedge\; \text{不退轉}(x,\ \text{阿耨多羅三藐三菩提})\Bigr), \qquad \text{是故} :\ \text{當}\bigl(\text{信受}(\text{汝等},\ \text{我語} \cup \text{諸佛所說})\bigr) \]
〔借・定義寄り(整理表の勧告)|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕「信受」は、聞いたことを信じて受けることです(諸師の定めは九の〔諸釈〕)。G-1 の「前の縁起が生成した像を護持する行為が次の縁起への問いとなる」に重ねれば、釈迦と諸仏の言葉が聞く者に結んだ像(i)を、信受して護り持つこと(g)が、次の聞き手への問い(c)となる、と読めます。経が言うのは信受を勧めることまでです。次の聞き手に渡すことを、経は言いません。窺基や元照は九の「佛說此經已」から後を、智円と智旭は七から後を流通分とし、そこに読みます(九の〔諸釈〕)。大正蔵の本文は、ここで「受持」そのものを護念の条件に挙げます(下の〔異本〕)。
\[ g = \text{信受}, \qquad g\bigl(i_{\text{我語及諸佛所說}}\bigr) = c_{\text{次の聞き手}} \]
〔異本〕流布本の「聞是諸佛所說名及經名者」を、大正蔵の本文は「聞是經受持者,及聞諸佛名者」に作ります(脚注「經受持者及聞諸佛流布本作諸佛所說名及經」)。大正蔵の本文では、「この経を聞いて受持する者」と「諸仏の名を聞く者」の二つが護念される者で、受持が条件に入ります。流布本では、名を聞くことだけが言われます。諸師の引く文も二つに分かれます。窺基『通賛疏』は流布本と同じ文を引いて(「若有善男子、善女人聞是諸佛所說名及經名者」)、聞く名を阿弥陀仏と六方の諸仏の名とし(「聞是阿彌陀佛及聞六方恒沙佛名者,能護念人也」、大正37・345c)、続く注では受持にも触れます(「即受持經及佛名男子、女兒」、大正37・345c)。善導『法事讃』は、流布本と同じ文を引きます(「聞是諸佛所說名及經名者」、大正47・434c)。元照と智旭は、大正蔵の本文と同じ文を引きます(「聞經受持者」、大正37・363a。「若有善男子、善女人聞是經受持者及聞諸佛名者」、大正37・373b)。智旭は、仏の名を聞くだけで護念されるのか、と問いを立てています(「聞經受持護念不退可矣,但聞佛名豈亦得護念不退耶?」、大正37・373b–373c)。玄奘の訳は、「或已得聞,或當得聞,或今得聞,聞是經已,深生信解」と、聞いた後の信解を言います(大正12・351a)。また、三本は「共所護念」を「之所護念」に作ります。
〔諸釈〕経の名と「護念」について、諸師は次のように説きます。
| 師(出所) | 読み | 本文 |
|---|---|---|
| 元照『阿弥陀経義疏』(大正37・357b) | この経の本の名は十六字の「称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経」。上の八字は教え、下の七字はそれを受ける者に属する。羅什の訳は本の名を六方の仏の後に隠し、「阿弥陀経」と名づけた | 「此經本名「稱讚不可思議功德一切諸佛所護念經」,總十六字」「上八字屬教」「下七字屬機」「今經秦譯隱略本題在六方佛後」 |
| 元照(大正37・363a) | 護は覆い護って魔に乱させないこと、念は記し念じて退き失わせないこと | 「護謂覆護,不使魔嬈,念謂記念,不令退失」 |
| 善導『往生礼讃』(大正47・448a) | 阿弥陀仏を称念すれば、七日でも一日でも、下は十声・一声・一念でも必ず往生する。諸仏がそれを証すので護念経と名づける | 「云何名護念?若有眾生,稱念阿彌陀佛若七日及一日,下至十聲乃至一聲一念等,必得往生。證誠此事,故名護念經」 |
| 善導『観経疏』玄義分(大正37・250a) | 護念と言うのは、上の一日ないし七日、仏の名を称えること | 「言護念者,即是上文一日乃至七日稱佛之名也」 |
原文 「舍利弗!若有人已發願、今發願、當發願,欲生阿彌陀佛國者;是諸人等,皆得不退轉於阿耨多羅三藐三菩提,於彼國土若已生、若今生、若當生。是故舍利弗!諸善男子、善女人若有信者,應當發願生彼國土。(大正12・348a)
書き下し 舎利弗、もし人ありて、すでに発願し、いま発願し、まさに発願して、阿弥陀仏の国に生ぜんと欲はんものは、このもろもろの人等、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て、かの国土において、もしはすでに生じ、もしはいま生じ、もしはまさに生ぜん。このゆゑに舎利弗、もろもろの善男子・善女人、もし信あらんものは、まさに願を発して、かの国土に生ずべし。
訳 舎利弗よ、もしすでに願いを起こした人、いま願いを起こす人、これから願いを起こす人があって、阿弥陀仏の国に生まれたいと願うなら、その人たちは、みな阿耨多羅三藐三菩提から退くことがなくなり、かの国土に、すでに生まれたか、いま生まれるか、これから生まれるでしょう。それゆえ舎利弗よ、善男子・善女人たちのうち、信ずる者があれば、願いを起こして、かの国土に生まれるべきです。
〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕願いを起こす時と、生まれる時とが、已・今・当の三つ組で並びます。経は二つの三つ組を並べるだけで、どれがどれに対応するかは言いません。式も対応を置かずに書き、諸師の読み(下の〔諸釈〕)を別に書きます。不退に結ばれるものは、経の中に三つあります。極楽に生まれること(五)、名を聞くこと(この段の前)、願いを起こすこと(ここ)です。A10 (ii) の閾値構造に重ねるとき、閾値をどこに置くかは、経の三つの言い方で異なり、この訳は一つに決めません。経が言うのは、どの場合も退かないこと(五の「阿鞞跋致」、八の「不退轉」)に至ることです。式の 不退轉(x) は、不退轉(x, 阿耨多羅三藐三菩提) を短く書いたものです。
\[ \begin{aligned} &\forall x\ \forall \tau \in \{\text{已},\ \text{今},\ \text{當}\} :\ \text{發願}_{\tau}\bigl(x,\ \text{生阿彌陀佛國}\bigr) \;\Rightarrow\; \text{不退轉}(x) \;\wedge\; \exists \tau' \in \{\text{已},\ \text{今},\ \text{當}\} :\ \text{生}_{\tau'}(x,\ \text{彼國土}) \\ &\text{生}(x,\ \text{極樂}) \Longrightarrow \text{阿鞞跋致}(x)\ (\text{五}), \qquad \text{聞名}(x) \Rightarrow \text{不退轉}(x)\ (\text{八}), \qquad \text{發願}(x) \Rightarrow \text{不退轉}(x)\ (\text{八}) \end{aligned} \]
〔諸釈〕窺基・智円・元照・智旭は、そろって、已に発願した者を已に生まれた者に、今発願する者を今生まれる者に、当に発願する者を当に生まれる者にあてます(窺基「已發願者,為過去發願者已生。今發願者,為現在者即生」、大正37・346a。智円「過去已發願者已生,現在今發願者今生,未來當發願者當生」、大正37・356a。元照「已即過去、今即現在、當即未來,發願是因,生即是果,三因三果別對可知」、大正37・363b。智旭「已發願者即已生,今發願者即今生,當發願者即當生」、大正37・373c)。智旭はさらに、今発願する者がなぜ今生まれるのか、と問い、一生を今とする読みと、一刹那を今とする読みの二つで答えます(「今發願者但可當生,何得云若今生?」「一、通約一期名今,則現生發願持名,臨終決定得生淨土,是今發願即今生也;二、局約剎那名今,則一念相應一念生,念念相應念念生」、大正37・374a)。
\[ \text{窺基・智円・元照・智旭} :\ \tau' = \tau, \qquad \text{智旭の「今」} :\ \text{今} \in \{\text{一期},\ \text{剎那}\} \]
〔異本〕玄奘の訳は、「若已發願,若當發願,若今發願,必為如是住十方面十殑伽沙諸佛世尊之所攝受」として、諸仏の摂受と「如說行者」を言い、已・今・当の生の三つ組を置かずに「一切定生無量壽佛極樂世界清淨佛土」と結びます(大正12・351a)。
諸仏は、釈迦が五濁の悪世で覚りを得て、信じがたい法を説いたことを、甚だ難しく希なことと称えます。釈迦は自らそれを受けて、甚だ難しいと結び、説法はここで終わります。聞いた者たちが歓喜し、信受し、礼をして去ることで、経が終わります。この訳は、窺基と元照に従って、「是為甚難」までを正宗分、「佛說此經已」からを流通分とします。流通分をどこから始めるかは、諸師の間で分かれます(下の〔諸釈〕)。
原文 「舍利弗!如我今者,稱讚諸佛不可思議功德;彼諸佛等,亦稱說我不可思議功德,而作是言:『釋迦牟尼佛能為甚難希有之事,能於娑婆國土五濁惡世,劫濁、見濁、煩惱濁、眾生濁、命濁中,得阿耨多羅三藐三菩提,為諸眾生說是一切世間難信之法。』(大正12・348a)
書き下し 舎利弗、我いま諸仏の不可思議の功徳を称讃するがごとく、かの諸仏等もまた、我が不可思議の功徳を称説して、この言をなしたまはく、『釈迦牟尼仏、よく甚難希有の事をなして、よく娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の中において、阿耨多羅三藐三菩提を得て、もろもろの衆生のために、この一切世間難信の法を説きたまふ』と。
訳 舎利弗よ、私がいま、仏たちの思いはかることのできない功徳をほめたたえているように、その仏たちもまた、私の思いはかることのできない功徳をほめたたえて、こう言われます。『釈迦牟尼仏は、甚だ難しく世に稀なことを、よくなしとげられました。娑婆の国土の五濁(五つの濁り)の悪世、すなわち劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のただ中で、阿耨多羅三藐三菩提を得て、衆生たちのために、世のすべての者にとって信じがたいこの法を説かれたのです』と。
〔借・公理|刊行済|第1層 A10 一切衆生悉有仏性の公理〕〔読み〕ここでは、ほめたたえる向きが二つとも言われます。釈迦が諸仏の功徳をほめ、諸仏もまた釈迦の功徳をほめます。七では、釈迦が阿弥陀仏の功徳を讃嘆するのに並べて(「如我今者……東方亦有」)、六方の諸仏が、この経を信ぜよと勧めました。ほめる向きは、釈迦から阿弥陀仏への一つでした。A10 (v) の「相互仏性:仏性は相互に映し合う(インドラの網)」に重ねるのは、この往き来の形だけです。経が互いにほめると言うのは「不可思議功德」で、仏性ではありません。また、二つの向きでほめられる中身は同じではありません。釈迦がほめる諸仏の功徳が何かを、この段は言いません(窺基・智円・元照は、七の六方の諸仏を指すと読みます。下の〔諸釈〕)。諸仏がほめる釈迦の功徳は、『』の中の言葉で言われます。式の 讚(a, b) は、a が b の不可思議の功徳をほめること(経の「讚歎」「稱讚」「稱說」)です。
\[ \begin{aligned} &\text{七} :\ \text{讚}(\text{釋迦},\ \text{阿彌陀佛}) \;\wedge\; \forall d \in \mathcal{D}\ \ \forall b \in \text{佛}(d) :\ \text{勸}\bigl(b,\ \text{信}(\text{眾生},\ \text{是經})\bigr) \\ &\text{九} :\ \text{讚}(\text{釋迦},\ \text{諸佛}) \;\wedge\; \text{讚}(\text{諸佛},\ \text{釋迦}) \end{aligned} \]
〔諸釈〕諸師は、この段を、我が彼をほめることと、彼が我をほめることの往き来として読みます。窺基は、そこに阿弥陀仏を加えます。
| 師(出所) | 読み | 本文 |
|---|---|---|
| 智円『阿弥陀経疏』(大正37・356a) | 我が彼をほめることと、彼が我をほめることの二つ。我がいまほめるのは、上に挙げた六方の諸仏 | 「一、明我讚彼;二、明彼讚我」「初文今者稱讚,即所舉六方是也」 |
| 元照『阿弥陀経義疏』(大正37・363b) | この段を「諸佛互讚」と名づけ、我が諸仏をほめる所と、諸仏が我をほめる所の二つとする。前の所は、前の科の六方の勧信を指す | 「三、諸佛互讚中二段:初、我讚諸佛;彼下,諸佛贊我」「初文如我今者等,即指前科六方勸信」 |
| 元暁『阿弥陀経疏』(大正37・350b) | 己が他をほめ、他が己をほめ、三つ目に、歎を結んで信を勧める | 「先己讚他,次他讚己,其第三者結歎勸信」 |
| 窺基『阿弥陀経通賛疏』(大正37・346b) | 六方の諸仏が衆生のために真実の語をなすのを、釈迦がほめる。また、弥陀が慈悲で迎え取るので、釈迦はかの仏をほめ、かの仏はまた釈迦をほめる | 「我讚六方諸佛能為眾生作真實語,眾生因此心無疑惑」「又彌陀如來慈悲接引,我等偏讚彼佛,彼佛復讚於我」 |
〔借・公理|刊行済|第1層 A2 慈悲の縁起的集合論〕〔借・定義|出所札なし(第二著作『ステアリングからウォッチングへ』)|第4層 Φ_C 慈悲の場〕〔読み〕諸仏の言う「甚難希有之事」の中身を、経は続く言葉で言います。娑婆国土の五濁の悪世の中で阿耨多羅三藐三菩提を得たことと、衆生のために一切世間の信じがたい法を説いたことです。Φ_C は、整理表が第二著作の基本語彙として記す「慈悲の場」です。A2 の派生の欄の「下降的 Φ_C(最弱の項への優先的介入)はA2の実装形態であり公理修正を要さない」に重ねれば、条件の悪い所、すなわち五濁の悪世の衆生のただ中で、覚りを得て、説く、という形に読めます。ただし、経は、釈迦が五濁の世を選んだとも、そこが弱い所だから向かったとも言いません。整理表の「最弱」と「優先的」にあたる語は、経にありません。覚りを得ることと説くことを「介入」に置くのも、この訳の重ね方です。経が言うのは、そこで成し遂げたことが「甚難希有」で、諸仏がそれをほめることまでです。重ねるのは、場の悪さと事の難しさとが、経の一つの文に言われる所までです。なぜ釈迦がそうしたかについての諸師の読みは、下の〔諸釈〕に挙げます。式の「於……:」は、その後の事が起こる場、得 は「得阿耨多羅三藐三菩提」、說 は難信の法を説くことで、說 の添字は説く相手です。五濁は、経の挙げる順に並べます。
\[ \begin{aligned} &\text{甚難希有之事}(\text{釋迦}) = \text{於娑婆國土五濁惡世} :\ \text{得} \wedge \text{說}_{\text{諸眾生}} \\ &\text{五濁} = (\text{劫濁},\ \text{見濁},\ \text{煩惱濁},\ \text{眾生濁},\ \text{命濁}) \\ &\text{下降的}\ \Phi_C :\ \ \text{最弱の項} = \text{五濁惡世の諸眾生}\ (\text{「最」は経に語なし}), \qquad \text{介入} = \text{得} \wedge \text{說}_{\text{諸眾生}}\ (\text{この訳の重ね方}), \qquad \text{優先的} = \text{(経に語なし)} \end{aligned} \]
〔諸釈〕「甚難」と「希有」、そして釈迦がなぜそれをなしたかを、諸師は次のように説きます。元照は、ほかの者にはなしえないので甚難、世の誰も見たことがないので希有、とします(「他不能為故甚難,舉世未見故希有」、大正37・363b)。窺基は、甚難希有の事を、苦しみを忍んで衆生を教化することとし(「言甚難希有之事者,即是忍苦教化眾生之事也」、大正37・346b)、この世で菩提を証することを火の中に蓮が生まれるようだと、解脱を得ることを氷の中から燭が出るようだと譬えます(「證菩提如火內生蓮,得解脫似氷中出燭故也」、大正37・347a)。また、なぜ釈迦は人の寿命が百歳の時に生まれ、弥勒は八万歳の時に出るのか、と問い、それぞれの本願による、と答えます(「何故釋迦百歲時生,彌勒八萬歲出」「各據本願,出時不同故」、大正37・347a)。智旭は、次の段の「行此難事」について、大悲の誓いが塵劫にわたって心に薫じていなければ、どうしてこの難事を行えようか、と言います(「設非大悲弘誓塵劫熏心,何能行此難事也哉」、大正37・374b)。
〔諸釈〕五濁について、諸師は次のように説きます。智円と元照は、劫濁を、ほかの四つの濁りが集まる時とし、智旭は、濁った法の集まる時とします(下の表)。智顗の名で伝わる『阿弥陀経義記』は、煩悩濁と見濁の二つを本とし、これを因として命と衆生があり、この四つが時を経ることを劫濁と名づけます(「貪瞋是煩惱濁,五見為見濁,二為本,攬此作因,得有連持之命,於五陰假立眾生,此四經時名為劫濁」、大正37・307b)。表の後の式は『義記』の読みで、時(…) は、( ) の中の四つの濁りが経る時です。
| 濁 | 読み | 本文 |
|---|---|---|
| 劫濁 | 時の濁り。下の四つの濁りが集まる時。元照は、人の寿命が二万歳に減る時から劫濁に入るとする | 元照「劫者梵云劫波,此翻時分,下四濁聚在此時,從減劫人壽二萬歲時即入劫濁」(大正37・363b)。智円「劫濁者,梵語劫波,此云時分,下四濁聚在此時,名為劫濁」(大正37・356a)。智旭「劫濁者,濁法聚會之時」(大正37・374a) |
| 見濁 | 身見・辺見・邪見・戒取・見取の五つの利使 | 元照「見者,身見、邊見、邪見、戒取、見取,五利使也」(大正37・363b) |
| 煩悩濁 | 貪・瞋・癡・慢・疑の五つの鈍使 | 元照「煩惱者,貪、嗔、癡、慢、疑五鈍使也」(大正37・363b) |
| 衆生濁 | 五陰を寄せ集めて人とし、仮に衆生と名づける。智旭は、見と煩悩によって感じた、粗く劣った五陰の和合とする | 元照「眾生者,攬陰為人,假名眾生」(大正37・363b)。智旭「見煩惱所感麁弊五陰和合假名眾生」(大正37・374b) |
| 命濁 | 刹那に生滅し、年を促し寿を縮める。智旭は、寿命が短く、百歳に満たないとする | 元照「命者,剎那生滅,催年促壽」(大正37・363b–363c)。智旭「命濁者因果竝劣壽命短促,乃至不滿百歲故名濁」(大正37・374b) |
\[ \text{『義記』} :\ \text{劫濁} = \text{時}\Bigl(\underbrace{\text{煩惱濁},\ \text{見濁}}_{\text{本}},\ \underbrace{\text{命濁},\ \text{眾生濁}}_{\text{本を因として有るもの}}\Bigr) \]
原文 舍利弗!當知我於五濁惡世行此難事,得阿耨多羅三藐三菩提,為一切世間說此難信之法,是為甚難!」(大正12・348a)
書き下し 舎利弗、まさに知るべし、我、五濁悪世においてこの難事を行じ、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間のためにこの難信の法を説く。これを甚だ難しとす。
訳 舎利弗よ、知るべきです。私は五濁の悪世にあって、この難しいことを行い、阿耨多羅三藐三菩提を得て、世のすべての者のために、この信じがたい法を説きました。これこそ、甚だ難しいことなのです。
〔読み〕諸仏の言葉と、釈迦が自ら言う言葉とを並べます。二つは同じ事を言います。釈迦の言葉は、「行此難事」を加え、場を「娑婆國土五濁惡世」から「五濁惡世」と言い、説く相手を「諸眾生」から「一切世間」に言い換え、「甚難希有」を「甚難」と言います。諸仏がほめたことを、釈迦が自ら言い直す形です。式の 行 は「行此難事」です。
\[ \begin{aligned} \text{諸佛の言} :\ \ \text{甚難希有之事} &= \text{於娑婆國土五濁惡世} :\ \text{得} \wedge \text{說}_{\text{諸眾生}} \\ \text{釋迦の言} :\ \ \text{甚難} &= \text{於五濁惡世} :\ \text{行} \wedge \text{得} \wedge \text{說}_{\text{一切世間}} \end{aligned} \]
〔諸釈〕この段の難事を、いくつと数えるかで、読みが分かれます。窺基は、行の難、果の難、法の難の三つを数え、「是為甚難」を、その三つを結ぶ言葉とします(「文分為四:初、敘行難修;二、敘果難證;三、敘法難信;四、總結甚難」「此第四段總結甚難,結上三事」、大正37・347b)。窺基の読む「行此難事」は、三僧祇劫にわたって万行を修めたことです(「行此難事者,即三僧祇劫萬行備修,捐身命以殉菩提,捨國城而為郡眾,方成正覺,豈非難事也」、大正37・347b)。智円は、五濁の世界で行じて菩提を得ることを一つ、難信の法を説くことをもう一つとし、二つを兼ねることを甚難とします(「是為甚難者,五濁界中行難行之行而得菩提其事已難,復說此難信之法,二事兼作,是甚難也」、大正37・356a–356b)。元照も、前の段の難を、悪世で修行して仏と成ることと、法門を説くことの二つに数え、この段を、その二つの難によって、諸仏のほめ言葉が虚しくないことを示す所とします(「下列二難,於此惡世修行成佛一難也,為諸眾生說此法門二難也」、大正37・363b。「二、顯實中,承前二難則彰諸佛所讚不虛」、大正37・363c)。∧ は括り方によらないので、二つの読みは、論理の形の上では同じ連言です。違いは、事を三つと数えるか、二つと数えるかにあります。
\[ \begin{aligned} &\text{窺基} :\ \text{甚難} = \text{行} \wedge \text{得} \wedge \text{說} && (\text{結上三事}) \\ &\text{智円・元照} :\ \text{甚難} = (\text{行} \wedge \text{得}) \wedge \text{說} && (\text{二事兼作・二難}) \end{aligned} \]
〔諸釈〕「難信之法」が何であり、なぜ信じがたいかを、諸師は次のように説きます。
| 師(出所) | 読み | 本文 |
|---|---|---|
| 窺基(大正37・347a) | この経のとおり、ひとたび仏を誦し、十念に精進して誠をつくせば、五濁の穢れた所を超えて、初地の浄らかな境に登る。それが信じがたい | 「難信之法者,只如此典一朝誦佛十念精進誠,超五濁之穢方、登初地之淨域,豈非難信哉」 |
| 智円(大正37・356a) | 一日、名号を執持して、命の終わりにすぐ極楽に生まれ、退かない菩提を得る。このわずかな善根でこの利を得るので、信じがたい。ただし、極楽に生まれることはごく易しく信じうることで、迷いが深く執着が重いために、聞いても受けないので、難信と言う(六の〔諸釈〕で、智円は、日限を定めた名号の執持を多善としていました) | 「說是難信之法者,說一日執持名號命終即生極樂而得不退菩提,以茲少善根獲此利,是為難信也」「若生極樂甚易可信,但為迷深執重聞而不受,故云難信耳」 |
| 元照(大正37・363c) | 念仏の法門は、愚智・豪賤・久近・善悪を選ばず、決誓猛信だけを取り、臨終に悪相が現れても十念で往生させる。煩悩に縛られた凡夫が刹那に超えて仏と成る法なので、一切世間に甚だ信じがたい | 「念佛法門不簡愚智,不擇豪賤,不論久近,不選善惡,唯取決誓猛信,臨終惡相十念往生」「可謂一切世間甚難信也」 |
| 智旭(大正37・374a) | 九法界のすべての世間が信じがたいので、甚難希有の事と名づける(難易の段は下に) | 「以是一切九法界世間所難信故,所以名為甚難希有之事」 |
〔諸釈〕智旭は、諸仏の功徳と智慧は等しいが、教化には難易がある、として、難しさを五つの段に重ねます(「諸佛功德智慧雖皆平等,而施化則有難易」「說此無藉劬勞修證,但持名號徑登不退,奇特勝妙超出思議第一方便,更為難中之難」、大正37・374a)。一の段は経の「得」に、二から五の段は経の「說」に当たります。二の段から後は、段が進むごとに、前の段の難い方を、さらに二つに分けます。式の ⊂ は、左の法が右の法の一つであることで、いちばん内側が、智旭の言う「難中之難」です。
| 段 | 易い方 | 難い方 |
|---|---|---|
| 一 | 浄土で菩提を成ずる(易) | 濁世で菩提を成ずる(難) |
| 二 | 浄土の衆生に法を説く(易) | 濁世の衆生に法を説く(難) |
| 三 | 濁世の衆生に漸法を説く(猶易) | 頓法を説く(尤難) |
| 四 | 濁世の衆生に、ほかの頓法を説く(猶易) | この浄土の横超の頓法を説く(尤難) |
| 五 | 濁世の衆生に、浄土の横超・頓修頓証の妙観を説く(已自不易) | 労苦の修証によらず、名号を持つだけで不退に登る法を説く(難中之難) |
\[ \text{但持名號徑登不退} \;\subset\; \text{淨土橫超頓法} \;\subset\; \text{頓法} \;\subset\; \text{濁世の衆生に説く法} \]
〔異本〕三本は、「亦稱說我」の「說」を「讚」に作ります(脚注「說=讚【三】」)。智旭の引く経文も「亦稱讚我」で(大正37・374a)、窺基の引く経文は、流布本と同じく「亦稱說我」です(大正37・346a)。玄奘の訳は、ここで大きく異なります。釈迦がほめるのは「無量壽佛極樂世界不可思議佛土功德」で、十方の諸仏が釈迦の「不可思議無邊功德」をほめます(「如我今者,稱揚讚歎無量壽佛極樂世界不可思議佛土功德;彼十方面諸佛世尊,亦稱讚我不可思議無邊功德」、大正12・351a)。玄奘の訳では、ほめる向きは、同じ二者の間を往き来しません。諸仏の言葉は「甚奇希有」に始まり、五濁を「劫濁、諸有情濁、諸煩惱濁、見濁、命濁」の順に挙げ、説くわけを「為欲方便利益安樂諸有情故」と言います(大正12・351b)。釈迦の結びの言葉には、「行此難事」にあたる句がなく、「甚為希有,不可思議」で結びます(大正12・351b)。玄奘の訳は、さらに一段を加え、この五濁の世で難信の法を聞いて信解し、受持し、演説し、教えのとおりに修行する者を「甚為希有」とし、その人は「無量佛所曾種善根」と言います(大正12・351b)。
\[ \begin{aligned} &\text{羅什} :\ \text{讚}(\text{釋迦},\ \text{諸佛}) \wedge \text{讚}(\text{諸佛},\ \text{釋迦}), && \text{五濁} = (\text{劫},\ \text{見},\ \text{煩惱},\ \text{眾生},\ \text{命}) \\ &\text{玄奘} :\ \text{讚}(\text{釋迦},\ \text{無量壽佛極樂世界}) \wedge \text{讚}(\text{十方諸佛},\ \text{釋迦}), && \text{五濁} = (\text{劫},\ \text{諸有情},\ \text{諸煩惱},\ \text{見},\ \text{命}) \end{aligned} \]
大正蔵の脚注は、この段の三つの語に梵語を添えます。「甚難希有之事」に「Paramaduṣkara.」、「娑婆國土」に「Sāhā lokadhātu.」、「五濁惡世」に「5 Kaṣāya.(Kalpakaṣāya, dṛṣṭi-kaṣāya, kleśa-kaṣāya, satta-kaṣāya, āyuṣ-kaṣāya)」です。五濁の梵語は、羅什の順に並んでいます。
原文 佛說此經已,舍利弗及諸比丘,一切世間天、人、阿修羅等,聞佛所說,歡喜信受,作禮而去。(大正12・348a)
書き下し 仏この経を説きたまふこと已りて、舎利弗およびもろもろの比丘、一切世間の天・人・阿修羅等、仏の説きたまふところを聞きて、歓喜し信受して、礼をなして去りにき。
訳 仏がこの経を説き終えられると、舎利弗と比丘たち、そして世のすべての天・人・阿修羅たちは、仏の説かれたことを聞いて、歓喜し、信じて受け、礼をして去っていきました。
〔借・定義寄り(整理表の勧告)|出所札なし(第一著作)|第2層 G-1 護持定理〕〔読み〕経は、聞いた者たちが、聞き、歓喜し、信受し、礼をして去ることで終わります。八で仏が勧めた「信受」が、ここで聞いた者たちに起こります。G-1 の「前の縁起が生成した像を護持する行為が次の縁起への問いとなる(射の合成)」に重ねれば、仏の説いたことが聞いた者のうちに結んだ像(iₙ)を、信受して護り持つこと(g)が、次の聞き手への問い(cₙ₊₁)となり、そこに結ぶ像にも、また g が掛かります。ただし、経の文が言うのは「作禮而去」までです。去った者が次の聞き手に渡すことを、経は言いません。この段を流通分と呼ぶのは諸師の分け方で、元照は、衆が散ることをもって流通とします(「故因眾散以為流通」、大正37・363c)。また窺基は、「佛說此經已」から後を、経を編んだ者(結集者)の言葉とします(「佛說此經已者,是第一說經事畢,及諸下文皆結集之語也」、大正37・347b)。一の「如是我聞」も、結集者の言葉です(元照「此即阿難結集奉教,安列六事為證」、大正37・357c)。経は、聞いた者の言葉で始まり、聞いた者が去ることで終わります。
\[ \begin{aligned} &\text{聞者}_{\text{九}} = \{\text{舍利弗}\} \cup \text{諸比丘} \cup \text{一切世間天・人・阿修羅等} \\ &\forall x \in \text{聞者}_{\text{九}} :\ \text{聞}(x,\ \text{佛所說}) \to \text{歡喜}(x) \to \text{信受}(x,\ \text{佛所說}) \to \text{作禮}(x) \to \text{去}(x) \\ &g = \text{信受}, \qquad g(i_n) = c_{n+1}, \quad g(i_{n+1}) = c_{n+2}, \quad \ldots \qquad (n\ \text{はこの座。}\ c_{n+1}\ \text{から先を、経は言いません}) \end{aligned} \]
〔読み〕聞いた者の名簿は、一の集いの名簿と同じではありません。一では大比丘衆・菩薩衆・諸天大衆が挙がり、ここでは舎利弗・諸比丘・一切世間の天・人・阿修羅が挙がります。菩薩の名はここになく、人と阿修羅は、聞いた者の名簿としては、ここに初めて挙がります。式では、一の式の 會 に、添字の 一 を付けて書きます。また、「一切世間」の語は、この段にも、前の二つの段にも現れます。法を信じがたいとする者として(「一切世間難信之法」)、法を説かれる相手として(「為一切世間說此難信之法」)、そしてこの段では、聞いて歓喜し信受する者としてです。「難信」は、信じることが難しいと言うので、信じないとは言いません。ゆえに、難信の法を一切世間の天・人・阿修羅が信受することは、経の中で食い違いません。
\[ \begin{aligned} &\text{會}_{\text{一}} = \text{大比丘眾} \cup \text{菩薩眾} \cup \text{諸天大眾}, \qquad \text{聞者}_{\text{九}} = \{\text{舍利弗}\} \cup \text{諸比丘} \cup \text{一切世間天・人・阿修羅等} \\ &\text{難信}(\text{一切世間},\ \text{是法}), \qquad \bigl(\forall x \in \text{聞者}_{\text{九}} :\ \text{信受}(x,\ \text{佛所說})\bigr), \qquad \text{難信}(y,\ m) \;\nRightarrow\; \neg\,\text{信}(y,\ m) \end{aligned} \]
〔諸釈〕名簿の違いを、諸師は、二つの名簿が互いに略し合うものと読みます。窺基は、初めに菩薩と声聞を挙げたのに、終わりに菩薩を言わないのはなぜか、と問い、すべてを並べるには及ばない、と答えます(「先標聽徒之處兼明菩薩聲聞,經終作禮歡忻,何故不明菩薩」「不必俱陳」、大正37・347b)。元照は、序は略していて、その文は流通に見える、とします(「序中從略,文見流通」、大正37・359a)。智円は、経の終わりに天・人・阿修羅が聞いたと言うので、彼らも集いにいたと知られる、とします(「大眾,即總包人及脩羅等也」「經末結益云:一切世間天、人、阿脩羅等聞佛所說。故知在會也」、大正37・354a)。
\[ \text{會}_{\text{諸師}} = \text{會}_{\text{一}} \cup \text{聞者}_{\text{九}} \]
〔諸釈〕「歡喜信受,作禮而去」の語を、諸師は次のように定めます。智旭は、この法門は信じがたく知りがたいので問う者が一人もなく、仏は機の熟したのを見て問われずに自ら説き、聞き終えた者は、時の雨にうるおされるように歓喜し信受した、と、一の問う者のない説法とこの段とを結びます(「法門不可思議難信難知,故無一人能發問者;佛智鑒機知機已熟,故無問自說令得四益」「既得聞已,如時雨化,故歡喜信受也」、大正37・374b)。智旭は「而去」を、教えのとおりに修めて、ひとたび往って退かないこと、と定めます。
| 語 | 智旭(大正37・374b) | ほかの師 |
|---|---|---|
| 歓喜 | 身と心が和らぎ悦ぶこと。「身心怡悅名為歡喜」 | 窺基:顔がのびやかなのが歓、心が悦ぶのが喜。「顏舒曰歡,神悅曰喜」(大正37・347b)。『義記』:聖主に遇い、正法を聞き、昔悟らなかったことを今悟る、三つの喜び。「聖主難遇若優曇華慶今得見,正法難聞而今聞,昔所未悟而今得悟,具此三喜是故欣悅」(大正37・307b) |
| 信 | 疑いが少しもないこと。「毫無疑惑名之為信」 | 元照:信受は、憶えて持ち、修め習うこと。「信受乃憶持修習」(大正37・363c) |
| 受 | 領け持って忘れないこと。「領持不忘名之為受」 | (元照は、信と受を合わせて定めます。上の行) |
| 作礼 | 大恩を感じて、身を投げて帰命すること。「感大恩德投身歸命名為作禮」 | 智円:法を重んじ師を尊ぶので、礼をして去る。「重法尊師,故作禮而去」(大正37・356b) |
| 而去 | 教えのとおりに修め、ひとたび往って退かないこと。「依教修一往不退名為而去」 | 窺基:五体を地に屈し、身・口・意をもって帰依し、世尊に別れて、それぞれ本土に還る。「五輪俱屈,三業歸誠,咸別世尊,各還本土,故云作禮而去」(大正37・347b–347c) |
〔諸釈〕流通分をどこから始めるかで、諸師は二つに分かれます。『義記』・窺基・元暁・元照は「佛說此經已」から、智円と智旭は七の六方の段からとします。この訳の分け方(序)は、前の側です。智旭は、流通分を短くとる読みを退けます(「後人不達,才見經文稍涉義理,便一概判入正宗」、大正37・365b)。元暁の疏の巻末に付された慶元四年(1198年)の跋は、逆に、六方の仏から後を流通分とする読みを退け、元暁が「佛說此經已」から後を流通分としたことをたたえます(「有以六方佛已去為流通分。雖近古甞闢之,晚學又乃承用」「唐初海東曉法師,不唯以佛說此經已下為流通分」、大正37・350b)。
| 師(出所) | 流通分の始まり | 本文 |
|---|---|---|
| 智顗の名で伝わる『阿弥陀経義記』(大正37・307b) | 九の「佛說此經已」 | 「「佛說經已」下,即流通段」 |
| 窺基『阿弥陀経通賛疏』(大正37・331a) | 九の「佛說此經已」 | 「二從「爾時佛告長老舍利弗從是西方」乃至「是為甚難」已來,為正宗分;三從「佛說此經」下是流通分」 |
| 元暁『阿弥陀経疏』(大正37・350b) | 九の「佛說此經已」 | 「上來三分正說文竟。「佛說」已下,是流通分」 |
| 元照『阿弥陀経義疏』(大正37・357c) | 九の「佛說此經已」 | 「二、爾時佛告下,至是為甚難,為正宗分;三佛說此經下,至末文為流通分」 |
| 智円『阿弥陀経疏』(大正37・352c) | 七の「如我今者」 | 「二、從「爾時」訖「生彼國土」為正宗;三、從「舍利弗如我今者」訖經為流通」 |
| 智旭『阿弥陀経要解』(大正37・372b) | 七の六方の段 | 「二、正宗分竟。三、流通分」「文分為五:初、引六方諸佛稱讚勸信流通;二、重徵名解釋勸信流通;三、約已今當生勸願流通;四、引諸佛稱讚難事敦信流通;五、大眾歡喜信受流通」 |
〔異本〕玄奘の訳は、流通の文を「時,薄伽梵說是經已。尊者舍利子等諸大聲聞,及諸菩薩摩訶薩眾,無量天、人、阿素洛等,一切大眾聞佛所說皆大歡喜信受奉行」とします(大正12・351b)。聞いた者に菩薩の衆を挙げ、「作禮而去」に代えて「信受奉行」と結びます。大正蔵は、この段に校注を付けていません。
大正蔵は、この後に「無量壽佛說往生淨土呪」と、その由来を記す文を収めます。序の底本の項に記したとおり、経文ではないので訳しません。
共創数学から借りた項目について、札を置いた段を並べます。整理表の言明と札の写しは、手引きの表にあります。
| 項目 | 札の数 | 札を置いた段 |
|---|---|---|
| レジスタ分離 | 0 | 札は置かず、すべての段に掛かる約束として、序の約束の二で述べます |
| A0 沈黙の公理 | 2 | 四・七 |
| A1 空鏡の公理 | 1 | 三 |
| A2 慈悲の縁起的集合論 | 2 | 二・九 |
| A3 棘の弁証法 | 1 | 七 |
| A4 夢の位相空間 | 1 | 二 |
| A9 灌頂の公理 | 2 | 三・五 |
| A10 一切衆生悉有仏性の公理 | 3 | 五・八((ii) の閾値構造)、九((v) の相互仏性) |
| G-1 護持定理 | 4 | 一・六・八・九 |
| Φ_C 慈悲の場 | 1 | 九 |
| 第6層の記帳 | 0 | 札は置かず、序の拠り所で触れるだけです |
| 記号 | 意味 | 初めて用いる所 |
|---|---|---|
| 𝒮 | 衆生の集まり | 手引き |
| 𝒩 | 極楽の国の衆生 | 手引き |
| 名(x) | 経が x に与える名 | 手引き |
| A ≺ B | 経が「A……,何況 B」と言うこと。B が A にまさることだけを言い、どれだけまさるかは言わない | 手引き |
| P ⇒ Q | 経が「故」「是故」「所以者何」で結ぶ理由と帰結と、「若……者」「……者,皆……」などで結ぶ条件と帰結。経が言う向きにだけ書く | 手引き |
| ⟹ | ⇒ を、長い式の中で長く書いたもの | 五 |
| g, i, c | G-1 の護持(g)、縁起が結んだ像(i)、次の縁起への問い(c)。九では、添字の n で聞き手の代を分ける | 手引き、一 |
| 縦線で X を挟む形 | X の数。経の言う数の名のまま置き、計算しない | 一 |
| 會 | 一の集い。九では、添字を付けて 會_一 と書く | 一 |
| 𝟙[p] | 命題 p が真なら 1、偽なら 0。式では太字の 1 で書く | 二 |
| 矢印の上の句 | 矢印の上に置いた経の句によって次へ至ること。二では「西方過十萬億佛土」(方角と隔たり)、六では玄奘の訳の「令」 | 二 |
| 理由₁, 理由₂ | 経が「極楽」の名に挙げる二つの理由 | 二 |
| 蓮花_k | 色 k の蓮華 | 二 |
| ∼ | 「如……」の譬え。数の比を言わない | 二 |
| → | 経の語る順。三の A1 の式 c ⊗ u → i では、像が生まれること | 三 |
| 読み₁, 読み₂ | 「無量」の二つの読み | 四 |
| t_今, t_成佛 | いまの時と、成仏の時 | 四 |
| ∉ 算數之所能知 | 算数で知りうるものの外にあること | 四 |
| 應當(…), 當(…) | 経の勧めを、勧めのまま置いたもの。含意ではない(五は應當、八は當)。八の τ ∈ {已, 今, 當} の 當 は、時の名 | 五 |
| 聞者 | 経を聞く者。九では、九で聞いた者を 聞者_九 と書く | 五 |
| ⇏ | 左が右に足りないこと | 六 |
| t_臨命終, t_終 | 命の終わりに臨む時と、命の終わる時 | 六 |
| 𝒟, 佛(d), 勸(b, p) | 六方の集まりと、方 d に経が名を挙げる仏および「如是等恒河沙數諸佛」。勸(b, p) は、b が p を勧めること(経の「當信」を、勧める者を添えて書いたもの) | 七 |
| S, s_d, U_d | 六方の諸仏の同じ言葉、方 d の言葉、方 d の言葉が言い及ぶ所 | 七 |
| τ, τ′ | 已・今・当のいずれか | 八 |
| 發願_τ, 生_τ′ | 時 τ に願いを起こすことと、時 τ′ に生まれること | 八 |
| 讚(a, b) | a が b の不可思議の功徳をほめること(経の「讚歎」「稱讚」「稱說」) | 九 |
| 於……: | その後の事が起こる場 | 九 |
| 行, 得, 說 | 「行此難事」「得阿耨多羅三藐三菩提」、難信の法を説くこと。說 の添字は説く相手 | 九 |
| 時(…) | ( ) の中の四つの濁りが経る時(九の〔諸釈〕、『義記』の読み) | 九 |
| ⊂ | 左の法が右の法の一つであること(智旭の難易の段) | 九 |
| 會_諸師 | 諸師の読む集いの全体 | 九 |
| 書(大正蔵の番号) | 著者 | この訳での呼び方 |
|---|---|---|
| 『称讃浄土仏摂受経』(大正12 No. 367) | 唐の玄奘の訳 | 玄奘の訳 |
| 『阿弥陀経義記』(大正37 No. 1755) | 隋の智顗の説として伝わる | 智顗の名で伝わる『阿弥陀経義記』、『義記』 |
| 『阿弥陀経通賛疏』(大正37 No. 1758) | 唐の窺基 | 窺基 |
| 『阿弥陀経疏』(大正37 No. 1759) | 新羅の元暁 | 元暁 |
| 『阿弥陀経疏』(大正37 No. 1760) | 宋の智円 | 智円 |
| 『阿弥陀経義疏』(大正37 No. 1761) | 宋の元照 | 元照 |
| 『阿弥陀経要解』(大正37 No. 1762) | 明の智旭 | 智旭 |
| 『観無量寿仏経疏』(大正37 No. 1753) | 唐の善導 | 善導『観経疏』 |
| 『転経行道願往生浄土法事讃』(大正47 No. 1979) | 唐の善導 | 善導『法事讃』 |
| 『往生礼讃偈』(大正47 No. 1980) | 唐の善導 | 善導『往生礼讃』 |